倶楽部メモ(757)
平成28年 7月25日〜 7月31日

晴海鉄道博覧会時のマイテ3911の帯色


投稿者

鈴木昌生

投稿日

2016年 7月25日(月)23時07分49秒

タイトル

死んだ子の年を数える

気付いた今はもう遅い,という話です。

A 昭和50年代前半には不足の感もあったニューブルートレインの食堂車ですが,後半には余乗車になってしまい,
広島の20系「ホリデーパル」のサロンカーになったり,「はやぶさ」用ロビーカーに改造されてしまいます。
もし,この時分に「青函ブルートレイン」即ち後の「北斗星」や,「日本海の函館延伸」が具体化していれば,
それらの種車が北海道向けに改造され,スシ24の落成数は減っていた,のではないでしょうか。

B こちらはJR化後のお話。
「元祖クルーズトレイン」とも言える「トワイライトエクスプレス」。
「展望寝台」とも言える「スイート」が好評で増備する際,先行車と異なり車体中央にスイートを設置した車両を改造し
増結して要望に応えましたが,24系では無く,「改造」してでも14系にしておけば,
「編成両端にスイートを設置することが出来た」のではないでしょうか。
発電用エンジンは中間のBコンパート車に設置で。
そうすれば,オハネフ25型300番台や,SIV電源兼ラウンジカーは登場しなかったことになりますが,
「行き帰りともに展望スイート」というのは,よりセールスポイントになった,のではと思うのです。




投稿者

客車

投稿日

2016年 7月25日(月)23時30分31秒

タイトル

晴海博覧会時の帯色

クモイ103様
最近になってまもなく80歳になろうという方から
昭和37年の晴海鉄道博覧会時のマイテ3911の帯色に関しての以下の証言を最近頂きました。
「帯色は白色でその白色が艶々していて綺麗だなーと感じてじっくり見て良く覚えている。
地色のブドウ色に関しては注意して見ていないので良く分からない。」
と言う物です。
当方も当時見ておりましたがその頃は一等の帯色=白色との知識でしたので、
他の色でしたら見た時に違和感を感じていたはずですが感じてはおらず、白色であったのは確かでしょう。
ここで注意したいのは白色に艶があったと言う証言です。
艶々していたとは塗料の塗り立て=車両工場で塗装した出場時の状態と推定できます。
そういえばあの行方不明の帯部分サンプルは黄色(厚さ約1.0mm)と青色(厚さ約1.0mm)の境に
白色(厚さ約0.1mm)の部分が有り、当時は黄帯の経年劣化による表面の退色、との認識で無視しておりましたが、
どうやら博覧会出場に備えて白色で塗られたようですが、
塗膜の厚さが厚では無く極薄と言うことは正式な塗装行程では無く博覧会出展用の臨時塗装だったのでしょう。
 晴海博覧会後に青梅鉄道公園に搬入された当時のモノクロ写真をみると帯色は青色では無く白色と思われ、
のちに鉄道公園の手で青色(色調は学童用絵の具の青)に塗られたとみられます。

鉄道博物館に搬入された時に知り合いの学芸員補助の方に「あの色調になった経緯が分からないだろうか」
と尋ねて調べて頂いたことがありましたが、学芸員では無いので調べきれなかった
との報告を受けており、経緯は謎となっています。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 7月26日(火)23時35分18秒

タイトル

Re: 晴海博覧会時の帯色

客車様

お久しぶりです。
マイテ39 11の帯色について、貴重な証言のご紹介ありがとうございます。

昭和37年の晴海鉄道博覧会は6月〜7月だったようですね。
同車の廃車は9月29日ですから、博覧会の時点では(マロテとして)車籍があった事になります。

実は小生、本年3月に発売された書籍「日本の展望客車(上)」に関わっており、
その中で「展望車と等級帯」と題する一文を共同執筆しましたが、
晴海の博覧会には触れず、マロテ39 11は青帯のまま廃車となったようだ…
と書いてしまいました。これはいけませんでしたね。

確認ですが、客車様のお手元にあった塗膜片は、
「黄色」→「白色」(0.1mm)→「青色」という順序だったという事でしょうか?

すると一つの疑問が。
昭和35年7月の2等級制移行で「マイテ」から「マロテ」となった際、
帯は青色に変更された筈です。
晴海の博覧会はその2年後ですから、そこで白帯になったとすれば
「黄色」→「青色」→「白色」が自然な流れではないかと思ったのですが、
実際はそうではなかった … ということでしょうか?




投稿者

客車

投稿日

2016年 7月28日(木)02時39分47秒

タイトル

晴海博覧会時の帯色U

クモイ103様

書籍「日本の展望客車(上)」の該当部分を読んでおりますが、もやもやとした記述になっていますね。

塗色順は下層より、ブドウ色・クリーム色・塗膜の薄い白色・ブドウ色・青色、です。
青色の色調は青一号では無く学童用絵の具の青色・日曜大工店で発売している日曜大工用塗料
(例えばアサヒペンとか)の青色です。
 また鉄道ビクトリアル誌No134,1962年8月号P47の記事「鉄道科学大博覧会見たまま」の右段下から6行目から
「もちろんマイテの記号は今はなく、透視するとマロテが見えるから展示用に書き直したものだろう」となっています。
ですから塗膜の薄い白色帯も展示用に塗り直した物と思われます。

当方の推定するマイテ3911の形式記号と帯色の履歴は以下の通りです。
マイテで黄帯→塗色規定改正後も黄帯(黄帯が退色して白として違和感ないから?)
→マロテで黄帯(形式書き替えただけ怠慢?)→博覧会展示用にマイテで白帯(形式・塗色規定は無視?)→廃車
→青梅鉄道公園に搬入→(ブドウ色+マロテ?で学童用絵の具の青色の帯)→(大井工場搬入・マイテで白帯?)
廃車後はいい加減な記述で相済みません。
 以前にこの掲示板でこの話が出た時に大井工場におけるマイテ整備時に塗膜を剥がした時に立ち会った方が
感想として、「黄帯の色は小田急ケープアイボリーに似ている」と述べていると記してありましたが、
ケープアイボリーでは白すぎでして退色した黄帯を見たのかもしれませんね。

ですから履歴は
マロテで黄帯で廃車
博覧会展示の為のイベント変更も取り入れて、マイテで白帯で廃車
の二通りになるのでしょうか。
鉄道広報とかの正式履歴はどうなっているのでしょうね。
モデルマニアには分かりません。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 7月29日(金)20時02分21秒

タイトル

Re: 晴海博覧会時の帯色II

客車様

マイテ39 11、というより多くの優等客車において、
個別の詳細な帯色の変遷というのは謎に包まれています。
残念ながら客車気動車研究会でも把握しきれず、
お読みになった皆様からのご指摘や情報を大募集、という状況です。

> 鉄道広報とかの正式履歴はどうなっているのでしょうね。

他の皆様にも誤解の無い様に申し添えますが、
鉄道公報(「広報」ではありません)というのは、
車両の履歴が載っているものではなく、あくまで
国鉄本社から各機関への“上意下達”の文書です。
「こうしなさい」という事が載っていますが、
「こうなった」という情報は、車両の転属などといった、
国鉄の組織全体に関わる大きな事柄しか載りません。

従って、車両の塗色や標記に関する規程は載っていますが、
マイテ39 11など個別の車両がどうなったかという情報を
載せるための文書ではないのです。

そういう情報は、もしあるとすれば車両基地などの現業機関が
車両毎につけている「履歴票」という事になりますが、
残念ながら、履歴票でも塗色・標記に関する記載はまず無く、
そもそも履歴票そのものが散逸して、
趣味者の手に現存するものは限られています。

そんな訳で、客車様のお手元にあったという塗膜片は、
まさに貴重な物的証拠であり、その詳しい状態は
喉から手が出るほど欲しい情報です。
重ねて、貴重な情報をお寄せ頂きありがとうございました。
引き続き、現物が出てくる事をお祈りいたします。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2016年 7月31日(日)13時44分13秒

タイトル

イテの帯色

これは難しい問題ですが、戦後進駐軍が「白帯」を使ってしまったので、「平和」運転時に
イの色を黄色交じりのクリーム色系にしたと、星さんか黒岩さん???の記事を読んだ
記憶があります。
もう遠い記憶ですが、確かに京都駅で遠足帰りに「平和」が入構してきて、イテの帯が戦前
の真っ白ではなく黄色がかって居たのを車窓から見た記憶があります。

特ロが出てきた時に、青帯の色が並ロの青よりも薄い色(明るい)でしたが----。

もう廃車解体間際の旧客ファンの遠い記憶で御免なさい。




 
 
「客車倶楽部」へ  
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから