倶楽部メモ(810)

令和2年 3月14日〜 4月 5日

スハネ30の編成について(4)・竜華のマニ44



投稿者

出戻り国鉄ファン

投稿日

2020年 3月14日(土)00時03分20秒

タイトル

竜華のマニ44

いつも楽しく拝見しています。
しばらく鉄道趣味から離れていましたが、
最近妙に懐かしくなり、約10年ぶりの投稿となります。
質問は表題の通り「天リウ」のマニ44についてです。
竜華のマニ44は、どのような運用がされていたのでしょうか?
最近よく、80年代の荷物列車の編成表を見返しているのですが、
竜華のマニ44というのを目にしたことがありません。
一体、どこを走っていたのでしょうか、
何か情報がありましたら、ご教示いただけますと幸いです。




投稿者

仙コリ

投稿日

2020年 3月14日(土)10時26分59秒

タイトル

Re2: スハネフ301経験

マロネロ38様

たいへん貴重な実体験のお話ありがとうございます。

スハネ30は、やはり基本的には予備車として、
臨時運用や10系ハネの冷房化改造時期に代わり
として運用されていたことが多いようですね。

クモイ103様

ご指摘の「大和」の和歌山市行き寝台車について調べてみました。

「大和」の和歌山市行き寝台車の受け持ち区は東シナであったようで、
昭和40年代には確かにナハネフ10だったようで、
資料上は所定では最後までナハネフ10であったと思われます。

ただ、先日の話題の通り「大和」の運行最終年の昭和43年は
10系ハネの冷房化進捗が著しい時期であったので、
この年の夏にはオハネフ12になっていた可能性が高いのではないかと思い
資料を探してみたところ、鉄道ピクトリアル誌の「客車急行」特集号
(2016年1月号53ページ)に「大和」に連結される
和歌山線の普通列車の寝台車としてオハネフ12の写真がありました。

このことから、昭和43年の春頃からの最後の半年程度は、
実際には所定がオハネフ12となっていたと思われます。

一方スハネフ30についてですが、
昭和42年3月31日の配置は全3両とも東シナとなっていますが
翌年昭和43年3月31日には3両とも大ミハ配置となっているので、
「銀河」や「関西第1観光号」への運用は遅くても昭和42年度中には消滅し、
予備車となっていたと思われます。

東シナのナハネフ10を調べると昭和42年3月31日には17両ありましたが、
昭和43年3月31日には4両に激減しており(冷房化されたオハネフ12が8両配置)
昭和42年から43年にかけての冬季にナハネフ10の冷房化改造が一気に進められ、
その間の代替えとして「大和」にスハネフ30が充当された
という可能性があると思われます。

もっとも、クモイ103様ご指摘の牽引定数の問題もありますので、
あくまでも可能性があるといった程度ですが、冬季の閑散期であれば
所定編成から減車するという荒業も考えれられるかなとも思います。




投稿者

仙コリ

投稿日

2020年 3月14日(土)15時24分47秒

タイトル

Re:竜華のマニ44

出戻り国鉄ファン様

荷物列車には詳しくないのですが、
手持ちの資料(国鉄気動車客車編成表83年版)によると
竜華客貨車区配置のマニ44(9両)の運用について

天荷201運用 竜華−百済−汐留

天荷202運用 竜華−百済−熱田

以上の2つの運用があったようです。

どなたか詳しい方、フォローお願いします。




投稿者

ED76109

投稿日

2020年 3月14日(土)16時13分21秒

タイトル

静かなれども心の高まりが・・・

 ご無沙汰しております。「ED76109」であります。

 「再びの光が差し込んできた」といった思いを、北の大地から感じております。
突然の震災で寸断されてしまった「常磐線」が、
9年ぶりの全線運転再開の日を迎えました。
原発の現状を鑑みれば「何を呑気なことを」と
仰る方がいらっしゃるかもしれませんが、
小生にしてみれば「鉄」としての「旧客鈍行の思ひ出」が溢れる鉄路の復活は、
嬉しい限りであります。
 前述したかもしれませんが、少し戯言させていただきます。

