倶楽部メモ(651)
平成23年 4月18日〜 4月28日

被災路線の復旧 ・ 鹿島臨海鉄道のDC


投稿者 雑魚
投稿日 2011年 4月18日(月)15時39分41秒
タイトル グーグル 空撮画像
> 解凍後の独特の味は小生「昭和の汽車旅」の象徴と思っております。

個人的には、独特のプラ容器に入ったパック式の緑茶を「緩衝用」として陣容を整え、
歯に凍みるのを堪えつつ、解凍前のシャーベット状態を頂くのが、基本かと心得ます。

> その先には開通の目途が立たない不通区間があるわけで、

新地駅で津波に流され、横転した電車の解体撤去が始まりました。報道映像を見ると、
架線柱も全て薙ぎ倒され、唯一残った跨線橋から、鉄道駅の存在が辛うじて窺えます。
なお「グーグル・マップ」に対応する空撮画像では、津波の被害域が高解像の画像に
更新されており、新地駅でも、車両の残骸が明瞭に視認できます。

常磐線では、富岡駅も津波で流失した様です。四ツ倉以北では唯一の複線区間となる
大野〜双葉(問題の原発の最寄区間)にて、大規模な築堤崩壊が発生している様子が、
報道写真で紹介されましたが、共に避難対象区域ゆえ、当分は手付かずと思われます。

常磐線から八戸線にかけての太平洋岸の路線における被災は、枚挙に暇がありません。
末端区間が、麒麟麦酒工場脇(構外)の林で、ひっそり途切れる様子(画像参照)を
好感していた、仙台臨港鉄道西港線もその一つで「グーグル・マップ」から、線路が
ビール箱と思しきを大量に含む瓦礫に埋没した様子が窺えます。ビールの鉄道輸送は
全国でも、今やここだけと存じますが、復旧の過程で、現在は使われていそうにない、
画像の構外側線は、剥がされるのかと勘ぐっています。

被災地域の貨物専用鉄道と云うと、岩手開発鉄道も挙げられますが、大船渡市界隈の
航空写真が不鮮明なので、状況は不明です。宮古では、閉伊川の河口付近で、津波が
市街に雪崩れ込む衝撃的な瞬間を、市役所の上階と思われる場所から撮影した様子が、
動画サイトに投稿されています。1992年「三陸博」の時でしたか、蒸気列車の運転が
行われた臨港線の跡は、丁度この決壊した堤防に沿った経路でした。

> 真ん中の新鉾田−大洋間がまだバス代行なのですね。

水田地帯ゆえか、北浦湖畔の築堤区間が崩壊しました。その後の一連の余震にあって、
鉾田では揺れが特に酷い様です。かかる事情も作用してか、外国人労働者が相次いで
帰国した為、せっかく熟した栽培苺が、収穫されず終いでした。農家の方も、さぞや
悔しい思いをされた事と拝察します。





投稿者 雑魚
投稿日 2011年 4月20日(水)17時23分36秒
タイトル 湊線の復旧
先日、湊線の復旧に関するTV報道を拝見しましたが、金上〜中根で、市街高台から
水田地帯へと下る勾配区間の築堤(画像参照)が大規模に崩壊したのですね。水郡線
常陸津田付近も同様の作風ですが、こちらは崩壊は無い様です。復旧に与する機材や
人材が限られる中、他線との整合性もあるのか、運転再開は七月半ば以降との事です。

田植え後の水鏡状態が広がる風致地区を走行する国鉄塗装が拝めないのは残念ですが、
一時は廃止も取り沙汰された経緯や、総延長が20km未満と、他線に比べれば、比較的
バス転換も容易と思われる状況を考えれば、復旧の決定、それ自体に感慨を覚えます。
なお、勝田・金上・那珂湊・阿字ヶ浦以外の駅では、バスの走行に適した並行道路が
見当たらない為、代行バスの臨時停留所の立地に苦心した様子が窺えます。

============================================================================

DJ誌の最新号で、土砂崩れの為、昨年の夏以来、運休が続く超閑散路線・岩泉線の
趨勢を案じる記述がありました。震災復興に関連して、他路線との予算の遣り繰りや、
並行国道における押角峠の改良次第では、可能性があるかも知れません。

一方、JR東日本では、沿岸区間で壊滅的な被害を受けた気仙沼線や大船渡線を含む
七路線について、時間を掛けても責任を持って復旧するとの、社長談話がありました。
既に南三陸町では、市街地を高台に移す再興計画が、宮城県から提示されている様で、
路線復旧も、それに対応した駅の移設が予想されます。

