倶楽部メモ(830)

令和3年10月14日〜11月16日

鉄道風景の映画から・戦後のかもめ



投稿者

ED76109

投稿日

2021年10月14日(木)20時14分28秒

タイトル

鉄道風景の映画から 3

      失礼いたします。「ED76109」でございます。

 今回は、日本の名監督のお一人でもある「小津安二郎」氏の作品を取り上げたいと思います。
「晩春」での「スカ線出勤風景」や「東京物語」での「尾道からの東京行」など、
鉄道風景が数多く見られるのですが、スタッフのお一人である厚田カメラマンが
鉄道ファンということから、演出上で様々な配慮がなされているようであります。

 1 昭和27年10月に公開された「お茶漬けの味」(松竹制作)。

 この映画は、倦怠期にある夫婦が夫(佐分利信さん)の外国への転勤を巡って、
妻(小暮美千代さん)が自らの言動を省みて反省して、
再び夫婦としての在り方や愛を取り戻すという夫婦愛をテーマとした作品です。
 作品の中で、妻が夫との日常生活でのギャップに不満を抱き、
神戸に住む女友達の下へ当時の「特別急行東京 9:00発 つばめ 1レ」で向かう
というシーンがございます。
乗車したのは最後部の一等展望車「マイテ39」。
心穏やかではない妻の心情を、小暮美千代さんが演じていらっしゃるのですが、
実際の「つばめ号」での撮影が国鉄から許可がされず、
セット撮影を好まない「小津監督」は知恵を絞ることに・・・。
 そこで、鉄道ファンの厚田カメラマンは「マイテ39」を借り受けて、
在来のレに増結させての撮影を進言します。
結果、国鉄は「急行きりしま」の最後尾に、借りた「イテ」を浜松まで増結させて、
「つばめ」として車内撮影を実施したとのことでした。
 当時の松竹のマネージャー氏のファインプレーというわけですが、
当時の「つばめ」のステータスの高さを物語るエピソードと考えました。
社会的にも多層な乗客のプライバシーを配慮するとともに、
利用客の多い列車の重要性が優先されたようであります。


 2 昭和33年9月に公開された「彼岸花」(松竹製作)。

 この作品にも、「佐分利信さん」が主演されています。
自分の娘(有馬稲子さん)の生き方に対して、厳しい見方をしていた父親が
周囲の人間の在り方や生き方から、次第に考え方を変えて娘の幸せを祈る姿が描かれています。
 作品では、娘の結婚に大きな影響を与えた知人の令嬢(山本富士子さん)の住む広島へ向かうために、
京都から「特別急行 京都発 かもめ 5レ」の車中シーンが登場いたします。
「スロ54」らしき二等車の座席から、佐分利さんは白い上っ張りを着こなしている
列車ボーイ(当時の車掌手)に声をかけて、広島への電報を依頼します。
ところが、二等車内は閑古鳥を通り越して佐分利さんしか乗客は見られません・・・。
 当時の「かもめ」は、京都始発の段階では乗車率がそれほどでもなく、
大阪・三ノ宮からの利用が多かったとのことでした。
確かに運転開始からほどなくして、利用の少ない「ロ」が
昭和28年のダイヤ改正で「ハ」に変更されてしまってもいます。
 「かもめ」は、この後に三角線を活用した方向転換が廃止されて、
号車番号のみが先頭から「1」に整えられて運転されるなど、波乱の道をたどります。
ただ、画像では「EF58」に牽引された「かもめ」が、颯爽と淀川鉄橋を通過するシーンが見られて、
特別急行としての風格が十分に感じられました。


3   昭和20〜30年代においては、国鉄は積極的に映画のロケには協力しているのですが、
さすがに「上野」や「東京」などの主要ターミナルでの撮影は、
簡単には許可しなかったようであります。
 事実、「点と線」の「4分間のトリック」部分の撮影は、
終電後のフォームにエキストラを総動員して撮影したようですし、
「両国」駅の総武線列車フォームは、レイアウトを活用して
「上野」駅として撮影することがしばしばだったとのこと。
 2でご紹介した「彼岸花」の「かもめ」のロケーションも、
予算の関係上で実際の「かもめ」ではなく、所属区が「門タケ」と遠隔地であったことから、
撮影所のあった大船近郊の「国鉄大船工場」内の「ロ」を使って撮影したとの逸話があります。
 予算の関係で、地方ロケが不可な場合は「画になる」との理由で、
「御殿場線」や「五日市線」が様々な「地方線区」としてロケに活用されたようです。
このことは別な機会にお話しさせてください。

