倶楽部メモ(658)
平成23年 6月 5日〜 6月18日

またまた日中線 ・ 『C62ニセコ』について


投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 6月 5日(日)16時20分10秒
タイトル またまた日中線
最近の流れと無関係の話題ですみません。
仙コリ様は日中線の会津加納駅にご縁があるのでしたね。
最近ネコ・パブリッシングから発売された「わが国鉄時代 Vol.6」に、1973年10月23日に撮影された同駅の画像が
P.38-39見開きで大きく掲載されています。
C11が貨車1両と客車2両を牽く朝の上り列車が停車中、ゆっくりと線路を歩いて人が集まってきます。
3本見える側線のひとつにも貨車がいます。

蒸機時代の末期とDL時代に1回ずつ日中線を訪れましたが、会津加納だけ降りたことがありません。
本の画像を載せるわけにはいきませんので、恥ずかしながら私が写したものを。
1974年9月、会津村松駅に進入する623レです。
写真の出来の悪さは中学1年生の作品という事で大目に見てやって下さい…




投稿者 仙コリ
投稿日 2011年 6月 5日(日)22時57分7秒
タイトル Re:またまた日中線
クモイ103様
>仙コリ様は日中線の会津加納駅にご縁があるのでしたね。
覚えていていただきありがとうございます。

日中線は私にとって現役時代の蒸気機関車牽引列車唯一の乗車経験路線なのですが、なにぶん
小学生(3年生頃?)であり、まだ鉄道趣味に目覚める前なのでおぼろげにしか記憶が無いの
ですよね。(なんともったいない(泣)
母の実家が会津加納駅のそばだった・家の窓から線路が見えたという2点は確実なのですが
駅構内が見えたような見えなかったような?
会津加納駅と熱塩駅の間を往復乗車したのは確実ですが、誰と乗ったのか(祖母はいたような)
熱塩駅で機回しを見ていたような見ていないような?
小さかったとはいえきちんと覚えていないのが非常に悔しいのですが、まったく鉄道趣味に
目覚めていない時期に確実に記憶に残っているのがそれだけインパクトがあったのか?
いずれにしても、これも前に書いたと思いますが磐越西線の中山峠付近を力強く上っていく
D51?牽引の貨物列車を見たのと、どちらかが私の記憶上もっとも古くから残っている鉄道
の風景であります。

会津加納駅についてですが、終点熱塩駅の一つ前の駅ではありますが、当時貨物輸送はこの駅
までだったようなので、比較的構内が広かったのではないかと思われます。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 6月 6日(月)08時55分59秒
タイトル 色々な意味で壮大な青蔵鉄道
▼ED76 109様:
> 途中区間には「タンラ山脈」を超える、海抜 5,072mの「タングラ峠」があり

拉薩(海抜 3,650m)に向けて一方的に登坂が続くかと思えば、然に非ざるのですね。
地図を改めると、拉薩は意外にも、バングラディシュのデルタ地帯を、ガンジス川と
共有している、ブラフマプトラ川の流域に属しているのが判ります。

唐古拉峠より以東は、上海を河口とする揚子江・ベトナム領を河口とするソンコイ川
およびメコン川、ミャンマー領を河口とするタンルィン川、およびエーヤワディー川、
これらが比較的近距離で並行しつつ深い谷を刻む、中国(雲南省)ミャンマー国境の
山岳地帯より、更なる上流側を掠めており、海抜が 5,000mを超えるのも頷けますね。

> 辺境地の開発と実効支配の強化のために「鉄路」を利用している意図

そもそもの建設動機が、対辺境地政策に基いた流通導線の確保にある、とする見方が
取り沙汰されていますね。経済的な「ストロー効果」を伴う新幹線の延伸とは、些か
次元が異なりますが、長野新幹線の開業が、冬季五輪開催を一大契機としたかの如く、
拉薩への到達時期が、北京五輪開催の二年前だった辺りも、何やら必然性が窺えます。

