おばんでございます。「ED76109」でございます。
EF6113様
>今も70年代中頃の鉄道ファン誌をよく眺めております。今のファン誌より面白いのはどうしてでしょうか
ご無沙汰しております。「ED76109」でございます。正直、小生も同じ思いを抱いております。
小生は、「長距離レの存在」に他ならないと思っております。
長い時間を「PC」等に揺られて、日常の風景とは全く異なる眺めを楽しみ、その土地の人々との出会いに心を抱く・・・。
「新幹線」にはない旅情が、昭和には存在していたように思われます。
恐らく、小生と同世代(小生は「兎の早生まれ」)と思われますので、久々にそんな「戯言」を述べさせていただきます。
1 「鉄」親父に連れられて「PC銀河」に初めて乗車したのは、「昭和45年の銀河51号」でありました。
当時は、「銀河1号」が「21:45頃発の大阪行」。
そして「銀河2号」が「22:45頃発の姫路行」で、「銀河51号」は全車自由席で「22時頃発の大阪行」。
何度も記していますが、「スハフ42」で「ヒーター」の調子が今一つで、
「冷蔵庫」から「蒸し風呂」までの気温変化を体験致しました。
しかし、時代が鷹揚だったのか、誰一人文句を言う客は一人もおらず、「臨時レなのだから当たり前」といった雰囲気。
しかし、この頃は「出雲」や「多層仕立ての紀伊」は急行であり、「呉線のC62」が有名だった「安芸」も存在しており、
「東京駅のフォーム」は「回転式の発車案内表示」と併せて、独特な憧憬を小生に感じさせてくれました。
2 昭和48年当時の「鉄」仲間たちは、大抵の日曜日は月一回の割合で
「東京発着のブルトレ」か「上野発着のEC特急群」に「撮り鉄」しに、赴いていた記憶がございます。
小生も誘われて同行したことがしばしばでありましたが、「上野」に同行する場合は、
確か「原ノ町」や「福島」からの「旧客鈍行」を一人で眺めておりました。
当時は「トホホセ」にも「仙台」や「福島」からの「鈍行レ」が存在しており、
中学生になってからは生き残った「常磐線の旧客鈍行レ」に親しむようになりました。
小生が贔屓にしたのは、東北を代表する「赤べこ」達。
「ED75」や「EF80」の件の「甲高いホイッスル」に心をいつも揺さぶられ、
「須賀川」や「鹿島」辺りで折り返しの「上り上野行鈍行」を待つ間、
「待合室」で時刻表を眺めて過ごす時間は、一端の旅人気取りでありました。
3 「西イイ」が合理化で姿を消したのは、昭和50年の春だったと記憶しております。
中央東線の「旧客」には、ほとんど縁遠いものでした。
唯一度だけ、朝一の「421レ」で「長野」まで向かい、「EC信州」で「上野」に戻ってきたことがありました。
昭和49年の春のことであります。
当時は、「EF64」に牽かれて「高尾・笹子」や「甲府・小淵沢」等の勾配線区を、小生楽しんでおりました。
その後、「ワンゲル」を始めたおかげで、「115系のスカ線色」には幾度と無くお世話になりました。
「113系の湘南色」と併せて、「EC鈍行レ」に親しんだのは、昭和50年代の後半。
「山陰」や「東北」の「旧客紀行」は、夏休みを中心に制覇して、
連休等に「品川」や「新宿」始発の「EC鈍行」を制覇しておりました。
長々と失礼致しました。
以上、小学6年生の時に「上り桜島・高千穂のカレチ氏」に「さよなら乗車をしに着た」ことを大演説した、
「中年客車鉄ちゃん」でありました。
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