倶楽部メモ(761)
平成28年 8月11日〜 8月12日

国鉄最後の日 ・スハシ38の作成


投稿者

マロネロ38

投稿日

2016年 8月11日(木)11時11分41秒

タイトル

スル関終了

ED76109教頭先生:
上野、大阪直通ブルトレが無くなって修学旅行も航空機にシフトでしょうが、
以前に大阪で生徒達に教えられた「スルット関西」(スル関)が終了になります。

発売終了:2017-3-31

利用終了:2018-1-31
以上ご参考までに-----。

阪急、阪神、能勢電鉄は3社共通の新しいPripaid cardになります。

本当にPCの急激な終了には大いに不満を感じますが、
「カシオペア」などオール「ロ」だったのが廃止の原因の一つかと存じます?

「日本海」なども秋田−金沢や新発田、新津−金沢などの区間客が
相当ありましたから、
オハ14でも使用電圧変更で一両組み込めば
「ネ」使用が半端な区間客を取り込めたのでは?と存じますが-----。
(新津は明らかに新潟の客ですが)




投稿者

ED76109

投稿日

2016年 8月11日(木)11時52分53秒

タイトル

お暑うございます

 連投失礼いたします。「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 季節柄、ご自愛くださいませ。

 >生徒達に教えられた「スルット関西」(スル関)が終了になります

  そうですか。近畿圏での移動では、プリペイドカード利用が主体ですね。
 今の立場ですと、 かえって宿舎待機が主流となってしまって、
 ご教示いただいた「マンボ」巡りは叶いそうに ありません(滂沱)・・・。

  失礼いたしました。以上、万年教頭候補の「教頭客車鉄ちゃん」でした。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 8月11日(木)16時03分48秒

タイトル

Re: 筑波・国鉄最後の日

EF58 129 様

> 非常にご迷惑をかけてしまい

あの時のつくば号は、窓があちこち開いて大勢の乗客の顔が見えていました。
窓から顔を出す人がいても、
それがその列車の姿なのですから私は気にしませんが…

国鉄最後の日、東京駅では丸の内側駅前と12番線ホームに
それぞれTV局が陣取っていましたが、
その背景については、私は興味がありませんし、
この掲示板上で話題にする気もありません。

昭和62年3月31日は火曜日でした。
当時浦和の実家を離れて大阪に赴任していた入社1年の若造が、
「世紀の一大事」にかこつけて2日間の有休をもらい、
金曜日の夜行で帰省して火曜日まで遊び、
4月1日(水)の朝には「銀河」で大阪に着いてそのまま出勤…という、
若かりし頃の思い出でした。

はからずもその約1年後、またもや鉄道絡みの一大イベントで、
有休をもらった上に
金曜日に仕事を早引けして「日本海1号」に飛び乗る事になるのですが、
それはまた別の話ですね。




投稿者

鈴木昌生

投稿日

2016年 8月11日(木)20時20分42秒

タイトル

ブルトレ・トワイライト

EF58 129様
私も初めてブルートレインに乗ったのはほぼ同時期なのです。
西暦で書きますと 1995年8月 「富士」小倉→東京 でしたね。
休止食堂車の従業員に聞くと「客が増えたら営業再開」という意味だったので,
期待が持てると思っていたのですが,
「そもそも客はいない」という意味だったのですね。
朝食は予約すると名古屋から積み込んだ弁当を販売してくれる,
というのは私はむしろ「良いサービス」だと思いましたが。
去年「文芸春秋」を立ち読みしてたらJR九州唐池氏の原稿が載っていました。
「利用者からは,ブルートレインは普通列車の邪魔」
という意味の記述がありました。
意見の多少とは無関係に,これが事実なら無視してはいけなかったと思います。
まあ,でもよく1995年当時,減便したとはいえ走ってた,
と事実の方が奇妙にすら思えます。

「北斗星」って残念だと思うのは,
3往復時に「サービスを揃えた」ことだと思うんです。
こちらの初乗車は1998年。
運転開始当初から「自宅付近」を走ってたのですが,
進学→上京後の方が「愉しみ」としては乗る価値はありました。
全区間乗車可能ですから。
話を戻しますが,苫小牧や室蘭方面のビジネスにも便利なダイヤだったのに,
そういう需要を「無視」したのではないかと。
走らせてみて初めて分かること,もあるとは思いますが,
「ビジネス需要」って無視出来る,
あるいは育てる価値の無い物だったのか,とも思います。つまり,1往復程度は
A ツインDXは連結しない。
B ソロ中心の編成。
C 食堂車のディナータイムとパブタイムを統合。
「グランシャリオ」みたいな名前も特に付けない。
こんな「北斗星」があっても良かった気がするんですね。
客層の調査とかしたんですかね。
前に投稿したように,そもそも
「客車・編成の改善は基本,運転開始から3年くらいで終了」でしたから。
なんか「慢心」が結局,嫌われる原因を作ったのではないかと思います。

>トワイライトエクスプレス
「東の『北斗星』,西の『トワイライトエクスプレス』は
あの時期の日本を象徴するネタ列車」という気がするんですが,
まだ庶民的な「北斗星」と比べると,
「トワイライトエクスプレス」はそもそも敷居が高かったですね。
マルス収容無し,で始まって,団体列車で終わった,と記憶しています。
話題をふっておいてなんですが,
そもそも西の「企画」というか「セールスポイント」として
「新潟・函館は完全無視」というのがあったのでしょう。
でも,「北陸対北海道」及び「その逆」という売り方はしていた記憶はあります。