  長々と失礼いたしました。以上、中年客車鉄ちゃんでありました。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2021年10月20日(水)17時17分34秒

タイトル

かもめ(戦後)

スロ54に乗りたくて父にねだって大阪−広島間乗車しましたが、大阪到着後続行でくる
東京からの夜行急行からの乗り換え客が多かったです。アンパン帽子の慶応の学生が5−6人
乗ってきてさすがは坊ちゃん学校だな、でしたが、話の内容にびっくり「昨夜の寝台車冷房の
効きが悪かったなあ」。なんと連中マイネに乗っていたのです。
連中は岡山で全部下車でしたが、もしかしたら後の橋本総理大臣がいたのかなあ?でした。
昭和29年7月のことでした。




投稿者

ED76109

投稿日

2021年10月20日(水)20時55分15秒

タイトル

昔の想い出話に感激です

失礼いたします。ED76109でございます。

 マロネロ38 様
  >「昨夜の寝台車冷房の効きが悪かったなあ」。なんと連中マイネに乗っていたのです

 「鉄」親父と奇しくも同級生か、ほぼ同年代の方々のエピソードと拝見いたしました。
 前述いたしましたが、「鉄」親父は東京大空襲で父親と兄妹3人を亡くして、
丁稚奉公の末に「田町」に在する「機械関係の商店」に入店。
売掛金の回収で、全国を旅する中で「乗り鉄」に開眼しました。
 ですから、「夜行鈍行レ」でのとんぼ返りが定番であり、
「はと」や「つばめ」などの特別急行レは、「世界が違う列車」だったようです。
 以前に述べましたが、小生が生後6か月の際に、一族郎党で「関西旅行」に行くことになり、
最後まで「身分が違う」と「第一こだまの2等車」に乗ることを拒んでいた祖母が、
叔父の「赤ん坊がいる」の一言で渋々納得したエピソードをご紹介しました。
 その時、下りの「こだまのカレチ氏」に祖母は
「私のような分不相応の者が迷惑をおかけして」と頭を下げたとのこと。
しかし、カレチ氏は「快適な電車特急の旅を楽しんでください。
ビュッフェからの富士山は素晴らしいですよ」と言われたそうです。
 そして、「東田子の浦」辺りからの富士の眺めに感涙を流す祖母に、
叔父も「鉄」親父も、親孝行ができたと感激したとの話を聞きました
(ちなみに、昭和38年9月のことでした)。
 ですから、孫に会うために乗車した「北斗星のロイヤル」に、小学生が一人で乗っている姿に
「(小学生の)親に一言言わなければだめだなぁ」と呟いていたことが、忘れられません・・・。

 長々と失礼いたしました。
以上、どうしても「はやぶさ」の「グランクラスのアテンダント令嬢」に
「チップを渡す」とがんばっていた「鉄」親父の息子である「教頭客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2021年11月 7日(日)00時13分4秒

タイトル

かもめせんご2

原爆塔を見てから電車で宮島へ行き時代物のレシプロ船『彌山丸」で宮島往復、最初の準急が
例の「博多都の城準急」。車が良いのは都城編成とわかっていたが、あえてオロ31でもよいやと
後部へ。都城のオロ35近代化車8割ぐらいの客、後部にW屋根の長いのがいたので?で乗車
したら、なんと「スロ341」。トップ番号にはじめてのれた。ガラガラで姫路ぐらいまで
うたたねが出来た。




投稿者

クモイ103

投稿日

2021年11月 7日(日)19時43分18秒

タイトル

Re: かもめせんご2

マロネロ38 様

オロ31を覚悟していてスロ34、しかもトップナンバーとは幸運でしたね。
近代化はされなかったようですが、
座席等の設備は基本的にオロ35と同等だったのではないでしょうか。

