倶楽部メモ(797)
平成30年10月25日〜10月29日




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月25日(木)23時53分6秒

タイトル

日中線の客車運用

ご存知の方がいらしたら教えてください。
磐越西線に、昭和30年代からほぼ運転時刻が変わらない244レという喜多方→会津若松の朝の上り列車がありました
(200番台は磐越西線の基本の列車番号)。
この列車が昭和57年11月ダイヤ改正時に突然622レという番号に変わりました。これは日中線の朝いちばんの上りと同じ番号です。
しかも日中線622レの喜多方到着時刻と磐越西線622レの喜多方発車時刻は20分程度しか変わらず、
あたかも日中線の列車がそのまま磐越西線に乗り入れて会津若松に帰ることを示唆しているように見えるにも関わらず、
時刻表上ではあくまで別の列車として載っています。
さらに不可解なのは、日中線廃止の約5か月前の昭和58年11訂補の時刻から日中線の方の622レだけが、
これまた「わざわざ」620レと変更されています。

定説(というより事実でしょう)では、日中線で運用される客車2輌は朝一番の下りのみ会津若松を始発として喜多方から日中線に入り、
上りとして喜多方に戻った後は夕方の2往復までそのまま喜多方駅の日中線ホームで昼寝していたことになっています。
ところが、上記にように57.11改正時に磐越西線の列車番号を「わざわざ」日中線に現存する列車と同じ番号に変更しているということは、
客車の運用が変更されて日中線622レの客車はそのまま会津若松に帰ってしまうようになったのでしょうか。
その場合、夕方の623レの客車は、同列車の喜多方駅発車時刻の直前に新潟から到着する
1230レの後部2輌が切り離されたもの、という仮説が成り立たないでしょうか?

*因みに、磐越西線622レは昭和59年3月末の日中線廃止後も、約1年後の昭和60年3月改正時まで、
そのままの番号で存在していました。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月26日(金)21時20分3秒

タイトル

日中線の客車運用

昨晩日中線に関する質問をさせて頂いたものです。
投稿が初めて且つ投稿してから皆様の情報を拝読させて頂き、お作法もわきまえず不躾に乱入してしまった事に気づきました。深くお詫び致します。
恥ずかしながら当サイトの存在も存じ上げず、たまたま発見してすぐに自分が知りたい話を気軽に投げてしまった次第です。どうかご容赦ください。
当方の疑問はもしかしたらよく知られた話かも知れず、もしくは当該時期の運用表があれば即判明することですが、どうかご教示頂ければと存じます。




投稿者

仙コリ@管理人

投稿日

2018年10月27日(土)01時03分4秒

タイトル

Re:日中線の客車運用

maffei4100様 初めまして

当掲示板「客車倶楽部」管理人の仙コリといいます。

この「客車倶楽部」は「鉄道」特に「客車」に関する話題であれば自由に語り合える場として
運営しておりますので、maffei4100様の書き込みは何ら問題なく、むしろ大歓迎であります。

以前書き込みしたこともありますが、私の母の実家が日中線沿線にあり、小さいころに祖母と
いとこと一緒に蒸気機関車牽引時代の列車に乗車したこともある思い出深い路線であり、この
「客車倶楽部」でも度々話題に上がっていますが、特定の列車や運用に関するご質問なので、
きちんと調べてからお答えしようかと時間がたってしまい、不安にさせてしまったようで
申し訳ありませんでした。

日中線の運用については、昭和58年6月現在の運用表を持っていますが、maffei4100様のお書き
になっている通り、朝の621レとして会津若松からの通し運用で日中線に入り、昼間は喜多方駅
留置で夜は626レとして会津若松へ戻っています。

この日中線の運用は「仙付55」運用でオハフ・オハの2両での運用なのですが、問題の磐越西線
の622レは「仙52」運用でスハフ・スハ・スハ・スハフの4両での運用で別物となっていまして
夕方の2244レとして郡山に向かいます。

といったことで日中線の622レと磐越西線の622レは運用上まったく別の列車であるにも関わらず
おっしゃる通り、あたかも同じ列車のような時刻、同じ列車番号で運転されていました。

その謎を解く鍵と思われるのが、磐越西線の会津若松から新潟方面へ向かう2番列車である223レ
であり、この列車は上記「仙52」運用と「仙付55」運用の併結で運転され、「仙52」運用は
喜多方で折り返して例の磐越西線622レとなり、「仙付55」運用は野沢まで行き、折り返して
新潟発の1224レの増結車両として会津若松へ戻っています。(日中線運用の翌日の運用です。)

このとき喜多方で切り離される「仙52」運用は機関車が無くなるわけで、折り返しである
磐越西線622レには、直前に喜多方駅に到着している日中線622レの機関車が使用されていて
機関車の運用上622レという通しの列車番号がつけられた可能性があるのかと思います。

もっとも客車はまったくちがう運用で、当然乗客は乗り換えなければならない状況で、同じ
列車番号にするのは非常に疑問ですし、223レが最初からプッシュプル運用の可能性もあるので
上記の考えは的外れの可能性もあります。