 1 小生が、常磐線の旧客レに最初に親しんだのは、
昭和52年の夏のことでした。
高校受験の講習会の中休みの1日、
朝一番の「仙台行」に上野からお世話になりました。
この年は夏に長雨が続いて、肌寒い中での旅立ち。
時刻表とにらめっこしながら
「仙台からの上野行鈍行」で折り返せる駅を探し出し、
「日立木」で折り返す一人旅でした。
「水戸」で「EF80」から「赤べこ」への交換儀式を楽しみ、
右手は太平洋、左手は阿武隈の山並みを眺めながら、旧客鈍行の旅を堪能。
「受験のストレスが解消できたかい。」と初老のカレチさんに見送られながら、
「日立木」に降り立ちました。
帰路は、「平」で上野行に化ける鈍行レの最後尾の「スハフ42」に座席を取り、
眺める景色は小雨に濡れながら後ろに消えていくレール・・・。
小生、「高校入ったら絶対に仙台まで行ってやるぞ」と、
帰りの山手線の中で心に誓ったものでした。


 2 北海道からの鈍行紀行の帰路、
昭和57年の黄金週間の最終日に「仙台からの上野行」にお世話になりました。
「仙台」のフォームは、「ひばり」や「ECまつしま」に乗る人たちで
溢れかえらんばかり。
小生は、「札幌」からガラガラの鈍行レを乗り継いで
「上野」を目指していたので、何の苦も無くボックス1つを占領。
「原ノ町」でカレチさんから、
「時間は掛かるけど、景色は楽しめるしゆっくりできるし、そして何より安いし。
学生さん楽しめよ。」と声をかけられたことは忘れられません。
大きく開けた窓からは、爽やかな風が流れて、
「ED75」の甲高いフォイッスルが響いておりました。
そして、停車駅ごとに流れる無線機からのカレチさんの声。
「〇〇〇レの機関士さん、どうぞ。」「機関士です。どうぞ。」
「〇〇〇レ、発車。」
そして、汽笛一声の後にガクンとゆっくりとフォームを離れていく・・・。
今では味わえない客車レの思ひ出であります。


 3 今回の復旧ダイヤで話題になったのは、
「ひたち」の仙台乗り入れの復活です。
旧客レが消えてからは、帰省の際にわざわざ東北新幹線を仙台で捨てて、
10時半前後に仙台からの「ひたち」で上野を目指したこともありました。
昭和60年の春に、赴任校の事務手続きのための帰路に乗り納めと思い、
「481系(?)」に仙台からお世話になりました。
しかし、フォームに現れた「ひたち」には
「にちりん 宮崎」や「にちりん 小倉」のサインが散見される始末。
カレチ氏に尋ねると「筑波博の応援で、門ミフ所属だったから、
まだ『ひたち』の表示がない」とのこと。
快晴の浜通りの風景を楽しんだ後、上野のフォームで再び確認しましたが、
やはり「にちりん」の表示が燦然と輝いておりました・・・。


 何かの機会の折に、
何とか「ひたち」で「仙台・上野」を「鉄」したいと決意しております。
長々と失礼いたしました。以上、「教頭客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

出戻り国鉄ファン

投稿日

2020年 3月14日(土)16時50分33秒

タイトル

Re2:竜華のマニ44

仙コリ様
貴重な情報をありがとうございました。
関西本線経由で、東海道汐留まで足を延ばす運用があったのですね。




投稿者

クモイ103

投稿日

2020年 3月15日(日)21時26分24秒

タイトル

Re3: スハネフ301経験

一昨日は、マロネロ38様に対し無遠慮な口調での投稿に及び、失礼いたしました。

> 仙コリ様

「大和」の和歌山市行き寝台車が最後にはオハネフ12になっていたという話は、
私もどこかで読んだ覚えがあります。
もとより冷房化が進捗中の過渡期のことですから、
ナハネフ10が指定されていた運用に、
途中からオハネフ12を充当するようになるのは自然なことですね。
ナハネフ10だったというのはあくまで42年10月時刻改正時点の事であり、
局報を追うことが出来れば、
あるいは「〇月×日より編成変更」といった記事が見つかるかもしれません。

そういえば、たしか10系ハネのうち観光団体用のオハネ17 600番台と
オハネフ13は、冷房化が最後の方になったという話もあったと思います。
天下の品川客車区で定期運用に就く車両は、
早い時期に冷房化が完了していたことでしょう。



さて、スハネフ30が予備車として使用された可能性は、私も否定しません。
但し、改めて42年10月改正時の「主要客車列車編成順序表」を確認すると、
やはり牽引定数のハードルは高いです。

昭和42年10月1日現在 901-902レ「能登・大和」編成
(↑米原・名古屋・和歌山市)
1 ナハネフ10
2 オロネ10
3 オロ61
4 オハネ17
5 オハネ17
6 スハ
7 スハ
8 スハフ
9 ナハネフ10
10 ナハネフ10
11 オロネ10
12 オハネ17
13 オハ
14 スハフ
(↓金沢・湊町・王寺・東京)

1-8 東4「能登」東京−金沢 現車8両 換算29.0両
9 東附4「大和」東京−和歌山市 現車1両 換算3.0両
10-14 天1「大和」東京−湊町 現車5両 換算17.5両

加太越え区間では、9-14号車の現車6両、換算20.5両です。
それに対して牽引機はDF50単機 速度は「ツE0」、問題の定数は「20」、
すなわち端数処理のルールで辛くもセーフながら、
厳密には定数オーバーの「過重労働」だったわけです。
そして、その後ハネの冷房化で9・10・12号車の3両が
1ランクずつ重くなるわけですから、
編成と速度を維持するためには、
13・14号車をナハ・ナハフに差し替えるくらいしか手がないですね。
この状況でナハネフ→オハネフの代わりにスハネフを入れるとなると、
もはや仙コリ様のおっしゃる通り、減車の荒業しか考えつきません。

以上はあくまで手元の資料からの推定であり、
実際には何らかの手段でスハネフ30が使用されることが、
「極めてレアなケースとして、無かったと言い切ることはできない」
というのが、今の私の結論です。




投稿者

クモイ103

投稿日

2020年 3月18日(水)20時21分44秒

タイトル

Re4: スハネフ301経験

牽引定数の問題、よく考えたら(考えなくても)
機関車を増やせば一挙解決ですね。
加太越えと言えば、D51が貨物列車の前後で奮闘する写真が
思い浮かぶくらいなのに、
客車の事しか頭になくボケていました。失礼しました。
ただ「大和」のDF50に補機を手配できたのかは、情報がなくわかりません。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2020年 4月 5日(日)15時54分8秒

タイトル

大和のスハネフ30

昭和30年代後半だったかも知れません−−−何しろ記憶が曖昧なので。
カマは湊町からC57だったのが確かです。
王寺からは先頭にスハネフが連結されました。
補機についてはD51だったのかDF50だったのか?記憶しておりません。




投稿者

クモイ103

投稿日

2020年 4月 5日(日)20時34分55秒

タイトル

Re: 大和のスハネフ30

マロネロ38様

折角の思い出のお話しにケチをつけてしまい、申し訳ありません。
そもそもスハネフ30にご乗車になったというお話が貴重なもので、
それ以上の詳細についてはまた別の事柄です。

C57であれば、手元の「主要客車列車編成順序表」によれば
少なくとも40年10月改正より前という事になりますね。
加太越えは、少なくとも下り列車についてはC57単機で頑張ったようです。

それにしてもマロネロ38様は、戦前の「臨つば」といい、
貴重なご乗車の体験をお持ちですね。




               
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