倶楽部メモ(760)

平成28年 8月 8日〜 8月11日



投稿者

青列車

投稿日

2016年 8月 8日(月)22時14分37秒

タイトル

You-Tubeにて

昭和時代の写真を延々と紹介する映像作品
(*ttp://www.youtube.com/watch?v=D0_KvF9ihI0)(頭の*をhに変えて下さい)
がいくつか投稿されていました。
その中には[鉄]ものが見ても貴重なものも混ざっていました。
しかしUP主さんに[鉄]分が全くないのか或は若い人で当時を知らないのか?
説明文に???なところも多々ありましたが(^^;)
上記紹介の映像にはこちらの皆様の関心を引きそうなカットがありました。
1'16"辺りの修学旅行の車中風景、ニス塗り未更新の在来一般型客車、
しかしよく見ると背もたれ通路側に頭持たせがありますのでスハ43の一党、
そして編成最後尾(貫通扉の窓の向こうに線路が見えます)
ということはスハフ42・オハフ45そしてオハフ46のいずれかですね。
また、同動画の8'33"前後のカット、
何故かこれに[寝台車]とキャプションがついていました
(確かに寝台機能と言えなくもないでしょうが
これはスハ43の一部に簡易寝台を付けた波動輸送用のモノですね)。
鉄道ピクトリアル誌のスハ43系統特集で
簡易寝台改造車に少しふれられた記事があったように記憶していますが
当該バックナンバーは実家にあり即座に検証できないのが申し訳ないところです。
とはいえ、よくぞカラーの画像があったもの。
ただ女性のモデルさんも一緒に写っているところから察しますに、
当時の国鉄が発行していた「R」誌用に撮影されたものかも知れません。

映画[張り込み]の冒頭部分(横浜駅で階段駆け上って
発車直後の客レにドア開けっ放しのデッキから飛び乗る)や
ちあきなおみが歌って大ヒットした「喝采」の途中、
♪動き始めた汽車に1人飛び乗った♪など、
その意味が解ったりそのような体験をした人はだんだん少なくなりつつあります。
聞けば、JRですら在来一般型を[雑型]・[その他客車]と呼んでいる由。
確かにCLブレーキが当たり前の時代に、
数えるほどしか残っていなくてしかも旧式なシステムで
たまにしか動かない様なクルマは[その他]にしたいのも
わからないではありませんが、
いやしくも鉄道省及び日本国有鉄道制式客車を
[雑型]扱いして欲しくないというのも偽らざる気持ちです。
そんな小生が客車と聞くと未だに真っ先に思い浮かぶのが
添付画像(既出ですが)の面々だったりします。
冷房なんて夢のまた夢一大贅沢品だったあの頃、
この季節は開けっ放したデッキで風を浴び涼んだものでした
(その当時を懐かしんでgifにしたのが3枚目のものです)。
お目汚しの段平にご容赦の程…
(因みに、このgifのより大きく長いものは
*ttp://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=51599969?
頭の*をhに変えて下さい=にあります)








投稿者

EF58 129

投稿日

2016年 8月 9日(火)00時29分31秒

タイトル

JR東日本スハ43系客車

>ものずきヲヤヂ様
初めまして、ヨンダースです。
43系客車への想い、拝読させて頂きました。
私は旧型客車初乗車は1982年3月。
当時小学校4年の私は電車しか知らず、図鑑の中だけの
存在だった旧型客車を初めて見てカルチャーショックを受けたものです。
そのカルチャーショックの元は木目ニス塗りの43系でした。
当時小学校5年の私は旧型客車に乗りたいばかりに都内への用事を作り、
片道だけでも客レに乗るべくスケジュールを組んだものです。
当然乗車の際には重厚な木目ニス塗りの車輛を選んで乗ったものです。
非常に味気ない塗りつぶし車と近代化改造車には目もくれませんでした。

勿論43系が最後まで第一線で走った旧型客車であることは重々承知です。
常磐線の上野〜仙台や高崎線の細切れ新潟行き等長距離鈍行や
急行列車の座席車として57.11改正まで運用していたことは承知ですし、
61.11改正まで最後の旧型客車鈍行(山陰本線)としてオハニ36と共に
運用されていたことも承知しております。

