倶楽部メモ(791)
平成30年 7月10日〜 7月16日

客車の等級帯 ・ 白帯車の記憶


投稿者

jfs

投稿日

2018年 7月10日(火)14時14分7秒

タイトル

客車の等級帯

いつも楽しく拝見しております。過去の掲示板の記事についても、知らぬことが多々あり、大変役に立っております。
さて、かねがね私が疑問に思っていることに客車の等級帯の問題があります。
ご承知のように戦後連合軍が優等客車を接収し、その客車に白帯を配したため、
一等車が復活した時には等級帯がクリーム色になったとのことです。
マイネ40などは登場時にこの色だったようですが、
他の旧型一等寝台車や展望車やスイ38なども全てクリーム色の帯になったのでしょうか。
また占領軍の接収が解除になり客車が返還された以後に、白帯は復活したのでしょうか?

青大将化直前の展望車はクリーム帯との話も聞きますが、そうなると戦後の一等車には白帯はなかったのでしょうか?

実は幼少の頃(昭和30-31年ごろ)家族旅行に車窓で白帯車を見つけ一等車! と叫んだ記憶があるのです。

どなたか詳細をご存知の方お教えください。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年 7月11日(水)22時46分4秒

タイトル

Re: 客車の等級帯

jfs様、はじめまして。

昭和30-31年ごろに白帯車を目撃されたとの事お話しには興味を惹かれます。その状況を詳しくお話し頂く事はできませんか?

現時点で私の認識は以下の通りです。

戦後の1等車の等級帯がクリーム色になった理由は連合軍専用車と区別するためでしたから、
マイテでもマイネフでもとにかく全てが対象だったはずです。
昭和27年の講和条約発効に伴い連合軍専用車は無くなった(「駐留軍貸渡車」に移行)のでその理由は消滅したわけですが、
クリーム帯はそのままでした。
そこまで手が回らなかったのでしょうか。
星晃氏の著述によれば、昭和31年の“青大将”登場まで1等車の帯はクリーム色だったということです。
また昭和33年に作成された国鉄内部文書「国鉄車両関係色見本台帳」でも、
「クリーム色2号」の「おもな使用箇所」の中に「1等車帯色」が記載されています。
昭和34年の「車両塗色及び標記方式規程」では1等車の帯は「白」とされています。
ただし当時在籍した1等車の大部分は等級帯のない青大将で、
帯のあるぶどう色だったのは定期運用のないマイテ39 11とマイフ97 1だけでした。
この2両が白帯になったという話は聞いたことがありません。

結論として、戦後1等車の白帯は無かった可能性が高い…ということになるのですが、
jfs様の目撃情報次第では、見解を改めなければならないかもしれません。




投稿者

jfs

投稿日

2018年 7月13日(金)01時26分3秒

タイトル

白帯車の記憶

拝復 クモイ103様。

まず、先日の書き込みでご挨拶もせず、いきなり内容に及んだこと、大変失礼しました。
改めて・・・初めまして、jfsと申します。

物心ついた時から鉄道一筋で、中でも客車列車に特に関心を示す者です。
職業柄(工学部の大学教授です)車両の構造やデザインなどにも興味がありますが、
硬い事より楽しく思い出を語り、模型の列車を動かす・・・というような事を趣味としております。

さて、先日の件ですが、私が見た白帯車は、恐らく中央線か高崎線でのことで、営業列車ではなく
回送列車だったと思います。当時の記憶は今でも鮮明に残っており、その客車もマイネ40のような
新しい客車でも展望車でもなく、狭窓Wルーフのマイネ38のような寝台車ではないかと思っていました。
年月が定かではありませんが、昭和30年の8-10月または31年の7-10月のいずれかの間であることは間違いありません。

この時代は一等寝台車は既に廃止になってマイネ38はマロネ49になっていたようにも思います。
またこの回送列車が廃車になった古い白帯客車の回送であったのかもしれません。
一つ気になるのはこの時代には連合軍の接収車両は全て返還されていたはずですが、
その白帯車の生き残りという物は無かったですよね?
いずれにせよ茶色の車体に真っ白な帯を見つけて狂気のばかり「一等車」と叫んだ記憶があるのです。
まあ子供の記憶などいい加減と思われるかも知れませんが、私は経験上色に関しての記憶は
恐ろしく正確だったと親にも言われておりますし、その白帯車がクリーム帯を見間違えたと
いう事は無いと確信しております。

