マロネロ38様
たいへん貴重な実体験のお話ありがとうございます。
スハネ30は、やはり基本的には予備車として、
臨時運用や10系ハネの冷房化改造時期に代わり
として運用されていたことが多いようですね。
クモイ103様
ご指摘の「大和」の和歌山市行き寝台車について調べてみました。
「大和」の和歌山市行き寝台車の受け持ち区は東シナであったようで、
昭和40年代には確かにナハネフ10だったようで、
資料上は所定では最後までナハネフ10であったと思われます。
ただ、先日の話題の通り「大和」の運行最終年の昭和43年は
10系ハネの冷房化進捗が著しい時期であったので、
この年の夏にはオハネフ12になっていた可能性が高いのではないかと思い
資料を探してみたところ、鉄道ピクトリアル誌の「客車急行」特集号
(2016年1月号53ページ)に「大和」に連結される
和歌山線の普通列車の寝台車としてオハネフ12の写真がありました。
このことから、昭和43年の春頃からの最後の半年程度は、
実際には所定がオハネフ12となっていたと思われます。
一方スハネフ30についてですが、
昭和42年3月31日の配置は全3両とも東シナとなっていますが
翌年昭和43年3月31日には3両とも大ミハ配置となっているので、
「銀河」や「関西第1観光号」への運用は遅くても昭和42年度中には消滅し、
予備車となっていたと思われます。
東シナのナハネフ10を調べると昭和42年3月31日には17両ありましたが、
昭和43年3月31日には4両に激減しており(冷房化されたオハネフ12が8両配置)
昭和42年から43年にかけての冬季にナハネフ10の冷房化改造が一気に進められ、
その間の代替えとして「大和」にスハネフ30が充当された
という可能性があると思われます。
もっとも、クモイ103様ご指摘の牽引定数の問題もありますので、
あくまでも可能性があるといった程度ですが、冬季の閑散期であれば
所定編成から減車するという荒業も考えれられるかなとも思います。
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