しかし私の論点は何故JR東日本は43系のレストアを行わないばかりか
改悪することばかりに血道を上げ、客本意でなく、
手前味噌な扱いかということなのです。

ただの43系に対する悪口ではありません。
責めるべくはJR東日本のリストアに対する認識の無さなのです。
はっきり言って手抜きです。

「レトロ列車」等と謳うのならば、
全車徹底的な修理・リストアをするべきでしょう。
少なくとも東京駅の丸の内駅舎修復に莫大な費用をかけるなら、
その数百分の一の予算で43系のレストアができるはずです。
失礼ながらあのJR北海道ですら購入したオハフ332555はじめ
43系(オハシ472001以外)を見事なまでにレストアしたのですから
JR東日本だってできない訳ありません。
ただやらないだけです。
客車の内装に当たり外れのある現状は問題ありだと思います。
外装でも30年も直されない等級表示と型番・車番の一段表記、
デジタル無線アンテナ、塗屋根、戸閉表示灯、内装の塗りつぶし、
挙句の果てには車内照明に家電量販品など付ける始末。
ここまでファンを愚弄しているJR東日本に対して不満をぶつけてはいけませんか?
これでも私の意見、お判り頂けませんか?
ニス塗り車と塗りつぶし車では雰囲気が雲泥の差。
それでも「ハズレ」と言ってはいけませんか?
同じ指定席料金を払って差を付けられたら怒って当然でしょう。
頭にきて思わず「カス」と言いたくもなるでしょう。

私は43系を早急に新製当初の状態に復元して、内装をスハフ32、オハニ36と同様に
格差ない状態にしてほしいだけです。

こんなことを言っていいのかわかりませんが、
EF55復活運転の際に水戸の43系ではなく、
福島の35・61・43系を持ってきていれば、
この様な禍根が残らなかったと思うのです。

私も旧型客車に関してはかなり執着していまして、
不愉快な文章になってしまい大変申し訳ありませんでした。
43系客車は私の旧型客車研究に関する第一歩となったので
非常に思い入れのある車種です。
愛するが故の厳しい考え、同意頂ければ幸いです。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2016年 8月 9日(火)09時26分49秒

タイトル

ハネの料金

鈴木昌生様

ご意見拝読しました私が出張や個人で一番利用し易かった時代ですけれど
昭和30年代だったです。
上段  600円
中段  700円
下段  800円
でした。
ナハネ10,11、オハネ17とか戦前の復活改造スハネ30とかの時代でした。
移動時間の好悪に係らず当時の遠距離出張は「夜行列車利用」が当然の事で、
平社員でもハネが利用出来た出張規定が大半だったでしょう。

私は旧型客車のファンの立場から寝台列車の消滅を惜しんでいるだけで、
乗客が悪いとかの批判も
「利用しにくいから乗らなくなった」(料金サービス)、
「他に便利で安くて楽に行ける方法が出現した」とか
種々の原因があることを承知しております。

一例が大阪、神戸−北九州などフェリーの利用が便利で安くて
船底3等(現2等自由席)でも最悪腰が下ろせるかごろ寝可能で、
船内食堂やバー、お風呂もあります。

夜行列車利用者がフェリーに移行して好評なので
船会社も新造船を投入しているのが事実です。

トワイライトですが前回に書いたCPの"Canadian"号みたいな客車で運行したら
もっと好評だったかも知れません。

もう廃車解体間際の私が申し上げれるのはこのぐらいですので,
悪しからずご了解ねがいます。
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青列車様

下の写真は明らかにオハフ45でしょう。




投稿者

ものずきヲヤヂ

投稿日

2016年 8月 9日(火)15時24分33秒

タイトル

EF58 129さま

ご丁寧な返信、どうもありがとうございます。
趣旨は大変良く理解させていただきました。
新しい(←旧客の中では)というだけで43系を毛嫌いされているのかと勘違いしたため
前述のような文面となった次第です。

登場当時の姿が最も魅力的であり、
文化財保護的な概念からもそれがベストであることは否めません。
しかしながら私は43系に限っては「急行型の誇り」として
近代化改装後の完全整備された状態に美しさを感じます。
無理して復元する必要性は私的には感じません。人の好みはそれぞれですね。
新参の電車や気動車に拮抗するために厚化粧して精一杯背伸させられた姿こそ
「最後まで進化した完成形」とも感じさせられます。