昭和30-31年当時はまだ東海道線全線電化前で青大将はありませんでしたから、マイテ39、49、58
及びマイ38それに特殊なマイフ97とか数えるほどの一等車が存在したはずですが、全てそれらが
クリーム帯であったのかは多少疑問に残る所です。

模型の世界ではスロ60の青大将があったり、白帯のマイテ49があったりで、それはそれで良いと思うのですが、
史実としてその辺の事を正しく把握しておきたいと思っていますが、未だに結論はでません。

これ以外の一等車に関する疑問点もいくつかありますが、これらについても
ご存知の方がいらっしゃればお教え願います。

・マイ38は途中で改造が行われシートピッチが変更になったと認識していますがこれは事実でしょうか?
 またピッチは1080oと認識していますが間違いないでしょうか。
・マイテ491は一等室を一人掛けのリクライニングシートに変更したようですが、窓と座席が
 合っているならピッチは950oとの認識ですが、かなり狭いですよね。この状態で「つばめ」や「はと」の
 営業列車に使用されたことはあるのでしょうか?
・マイテ581は青大将当時屋根上にベンチレータがの無いノッペラボウの屋根でしたが、
 マイテ49はどうだったのでしょう? ノッペラボウのマイテ49の写真を見た記憶もあるようなのですが
 これはマイテ58だったのかもしれません。

以上、今後ともよろしくお願い申し上げます。




投稿者

スハネ30生

投稿日

2018年 7月15日(日)00時48分35秒

タイトル

Re:白帯車の記録

拝啓 jfs様

戦後の1等車の白帯に関しては、当方もかつて貴兄と同じく、いろいろと疑問を持っておりましたが、
諸々の文献・資料・写真を調査した結果、現時点では下記の見解(自分なりのものです)を得ました。
当方、HO模型で国鉄客車の製作も行っており(現在70形式以上所有)そのための図面も多く揃えておりますので、
判る範囲で回答させていただきます。

戦後、白帯は連合軍専用車に使用されていましたが、昭和27年1月の通達(占領解除)により逐次抹消されました。
jfs様が目撃せれたのは昭和30から31年頃とのことですので、連合軍用客車でないことは明らかです。

当時存在した1等車は寝台車のマイネ29・38・40・41、マイネフ29・38等および展望車のマイテ39・49・58、
残りは特別車のマイフ97しかありません。
但し1等寝台車は昭和30年7月に廃止(2等寝台に格下げ)されているので、逐次青帯に塗替えが進行していたと思われます。
 肝心の帯色ですが、規定ではクリーム色(1号)であり白ではありません。
しかし、この色は同系色の中ではもっとも薄い色であり塗料の褪色や天候の条件を考慮すると一見、白色と認識されることは
十分に考えられます。
客車本体がブドウ色(1号)と暗い塗色ですので帯が際立って見えたなら、遠目には白と写っても不思議はないと思われます。
証拠として当時のカラー写真が【RM LIBRARY200号日本の展望客車】に掲載されています。
ブドウ色の特急はと(マイテ58)つばめ(マイテ39)ですが実際はクリーム帯の筈ですが、写真では白帯にしか見えません。
クリーム色といっても、かなり薄い色だったのではないかと推測されます。
jfs様の目撃された車両も、この薄いクリーム帯のものではなかったのではないかというの当方の見解です。
 なお大宮の鉄道博物館のマイテ3911は、明らかにクリーム色(1号)と識別できる帯になっています。
文献によっては戦後の1等車の帯をクリーム2号と記述されているものが見受けられるが、これは明らかに誤りです。
(クリーム2号はキハ55気動車の登場時の塗色であり、むしろ黄色に近い感じで帯色にはなりえません)

 マイ38のシートピッチですが、図面によると1140mmとなっています。1人掛リクライニングシトが12列(定員24名)です。
 マイテ491の1等室のシートピッチは1030mmです。1人掛リクライニングシートが7列(定員14名)です。
マイ38・マイテ49どちらも窓割と座席数は一致していないということです。

青大将時代のマイテ492も屋根上のベンチレータは皆無です。
引退後、交通科学館に展示保管されていたときも同じ形態でしたが、
JRで動態復活の際にベンチレータが原型の位置に設置されました。

