客車様
これは貴重な情報をご紹介下さり、ありがとうございます。
1935年といえば昭和10年、その時点でまだ黒塗装の客車が残っていたとは、
大変驚いております。
大正期には黒色だった客車の車体塗色が、ぶどう色、
当時の呼称で「深褐色」になったのは、
昭和4(1929)年3月11日に制定された「車両塗色及標記方式」からでした。
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鐡道公報 第六百五拾五號より
車輛塗色及標記方式(昭和四年三月十一日 達第一五一号)
(二)客車(電車ヲ含ム)
第七條 客車ノ車體外部ハ深褐色、臺枠以下ハ黒色トス
但シ車體兩側の窓下ニ一五〇粍ノ幅ヲ以テ
一等車ハ白色、二等車ハ青色、三等車ハ赤色に塗粧シ
郵便車ハVB一一一三四圖ニ依リ白色地ノ上ニ赤色ノ標示ヲナスモノトス
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(原文は縦書き、なお「黒」「青」も旧字体ですが、
環境依存文字なので現行自体に変えました)
これによれば、客車と電車は全て「深褐色」に塗装しなければなりません。
6年後の昭和10年にまだ黒色の車両が現役で走っていたというのは、
一見矛盾します。
当時の車両は今より頻繁に検査を受け、
車体も度々塗り直されていたでしょうから、
「深褐色にしなさい」という達が出されていたにもかかわらず、
その後の検査時に従前の塗装を施してしまった現場があった可能性がありますね。
これは、国鉄が恐ろしく巨大な組織だった事を踏まえれば
理解できなくもありません。
戦後もだいぶ経った昭和44年9月の塗色規程改正で、
A寝台車のグリーン帯を消すべき所が
北海道内の対象車11両の帯が46年3月の時点で全て残っていたとの記録があります。
また塗装より重大問題である車号に関しても、
やはり昭和40年前後だったと思いますが、
クハ55形の改造車で同一車号のダブりが発生し、
慌てて改番した“事件”もありました。
これは極端な例ですが、
とにかく国鉄内の組織間の連絡は必ずしもスムースでない場面があり、
ましてや時代を遡って昭和初期ともなれば、末端組織まで達が浸透するのに
時間と手間を要したという事は容易に想像できます。
ここで客車様に伺いたいのですが、
引用された1935年頃の読者投稿欄の記述において、
「1935年当時の一等車は全て黒だった」のでしょうか? それとも、
「たまたま見かけた一部の一等車が黒かった」のでしょうか?
それによって話が大きく違ってきます。
前者ならば大事件で、
そもそも一等車だけ塗色を区別するという発想はありませんから、
塗色の歴史に関する従来の定説を見直さなければなりません。
後者ならば、前記のような要因で塗色変更が遅れた車両があった可能性
がありますが、もう一つ、考えられる事があります。
古山善之助氏の「蒸機全盛時代の国鉄の特急と急行列車」
(The Rail No.13)によれば、
このころ(昭和10年前後と思われる)の富士にはよく増結があり、
外国人観光団用に1等寝台車がつくと、東トウにはイネの予備車があまりないため
下関から木製のスイネ27100形または27150形を持って上ってきたとのことです。
ここからは想像ですが、昭和初期に鋼製のイネ車が登場したのに伴い、
木製のイネ車は定期運用を失って、
波動用の予備車になっていたのではないでしょうか。
そうなると普段は使用されませんから休車扱いで検査期限が延長され、
塗り直しの機会も減って、なかなかぶどう色に塗ってもらえず黒いまま…
といった要因もあったのではないか? と想像してしまいます。
ご紹介の戦前の雑誌「鉄道」は、鉄博のライブラリーにはあるのでしょうか?
実は一昨日あそこで調べ物をしてきたばかりで、
あと3日早くお話を伺っていれば確認できたかもしれないと、
ちょっと悔しいです。
次に行けるのは正月休みかな?
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