アンテナや戸閉表示灯なんかは確かに興醒めですが、
現在の保安基準から行くと仕方ないか・・・・(涙)。

追伸:
絶対に新製時の姿に戻してもらいたい一例として、
九州鉄道記念館の583系があげられます。
外装だけ戻して中は715系のまま(哀)。
近郊型改造されたこともたしかにその車両の経歴ですが、
これは進化最終形でもなんでもないのが明白です(怒)。




投稿者

ED76109

投稿日

2016年 8月10日(水)13時07分58秒

タイトル

初めまして「EF58129」様

 ご無沙汰しております。「ED76109」であります。

 EF58129 様

 初めまして。「ED76109」であります。
東京の産なのですが、31年前に「北の大地」に渡りまして、
現在は「北の湘南」の高校で教頭をしております
「客車鉄ちゃん」であります。
以前にも記しておりますが、
「鉄」親父の薫陶(特に「122レ」と「1102レ」の体験)が、
小生の現在を形作っていると思っております。
 「はまなす」や「北斗星」、「トワイライトEXP」など言いたいことは、
「山脈」のようにありますが、小生「想い出」を大切にしたいものですので、
挨拶代わりに「桜島・高千穂」の想い出を記させていただき、
「EF58129」様のご参考になればと考えます。


 1 初めての乗車は、昭和41年頃(?)です。
両親と「御殿場線のD52の乗り鉄旅」の帰路、
「静岡」から上りの「霧島」にお世話になったらしいのですが、
小生がぐずってしまい「鉄」親父が閉口してしまったのです。
そこで「山」お袋が、ガラガラだった「シ」へ小生を連れていったところ、
ウエイトレスさんが二人ががりで小生をあやしてくれた結果、
半べその小生が「にこり」として、
東京までの帰路が楽しい旅になったとのことらしいのであります。
その時、「鉄」親父は「こいつは絶対に鉄になる」と確信したようで、
小生の「原点」なのかもしれません。


 2 2度目の乗車は、昭和47年の4月のこと。
親類の婚礼の帰路に「西鹿児島から東京までの約26時間」を
ご指摘の「オロ11」で過ごしました。
「鉄」親父によれば、「はやぶさ」から「583系きりしま」までねばり、
なんとか「ネ」を確保しようとしたらしいのですが満席との返事。
「五反田のみどりの窓口」氏から
「屋久島のハザ+新幹線」か「桜島のロザ」のどちらかをと提示された結果、
「往年のはとの2等車に」という思いから「桜島」に乗車することになったのでした。
 何度も記していますが、「不知火の海岸線風景」から始まり、
「門司での『高千穂』との増結・EF30への交換儀式」、
「深夜の徳山でのフレートライナーの退避」、「トカホセを上るEF58の雄姿」と
旧客レを堪能したのであります。
 加えて、備え付けのテーブルは「窓際用のもの」しか用意されておらず、
東京車掌区のカレチ氏は平謝りすることしきり。
しかし、「鉄」親父は「『はと』に乗れただけで幸せですよ」と笑っておりました。
 東京着は「西鹿児島発の翌日の16時過ぎ」。
出迎えた「従兄たち」は「まる1日を客車ですごした」との小生の一言に、
呆れかえるばかりでありました。


 3 3度目の乗車は、昭和49年の8月。甲子園の高校野球観戦の帰路、
「神戸から東京までの昼行客車レ旅」でした。
 明石の従兄宅から乗った「73系」を「神戸」で降り、
やってきた「桜島・高千穂」の車中に。
「大阪」でガラガラとなり、最後尾の「スハフ42のボックス」を
「鉄」親父と小生とで貸切にして、14両編成の長距離客車レの眺めを満喫しました。
関ヶ原付近や金谷、そして大船のカープの風景なども、
先頭のEF58が小さく欠片のように見えましたね。
 東京到着時は、二人とも汗びっしょりでしたが、
今にして思えば「贅沢な汽車旅」でした。
昼間の「トカホセ」風景を十二分に満喫できたのですから、
代えがたい経験をさせてもらえました。


 4 最後の乗車は、昭和50年の1月に「浜松から品川まで」のお別れ乗車でした。
当日は、品川始発の「113系鈍行」で「浜松」まで向かい、
「浜松のフォーム」を疾走。
発車間際の「桜島・高千穂」の最後尾に乗車しました。
 しかし、カレチさんは小生を「冬休み明け直前の家出少年」と勘違いされてしまい、
「桜島号にお別れを言いに来ました」との大演説をぶることになり、
「そうだったのかい。」と大笑いされてしまう始末・・・。
気分だけは「西鹿児島からの一人旅」(生意気なガキでした)で、
車窓風景に見いっていました。
さらに、その時の「桜島のG車」が「鹿カコのオロ11」ではなく、
「北オクのスロ2両」だったというオマケも強く記憶にありますね。
 「品川」で「ありがとうございました。」と挨拶した小生に、
件のカレチさんが
「記念にとっておいて」と「乗客専務」の赤腕章を下さったことは、
一生の想い出であります。
品川のフォームに残った小生に、
「桜島・高千穂」の最後尾からやさしく手をふってくれた姿は、
小生今でも脳裏に残っております。


 これらの体験が、小生の「鉄」としての歩み(長距離レを中心とした乗り鉄)
を決めたように考えておりますし、
小生の「鉄」としてのスタンスがあるように考えております。


 本当に長々と失礼致しました。
以上、本日のCS「東映チャンネル」で放映される「喜劇・急行列車」が楽しみな
「教頭客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

EF58 129

投稿日

2016年 8月10日(水)23時33分29秒

>ED76109様
EF58 129です。御返事頂き誠にありがとうございます。
教頭先生の御講話は読んでいて楽しいものが多く、
御返事させて頂きたく思っていた次第です。
「霧島」の食堂車での鉄チャンデビュー、非常に鮮烈なシーンですね。
私は在来線の食堂車と言えば「北斗星」のスシ24しか経験が無く、
普通の食堂車と言えば北九州の50系客車撮影の帰り、
「グランドひかり」の2階建て食堂車が最初で最後でした。
その頃の食堂車は自由席客の着席目的という情けないものでした。
1966年頃の「霧島」の食堂車、恐らくオシ17ではないかと思いますが
(まだオシ16やマシ38、スシ29とあった頃の様ですが(RF誌1977.6参照)
今あれば定食とビールで粘りたいものです

「桜島」完乗いいですね。
乗車された車輛もオロ11、まさに夢の26時間。羨ましいです♪
そんなに乗ったら悪友共と窓枠にビールの空き缶を並べて
記念撮影といきたかったのものです。
オロ11も「つばめ」「はと」「さくら」「はつかり」といった名列車に使用され
数々の旅路のお供をしてきたと思うと感慨深いものだと
御尊父様も教頭先生も充実の旅であったと想像してしまいます。
ただオロ11が20年持たなかったのが残念でなりません。
一説には冷房改造の際、屋根上に乗せたエアコンAU13の重みに耐えられず、
車体がゆがんでしまい50.3改正で全廃になったと
ものの本で読んだ記憶があります。

「桜島」「高千穂」普通車で東海道本線完乗またまた羨ましいお話です♪
別のお話で「JR東日本の43系客車」で塗りつぶし車と
近代化改造車の件でかなりきついこと
を書いてしまいましたが、原型のニス塗り車に関しては特に親しみがありまして
(常磐線の長距離鈍行列車の取手⇔上野間位ですが)好きな車種の一つです。
それに神戸→東京とはすばらしいです。
今は止めたのですが煙草片手に缶ビールを次から次へと飲みまくり、
他のお客さんに「あの席にはうわばみが住み着いている」
とウケを狙ってみたかった次第です。

「桜島」「高千穂」の乗り納め。
今なら素性が分からずとも見ないふりすることが多い世の中ですが
1975年頃は車掌さんもその様に気にかけていらっしゃったんですね。
しかし旧型客車には不思議な程の魅力を感じますね。
そしてカレチさんが腕章を下さったのは感激ですよね。


実は列車が違うのですが、
私も旧型客車の乗継を小学校5年の秋常磐線で実行致しました。
旧型客車が廃止されるということは、
当時の国鉄広報番組「みどりの窓口」で観ました。
おまけに置換は415系500番代。
43系の後釜がロングシートというのはあまりにもひどい改悪でした。
その後少ない小遣いをかき集め、常磐線下り225レで取手→高浜、
上り424列車に乗り換え、上野まで乗車、車輛は尾久客車区の43系。
列車によってはオユ10が、珍しかったのは下り列車の
機関車次位にマヤ34が付いていたのが新鮮でした。
一般営業中の定期客レは近所では常磐線。
高崎線や東北本線黒磯以北など少ない小遣いでは
足らず、母親にねだってもつれない返事、
食い下がると関係ないのに父親がしゃしゃり出てきては顔を殴られたもんです。
(ちなみに両親はカーキチ。鉄チャンの私など一顧だにしませんでした)
それでも何とか小遣いをもらい、前述の43系乗り納めに興じておりました。
当時は11歳の嫌な餓鬼でしたw

この時57.11改正の頃、下りの列車(多分225レ)の43系は車内塗りつぶし車と
近代化改造車ばかりでした。
恐らく尾久→水戸間の送り込み回送を兼ねていたと思います。
その時の43系がお召訓練に充当されたりイベント用に東京北局に貸渡されたり、
最後は高崎に転属され現在に至っています。

それ以降旧型客車はイベント用客車となり、6両+スエ7815という図式になりましたが
1987年に福知山のオハニ3611、郡山のスハフ322357が組成されると
残念ながらニス塗り車でない43系はどうしても乗ることに躊躇してしまいます。
そしてJR東日本から購入したJR北海道の
スハフ42・オハ47(オハシ47)・オハフ33の見事な復元。
照明カバーもオリジナルとなり、車内も塗料を剥いでニス塗り。
余談ですがオハフ332555は高崎時代、内装の腰板のニスがひび割れを起こし、
見苦しい姿でしたが、これも直っていました
その客車には2013年秋に乗車したのですが、きれいに内装を施し、
つい「きれいにしてもらってよかったね。東日本は絶対やってくれないから」
とつぶやいてしまいました。
これで北海道のイベントが終わるのは悲しいですね。
あの旧型客車は旭川で大事に保存して、時が来たら走らせてほしいと思ってます。

JR東日本は、レストアに対する意識が全くないと言っても過言ではありません。
とても情けない状況です。

それでは今後も御講話のレス書きさせて頂きます。
ありがとうございました。




投稿者

EF58 129

投稿日

2016年 8月11日(木)00時41分8秒

タイトル

筑波・国鉄最後の日

>クモイ103様
御返事頂き感謝致します。ありがとうございます。
私もDD501牽引「筑波」を筑波駅構内撮影したのですが、
何せ当時当家にあったカメラは110しかなく、
スキャナで取り込んでデジタル化できないのが非常に悲しく思います。
またクモイ103様はじめ鉄研の皆様には非常にご迷惑をかけてしまい
大変申し訳ありませんでした。客車が12系だったが故、
DD501のロッドの動きを見たいが為、
身を乗り出し沿線の撮り鉄の皆さんに悪いことをしたと思い反省しております。
しかし、この時期にDD501が故障しないで持ったのは僥倖でした。

確か1977年か78年の「筑波」。旧型客車が充当されていたのですが、
これを牽引していたDD501が故障、
急遽常総線水海道機関区からDD502を輸送、急場をしのいだ様です。
セミセンターキャブのDD502+旧型客車、たまらない組合せですね♪
(尚、1973年の時点で水海道機関区ではDD501、502、901がいたのですが、
901はパワーがあり過ぎ、501はマニュアル車で時々バックギアが入らなくなる
という理由で追い出され502だけを手許に残していると関鉄の方から聞きました)

1987.03.31、国鉄最後の日(事実上組織が固まったのは61.11改正の様な)は
前述の通り、ろくに写真も撮らず帰宅しました。
当時中学校三年でしたが、
「夕やけニャンニャン」観たさに17時帰宅をしておりました。
暴力を振るう父親も帰宅は17時過ぎ。それまでに帰らないと殴られました。

という背景もあり、品川発の客車試運転列車試6961レを撮影後、
「さようなら国鉄」のヘッドマークを付けた電車群を撮影するのみにとどめました。

1987.03.31 試6961レ

EF65 1103 田
マニ36 2001 南シナ
オハネ14 25 南シナ
マニ36 2128 南シナ

客車1両の検査上がりに控車2両は鉄チャン冥利に尽きますが、合理化されますよね。
結局後には大型の反射板(蔑称おてもやん)になってしまいました。

そして話を蒸し返して恐縮ですが、
3.31の日テレのホーム独占使用という暴挙を何故国鉄が許したのか・・・。
「さよならJR西日本」号の目玉
マイテ491を鉄に撮らせないための嫌がらせだったのか
それとも国鉄が日テレから多額の賄賂を貰ったか・・・。

すいません。また脱線してしまいました。
どうかお許しください。




 
 
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