宮島航路の弥山丸とは、これまた貴重なご体験をお持ちで。

・明治34(1901)年 関門航路の初代連絡船・大瀬戸丸として誕生
・大正 9(1920)年 宮島航路へ転属
・大正14(1925)年 弥山丸と改名
・昭和31(1956)年 引退

日本の鉄道連絡航路の「生き字引」ともいうべき船でした。

宮島航路は、今もJR西日本の子会社として盛業中です。
現在就航していている「みせん丸」はもう何代目かの子孫ですが、
伝統が受け継がれているのは嬉しいですね。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2021年11月11日(木)17時43分39秒

タイトル

くもい103様

近代化改造はされておらず昔の儘でしたから、うたたね出来ました。
座席はオロ35と同じでした、




投稿者

ED76109

投稿日

2021年11月16日(火)23時54分21秒

タイトル

鉄道風景の映画から 4

先達の皆様方  「ED76109」であります。

 さて、今回は「20系ブルトレ」が舞台となっている名作2作と
映画ロケ駅として有名な東京近郊の「ある駅」について、話をさせていただきます。


 1  昭和35年11月に公開された「大いなる驀進」(東映製作 監督 関川秀雄)

 この作品は、国鉄の全面的な協力のもとに作成されており、
「さくら」とほぼ同様の編成を一本仕立てて、西下させながら撮影した作品です。
内容は、列車ボーイ(当時の車掌手)である主人公「中村嘉津雄」氏が、
将来を考えて退職しようとするのを、再考させるために
恋人「佐久間良子」氏が乗り込み・・・という作品です。
 まず、東京車掌区での乗務前の点呼シーンが描かれるのですが、乗務員の数の多さに圧倒されます。
現在では、2人のカレチ氏で事足りるのでしょうが、車掌長「三國連太郎」氏を筆頭に、
白い上っ張りを着込んだ車掌手が10人程度整列して、現在では比較にならない大所帯。
寝台の解体から電報の受付など、車内サービスを一手に引き受けていたのでしょうから、
作中に登場する「ナロ20」の新婚カップルや代議士、「ナハフ20」に乗車した駆け落ちの2人、
闇世界の人物などなど、乗客に様々なサービスを提供する役目を果たしていた姿が描かれ、
往年のブルトレの旅路を辿ることができます。
 やがて、台風接近の中、山陽本線を「C62」を先頭に
暴風雨をもろともせず、「さくら」は一路長崎へ・・・。
そこで、三原付近の切通でがけ崩れが発生してしまい、
列車ボーイに陰ながら好意を持つウエイトレス「中原ひとみ」氏など車掌長以下、
乗務員がずぶぬれになりながら総手で土砂をかたずけ、倒木や枝を払うシーンが展開されます。
 1番のクライマックスシーンであり、感動的でありますが、実際は山陽本線ではなく、
電化を前提とした「常磐線」の線路付け替えの旧線隧道での撮影だとのこと。
「さくら」の機関士が対向レの機関士に状況を報告して、
発煙筒で後尾の安全を確認する姿を描いているのですが、
「遅れを少しでも回復してダイヤどおりに運転する」考えを優先している
当時の国鉄の姿勢が垣間見られます。
 そして、1人1人の旅人たちの人間模様を描きながら、
「さくら」は30分程度の遅れで「長崎」に到着。
使命感に目覚めた列車ボーイと将来を誓い合う恋人の姿を、
1人寂しく「ナシ20」から見つめるウエイトレスの姿・・・で物語は終わるのですが、
実は撮影中のウエイトレス役で出演されている「中原ひとみ」氏を観た当時の日食の責任者が、
「誰だ。あの化粧の濃いウエイトレスは?」と関係者に怒声を上げたという逸話がございます。
 当時の日食も、実際のウエイトレスさんたちがエキストラで撮影に参加しており、
まさしく鉄道関係者が総力をあげて、この作品に臨んでいたことを
証明するエピソードと理解できるのではないでしょうか。