しかし,どうせ東・九ともに遊休になるなら,
渡道するオシ24があっても良かったのでは。




投稿者

陸奥光政

投稿日

2016年 8月11日(木)21時56分8秒

タイトル

スハシ38の作成

皆様

こんばんは。十数年ぶりに書き込みをさせていただきます。
客車といえばやはりココに来ざるを得ません。
さて、私がご相談したいのは「スハシ38」です。
北海道の不定期急行『石狩』の編成を1/80の模型で組みたいのですが、
スハシ38-20番台はどこからも製品が出ておりません故、作るしかありません。
そこで質問なのですが、側面の窓と車体リベットについてです。
窓配置はスハシ29と同じと考えております。
私の考えではMAXモデルのWルーフ屋根を使い
車体はFUJIモデルのスハシ29を用いるのが良いかと考えております。
他、写真から判断すると側面の柱の縦リベットは
ほぼ無いように見受けられますが間違いないでしょうか。
昭和38年頃の再現ですのでぶどう2号塗装と考えております。
(スハシ38は最後までぶどう色だと思っていますが、
青15号塗装はあったのでしょうか?)

重箱の隅を突くような編成が大好きです。お答え頂ければ幸いです。




投稿者

鈴木昌生

投稿日

2016年 8月11日(木)23時10分8秒

タイトル

走る文化財としての客車

EF58 129様
うーむ。その点は私,知らないし,分かりませんでしたね。
一応,時代・地域的には「旧型客車が日常の乗り物」の地域にいたのですが。
とはいえ,安全及び,寿命を考えるとやむを得ないと思うのです。
また,この言葉を遣いますが,「客が悪い」と思います。
敢えて書きますが「SL←何故か,蒸機とか言わないんですよね,のお伴」
程度の考えの客しかいないからでしょう。
機関車,それも走行中に客を乗せることは出来ません。
しかし,観光資源・増収の為には「カマだけ」出したり,走らせても意味が無い。
そんな「おきゃくさま」相手なら「スゲーデザインの客車」だって使うでしょう。
やや話がずれますが,
鳥取なんて「スゲーカラーの歴史捏造物蒸機」すら登場してしまいました。
こうすると,東や,「復刻客車製造」の西は「まだ」ましです。
「現役時代を復元」というなら,
「20系初代ブルートレインの復刻」だってあっていい筈です。
そもそも客車と切っても切れない関係にある「機関車の動態保存」が,
これまた「客のせい」とは思いますが「蒸機に偏って」ますから。
私の希望は赤い交流電気の動態保存です。
「C62ニセコ」は計画段階では一部区間ED76が牽引する予定だったそうで,
こちらも実現していれば「より」古い鉄道風景の保存になったのにと思います。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 8月12日(金)16時24分12秒

タイトル

Re: スハシ38の作成

陸奥光政様

お久しぶりです。
スハシ38の入った不定期急行「石狩」を模型で再現とのこと、
客車の半室食堂車として最後の活躍だっただけに、私も興味があります。

昭和41年頃まで使用された最後の「石狩」用スハシ38は20番台でなく6番でしたが、
昭和39年12月まではスハシ38 22も札サツに在籍していましたので、
陸奥様の再現される昭和38年ごろであれば22でもOKですね。

もっともスハシ38 6も、元をただせば22番と同じスロシ37950形の姉妹車で、
車体外観の特徴としては、ご指摘の通りリベットが少ない事が挙げられます。
ダブルルーフ時代の最末期グループの特徴です。
さらに言えば、スハシ29 1も同じく姉妹車ですから窓配置は共通の筈です。

塗色はおそらく最後まで全車ぶどう色だったと考えられます。
塗色規程では青色化の対象でなく、
当時よくあった「規程破り」の記録もありません。
もし青色化されていれば、
「利尻」のマロネロ38形の様に話題となっていたでしょう。

スハシ38形は昭和27年に食堂車の戦後復興の決定版として、
全室のスシ48形と共に当時最新の内装を施し、
ハ室部分はスハ43に準じて整備されました。
古色蒼然とした外観と最新の内装のアンバランスさが魅力の形式で、その点では
7年後に登場した復活スハネ30形にも、一脈通じるものが感じられますね。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2016年 8月12日(金)20時03分51秒

タイトル

スハシ38

多分その車両だと想いますが昭和28年夏に父と北海道旅行の時
「まりも」(札幌ー釧路、長万部−函館)間乗車の時に朝食と昼食に利用しました。
上下共W屋根車でしたが。

朝食のデザートが大きな西瓜の1片、
昼食が(チキンライス付き)の筈がチキンの1片も無くて
「これはケチャップ飯ですか」?と聞いたら
周囲からは「本当だチキンはどこにあるのだ」?と異口同音でした。
その時のウエイトレスの顔つきが---------。

国鉄部内資料「客車形式図」(1966)にスハシ386(2重屋根)、
3823(北海同用)がでて居ますがリベットまでは解りません。
ピクトリアルの[日本の客車」にもW屋根が出ていますがリベットが少ない様です。




 
 
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