あくまでも私の推測ですので、詳しい事情をお知りの方がいらっしゃいましたら、フォローして
いただけると助かります。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月27日(土)18時01分17秒

タイトル

Re1:日中線の客車運用

仙コリ様
さっそくにありがとうございます。昭和58年6月の運用表でしたらおかげ様で正に疑問解決です。
やはり日中線用の客車は廃止までずっと一日中喜多方に詰めていたわけですね。
それにしても、違う運用の2つの客車群を同じ時間帯に同じ場所で同じ列車番号に使うこと、
しかも現存する日中線の列車番号を磐越西線の番号を変更して使ってまでその状況をわざわざ作り出したことは不思議です。
また、後になって日中線の方の番号のみ変更(620レ)するとは、前のメッセージを自ら否定するかのようで、さらに謎に思えます。
仙コリ様のおっしゃる通り、機関車が熱塩から会津若松まで通すことを反映するため、
というくらいしか全体の整合が取れる解が思いつきませんね。

因みに、私の手元には昭和59年4月1日(日中線廃止の翌日)付の仙コリの客車運用表があります。
仙コリ様のおっしゃる通り、この運用表でも223レ編成の前部は野沢まで行って上り1224レにくっついて会津若松に戻り、
後部は喜多方から622レとして折り返すようになっています(この一連の運用は古くから変わってないようですね)。
但し、この運用表ではこの運用は前部編成が【仙附55】2輌、後部編成が【仙附56】2輌となっており、
仙コリ様が示していただいた3月以前のものから変わっています。
因みに4月1日運用表では【仙52】は1233,1226,2243,2244であり、この運用は同月8日の越後線・弥彦線電化に伴って
たったの7日間で新津区(50系)に移管され、これによって最後のスハフ32である仙コリの3輌が運用を離脱しています。

(運用表という動かぬ証拠をいただいた以上、以下はもはや意味がありませんが)
前回の私の仮説では、日中線から戻った622レが機関車ごと【仙附56】
(と言うより3月以前なので【仙52】)にくっ付いて計4輌(【仙52】であれば計6輌)で
622レを名乗って会津若松に帰ったのかなー、と思ってました。
さらに、夕刻に新潟から来る1230レが57.11改正まで(この時代は230レ)は喜多方でわずか3分しか停車しなかったのに、
同改正により約20分の停車に変わっていることから、この列車の後部2輌が切り離されて日中線623レになったのではと考え、
朝の622レの客車がいったん会津若松に戻ることの傍証になると思った次第です。
さらに意味のない話をしますと、長らくオハ61+オハフ61だった日中線に、末期には35系や43系が入ったのもこの話とつながるのかも、
と思いましたが、これはやはり単に仙ワカの61系の廃車や転出によるものなのでしょうね。

*626レで1日のお勤めを終えた日中線の客車は磐越西線234レにくっ付いて会津若松に帰ったのでしょうか。

楽しい想像をさせていただき大変ありがとうございました。可能であればぼくも今後たまに参加させてください。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年10月27日(土)20時37分43秒

タイトル

Re3 :日中線の客車運用

maffei4100 様、はじめまして。
日中線には私も興味があるので、話題に参加させていただきます。

仙コリ様
日中線関連の客車運用表をお持ちとの事、貴重な情報ありがとうございます。
昭和57年11月改正の当時、日中線はすでに特定地方交通線の第一次廃止対象に指定されていたと思います。
そのような線区の客車運用をわざわざ本線と絡むように変更することは考えにくいな…と思っていましたが、
やはり客車運用は独立したままだったのですね。

maffei4100 様ご指摘の「磐越西線622レ」、そういえばそういう事があったな、と思い出しました。
確かに200番台が基本の磐西線にあって600番台の日中線の列車番号をつけている事と、
何より喜多方駅において日中線622レと重複していることは実に不思議でした。
理由は謎ですね。基本的に同一駅に同一番号の複数の列車が共存することはできない筈ですが、
もしかして「あちゃー、やってしまった」と気付いて日中線の622レの方を変えて誤魔化したのかも…



磐越西線622レの前身である244レには、昭和49年9月に乗りました。
この時は日中線621レ〜622レで熱塩まで往復し、喜多方で244レに乗り換えて会津若松へ戻りました。
622レが喜多方に到着した時、磐西下り副本線の3番線には客車4両の新津方にDD51がついた編成が停まっていました。
これが仙コリ様のお話にある223レで到着したものでしょう。
当日は休日だったため野沢行きはなく、牽引機がついたままだったのですね。

621レのC11は前向き牽引でした。熱塩に転車台は無いので、折返しの622レは逆向きとなりました。
喜多方に到着すると、2両の客車を日中線ホームに置いて、C11は機回し線からいったん新津方に引き上げ、
構内をぐるっと大回りして、3番線の編成の会津若松方に連結されました。
すなわち 逆C11+客車4両+DD51 という編成が出来上がり、これが244レとなったのです。
(実はDD51が最後尾についたまま走り出したかどうか確認していないのですが、あのまま喜多方に居ても
 用事はないと思われますので、そのままぶら下がって会津若松の基地に帰っただろうと推測しています)

写真は今まさに244レの編成に連結しようとするC11です。



ちなみに手元にある当時の時刻表に、拙い私の筆跡で次のような書き込みがありました。

 15:04 → C11の回送 → 15:27

おそらくそのあと構内見学した会津若松運転区で入手した情報なのでしょう。
なお当日午後の牽引機もこのC11 204でしたが、623レが逆向き、624レが前向きと反転していました。
623レを会津村松駅で出迎えた写真を、2011年 6月 5日(日) に投稿しております(倶楽部メモ(658))。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月28日(日)00時17分59秒

タイトル

Re4 :日中線の客車運用

クモイ103様
ありがとうございます。ぜひよろしくお願いいたします。
S49の喜多方での貴重なお話ありがとうございます。C11の回送情報も貴重ですね。
前回の記事及び会津村松での写真も拝見しました。同日中に2度日中線に入られたのですね。
喜多方から会津村松まで歩いてそこから623レで上三宮まで移動されたのでしょうか。
途中駅もおさえるのは素晴らしい攻め方だと思います。
このようなローカル駅、しかも盲腸線の途中駅で昭和50年代まで普通貨物の扱いが実際に行われていたというのは稀有な例で
奇跡的とも言えると思います。
宮内明朗氏撮影のビデオに、上三宮でC11が2輌の有蓋車を側線に押し込むシーンがほんの少し写っていますが、
これは貴重な映像だと思って気に入ってます。
仙コリ様
会津加納にご縁があるとは羨ましい限りです。同駅の往時の写真を見るとその活気にはワクワクさせられます。
私が日中線に乗ったのは昭和56年4月で鉱物輸送のホッパーや側線は撤去されていたものの、駅舎側の貨物側線や上屋は残っておりました。
と言うより日中線は会津村松の貨物上屋がなくなっていた以外、駅舎、貨物上屋ともに(よく言われるように荒廃していたものの)残っており、
初めて触れる「ローカル」に興奮した記憶があります。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年10月29日(月)21時29分54秒

タイトル

Re5 :日中線の客車運用

maffei4100 様

本投稿の時点で37〜40ページ前になっていますが、
2016年3月22日、4月29日、4月30日に、私と仙コリ様の投稿で
日中線の現役時代と近年の対比ができる画像がありますのでご参照頂ければと思います。

私ももう一度会津村松駅跡に行ってみたいです。


↓このサイトで、日本各地の昔と近年の空中写真や地図を対比する事ができます。

「ウェブで過去の地形図や空中写真を見る」
http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/lmap.html?data=history
(httpを半角に直して入力して下さい)

日中線沿線についても1975年頃の画像があります。
会津村松の駅舎があった場所は、現在では国道459号線が貫いているようですね。




投稿者

仙コリ

投稿日

2018年10月29日(月)22時12分16秒

タイトル

Re6 :日中線の客車運用

maffei4100 様

>会津加納にご縁があるとは羨ましい限りです

母の実家によく行っていたのは鉄道に興味を持つ以前の小学生時代で、残念ながら乗車経験も
前述の1回限りなんですよね。
それでも、走行していた蒸気機関車を見ていたり、駅近くで線路をオーバークロス(という
表現でよいのかどうか?)していた道路から駅を見ていた記憶はあります。
今では線路跡は道路になってしまい、駅近辺もすっかり雰囲気が変わってしまっています。

>*626レで1日のお勤めを終えた日中線の客車は磐越西線234レにくっ付いて会津若松に帰った
 のでしょうか。

昭和58年6月1日現在の日中線の運用表によると

「仙付55運用」会津若松運転区(仙ワカ)2両

1日目

午後に出区し「仙53運用(4両)」と併結し6両編成で磐越西線2242レとして会津若松から
郡山まで運用
折り返して2245レとして郡山から会津若松まで運用して1日目は終了

2日目

日中線中心の運用で、会津若松発喜多方経由熱塩行きの621レから始まり、喜多方−熱塩間を
622レ・623レ・624レ・625レ・626レと運用し、喜多方からは回送列車(回626レ)として
会津若松まで運用し2日目終了

3日目

会津若松から野沢まで磐越西線223レとして運用
(会津若松−喜多方間「仙52運用(4両)」と併結)
折り返して磐越西線1224レとして野沢から会津若松まで運用し
(「仙51運用(50系4両)」と併結)入区

以上3日間の行程となりますが、1日目は15:00頃からの運用、3日目は9:00頃までの運用
であるため、必要編成は2編成となっています。


ちなみに、当時の会津若松運転区(仙ワカ)配置の客車(「仙53」「仙付55」で使用)は

オハ35   2041 2161 2179 2507 2905 2910

オハフ61  2527 2528 2542 2619 2706 2751 3035 3044

となっていました。




投稿者

仙コリ

投稿日

2018年10月29日(月)22時27分31秒

タイトル

Re7 :日中線の客車運用

ちなみに、今の旧会津加納駅近辺の写真です。
(撮影は約2年前ですが)

1枚目の奥方向が熱塩駅方面です。
少しだけ線路が残っており、かっては写真奥にオーバークロスする橋(道路)がありました。

駅名標は新たに作られたものと思われます。






               
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