事実上、新規敷設に近い内容が予想され、これを機に「ドラゴン・レール」と称する
大船渡線の屈曲振りが(陸中門崎〜千厩は対象外としても)多少なりとも緩和されて、
快速「南三陸」を速達便として、より実効せしめる余地は無いのか、とも感じますが、
先ずは、鉄道輸送需要を喚起する為の沿岸自治体の再興、そして水産業に象徴される
地域産業の再構築が求められ、数ヵ年計画となるのでしょう。個人的には、物資輸送
導線の確保を兼ねて、先ずは三陸道の整備ありき、と感じます。

============================================================================

この大船渡線、私自身は殆ど印象にありませんが、一昨年の夏に、DE10が牽引する
24系の臨時列車が運転されたのですね。画像検索すると、陸前高田や大船渡の辺りで
海を背景に撮影した好ましい構図の作例も散見されますが、津波に蹂躙された沿線の
現況が現況だけに、痛ましく感じます。




投稿者 ED76109
投稿日 2011年 4月21日(木)21時43分50秒
タイトル 「鉄」の祈り! 東北本線開通へ!!
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 雑魚様

 >新地駅で津波に流され、横転した電車の解体撤去が始まりました

 小生も拝見いたしました。
JRの担当の方が「復興のきっかけとなるように、まずしっかりと取り組みたい」の言葉を伺いながら、
まず「一歩」を歩み出そうとしている被災地に、そして「常磐線」にがんばれという思いを新たに致しました。
被災映像では、「浜吉田駅」周辺の「交流架線柱」の長閑な映像とは裏腹な民家の倒壊映像に、
改めて被害の大きさを思い知らされた感がございます。


 >JR東日本では、沿岸区間で壊滅的な被害を受けた気仙沼線や大船渡線を含む七路線について、
 時間を掛けても責任を持って復旧する

 本日の道新に、宮城県内のJRに係り唯一「気仙沼線」のみが、開通の目処が全く立っていないとの記事が掲載され、
転校を余儀なくされた「高校生」や通院できずに持病の悪化を懸念する老婆の話が紹介されておりました。
交通弱者が今回の震災で浮き彫りにされており、小生歯痒さを覚えてならない思いであります。
しかし、一方「トホホセ」が本日「一ノ関・仙台」が開通し、約40日ぶりに全通となりました。
これで、「東京」や「北海道」からの物流による救援体制が確立され、一層の復興に拍車がかかると思われます。
「鉄」の力を大いに発揮してもらいたいものであります。

  長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 4月22日(金)10時33分40秒
タイトル ひたちなか海浜
雑魚さんの仰る様に線路の被害が相当ある様ですね。幸いDCが全部無事で社長さん
以下社員や黒猫おさむ君まで無事だったのが------。
社長さんが高岡の万葉線勤務時代からアイデアマンで、加越能鉄道時代に度々米島口や
庄川町車庫見学に行って居た縁?で応援しています。
早く復旧してまたイヴェント列車でも走らせて話題を振り撒いて欲しいですね。

但し悪質な「撮り鉄が線路や構内立ち入り」を無断でやっていると怒って居られ
ますが、お行儀の悪いのが横行するのは本当に困りますね。
悪質なのは「警察に引き渡す」そうですが、社長さんは万葉線時代に、地元の悪質な
ファンに絡まれた経験があるので(ここの記事までコピペしまくって居た奴です)
社長さんの気持ちがよく解ります。

以前映画「阪急電車」を観たいとメールをもらいましたが、復旧工事で超多忙なので
どうでしょうか?

余震や放射能でそちらも大変ですね。くれぐれもご用心ください



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 4月22日(金)18時11分52秒
タイトル 鹿島臨港線
▼ED76 109様:
> 宮城県内のJRに係り、唯一「気仙沼線」のみが、開通の目処が全く立っていない

御指摘の「転校云々」は、第一志望校に合格したのに、代行バスやスクール・バスが
覚束ない為、進学先を変更せざるを得ない、と云う話ですね。大学区制の下、越境も
珍しくなかった我が地元の感覚に従えば、下宿と云う選択肢もありますが、進学先の
気仙沼も被災地であり、止むを得ない決定なのでしょう。将来の進路を見据えた筈の
選択が反故になった事で、今後の人生が徒に翻弄されない事を、ただ祈るばかりです。