> 鉄路は「ネパール」国境を越え「カトマンズ」まで延伸される計画となっており

同国唯一の鉄路である「ジャナクプル鉄道」では、改軌した上、インド国鉄との直通
運転構想がある様ですね。その事との関連性は不明ですが、中国側によるカトマンズ
直通構想にも、戦略性が感じられます。ヒマラヤ山脈をどう克服するか判りませんが、
ヒンドスタン平原との標高差を考えると、カトマンズ到達に関しては、この方が案外、
実効的なのかも知れません。



投稿者 よっしー
投稿日 2011年 6月 7日(火)15時53分39秒
タイトル 『C62ニセコ』について
すみません,NゲージでC62ニセコ号を作っているのですが,スハフ44とスハシ44に書かれていた標記が
車番と『札ナホ』の区名標記以外解りませんでした。
どなたかご存知の方教えて下さい。



投稿者 ED12
投稿日 2011年 6月 7日(火)19時48分47秒
タイトル 再々再リニア新幹線
現在の新幹線の10倍は電力を食い、そのため2基の原発が必要といわれるリニア新幹線。
JR東海はその電力をどう賄おうとしているのか。
百歩譲って、自助努力で自然エネルギーを開発しリニアを動かすというのなら納得する。
反対に中部電力が浜岡に原発をさらに2基増設など国民が許さないだろう。
原発人災に真っ二つに殺されつつある常磐線に涙しつつ憤りがこみ上げてくる。
何度も言う!東京〜大阪1時間にどんな意味があるだろうか。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 6月 7日(火)20時53分50秒
タイトル 日中線の貨物営業
仙コリ様

以前入手していた鉄道公報のコピーにこんな記事がありました。
何かのご参考になればと。

鉄道公報第2336号(昭和32年6月29日(土曜日))より
****************
●日本国有鉄道公示第262号
 昭和32年7月1日から日中線会津村松、上三宮、会
津加納及び熱塩停車場の営業範囲を下記の通り改正す
る。
 昭和32年6月29日
         日本国有鉄道総裁 十河 信二
 停車場名  改正営業範囲     現行営業範囲
 会津村松 旅客          一般運輸営業
 上 三 宮 旅客          同
 会津加納 旅客、到着手荷物及び車 同
      扱貨物
       但し、配達はしない。
 熱  塩 旅客及び到着手荷物   同
       但し、配達はしない。
****************

ただ、これによると昭和32年に貨物営業が廃止されたはずの会津村松で、
昭和53(1978)年12月に私が訪れた時、貨車の入れ換えが行われていました。
駅自体は完全な無人駅でしたが、すぐそばに日通の事務所がありましたので、
貨物営業を委託していたのでしょうね。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 6月 8日(水)21時04分54秒
タイトル ニセコ号の編成についてです!
  おばんでごさいます。「ED76109」でございます。


 よっしー様

 初めまして。「ED76109」と申します。
産は東京でありますが、現在は「時計台の街」の高校に勤務しております「中年客車鉄ちゃん」であります。

 お尋ねの「ニセコ号」の編成に係り、サイト等を精査しましたところ、
次のような車番と判明いたしましたので、ご報告させていただきます。

 「C623」+「スハフ44 7」+「スハフ4427」+「スハシ44 1(スハフ44 2」
  +「スハフ4411」+「スハフ44 6」


 復活した「ニセコ号」は、昭和63年4月に運転を開始し、平成7年11月まで「山線」を走っておりました。
現在は、「C11207」牽引により、運転が再開されております。


 以上、「戯言」情報でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 6月 8日(水)21時18分14秒
タイトル Re: 『C62ニセコ』について
よっしー様が求められている情報は、
例えば換算重量、定員、検査、エンドなどといった
「車番・区名以外の標記」ですね。

かつて在来型客車が現役だった時代ならある程度わかるのですが、
現在の保存車両の場合、各鉄道会社独自の解釈でアレンジされていると思われるため、
残念ながら私は手が出ません。
現物の写真をあたるしかないのではないでしょうか。

情報お持ちの方がおられましたらフォローをお願いします。m(_ _)m



投稿者 通りすがり
投稿日 2011年 6月 8日(水)22時29分43秒
タイトル ニセコ
印画紙からスキャンしたので、この程度のものしかありません。

--------------------------------------------------------------------------

画像ファイルを貼り付けたつもりでしたが、うまくいかなかったようです。

1995.7のデータですが、
スハフ44 7 妻面に 形式 スハフ44
            自重 34.5t
            四角囲みの中に  5−3 ○○○○○

        上の方に「架線注意」のプレートもありあました。

写真が載せられず申し訳ない。



投稿者 きむたお(富山)
投稿日 2011年 6月11日(土)08時34分53秒
タイトル 小樽のニセコ
みなさまこんにちは。

法事のために一時帰国しています。

さて、自宅のパソコン内にかつて小樽で撮ったC62ニセコ客車の写真がありました。
残念ながら、各車を撮った写真はスキャンしてない(現在、スキャナは手許にありません)ため、
回送用のDE15が牽引する全体像だけですが、側面の標記は形式記号・番号、所属標記、定員、換算標記と、
昭和50年代の客車とあまり変わらない様子のようです。

1994/7/31、小樽にて。
*当時、C62が外れてこのDE15の牽引する姿に
かつての城端線・氷見線に直通する客車列車の姿がダブって感動したことを覚えています。




投稿者 ED76109
投稿日 2011年 6月13日(月)22時31分49秒
タイトル 「五能線」や「釧網本線」の「混合レ」
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 よっしー様を始めとする先達の皆様方

 小生のつまらぬ勘違いで失礼致しました。
ブルーの旧客が道内から消えて・・・。
「きむたお」様の「DE10」牽引の旧客を拝見しておりますと、客車の色や形式が異なりますが、
「五能線」や「釧網本線」のイメージを少し感じ入ることができるように思います。
しかし、小生が両線を「混合レ」で乗り潰したのは、もう27年も前のこと。
遠い昔のことであります。

 失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 6月14日(火)10時30分39秒
タイトル 城端。氷見線
きむたお様;
長らく富山へは行っていませんが懐かしい線区ですね。
兎に角オハ30,31、オハ二30、オハ61、オハフ61、オハ二61、スハ32、オハ3412
(特急富士の古でプロパーのラストナンバー)、オハ35等々をC11牽引で-----。
C11の戦設も居ましたし、夏など暖房不要の時期にDD13がPCを牽引したり-----
夏の氷見線海水浴臨がオハ31系の17m凸屋根車ばっかりの編成だったりで面白
かったです。

準急(飛騨)が高岡発着になって、(俗に正力ダイヤと言われて居た)早朝城端往復
アルバイトをしていたスジが、急行「加越」の高岡開放編成でも継続していました。

越中中川の有名進学高校(オバQ)と工芸高校(ドラエモン)が卒業したとかで---
朝夕は学生ラッシュ駅で。

キハ06をキサハに改造してキハ17で挟んだり、オハ17系客車を挟んだりの面白い改造は
氷見線主眼だったのじゃあなかったですか?

北陸新幹線が開業したら3セクに放りだされるみたいですが、北陸本線よりも早く
開業した元中越鉄道なのにJR西も冷たい会社です。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 6月18日(土)06時28分6秒
タイトル 正力ダイヤ
 おはようございます。「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 >俗に正力ダイヤと言われていた

  「DC白鳥」が往復とも「高岡停車」だったのは、読売新聞の幹部であった「正力松太郎氏」の要請があった
という話を小耳に聞いたことがございます。
「正力」氏は富山県のご出身とのことであり、郷土愛が成せるわざだったのでございましょうか。
小生にとっては、「北陸新幹線」の延伸に係り、「トワイライトEXP」の行く末が気になるところ。
「第3セクター」の路線で運転していただけることを信じておりますが・・・。


 さて、当地は連日「JR北海道」の不祥事が、ニュースを賑わしております。
「石勝線の脱線炎上事故」から始まり、「283系の不具合」、「乗務員の居眠り」
そして「追分駅の信号機トラブル」と話題には事欠きません。
今夏は、ある種「スリリングな鉄旅」を体験しに、「北の大地」を訪れてはいかがでしょうか。

 以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
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