倶楽部メモ(749)

平成28年 1月23日〜 4月10日

鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由の鈍行レ ・ 日中線の風景



投稿者

ED76109

投稿日

2016年 1月23日(土)21時50分19秒

タイトル

今年初めての投稿です

 今年もよろしくお願いいたします。「ED76109」でございます。

 いつもの通りの後追いですが、
「昭和48年6月発行のJTB時刻表」から話題になっています「ながさき」
(昭和48年当時は、ただの1421レで、B寝台は
始終着及び沿線の主要駅のみの販売)ですが、時刻は下記のとおりです。

 門司港22:38→門司22:45→小倉23:02→博多0:45
→鳥栖1:35→肥前山口2:51→早岐4:10
→(佐世保4:46)→諫早5:37→長崎6:41

 長崎着を有効時間とするために、「大村線経由」で運転しています。
 なお蛇足ですが、当時は「1421レ」以外に、
「101レ(かいもん3号 西鹿児島(博多経由)行」が
21:39発(西鹿児島着5:50)。
そして、「501レ(みやざき号 西鹿児島(大分経由)行」が
22:24発(宮崎から普通レ 西鹿児島着9:39)の
2本の急行レが運転されておりました。
さらに、「47年3月改正」以前は、「鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由」の
「都城行」鈍行レも運転されていたはずであります。

 長々と失礼いたしました。
 以上、「カレチ」のストーリーに爽やかな感動を覚えた
「中年教頭客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

三次淳

投稿日

2016年 2月10日(水)12時58分23秒

タイトル

急行さぬき

小生が昭和43年秋に見た時、
EF61一般色、オハネフ12青・スハネ16青×8・オシ16青・スロ54青
・オロネ10青・スハニ35茶(アルミサッシ)・オユ12茶でした




投稿者

マロネロ38

投稿日

2016年 2月12日(金)13時49分8秒

タイトル

133-134レですか?

ED76109教頭先生;

>>鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由」の
>>「都城行」鈍行レも運転されていたはずであります。
133-134レの事ですね?昭和44年だったと記憶しますが、
確かにこのルートの夜行列車が
運転されていました。
鉄道友の会の撮影旅行で一勝地付近でC57牽引の133レを撮影していますが、
夏とは言え早朝なので機関車も客車も真っ黒けです。

戦後出来た京都-博多、都城準急(日豊本線経由)とか面白い列車がありました。
並ロが博多編成よりも都城編成の方が良くて昭和29年にはオロ35近代化改造車、
博多のロが(最初オロ31でしたが)29年7月にはスロ34ダブルルーフで、
宮島見物からの帰途宮島口駅からロを張り込んだら
なんとやってきたのはスロ341でした。

薄暗い方が返って転寝できましたが、
ガラガラで三ノ宮駅で下車時に約10名ほどの乗車でした。
3等は設定時から激込みで利用率が相当高かった準急でした。




投稿者

ED76109

投稿日

2016年 2月13日(土)22時49分36秒

タイトル

ガキのころに乗りたいと思ったレです!!

 ご無沙汰しております。「ED76109」であります。


 マロネロ38様
  ご無沙汰しております。季節柄、ご自愛くださいませ。

  >133-134レの事ですね?
   その通りです。
小学3年生ころ(47年3月改正以前)に、時刻表で「乗りたいなあ」
とうろ覚えながら意識していた「鈍行レ」の一つです。
昭和46年の8月に、「肥薩線の混合レ」を「鉄親父」と制覇した後に、
「西鹿児島行の鈍行レ」の中で道連れになった学生さん
(今は65歳前後の鉄の方々)が「前の日に、門司港から乗ってきた」
話をしてくれて、乗ってみたいと思ったものでした。

   今回は、同時期に印象の残っている「鈍行レ」について、
少々戯言させてください。

  1 トホホセでは、ED75が当時客車レを牽引していたことは、
先達の方々には多弁の必要はないと思います。
長距離鈍行も数多かったのですが、小生が制覇を夢見たのは「228レ」
(だったと思います)。
青森を10時過ぎに出発して、仙台が20時半過ぎで夜行区間に入り、
常磐線経由で終着の上野に5時前に到着するという代物。
奥羽本線経由で「上野・青森」を直通していた鈍行レもあり、
何とかして乗ってみたいなぁと思っていました。
恐らく、「EF80」や「EF57」で
「上野口」が賑わっていた時代でありました。

   2 「山陰本線」は、小生何度も訪ねた旧客王国でした。
「山陰」号の想い出は、先達の皆様方から数限りない逸話を、
本サイトでもお目にしておりましたが、
「47年3月」以前は、「山陰」の列車名はついていませんでした。
しかし、終着は「出雲市」ではなく、「下関」。
京都からの「B寝台」は出雲市止まりであり、
DD54に牽引されたこともあったのでしょう。
確かダイヤは、「京都発が22時ごろ」で「出雲市が9時半過ぎ」。
そして、終着の下関は「18時30分ころ」だったはずでありました。

   3 何度も話題になっていましたが、
「トホホセの名門鈍行レ」と言えば「143レ」。
東京発が「23時30分」で、名古屋が「6時33分」、
終着の大阪が「10時58分」。
「マルキュウ列車」の別名が有名であったのであります。
しかし、小生が物心ついたころは、すでに「大垣鈍行」でしたね・・・。
しかし、小生が持っている「赤い腕章(国鉄車掌物語) 壇上完爾氏編」の記載から、
当該レのカレチ氏たちの所属車掌区は「米原車掌区」だったとの記述があります。
「品川車掌区」でも「大阪車掌区」でもなかったということは意外でしたが、
逆に何か小生はうれしく感じております。


  長々と失礼いたしました。
以上、久しぶりの鈍行の思い出話が楽しい「教頭客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

だめおやじ

投稿日

2016年 2月20日(土)10時36分55秒

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団体列車で運転

3月で廃止される寝台特急カシオペア号ですが、
後に団体列車として北海道へ運転される事になりました。
青函トンネルは後に新幹線電圧で今のED79は使用出来ませんが
JR貨物のEH800を借りて運転するそうです。
カシオペアが北海道へまだ行くのはファンとしてはうれしい限りです。
ただ、切符を取るのは至難の技になると思いますが。

あと、カシオペア号の最後の切符も発売と同時に完売になりました。
ほとんどの人が取れなかったと思いますが。(私は諦めてました)




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 3月16日(水)14時11分1秒

タイトル

日中線の風景

昨年12月に発売された写真集「汽車のあった風景 東日本編」(交通新聞社刊)に、
仙コリ様ゆかりの日中線の熱塩駅と会津加納駅の風景が収録されています。
(P.112・113)
C11が客車2両と貨車1〜2両を牽く混合列車が1日3往復するだけの路線でした。
私もSL末期の昭和49年に訪れているので懐かしいです。




投稿者

ED76109

投稿日

2016年 3月20日(日)19時32分16秒

タイトル

永久の旅立ちへ・・・

 おばんでございます。「ED76109」であります。

 先ほど、昨年8月に「北斗星」を見送った札幌貨物センターの端で、
「カシオペア」を看取って参りました。
今回はどういうわけか、愚妻と愚息が「親父に付き合ってやる」
とのことで同行してくれました。
体調を崩してしまって、
今では外出もままならぬ「鉄親父」の名代とでも言いたげな愚息は、
何度も札幌で「カシオペア」から降りてきた「爺々婆々」を
思い出している風情・・。
 「北斗星」の旅立ちの日とは、比べるべくもないほどの寒風が吹きすさび、
雪も舞いだしてしまう始末。
天候は最悪でしたが、多くの方々が線路端に集って、
最後の「定期寝台特急」を見送ろうと寒空に耐えておりました。
「ピー」と短笛が一声。「あれね。」と隣に並んだ妻の声とともに、
DD51が姿を現しました。
乗ったことがなかったので、
クールな見送りにしようと小生は考えていたのですが・・・。
手を振って「ありがとう」と叫んだ小生に、
「ピー、ピ」と機関士氏が粋な返事をしてくれた途端、
また頬を熱いものが流れてしまいました。
これが最期なのだ。
もう、夢と浪漫を与えてくれた「寝台特急」は二度と鉄路に姿を見せることはない。
最後尾のロビーカーから、手を振る人々の姿に思わず涙してしまいました・・・。
 醒めた愚息も「親父、カシオペアに付き合ったんだから、
『はまなす』を見送ってやるべし。」と一言。
愚妻も「何か、かっこいいよねぇ。パパが感動したのもなんとなく分かる。」
としんみりした様子でありました。
 ありがとう、そしてさようなら。
永久の旅へと旅発った「カシオペア」をぜひ、
多くのファンに沿線で看取っていただきたい。
そんな思いで一杯であります。
無事故で上野へ戻ることを、心から祈念する
「教頭客車鉄ちゃん」の「戯言レポート」でした。




投稿者

仙コリ

投稿日

2016年 3月20日(日)20時52分51秒

タイトル

Re:日中線の風景

クモイ103様

情報ありがとうございます。
本日書店で探して見つける事ができました。

以前書き込みした通り、母の実家が会津加納駅の近くにあり、
SLを見たり熱塩駅までの往復乗車をしたりした記憶があるのですが、
いかんせSL牽引の廃止が小学校低学年の時であり、
まだ鉄に目覚める前なので、非常に残念ながらおぼろげな記憶しかないんですよね。

これも以前書きましたが、鉄道に関する最も古い記憶は、
磐越西線中山宿付近を爆走するSL(たぶんD51?)牽引の貨物列車の雄姿で
(たぶん昭和47年頃)上記日中線とあわせた2点が
私の鉄道趣味の原点であるのかもしれません。

母が他界してから10年以上経つので
実家を訪ねることもなくなってしまったのですが、
今でも近くを通ると日中線記念館(旧熱塩駅)は必ず訪ねるので、
もうすぐ桜が咲く季節ですので、
久しぶりに会津加納駅跡にも訪れてみようかと思います。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 3月22日(火)20時02分29秒

タイトル

Re2:日中線の風景

仙コリ様

日中線は私にとって、現役時代のSLを撮影しに行った唯一の線区なので印象深いです。
中学生の時でした。
その後DL時代と廃線後に1回ずつ、合計3回訪れています。

喜多方の次の会津村松駅で定点撮影していますのでお目にかけます。
 1・2枚目:1974(S.49)年9月 夕方の623レ到着
 3・4枚目:1978(S.53)年12月 夕方の623レ到着
 5・6枚目:1990(H.2)年8月 同じ場所(背景に同じ家が写っています)
             そして並行する道路を走る代替バスの到着

ただ3枚目を撮ってからも既に20数年が経っていますので、
今はどうなっているでしょうね。








投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 3月22日(火)21時28分58秒

タイトル

客車関係の書籍

最近発売された書籍つながりで、気になったものをご紹介します。

・客車の迷宮(著者:和田洋 発行:交通新聞社)
サブタイトルの「深淵なる客車ワールドを旅する」の通り、
趣味の対象としての客車の様々な側面を網羅した、読み応えのある内容です。
新聞輸送の現場の様子がとりわけ詳しく描写されているのは、
大手新聞社に長年勤めた著者ならではのものですね。
それでいて初心者にも配慮した入門書的な性格も併せ持ち、
客車列車に馴染みのない世代の方が増えた
現代に適応した客車の本と言えましょう。

こうした「客車入門」的な記述は、
鉄道ピクトリアルNo.885(2014年1月号)【特集】客車の時代 でも、
岩成政和氏が労作「旧形客車探訪のしおり」を披露されていますが、
ちょうど本日、急行「はまなす」の終着駅到着を最後として
JRの定期客車列車が消滅した現在、客車を語り継ぐことに
私たちもますます力を入れていかなければ、と感じる次第です。

というわけで話のついでにちょっと宣伝… ネコ・パブリッシングから
「RM LIBRARY 200 日本の展望客車(上)」が発売されました。
上記の和田洋氏を含む、鉄道友の会・客車気動車研究会のメンバー多数が
総力を結集した渾身の作です。私も関わっていますので、
客車の歴史に興味のある方にお役に立てれば幸いです。


【前書き込み「Re2:日中線の風景」の訂正】
> ただ3枚目を撮ってからも既に20数年が経っていますので、
→3枚目でなく5・6枚目です。失礼しました。




投稿者

たくたく

投稿日

2016年 3月31日(木)11時01分32秒

タイトル

ベンチレーターの色について

私は約10年前にオユ14の屋根の色を質問した者です。
また、旧客の先輩方にご教示いただきたいのですが、
ベンチレーターの色は何色で塗るのが正しい、
あるいは、現実味があるのでしょうか。
写真を見ていて、光線の具合によるのか、
かなり幅があるように思われ、逡巡しております。
先輩方、宜しくお願いいたします。




投稿者

雪だるま

投稿日

2016年 4月 3日(日)03時50分56秒

タイトル

はまなすの寝台車

はまなすの運転が終了して、すぐに苗穂工場、苗穂運転所に
スハネフ14、24系ハネフが集められています。
北斗星の時も早かったです。

郵便車のベンチレーターの色ですが、オユ11を見ると明るいグレーです。
屋根のグレーと同じです。
参考までに。








投稿者

YU

投稿日

2016年 4月 9日(土)16時33分27秒

タイトル

大ミハの25形

 こちらでは初めて質問させていただきます。よろしくお願いいたします。
 EF65-1118の模型を買ったので、お供に「銀河」の末期の編成を揃えようと思い、
調べ始めてふと気になったことです。

 「銀河」「日本海1/4号」ともに同じ宮原の25形
(但し、銀河はオロネ24、日本海はオロネ25-300)を使っていて、
2004年頃だとハネ・ハネフの0番台と100番台がほぼ半々の配置となっています。
ところが、本やネットで編成例を調べると、
それぞれ0番台・100番台が半々になる訳でなく、
「銀河」のハネは100番台多数でたまに0番台、
「日本海」のハネは0番台多数でたまに100番台と、
かなり使い分けが意識されているように見えます。

 青函対策が施されたであろうカニ24はまだしも、ハネは定員も同じで、
耐寒耐雪の点で使い分ける必要を生じる程の差があるように思えず、
また「瀬戸」由来のKE70ジャンパ栓絡みと考えても、
オロネ24やたまに混ざる0番台をどうしていたのかなど、
考えれば考えるほど良く判りません。

 もし詳細ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますでしょうか。
 よろしくお願い申し上げます。




投稿者

赤まんと

投稿日

2016年 4月10日(日)20時42分31秒

タイトル

末期の「日本海1、4号」と「銀河」編成について

YUさま初めまして。
末期の宮原の24系編成についてのご質問にお答えします。
当時私は頻繁に東京駅で「銀河」の編成記録を取っていました。
並行して、大阪在住の友人から、
「日本海」を含む大阪口ブルトレの編成記録が送られてきていました。
西日本から公式の発表の事実はありませんが、
年間100本近い記録から分かったことは、
2002年後半頃から、「日本海1、4号」と「銀河」は、
半ば編成が固定化されていたことです。
この固定編成も、2006年3月下旬から「銀河」2号車に、
「あさかぜ」のお下がりのオハネフ25が組み込まれるようになり、
徐々に解消されていくのですが。
半ば編成が固定化されていた時期の代表的な編成を以下に記しておきます。

「日本海1、4号」

パターンA

カニ24 104
オロネ25 301
オハネ25 46
オハネ25 79(洗面台更新)
オハネフ25 142(洗面台更新)
オハネ25 73(洗面台更新)
オハネ25 75(洗面台更新)
オハネ25 77
オハネフ25 40(洗面台更新)


パターンB

カニ24 106
オロネ25 305
オハネ25 45(洗面台更新)
オハネ25 71
オハネフ25 136(洗面台更新)
オハネ25 74
オハネ25 76
オハネ25 78
オハネフ25 42(洗面台更新)

それぞれ、1、2号車と、5〜7号車の順列入換え有り。
8号車はオハネフ25 46、47のことも多く、
カニは108、トワイライト用のこともありました。
往復2,000キロのロングランのため検査の為の差し替えも多く、
100番台や予備の0番台が入ることも。
オロネは予備車が無いため、検査時は京都からオロネ14を借り入れて対応
(引通し対応工事を98年に実施済)



「銀河」

パターンA

カニ24
オロネ24
オハネ25 158
オハネ25 161
オハネ25 175
オハネ25 251
オハネフ25 131

パターンB

カニ24
オロネ24
オハネ25 160
オハネ25 167
オハネ25 176
オハネ25 252
オハネフ25 132

カニ24は主に11と103を使用。
運用の都合で108、または「日本海」運用主体の104、106や
トワイライト用が稀に入ることがありました。
オロネ24は6、102、103を効率よく運用。
どの車がパターンA、Bに入るか明確な法則性は見出せず。
2〜5号車はそれぞれ順列の変更有り。
「日本海」「銀河」ともに。
増結が計画されたときは上記以外の予備車が充てられました。
「日本海」はやはり特急だからなのか、
洗面台更新車を優先的に使用する傾向が強く
、あまり「銀河」には運用を回していない印象がありました。
なお、パターンA、Bの呼称は便宜上つけたものです。
客車である以上、イレギュラーは多々あり、
「日本海」主体に組まれる車両が一切「銀河」に使われなかったかといえば、
そんなことはなく、年に数回、洗面台更新車が「銀河」に入ったりしていました。

手許には当時の「銀河」「日本海」の編成記録が、かなりまとまった数あります。
もしご希望であれば、実際の記録を紹介することができます。




 
 
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