>「トホホセ」が本日「一ノ関・仙台」が開通し、約40日ぶりに全通となりました。

寝台特急は、来週半ばに運転を再開する様ですね。元々、行楽動機が強いと思われる
これら夜行便にあって、余震や原発問題が終息していない状況の下、今後の利用率は。
遠隔地志向の行楽動機を占う目安として、注目されます。

============================================================================

昨日、地元では鹿島臨港線(鹿島臨海工業地帯の貨物専用鉄道)の復旧作業の様子が
報じられました。成田空港向けのジェット燃料の暫定輸送が、パイプ・ライン方式に
変更されて以降、当該輸送措置の見返り措置として行われた旅客列車運行も廃止され、
かつては旧波崎町域にまで及んでいた末端支線も、次々と廃止。現在は、一日当たり
4〜5往復程度と、閑散路線の印象が強かったのですが、今回、復旧対象になった辺り、
物流導線としての地位は、まだまだ健在なのかと、感慨を覚えます。




投稿者 ED76109
投稿日 2011年 4月23日(土)11時35分52秒
タイトル 「北斗星」ウヤは5月15日まで!!
 おはようございます。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >寝台特急は、来週半ばに運転を再開する様ですね

  残念ながら、5月15日(「カシオペア」は5月16日まで)のウヤが決定致しました。
様々な情報筋からの情報では、「夜行区間での余震被害」が最大のネックのようであります。
その代わりと言ってはなんですが、「東北新幹線」及び「白鳥」は今月末の全線運転再開が決定致しました。
どうぞ、今年の黄金週間は「往路が新幹線と白鳥、復路がトワイライトと新幹線(解釈はご自由に!?)」でご来道ください。


 >成田空港向けのジェット燃料の暫定輸送が、パイプ・ライン方式に変更されて以降、
当該輸送措置の見返り措置として行われた旅客列車運行も廃止

  小生が高校1、2年の夏休みに「鹿島臨海鉄道」に関して「鉄研」で取材し、
結果学校祭で「研究発表部門の第5位」に輝いたことがございました。
「成田空港の燃料輸送の経緯と地域の足としての在り方」を中心とした「DC乗り鉄レポート」。
「183系あやめ・しおさい」で友人たちと往復。固いテーマでよく入賞したものだと、皆で驚きました。
ちなみに、第1位はアイドル好きの友人たちの「ピンクレディと引退キャンディーズ徹底比較!!」が輝きました
(男子校らしい企画でした)。
しかし、その時のアイドルのお一人であった「田中好子」様のご逝去の記事に、小生愕然としております・・・。

 長々と失礼致しました。
以上、「上りトワイライトEXP」に「長岡」で接続する「臨時上野行快速EC」の運転を夢見る
「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 4月24日(日)15時20分37秒
タイトル 更に 鹿島臨港線
▼ED76 109様:
> 残念ながら、5月15日(「カシオペア」は 5月16日まで)のウヤが決定

5月の、茨城県沖での M6.7 に始まり、6月「岩手・宮城内陸地震」7月「岩手県北部
沿岸地震」と、大地震が相次いだ2008年の場合(中国の四川大地震も同じ時期でした)
特急料金払い戻しを見越した徐行運転を以て 7月末には「カシオペア」「北斗星」は
運行を再開していましたが、先週、発売されたRF誌最新号では、東北線などの震災
直後の状況が細かく紹介されており、今回ばかりは「別格」である事が窺えます。

> 高校 1、2年の夏休みに「鹿島臨海鉄道」に関して「鉄研」で取材

かなりコアな内容ですね。唯でさえ少ない旅客便は、神栖駅の車両基地を基準とした
運用だった為、鹿島神宮側から乗り潰し往復するには、かなり不便だったと聞きます。

大洗鹿島線が開業する以前の鹿嶋界隈は、水戸勢から見れば「茨城にあって、茨城に
非ざる」気軽な往来が覚束ない印象の強い地域でした。この辺は、経済面や通学面で、
佐原(香取)など千葉県東総地方への帰属性が強いと言われ「ちばらき」という語も、
その産物と見られますが、港湾開発を機に、利根川を渡る陸上交通導線が確立された
60年代より以前は、石岡〜鉾田の路線が「鹿島参宮」を名乗った事からも窺える様に、
社会科の地域副読本の記述をして「陸の孤島」とまで言わしめた程でした。

その後、急速に市街化が進んだ神栖では、数年前、その商業集積振りから、県内でも
トップ・クラスの経済伸張性が認められると評価されています。市街開発が臨港線の
線路際まで及べば、恒久的な旅客化が見込めたものと、今でも感じます。

>「上り トワイライト EXP」に「長岡」で接続する「臨時上野行快速EC」の運転

愛好家としては食指も動きますが、高額な料金を負担する以上は、目的地の東京まで
直通して何ぼ、というのが、世間一般の利用動機ではないでしょうか。旅客の大半が
観光目的であるなら「カシオペア」「北斗星」羽越線迂回があっても良さそうですが、
今回はどうやら、度外視された様ですね。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 4月24日(日)17時31分23秒
タイトル 回送レに同乗しました!!
 度々お邪魔しております。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >鹿島神宮側から乗り潰し往復するには、かなり不便だったと

 当日は、東京地下駅の最後尾(総武快速)で待ち合わせ。
朝一の「ECあやめ」で「鹿島神宮」まで辿り、確か隣のフォームに停車していた「赤いDC(キハ系)」にそのまま乗車。
初老のカレチ氏に「車補」を切っていただきました。
「にぃちゃんたち、どこ行くの?」という「語尾が上がる微妙なイントネーション」で話しかけられて詳細を説明。
結果、「だったら車庫まで、乗っけてやっから。」とのご厚意に甘えて・・・ということでした。
大体、小生ら以外に乗客は皆無。そのまま、回送されて「神栖」で運転台のデッキから下車して事務所に案内されました。
お話を伺った後、オリジナルの「NゲージDC」を購入(学校祭のレイアウトで走行させる羽目になりました)して、
「銚子行の路線バス」が出る停留所まで送っていただきました。
これを「昭和53・54年の夏休みの終わり」に2度繰り返したのであります
(2度目の時は、事前に電話して「鹿島神宮のフォーム」でお迎えいただきました)。
同行した友人二人と3人で、「醤油工場」や「犬吠埼」を銚子電鉄で辿ったのも想い出です。
しかし、どこに行っても「カップル」ばかりが目につき、「大学入ったら絶対彼女と来る」と息巻いておりました(笑)。
2度とも快晴の真夏日でしたね。

 >「カシオペア」「北斗星」羽越線迂回があっても良さそうですが

 被災地の方々には、申し訳ないのですが正直期待しておりました。
そのために「競馬」が当たったと喜んでいたのに・・・(滂沱)。やはり、人の不幸の上には幸せなどはないのですね。

 長々と失礼致しました。以上、「JR」ならぬ「JRA」フリークの「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 4月25日(月)13時00分32秒
タイトル 銚子
▼ED76 109様:
> 同行した友人二人と3人で「醤油工場」や「犬吠埼」を銚子電鉄で辿った

昭和53・54年と云うと、ヤマサの専用線がまだ健在だった頃ですね。銚子駅から見て、
右に第一工場、左に第二工場の引込線が分かれ、その間を銚子電鉄が直進するという
愛好者垂涎の構図でした。銚子駅のホーム構造に鑑みても、銚子電鉄は「間借り」の
印象が強かったですね。

小学校高学年の時、貸切バスの遠足で、初めて、鹿嶋・潮来・銚子界隈を訪ねました。
社会科見学の一環として、上記第二工場も訪ね、案内係員の説明そっちのけで、荷の
積出場の頭端式ホームに屯するワムばかり眺めていた記憶があります。

同じ茨城県ながら、交流式の常磐線とは作風が大きく異なる鹿島線(うろ憶えですが、
茶色の旧型国電らしきを見掛けた記憶があります)や、神栖の高層ビルから俯瞰した
臨港線の操車場、犬吠埼付近で一瞥した銚子電鉄の「へろへろ線路」帰途、経由した
国道355号線から、霞ヶ浦を背景に 存分に堪能した関東鉄道鉾田線(当時)などなど、
私にとっては、鉄ネタ満載の思い出深い旅でした。

国道六号線を往復した東京遠足にしても、土浦市内の関東鉄道筑波線(当時)の踏切、
取手の麒麟麦酒工場のヤード、京成金町線・新金線と連続する都区部の踏切などなど、
刺激に満ち溢れたものでした。

> どこに行っても「カップル」ばかりが目につき「大学入ったら絶対彼女と来る」

卑しくも「鉄」の道を一意専心にて修めるべき立場を弁えず、女性の色香に惑うとは、
甚だ不届き千万なり。ええい、本所の「鬼銕」が成敗してくれるわ………と云う訳で、
最近「美食呑兵衛」の作風に共感して、某時代劇に執心中の雑魚でした。

