倶楽部メモ(752)

平成28年 4月30日〜 5月 8日

14系寝台客車使用偽史 ・ 日本最古客車について



投稿者

おはぎ

投稿日

2016年 4月30日(土)14時07分27秒

タイトル

1970年台の夜行列車のことで 御礼

おはぎ です。
みなさま ご回答ありがとうございます。

九州旅行に連れって行ってもらい、桜島に行った時の行きの行程です。 
DF50からC57に交換されて山深い青井岳駅で列車交換もホームから眺めたこと、
山にこだまする汽笛の音も覚えています。
仙コリさま クモイ103さま 赤マントさま 
マロネロ38さま ED76109さま

皆様のお教え参考になりました。 今後もよろしくお願いします。
ご近所、京都に新しい博物館ができ盛況のようです。 ぜひお越し下さい。




投稿者

鈴木昌生

投稿日

2016年 5月 2日(月)22時35分4秒

タイトル

14系寝台車偽史

昨年,告知させて頂いた通り,皆様のご厚意に甘えまして,
この場で「14系寝台客車使用偽史」を発表させて頂きます。
「いくら嘘でもそれは無い!」といったご意見を頂ければ幸いです。

所属 尾久 種別 特急  この2点は共通の設定
1. 上野−金沢・秋田又は酒田
   経由 上越・羽越  長岡で分割併合
   時代 昭和60年頃
   編成 金沢編成 スハネフ オハネx4 スハネフ
      羽越編成スハネフ オロネ オハネx3 スハネフ
   解説 「北陸」「能登」の補完及び「天の川」の格上げ列車を
   上野―長岡間で併結して運行。羽越方面は体のいい「値上げ」。
2. 上野−秋田・函館
   経由 東北・奥羽・津軽海峡  福島で分割併合
   時代 昭和63年頃
   編成 秋田編成 スハネフ オハネ×5 スハネフ
      函館編成 スハネフ オロネ オハネ×2 スハネフ
   解説 「あけぼの」と開通した青函トンネルを通って
道南まで行く新設寝台特急を東北線 内で一本の列車として走行。
この「あけぼの」が「秋田止まり」なのは「青森行き」にすると,
渡道する乗客が誤乗する恐れがあるため。
列車名は「あけぼの]1]2」「いさりび」といったところでしょうか。
「あけぼの」の1・2は上下を表す数字で他意はありません。
即ち,史実同様に複数の「あけぼの」が設定されていると
       いうことです。

 現実に尾久に配置された14系寝台車に分割併合運用は無かったので,
2例でっちあげてみました。
1が63年改正で廃止され,2に転用されたという想像もありです。
また,2では設定後「現実的に」20年近くは走ったでしょうから,
経由が変更された,個室化が進んだ,という後日談も良いのではないでしょうか。
尚,両偽史ともダイヤは引いていません。

それにしても,客車では無くても,
上野−函館間の定期夜行列車が設定されなかったのは,奇妙な気がします。




投稿者

太田拓也

投稿日

2016年 5月 4日(水)07時48分21秒

タイトル

偽史の感想

鈴木昌生様へ
私もこの手の遊びは好きです。
私の妄想では「57.11」で余裕の出た583系で
「きたぐに」の青森発着を維持するというものです。
青森所の13連を使用し、12号車のサハネのみサロネに改造、
食堂車も10年ぶりに復活。
新潟では史実の「いなほ」同様新幹線に接続、
新潟以北の輸送力に余裕があるので
一部の号車を除き寝台は解体しない・・・というものです。

ところで史実では「北陸」は昭和60年改正での廃止が検討されておりました。
実際にはその後四半世紀も生き残って
「ブルートレインのラスト4」になりましたが。
(残りは日本海・あけぼの・北斗星)
なので羽越方面との統合案も意外とありえそうな話だったりします。

>それにしても,客車では無くても,上野−函館間の
定期夜行列車が設定されなかったのは,奇妙な気がします。

「北斗星5号・2号」の函館の時間帯がよかったので問題なかったのでしょう。
「日本海1号・4号」が折戸だったので
やろうと思えば583系でもできたと思います。
この頃は青函方面も奥羽方面も人気があったので寝台券が入手困難で
翌平成元年にはどちらも583系の単独運転になっていると思われます。
(客車は「北斗星3号・4号」の定期列車化に)

それにしても14系は付属編成にロネが無いので意外に不便な気がします。
(20系にはあった)
「さくら」で佐世保に行く客から苦情があったのではないでしょうか?

以上、激込みの京都鉄道博物館にいつ行こうかと考えている太田拓也でした。




投稿者

客車

投稿日

2016年 5月 4日(水)12時43分58秒

タイトル

日本最古客車について

表題の日本最古客車の1/80組み立てキット
(16番模型によく見られる車体幅を膨らませる事をしていない設計で縮尺正1/80)
が販売されていますが、模型メーカー伊織工房の設計担当者・伊織氏からの
受け売りによると以下とのことです。
日本最古客車に関する参考意見と言うことで記します。

1,Third Class車輌・下等車について
Third Class車輌・下等車は文献によると
Second Class車輌・中等車の改造車で一部は未改造のまま使用された
と聞いていましたが、
改造車の組み立て見本でその形態が模型化してあり初めて目にしました。
改造は「妻板を設けてデッキを板でふさぐ」であり、
客室の拡張でロングシートを延長して定員増加を計ったものとみられます。
また改造部分は日本産木材の色として
模型塗料のデッキタン色に塗られておりました。
しかしこのままでは乗客は乗り降り出来ません。
側面から見て片方のデッキは撤去した客室引き戸の部品を利用して
引き戸のドアを設けていたのかもしれません。
 また通り抜けできない改造車でFirst Class車輌・上等車と
Second Class車輌・中等車をサンドイッチして
Third Class車輌・下等車の乗客の移動防止を意図した
とも考えられますが、これは考えすぎでしょうか。

2,車体色について
車体材質はマホガニー(色・赤茶色)とのことで、
その材質の色が車体色(塗装をしていない)としています。
色調はマホガニー材を取り寄せて調色したとのことです。
北海道の開拓使客車は材質がオークで材質の色が車体色と聞いていますが、
これと同様な事が行われた模様です。
浮世絵を見ると客車の色は赤茶色ですが、
浮世絵の客車色はほぼ正しいのですかね。

3,屋根上の灯油ランプについて
当初は運転時間が昼間だったので、
鉄道ピクトリアルに掲載された東大所蔵の開業前の横浜駅を
俯瞰した写真に写っている客車に見られるようにランプは無く、
明治7年のダイヤ改正での夜間運転開始時にランプを設置し
新橋駅にランプ取り扱い施設が設けられたそうです。

4,車輪について
客車車輪は文献ではマンセルホイールとなっていますが、
ブレーキをかける緩急車は力が掛かるのでスポーク車輪だったそうです。

4,編成について
文献によると10輛編成となっていますが、9輛編成との意見です。
車種は
First Class車輌・上等車は1輛、Second Class車輌・中等車は2輛、
Third Class車輌・下等車は5輛、緩急車は1輛、
との意見です。

以上参考になれば幸いです。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 5月 6日(金)11時01分54秒

タイトル

もう一つ寝台車偽史

鈴木昌生様の14系寝台車偽史、私も興味深く拝読しました。
こういうのは想像の世界が次々と広がって面白いですね。

2.の「あけぼの」が秋田止まりなのは渡道する乗客の誤乗を防ぐため…
ということであれば、弘前までは行っても良いかもしれません。
まあそうは言っても輸送力が半分ですから、
秋田以北はフル編成の他の「あけぼの」に任せるのが現実的かな。

また太田拓也様のご指摘通り14系では附属編成にロネがありませんでしたが、
昭和63年であれば24系で「北斗星」用の各種改造車が登場してきますから、
そのやりくりの中からオロネ24をねん出して、
オロネ14に改造して充当できたかもしれませんね。

さてロネで思い出しましたが、実はもう何年も昔、
「客車空気調和装置資料室」の掲示板でお披露目した悪ノリ企画がありました。
鈴木昌夫様が「運転史」の面から空想を広げられたのとは異なり
「車両史」から発想したキワモノですのでちょっと趣旨が異なりますが、
同じ世界観に共存できる(ご迷惑でしょうけど)かもしれませんし、
ログも消え去っているので、また恥を晒します。笑ってやって下さい。

********
昭和34年、国鉄は急速に旅客車の近代化を推し進めていました。
この年、オハ61を“特ロ”に改造したオロ61が登場します。
電車化・気動車化の進展でローカル線の客車に余裕が出る一方、
優等車両にはまだ戦前製の老朽車が多数残っていて、
設備も古く見劣りするようになっていた為です(ここまではホント)。

その流れで翌年、同じくオハ61改造の1等寝台車スロネ60が登場しました(嘘)。
当時オロネ10が続々と新製されていましたが、
予算面が苦しく、不足を改造車で補うことになったわけです(赤嘘)。

改造の内容は、1335mmの窓間隔を活かすため、3ボックス分のスペースを
2つに区切って1区画1900mmを確保したものの、窓位置が片寄るため
プルマン式にできず、なんと当時国鉄で一番豪華な旅客設備だった、
1人用区分室「ルーメット」になりました。

台車と冷房装置はオロネ10と同様のものを新製しました。ただし
冷房用の風道は床上両サイドに這わせ、室内各所に設けたダクトから立ち上げて、
そこから寝台全区画と廊下に吹き出す構造としました。そのため後の時代の
冷房改造車(スロ54、スロ62など)のように屋根を改造せずに済みました。

スロネ60は「銀河」などの東海道夜行急行に投入され、マロネ40などと共に
活躍しましたが、東海道新幹線開業後は山陽・九州系統に、そして
新幹線博多開業後は電暖搭載・体質改善工事を受けて東北・常磐系統に転じ、
北海道連絡急行「十和田」のイメージアップに貢献しました。
最後はMR化されて14系に併結されましたが、寝台特急にシャワー室が普及する
時代となり、さすがに老朽化でこれ以上の設備向上が望めないことから、
惜しまれつつ引退しました。しかしその実績は、
のちに登場する「北斗星」の個室寝台に大きな影響を与えたのでした(大嘘)。
********




投稿者

赤まんと

投稿日

2016年 5月 7日(土)08時39分59秒

タイトル

魅力充分ですね

クモイ103さまのスロネ60史、興味深く拝見しました。
個性的なサイドビューが魅力的で、妙に現実味を感じます。
個人的にはこの車両には青15号は似つかわしくなく、
等級帯を廃止された姿はなお哀れに思えます。
従って、1970年を最後に「勇退」して頂きたいところです。
「銀河」から「十和田」へ活躍の場を移したということは、
最終配置は尾久か青森でしょうか。
オシ16と同じ編成中にある姿を想像しますと、風格が増す気がします。
「銀河」で10系ハネとスハネ30、スハ44、スハフ43と組まれた編成もたまりません。
マニ30が入っていたら・・・勝手に妄想が膨らんでいきます。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 5月 7日(土)21時36分28秒

タイトル

図に乗って…

赤まんと様

早速のご感想ありがとうございます。
編成仲間をいろいろ想像するのも面白いですね。
マニ30までは思いつきませんでした。

青15号は無しですか?
私の想像では、昭和39年9月26日の「車両塗色及び標記方式規程」改正で、
本形式はオロネ10やマロネ41などと共に青塗装に指定され、
昭和44年9月のA寝台車グリーン帯廃止以降は「青色・帯無し」となって、
外観的にちょっと似ているマロネ41が昭和47年に引退した後も、
長く活躍することになっているのですが…

なお同じロネ仲間でもマロネ40は、ロネ車で1形式のみ青15号にならず、
最後は等級帯廃止でぶどう色一色の個体が存在しました。
ただし、独特の高い屋根が印象的なマロネ40なればこそ、
それでも辛うじて最優等客車の風格を残していましたが、
当スロネ60がぶどう色一色では、仰る通り
「等級帯を廃止された姿はなお哀れに思え」てしまいますね。

塗色の話を振られたので今さら思いついたネタですが、
本形式がMR化されて14系に併結される最末期の頃には、
もう国鉄もなりふり構わなくなっていていましたから、
青20号+白帯2本になってしまったかもしれません。
かつて旧形客車から20系の電源車に改造編入されて
青15号+白帯3本となったマヤ20の再来?ですね。




投稿者

鈴木昌生

投稿日

2016年 5月 8日(日)23時13分2秒

タイトル

返信1

ご感想ありがとうございました。
まず,太田拓也様への返信です。

>「北陸」は昭和60年改正での廃止が検討
 初めて知りました。
当時は首都圏対北陸地方の輸送は「東海道新幹線」か「上越新幹線」と
在来線特急の乗り継ぎが中心の筈ですから。
出典をご教示頂ければ非常にありがたいです。
もしかして,「白山」と「能登」があるから「北陸」は廃止でいいだろ,
ということだったのでしょうか。
ただ,「利用者が少ないからこそ」投資してサービス改善する理由も無いので
「北陸」が特急では最後まで3段寝台が残った,
という理由は納得出来ます。
つまり,「人気=需要があったから」では無く,
「手間を掛けるのは無駄」という理由ですね。
ま,民営化後に「西持ち出雲」に復活しましたけれど。

>「北斗星5号・2号」の函館の時間帯がよかった
「鉄道ピクトリアル」昨年8月号掲載の「1989年7月21日付時刻表」では,
5号函館発6時44分,2号函館発21時46分です。
函館と首都圏の旅客流動のデータを持っていないのですが,
私が「今更」謎に思うのは「下り」です。
函館着で見ると,「時間帯が中途半端」に感じられるのです。
東が夜行列車に大ナタを振るった「後」の
1995年夏の時刻表が手元にあるのですが,
当時客車に「復帰」していた「はくつる」と「日本海1号」を乗り継ぐと
函館着は11時16分。
「差」が空き過ぎです。
電車時代の「はくつる」で「海峡1号」に乗り継いでも
9時30分は過ぎていた筈。
青森は無視=そもそも経由しない,
としても函館着が7時30分から9時くらいの
上野―函館列車はあっても良かった気がするのです。
また,この区間の列車ならJR北海道にも利点があったのでは,と思われます。
JR東日本区間を長く走る列車ですから,
客車なら尾久所属の車両が使用されたことでしょう。
渡道し,更に先へ向かう乗客は気動車特急に乗り換えれば良いのです。
即ち「役割分担」です。
JR北海道の気動車特急を知った乗客は,
次回は飛行機で千歳に降り立ったとしても,
そこからまた鉄道を利用するかもしれません。
経営基盤の弱い北にとっては,
函館止まりの列車があった方がむしろ「宣伝」になったのでは。
前述のように「持ち出し経費」も少ないですし。
また,これは自分の経験でもあるのですが,
1998年10月に「北斗星5号」と「宗谷」を乗り継ぐ予定で乗車していたら,
前日の遅れが回復せず間に合いそうもありません。
車掌に申し出たところ,「東室蘭で降りて,
『北斗3号』と『スーパーホワイトアロー9号』に乗り継いで」と言われました。
結局,旭川で「勿論」間に合ったのですが,
残念ながら特急とはいえ客車の実力はこの程度ですから,
「敢えて」函館発着列車は設定しておくべきだった気がします。
そもそも「北斗星」はいわば「普通の人」は無視して設定した列車でしたので,
より「現実的」,と私は思いうのです,
函館発着の方を主力にしておけば,新幹線渡道後の今日でも
「車両の老朽化」という「わけわからん理由」などで廃止されること無く,
1往復とはいえ定期列車で貨物の合間を縫って存続していたのでは,
とすら思ってしまいます。
ま,もし残っていれば,電車寝台かもしれませんが。




 
 
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