以上、当方の知りうる事項を回答させていただきました。参考にしていただければ幸いです。




投稿者

jfs

投稿日

2018年 7月16日(月)18時41分14秒

タイトル

Re:白帯車の記憶

拝復 スハネ30生様
始めまして、jfsです。詳しいご説明ありがとうございます。
過去ログから、貴殿とは5歳違い、クモイ103様とは10歳違いと判明しました。
いずれにせよ古い時代の客車を愛する方々と出会えて大変嬉しく思います。

さて、帯色ですが、そもそもクリーム色の帯と言う物が私の感覚では2号のキハ25の準急色を
想像してしまうので、それを白と見間違うはずは無いと申しました。1号の色をはっきりと
確認したことが無いのですが、20系客車の帯の色なら、かつて見た物がその1号の帯であった
事を否定することはできませんね。
過去の文献上クリーム帯の事を「黄帯」と表現した物も見られたので、その色はキハ25の
準急色と思っていました。

そうなると、恐らくロネに格下げ後にまだ帯色の変更がなされていない車両の回送列車
であったと考えるのが最も合理的な結論かと思います、車両は多分マロネ38かマロネ49
ということになりますね。

国鉄の塗色についてはWikiなどにもマンセル記号やRGB値が発表されていますが、これを
そのまま作っても実際の車両の色にはなりません。専門的な話になりますが、塗料(顔料)は
過去においてはほとんどが金属の酸化物や硫化物などの天然顔料を用いていたため、その色の
管理を国鉄がどのようにシビアにやっていたのかも疑問です。
現代のアゾ系レーキ顔料なら粒子が細かいので塗料単体の色彩と塗装した時の色彩、それが
乾燥した後の色彩にそれほど大きな違いは出ませんが、金属顔料の場合は塗装した直後はまだ
粒子が平滑になっていないので、光の屈折率の関係で色が違って見えます。
完全に乾いて平滑になった場合とかなり色が違うので、色に関しては車両の塗装だけでなく、
かなり難しい面があります。
何れにせよ帯付きの一等車をはっきり目撃したのはその時が最初で最後なので、私的には
非常に印象深い出来事でした。

シートピッチの件は、マイ38に付いては1080oという認識でしたが、これは改造前のこと
なのでしょうかね。
またマイテ491のピッチは一等席のスペースに8個の窓に対して7列のシートを配したという
ことですね。どんな構造だったか見たかったですが、このエリアに7列なら1030oという数値は
納得できます。
あとマイテ391の2位側の一等室にもリクライニングシートが並んでましたよね。
私の持つ図面ではここも、座席と窓割りが微妙にずれている感じがしますが、ここはスペースに
余裕があるし、窓割りに合わせれば1400oになってかなり広いのですがどうなんでしょう。
実際には1250o程度だったのでしょうか。
実はこのマイテ391は現役時代に唯一乗車経験のある一等車でして、そのリクライニングシート
部分に着席しましたが、前の席との間隔が広すぎて何か落ち着かず、1位側の展望席で大半を
過ごした経験があります。窓割りと座席が合っていなかったのかは記憶にありません。

私は現在は関西住まいですが、父の実家は都内にあり、幼少期はそこに住んでいました。
しかし母の実家は関西でしたし、父も仕事の関係でしょっちゅう東海道を往復していました。
普段父は特別二等車利用でしたが、私がしつこく展望車と言ったので一度だけ乗せてもらった
ようです。

私の身長は175pなのですが、1160oピッチの特ロはなんとなく間隔が狭く感じ、急行だいせんの
スロフ62に乗車した時には足が一杯に伸ばせこれな楽だ・・・と感じました。
そんな訳で、やはりグランクラスの1300o以上が本来の意味での一等車にふさわしいピッチだと
思っています。

あとベンチレータの件については改めて資料を精査したところ、マイテ492のノッペラボウ屋根を
確認しましたので、納得しました。

さて、話を模型の世界に移しますが、貴殿は70形式以上のHO客車を保有されているとのこと、
誠に素晴らしいの一言に尽きます。私は学生時代にHOの車両を何両か製作しましたが、全て
電車で客車の製造はしませんでした。なので今現在もHO模型は、電車と外国型機関車、客車
のみで日本型の客車は保有しておりません。この点非常に残念に思うのですが、最近は
目も悪くなり、自作車両やキットの組み上げをする意欲が無くなってしまって、勢いNゲージの
完成品を収集することになっています。
まあNゲージも最近はバラエティに富み、特に運転をメインに考えれば近頃の住宅事情も考慮
すればNゲージが良いのではと思っています。