掲出画像は、欧州から帰国する際の機内から俯瞰した、銚子の様子です。銚子電鉄の
経路が、多少視認できますね。宛ら「空から日本を見てみよう」の感覚ですが、実際、
同番組では、震災発生の前日に、銚子電鉄を特集しています。




投稿者 スイロフ
投稿日 2011年 4月25日(月)22時38分11秒
タイトル Re: 銚子
こんばんは、久しぶりに書き込みます。

>ED76 109様:
> 同行した友人二人と3人で「醤油工場」や「犬吠埼」を銚子電鉄で辿った

昭和53、54年頃は私もたまに銚子界隈に出没しておりました。
たしか昭和53年でしたか、外川駅の構内に客車が2両留置されているのを見ました。ハフ1、2ですね。
すでに廃車されていたようでしたが(調べたところ、まさにこの年に廃車でした)、
「銚子電鉄にも客車があったんだぁ」といささか驚いた記憶があります。
惜しいかな、翌年には外川駅にもどこにもいなかったので解体されてしまったのでしょう。
写真を撮ってなかったのが悔やまれます
(当時はあまり撮り鉄ではありませんでした。旧客も乗りには行ってましたが、写真はほとんど撮ってなかったです)。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 4月26日(火)23時36分4秒
タイトル 「キハ10」だったはずです!
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >昭和53・54年と云うと、ヤマサの専用線がまだ健在だった頃ですね

 スイロフ様
 >昭和53、54年頃は私もたまに銚子界隈に出没しておりました

 何か因縁(?!)めいたお話でございますね。
小生らは「銚子電鉄」目的よりは、「観光」目的という感じで「銚子」を訪れた感が強かったのであります。
ですから、「鉄の道を一意専心にて修めるべき立場」ではなかったと考えております(言い訳に過ぎませんね)。
小生は「乗り鉄」の際は、全くの「ものぐさ」ですので、スイロフ様のように「撮り鉄」は全く念頭にありませんでした。
しかし、今回色々と回想する中で小生の「鉄勉」と併せて、少々「戯言」させて頂ければ幸甚の限りであります。

----------------------------------------------------------------------------------------


 1 小生らが「乗り鉄」しました「鹿島臨海鉄道のDC」ですが、
今にして考えれば「キハ10(?)」だったように記憶しております。
同行した「鉄友人」の一人が、「これ、キハ10じゃない!」と興奮気味でした。
彼は、とにかく「DCファン」であり、当時はDC天国の「四国参り」を繰り返しておりました。
喧しい「ガジャガジャ・・・」というアイドリング音が印象的であります。
また、「鹿島神宮」を発車した直後に停車したのは「北鹿島」であり、スイッチバックして、
「神栖」「鹿島港南」と無人の鉄路を辿りました。
前述しましたが、小生ら3人の貸し切り状態。「何のために走らせているのだろう」と、皆で首を傾げたものでした。


 2 「キハ10系」は、寒冷地に適した装備を有して、北海道に導入。
「キハ11」として昭和31年、「旭川」から「宗谷本線・北見線(後の天北線です)」経由で、
「稚内」にまで極北の地を辿る「DC」運行が開始されました。
しかし、当初は気動車自体の投入が不足しており、「名寄」までは「DC2連」で旧客1両を増結。
難所の「塩狩峠」では「9600」を補機に連結して山越えするような運用があったとのことであります。
しかし、「雪の塩狩峠」を当該の編成が隘路を上る姿はどのようなものでありましょう。
小生、一度見てみたい衝動に駆られました。


 3 「鹿島神宮」は、「雑魚様、コスモス様のホーム」である茨城県であります。
一方、「鹿島線」のスタート地点である「香取」は千葉県であります。
実は、その千葉県と「キハ10系」を巡る因縁話がございます。
と申しますのは、「キハ10系の2・3等合造車」である「キロハ18」の投入は、
「総武本線」へのDC投入に際して製造されたのですが、
これは、千葉県庁と千葉市役所からの「DCにも『ロ』を連結してほしい」という強い要望があり、
やむなくこれに「国鉄」が対応したという経緯があったのであります。
これは、「官吏の出張に係る出張旅費は、『ロ』が連結されていれば、
たとえ『ハ』利用であっても『ロ』の旅費が支給される」という「規定」のためでありました。
ですから、「総武本線」用に配置された「キロハ18」は、直ぐに「関西本線」等の「準急」用に増備され直されました。
その際、扇風機が装備されて「ロ」のサービス向上が図られ、
当時「名古屋」と「湊町」を最短時間で結ぶ「都市間準急」に配備されたのであります。

 資料 「国鉄の気動車1950」(平成19年編 電気車研究会)等

 長々と「DCの戯言」で失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 4月27日(水)09時39分52秒
タイトル キハ10、キロハ18
ED76109先生:
キハ10ですが、あれは後年のJR西キハ120と同じで、短距離用でトイレが無く時々
中距離に入るので苦情があり、トイレ付きのキハ11が生まれました。寒地用は11101-
11111で正式の北海道用は昭和31年度のキハ121-1222です。
キロハ18は関西本線の準急「かすが」用でしたが、「ひだ」にも使用され、キハ26,
55の間に挟まった車体幅が狭いのが貧相な車でした。
一度名古屋→富山間乗車しましたが、扇風機の場所が丸い膨れ上がった天井で、8月の
乗車でしたが余り涼しくありませんでした。
それに座席がスロハ32並みの4人向かい合わせのボックスシートで、なんだかやっつけ
仕事然でした。

後年は「やしま」に使用されて最後はキユニ15、キニ15に改造されていましたが、
高松で撮影しています。

徳島のキハ11には内部マーブル調デコラ張り、扇風機付きの改造車がありましたが、
低い天井に扇風機なので、頭を打ちそうで背が高い私など通路で気を遣いましたが、
割に豪華な改造は、徳島‐小松島港のチョン行使用で、阪神方面や和歌山航路客船に
連絡して居たスジに入れていた為?かもしれません。

徳島‐小松島港間は当時国鉄以外に、徳島バス、徳島市営バス、小松島市営バスの
競争が激しく小松島港に船が着いたら「バスの客引き状態」でした。国鉄は徳島以遠行
の客が大半でしたが。



投稿者 ED12
投稿日 2011年 4月27日(水)18時54分26秒
タイトル 再度リニア!
「原発事故」でこれからの「日本の電力使用」を考えていかなければいけない時期に、
東京〜大阪1時間を目指して「リニア中央新幹線」の新駅の審議が着々と進んでいるという。
ところがリニアの電力消費量はなんと新幹線の3〜40倍だという!
ここには超伝導に使用するヘリウを超低温に冷却する大型の冷却器設備の電力使用は含まれていないという。
「東電福島第一原発」の事故は進行中である。
これから「節電時代」が何年も何年も続くと予想される中、
地上で「計画停電」「冷房禁電車」、地下で「東京〜大阪1時間のリニア」。
こんないびつな日本の交通政策で本当に良いのだろうか?
全国区の「国鉄時代」であればリニアを棚上げにしてでも、
まずは全予算と全人材、全資材を東北の鉄道輸送復活にかけたのではないだろうか?
「原発」もそうだが「リニア」もここで国民が本当に見直しを考える最後のチャンスではないだろうか。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 4月28日(木)23時56分57秒
タイトル DCの想い出
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 マロネロ38様
 >キハ10ですが、(中略)短距離用でトイレが無く時々中距離に入るので苦情があり

   小生が初めて乗車した記憶にあるのは、「八高線」の「キハ17(20?)」だったと思います。
昭和40年代の中盤、西武秩父線の「正丸隧道」を「鉄」親父と「乗り鉄」した後、
「秩父鉄道の御花畑」から「寄居」まで出て、確か「八高線のDC八王子行」に乗車致しました。
しかし、当日はうすら寒い雨の1日。薄暗い車内の雰囲気が幼心に気に入らなかったようであり、
DCに対して「親しめない意識」を持ったように思っております。
「乗り鉄」で全国に出かけていた頃は、味気ない「キハ58」や「キハ56」辺りに乗る度にため息をついておりました
(今にして思えば、贅沢な話であります)。

 しかし、「八高線」は今や「中央線快速EC」が乗り入れる通勤線であり、
同じく武蔵野の西環状の一翼を担った「川越線」には、「埼京線快速EC」が乗り入れております。
「キハ30」などが走り回っていたイメージしかない小生にしてみれば、
現状の2路線は想像もつかないものでございましょう・・・。

 またまた、「DC」の戯言で失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
「客車倶楽部」へ  
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから