懸案の疑問があり、諸兄のお力をお借りできればと思い、
初めて書き込みさせて頂きます、IDIと申します。
宜しくお願い致します。
かなり以前に他の掲示板で話題になったのですが、
いま話題の上野東京ラインこと上野-東京回送線で、
実は戦前より東海道線の列車を回送として
尾久に収容するが計画があったという話です。
東海道線は当時電化されていましたから、その為東京-尾久間も電化され、
尾久には電機用にトラバーサー付の機関庫(修繕庫?仕業庫?)
まで用意されたという自分にとっては驚きの話でした。
この計画は実際には、
・運転の管轄が新橋・上野両運輸事務所にまたがる事、
・冬期東北方面列車がダイヤの乱れで東海道列車が影響を受ける事、
・東北線の電化計画がおくれていること
等の理由で実現しなかったようですが、
ただその後も細々とは行われていたようで、
戦後も(昭和30年代?)明星・月光・阿蘇当たりの
東シナ持ちではない列車の一部が、
東京到着後品川ではなく尾久へ回送されていたとの事でした。
そこでお聞きしたいのは、戦後のいつ頃のどの列車が尾久へ回送されていたのか、
運用表等をお持ちで具体的にもしわかるようでしたら御教授頂けないでしょうか。
不躾な質問で恐縮ですが宜しくお願い致します。
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