ただ、客車にこだわる人にとっては、Nの客車は随分いい加減な物が多い、つまりスロ60の
青大将があったり、そのマイテ492の青大将はベンチレータ付きのままだったり、窓割りが
違ったりで、文句を言う諸兄も多いと思います。
私の場合は、そのようなこだわりは一切ありませんし、むしろ自分の好み改造して楽しみたいと
思う方なのですが、(今は青大将をマヌ34を従えたEF55で牽引させたいと思っています。)
それとは別に、実物がどうであったのかは史実として知っておく必要があると思っています。

最後に、投稿の写真は上段が父から譲り受けたつばめの特急券、下段が私が小学6年生の時、
夏休みに一人で母の実家に行った時に乗車した151系はとの特急券です。
やはり3本の赤線の入った特急券は当時からの憧れのまとで、今見ても郷愁を誘われます。




投稿者

仙コリ

投稿日

2018年 7月16日(月)18時47分45秒

タイトル

Re:白帯車の記録

jfs様、はじめまして。

目撃された白帯車両についてですが、私自身はその当時生まれてもいなく文献からの推測では
ありますが、「知られざる連合軍専用客車の全貌」(JTBパブリッシング)によりますと、
軍番号1705号「PORTLAND」(マイネロフ373)が講和条約発効後も貸渡車として
昭和30年7月11日まで利用されていたと記載されています。

狭窓Wルーフの寝台車という条件にも合致しますので、ご覧になった客車がこの車両である
可能性があるのではないかと思います。

ただ、スハネ30生様がお書きになっている通り、白帯は昭和27年1月の通達(占領解除)に
より逐次抹消というのが基本だと思うので、貸渡車についてどのような扱いであったのかは
不明です。

不確実な情報ですが、ひとつの可能性として参考になれば幸いです。
また、この車両の貸渡車時代の情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、フォローして
いただければ幸いです。




投稿者

jfs

投稿日

2018年 7月16日(月)20時18分47秒

タイトル

Re:白帯車の記録

仙コリ様初めまして、jfsです。
貴重な情報ありがとうございます。
私が目撃したのは昭和30年の8月以降でこれは確実な事ですから、連合軍貸出車として
現役の時ではありませんね。どうやら返還後の7月以降はマイフ293になったようです。
とにかく営業列車で前後に展望車やロザを連結した編成ではなく、回送列車と思われる、
他は全て帯無しの車両だった記憶があります。
ただ帯色に関してはスハネ30生様のご指摘のようにそのマイフ293もクリーム帯に
変更された後だったかもしれません。いずれにせよこれは目撃した物はこの客車で
あったかもしれません。むしろその可能性の方が高いかもです。

信越線か、高崎線、あるいは中央線でのことでした。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年 7月16日(月)21時38分15秒

タイトル

Re:白帯車の記録

jfs 様

お返事が遅くなり失礼しました。

スハネ30生様

ご無沙汰しております。


1等車の帯色についてですが、なにぶん実物を目撃していない小生が理屈だけで考えている次第ですので、
まず先にご無礼をお詫び申し上げます。
要約すると2点申し上げたく存じます。

【1】公式には「2号」でした。
【2】ただし正確な事はわかりません…

【1】
先日の書き込みで言及した「国鉄車両関係色見本台帳」について、もう少し詳しくお話しします。
以前、貴重な文献・資料を多数蒐集されていた個人宅にお邪魔する機会があり、許可を得てコピーさせて頂いた資料の中に、

「国鉄車両関係色見本台帳 昭和33年3月1日現在」

がありました。
これは色の「名称」とその「おもな使用箇所」が記された一覧表で、その内容の一部を下に引用します。
なおその方は残念ながら物故され、所蔵資料はとある公共施設に寄贈され現在整理中とのことなので、
画像データの公開はご容赦下さい。

・「クリーム色1号」のおもな使用箇所は、

> フ・ウ:客車、電車、気動車の天井(防火合板使用)、便洗内部
> ペ  :荷物車天井
> 防  :客車、電車の天井(合板使用)

・「クリーム色2号」のおもな使用箇所は、

> フ:横須賀線形電車の車体外部の窓回り、1等車帯色、気動車(準急用)の車体外部

となっています。ただし、
「フ」:フタル酸樹脂エナメル、
「ウ」:カシュー樹脂エナメル,ウルシオール樹脂エナメル、
「ペ」:ペイント
「防」:防火塗料

1等車の等級帯は、正式にはクリーム色2号だったことになります。

【2】
もっとも、この「○○色*号」という色の呼び方が制定されたのは昭和31年以降です。
それ以前はマンセル記号はおろかもっと原始的に、色見本板が用いられていました。
昔はそれで済むくらい色の種類が少なかった、そしてその頃を境に色の種類が増えて収拾がつかなくなってきた、という事ですね。

つまり占領期の“クリーム帯”の現物が先に存在し、後の時代になって色の乱立を防ぐため無理やり「○○色*号」の枠
に当てはめたわけですから、昭和30年以前の帯色が本当に旧スカ色の窓回りや準急気動車色と同じだったという保証はありません。
ただ言えることは、少なくともクリーム色1号よりは2号に近い色だったはずです。

実際、小生は以前模型(Nゲージ)でぶどう色1号の客車にクリーム色1号の帯を巻いてみたところ、
全く「白」に見えてぎゃふんとなった覚えがあります。
星晃氏は「薄クリーム色」と表現されていますが、薄クリーム色にも見えませんでした。
jfs様が言及された
> 過去の文献上クリーム帯の事を「黄帯」と表現した物も見られた
との原典と同一かどうかわかりませんが、鉄道ピクトリアル第66号(1957年1月号)の読者短信でも
「黄色」と表現された方がおられることから、実際の帯色はかなり黄色がかったものだったのではないでしょうか。

次に「管理を国鉄がどのようにシビアにやっていたのか」という事になると、
前述のように色見本板での管理でしたから実は全然シビアでなかったわけです。
それにもう一つ、昔の塗料は今より格段に性能が劣りすぐに退色してしまったので、
輪をかけてシビアな管理など出来ない相談でした。
実際の帯色は車両ごとの状態によってまちまちとなり、中には退色してかなり白く見えるものもあったのではないかと思われます。




投稿者

スハネ30生

投稿日

2018年 7月16日(月)23時05分0秒

タイトル

Re:白帯車の記憶

jfs様 こんばんわ

前回の投稿内容で説明不足と思われる点がありましたので、補ってみたいと思います。

戦後の1等車が復活したのは昭和23年7月のマイネ40新製時で、
連合軍専用車の白帯と区別するために、淡黄色(具体的塗色名は制定なし)の帯を表示したのが最初で、
その後登場した特急平和のマイテ39(1、11、21)にも同色の帯が巻かれました(星晃氏の述懐より)
淡黄色のことですが、同系色が後にクリーム色何号と制定される訳ですが
、実用に供された順に1号、2号と命名されるルールになっているそうです。
クリーム2号は昭和25年から横須賀線車両に塗られた色(113系以降はクリーム1号)、
クリ−ム3号は同年登場の80系関西急電に塗られています。
昭和25年以前に使用されていたクリーム系の色を探してみると1等車の帯以外に該当する用途が見当たりません。
となればクリーム色1号が戦後最初(昭和23年)に使用された1等車の帯色であるという理論が成り立つと思うのです。
(個人的見解でありますが)
 クリーム色1号は20系の帯色でもあります。
近くで見た場合、明らかにクリーム色と認識できますが、遠方からは白帯と捉えられることも多いのではないでしょうか。
20系のカラー写真で白帯と思われている方がいないとも限りません。
EF65の前面も同色ですが、こちらは面積があるためクリーム色と認識できるのです。
 1等車に話を戻しますが、参考写真として【鉄道ピクトリアル−アーカイブスセレクション 10号】の表紙に
マイネ41のカラー写真(昭和30年7月撮影)が載っておりますが等級帯は、ほぼ白色に見えます。
 なお現存するクリーム色1号の帯を纏った車輌としては、@ マイテ3911(大宮鉄道博物館)、
A マイネ40(名古屋リニア鉄道館)、B マイネ40(碓氷鉄道文化村)があります。
機会がありましたら訪れてみては如何でしょうか。

 シートピッチの話ですが、マイテ39の1等室のリクライニングシートは図面上1390mmです。窓割とは10mmの差があります。
展望車の乗車経験がお有りとは羨ましい限りです。151系電車にも乗っておられるのですね。
当方は改造後の181系(あさま・あずさ)に何回か乗車した思い出があります。

当方は模型から実物を偲んでおりますが(マイテ39、49、58各2両・・・茶色と青大将色3両ずつです)
番号ごとの違いを資料に基づき、作り分けするのが醍醐味です。

お役にたてることがありましたら、今後ともお気軽に投稿いただけましたら嬉しく思います。




 
 
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