 2 昭和42年6月に公開された「喜劇 急行列車」(東映製作 監督 瀬川昌治)

  この作品は、1と同様に国鉄の協力のもと、「さくら」「富士」を舞台とした物語であります。
内容は、東京車掌区の青木カレチ「渥美 清」氏を主人公としたコメディ。
夫との別れを決意していた女性客「佐久間良子」氏との仲を疑う青木カレチ夫人「楠トシエ」氏が、
・・・といった展開で、ブルトレの旅路での人間模様が垣間見られます。
 「さくら」で一路「長崎」へ向かう道中では、一癖あるホステスたちやスリ名人などに
振り回されつつも、仕事をこなしていく青木カレチ。
そして、何とか一人前のカレチにと気を遣われる後輩車掌
「鈴木ヤスシ」氏は、そんなことはつゆ知らず。
マイペースでの乗務する様子がユーモラスに描かれています。
 やがて、「さくら」で出会った女性客との浮気を疑う青木カレチ夫人が、
新幹線「こだま号」でカレチが乗車する「富士」を追いかけ、
「熱海」から乗り込んで・・・という展開に。
 この「富士」号で描かれている名シーンが二つあります。
一つ目は、心臓病を患って移植を受けるために乗り合わせた少年鉄道ファンとの交流シーンです。
「広島」での停車時間に「EF65」の心臓部であるモーターを見て、
力強く音を立てて「富士」を牽引してきた姿に、生きる希望を失いかけている少年が
勇気をもって手術に臨む決意をするというものです。
その姿に何かを感じ入ったのか、後輩車掌氏は車掌という仕事の重要性に気付き始めます。
 そして、もう一つのシーンは、「DF50」に牽引された「富士」が
「宗太郎」を越えんとするあたりでの女性客の出産シーンです。
陣痛に苦しむ女性客の旦那さんからの申し出で、
助産婦の資格を持つ青木カレチ夫人がリーダーとなって赤ちゃんを出産させることに・・・。
青木カレチがコンバートを確保して、「ナシ20」のテーブルクロスを調達するとともに、
ウエイトレス「大原麗子」氏が、大量のお湯を運んで出産準備。
そして、乗務員が見守る中で、難産の末に無事女児が誕生する下りは、爽やかな感動に包まれます。
夫と妻それぞれが、日頃は見せない仕事姿にリスペクトし合う姿を観て互いの誤解を解き、
後輩車掌は仕事に対する誇りを感じて・・・というエンディングに。
 この後、「喜劇 団体旅行」「喜劇 初詣旅行」のシリーズが
制作されていくことにつながっていくのですが、
1と併せて爽やかな感動と今では不可能なブルトレの旅情が味わえる映画に仕上がっています。


3 東京近郊の五日市線の途中駅に「秋川」駅がございます。
この駅はもともとは「西秋留」と名乗っており、燐駅の「東秋留」と地域の交通を担う存在ですが、
昭和20年代後半から35年ごろまでは、
田園風景が一面に広がるローカル駅の様相を呈していました。
 実は、昭和36年2月に同線が電化されるまでは、
「C11」や「C10」が牽引する客車レが運行されており、
「東北や九州のローカル駅」という木造駅舎や貨物フォームの見られる田舎駅のレイアウトが
可能となるロケ地であったのです。
数多くの映画で「と或る奥羽本線」や「と或る磐越西線」
などの駅としてのロケーションが実施されています。
 遠くに多摩丘陵の山並みが見える一面の畑の中から、
2〜3両のPCと数両の貨車を連ねた「混合レ」が進入して、
登場人物たちとの別れや出会いの感動シーンを撮影。
そして、余韻を残したままに列車は旅立っていく・・・という映像が多く残っております。
 『東京府史行政篇 第4巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)に、
その面影が残されていますが、
現在の「秋川」駅の風景は、全く想像すら難しい住宅街の中の駅。
時の流れを感じさせてくれる映像が見られるのであります。


 今回は、長々と失礼いたしました。以上、「教頭客車鉄ちゃん」でありました




               
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