倶楽部メモ(646)
平成23年 3月 6日~ 3月11日

中国の客車列車 ・ 青函連絡船運行開始の日


投稿者 きむたお
投稿日 2011年 3月 6日(日)17時02分12秒
タイトル 中国の客車列車(山東省にて)-その1
皆様こんにちは。
昨日、4日間にわたる出張から帰りました。

今回は指定席券が取れなかったために3本の列車で臥車(寝台車)に乗ることができました。
まずは、1本目。

2011/3/2
5026次(青島発、菏澤行き)
↑  DF4D0081(ディーゼル機関車)
菏(1)YW25B668676
澤(2)YW25B668698(済南東→聊城:乗)
 (3)YW25B668892
 (4)YW25B668702
 (5)YW25G674576
 (6)RW25G553586
 (7)CA25B892244
 (8)YZ25G345023
 (9)YZ25B342542
 (10)YZ25B342548
 (11)YZ25B345050
 (12)YZ25B345051
 (13)YZ25B342595
 (14)YZ25B341917
 (加1)YZ25B344100
   KD25G999222

*機関車塗色:紅/クリーム
*客車塗色:灰色に窓周り・裾が朱色

この列車は夜行ではありませんが、運用の都合で寝台車が連結され、ちゃんと寝台料金で発売されています。
乗車すると、すぐに乗務員(1両に1人乗っています)が来て、乗車票と寝台カードを引き換えます。
これは、本来、夜行で寝過ごし防止のために行う業務のようで、下車する少し前には再び乗車票と引き換えます。
約2.5時間の乗車でしたが、ゆったりと横になって移動できたため、快適でした。
なお、車内はあいかわらず、ゴミなどが散乱し、トイレも汚れており、
車両の設備や乗り心地が優れているだけに、残念に思います。
まぁ、それがこの国の実情なのでしょうけれど・・・。

*中・上段にあがるには通路側の壁にある折りたたみ式の足掛けを使います。
この車は通路側に足を向けて寝るようになっています。
(初め、この足掛けを飲み物を置くテーブルだと思ったのですが、
やけに汚れているので、テーブルとして使う前に気付きました)

済南東站に停車する同列車の機関車
寝台区画。
・・・3段寝台は20系客車に乗ったことを思い出しました。

通路の様子です。
・・・カーテンの三日月と星の柄がステキです。



投稿者 きむたお
投稿日 2011年 3月 6日(日)17時16分23秒
タイトル 中国の客車列車(山東省にて)-その2
引き続き2本目です。

2011/3/4
1428次(3/3安慶発、北京西行き)
↑  DF110144(ディーゼル機関車)
北  KD25G050613
京(16)YW25G060071
西(15)YW25G060449
 (14)YW25G060447
 (13)YW25G060448(聊城→臨清:乗)
 (12)YW25G060461
 (11)RW25G050019
 (10)CA25G080021
 (9)YZ25G030214
 (8)YZ25G030231
 (7)YZ25G030229
 (6)YZ25G030244
 (5)YZ25G030851
 (4)YZ25G030240
 (3)YZ25G030206
 (加1)YZ25G030202
 (2)YZ25G030232
 (1)XL25G020071

*機関車塗色:藍/クリーム
*客車塗色:白色に窓周り・裾が明るい青色

こちらはわずか30分の乗車でした。
下車駅(臨清)で荷物車の写真を撮ろうと最後尾に向かうと駅員に制止され叶わず・・・。
どうも田舎の駅では客をさっさと駅の外に出してしまいたいらしく、ゆっくり列車を眺めていられません。
一方で、本来禁煙の駅舎内で喫煙してもOKだったり、地べたに座ってカップラーメンを食べて
そのままゴミを放置して床に寝そべっていたり、床に唾を吐くのは咎められないのですから、イライラします。

餐車(食堂車)車内。
車内販売のおばさん。
ご飯やスープ、ゆで卵、炒め物を売っていました。

臨清站にて。中央に見えるのが空調発電車(KD)です。



投稿者 きむたお
投稿日 2011年 3月 6日(日)17時35分51秒
タイトル 中国の客車列車(山東省)-その3
引き続き帰路です。

2011/3/4
1621次(北京西発、阜陽行き)
↑  DF110149(ディーゼル機関車)
阜(1)XL25G205311
陽(2)YZ25G346828
 (3)YZ25G349978
 (4)YZ25G349970
 (5)YZ25G344293
 (6)YZ25G345118
 (7)YZ25G346825(臨清→聊城:乗)
 (8)YZ25G346826
 (9)YZ25G346831
 (10)CA25G892191
 (11)RW25G552403
 (12)YW25G671882
 (13)YW25G669553
 (14)YW25G669217
 (15)YW25G673084
 (16)YW25G671888
 (17)YW25G669549
   KD25G998836

*機関車塗色:藍/クリーム
*客車塗色:灰色に窓周り・裾が朱色

この列車は寝台も取れず、座席車号車指定の「無座」券でしたが、車内はガラガラ。
どうやら、地区によって発券枚数が決まっているようで、遠隔地では買えない切符があると
会社の中国人スタッフは言っていました。
乗車車両は一般的な硬座(普通車)で4人ボックス+6人ボックスの並ぶレイアウトです。
3人掛け席に横になって寝ている乗客が多く見られました。

臨清站に入線する同列車。 乗車した硬座車の車内。
聊城站を後にする同列車。



投稿者 きむたお
投稿日 2011年 3月 6日(日)18時21分22秒
タイトル 中国の客車列車(山東省にて)-その4
今回の出張最後の4本目です。

2011/3/4
1282次(3/3深圳西発、済南行き)
↑  DF110393(ディーゼル機関車)
済(19)YW25G668731
南(18)YW25G668722
 (16)YW25G667741
 (17)YW25G674803
 (15)YW25G667736
 (14)YW25G668732
 (13)YW25G673012
 (12)YW25G673017(聊城→済南:乗)
 (11)RW25G552036
 (10)CA25G893201
 (9)YZ25G344534
 (8)YZ25G344508
 (7)YZ25G348424
 (6)YZ25G344507
 (5)YZ25G345348
 (4)YZ25G344516
 (3)YZ25G344349
   KD25G998223

*機関車塗色:藍/クリーム
*客車塗色:灰色に窓周り・裾が朱色
*号車番号が順番になっていませんが事実に基づいています。

これも寝台車乗車でしたが、先の2本とは様相が異なりました。
というのも、この列車の下車駅は終点である済南。
車内はリネン類の片付け、清掃が行われ、通路のカーペットまでも巻き取って片付けていました。
(掃除して行った後でもゴミをポイ捨てする人がいるのには辟易しましたが・・・)
駅に着いた後は乗務員(何人乗っているのかわかりませんが、1列車に30人くらいは乗っていそうです)
も一斉に降りて行ったので基地に入って清掃することは無いのでしょう。

1日に3本の定期客車列車に乗車できたわけですが、同じようなことを日本でするのは困難だということを改めて感じます。
中国でも新幹線タイプの電車や高速鉄道が増えてはおりますが、まだまだ客車が主流でうれしい限りです。
できれば、もう少し駅や車内が開放的な雰囲気だと良いのですが、安全面などでなかなか難しいようです。

寝台車車内。
この車はちゃんとしたハシゴが区画壁についています。
済南站にて。先頭のYWです。
到着後、機関車はすぐに切り離されました。
乗車した12号車に取り付けられたサボ。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 3月 7日(月)16時39分2秒
タイトル 柳条湖 と 皇姑屯
XD1 様、きむたお様の御二方による「客車倶楽部・海外特派員報告」も、すっかり
定着した印象で、内勤続きの身には、この上無い清涼剤となっております。

バンコクの空港連絡鉄道を除く全線が非電化であるタイ国鉄には、JR移行直前まで
電化区間が存在しなかった、旧国鉄四国総局に通じる雰囲気が感じられ、列車撮影の
構図が確保し易い意味では、理想的ですね。

一方、列車撮影には邪魔者と捉えられがちな架線柱に、構図上好ましい抑揚を覚える
天邪鬼な私の場合、重厚な電化路線を客レが驀進する、きむたお様御紹介の構図にも
大いに魅力を感じる処で、特に、臨清站におけるスパン線ビーム(電柱の間に渡した
ワイヤーで、トロリー線を吊る方式)は、国鉄の古き佳き時代を彷彿とさせる様です。
この方式、国内では、残っていたとしても、銚子電鉄を含む市電規格程度でしょうか。

この処、NHKで「日本はなぜ戦争へと向かったのか」なるドキュメンタリー番組が
シリーズ放映中で、満州事変の発端となった柳条湖事件の現場も、何度か登場します。
広大な平坦地を直進する線路を、リットン調査団が検分すると云う、歴史の教科書で
御馴染みの写真の印象が強かった手前、初期の東海道新幹線を思わせる様な架線柱で
電化された現在の様子は、80年の歳月を考えれば当然なのですが(瀋陽北郊にあって
グーグル空撮映像から推すに、現在も田園主体ながら相応に人家が増えている様です)
少し意外に感じました。

柳条湖では、事件直後に急行列車が通過するなど、線路の被害は軽微だった様ですが、
同様に、満州事変の伏線とされる「張作霖爆殺事件」では、被害車両の記録写真から、
相当の損傷が窺えます。現場の皇姑屯は、当時も現在も、京奉線と連長線(現哈大線。
当時は満鉄の管轄)との立体交差箇所があり、瀋陽市街の一端かと思われる、立派な
高層建築を背景に、電化線が交差しており、画像検索からも、壮観さが窺えます。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 3月 7日(月)23時54分21秒
タイトル 青函連絡船運行開始の日
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 先達の皆様方、本日(3月7日)は「青函連絡船運航開始日」でございます。
明治41(1908)年に「青森・函館」に運行が開始されて、昭和63(1988)年3月に
「北斗星」等に「北海道接続」を譲るまで「しょっぱい川(津軽海峡)」を航行していたのでありました。
小生が思うに、「鉄聖人」である「クモイ103様」にしてみれば、当然のことと一笑されてしまいそうでありますが、
色々と「戯言」させていただきます。


 1 前述いたしましたように、明治41年3月7日に「帝国鉄道庁(国鉄)」が「青函連絡船」の運航を開始したのでありました。
当時就航したのは、最新鋭の蒸気タービン船「比羅夫(ひらふ)丸」。「青森・函館」間を4時間で結びました。
鉄道直営の「青函連絡船」自体は、「日本鉄道」によって計画され、連絡船そのものも同社によって発注されておりましたが、
就航は同社の国有化後になりました。
なお、「青函航路」の営業キロ上の距離は「113km」であり、「津軽海峡」という「特定海域(国際海峡)」を横断することから、
「宇高」「堀江」他の航路とは異なり「外洋航路」扱いとされておりました。


 2 「青函航路」とありますように、桟橋が「青森」に3岸壁、「函館」に2岸壁が整備されておりました。
さらに、「青函連絡船」の貨物輸送の重要性を示すが如くに、昭和19年1月から同59年2月まで、
「五稜郭の貨車操車場」に直結していた貨物専用の「有川桟橋」がございました。
有川には2岸壁があり、それぞれを「函館3岸・同4岸」と呼ぶこともございます。
また、「桟橋」は天候状況による「函館本線及び室蘭本線」の不通に伴い、「室蘭」にたびたび「臨時桟橋」が設置されました。
昭和42年9月、「室蘭本線」の「豊浦・洞爺」が集中豪雨で不通となったことから、
「室蘭港」に未使用の橋梁を活用した臨時の「簡易可動橋」を設置。青森との間で代行輸送が行われました。
また、同50年8月に「函館本線及び室蘭本線」の土砂崩れによる列車代行のため、
「函館・室蘭」間で「摩周丸及び十和田丸」が就航。
上下あわせて約15,000人を輸送した歴史がございます。


 3 「青森発着の特別急行列車(「ECはつかり」「ECみちのく」「DC・EC白鳥」など)及び
「夜行列車(「EC・PCゆうづる」「PC八甲田」など)」、
そして「函館発着の優等列車」(「DC北斗」「DC北海」「DCおおとり」「DC宗谷」「PCニセコ」など)や
「43レ・44レ」は、「青函連絡船」との接続重視のダイヤを編成していたことは、
先達の皆様方には「釈迦に説法」でございましょう。
特に、「上野・青森」を結ぶ「PC・ECゆうづる」は最大7往復を設定。
「青森」での有効時間帯を重視したダイヤ以外には、完全に「青函連絡船接続」を意図したダイヤ編成がなされたのでありました。
そのために、「常磐線」は特急優先の陰で「土浦方面の近距離電車」は1時間ヘッドの運転という、
現在では想像すらつかないダイヤが当然の如くだったのでありました。


 ※ 宮脇俊三「対話集 ダイヤ改正の話(中央書院刊)」
   坂本幸四郎「わが青春の青函連絡船(光人社刊)」等

 長々と失礼致しました。
以上、青函航路では「グリーン船室の指定席」がお気に入りであった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2011年 3月 8日(火)02時49分8秒
タイトル レスありがとうございます
> 「客車倶楽部・海外特派員報告」

ということで、また鉄路に近づく機会がありましたら、なにかUPさせて頂きます。

 話は変わりますが、青函連絡船メモリアルシップを見学したことがあったような気がします。何十年も前ですが。
船の中に鉄道車両も展示されていたように記憶しています。懐かしいなぁ。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 3月 8日(火)16時12分33秒
タイトル 野内~青森の路線変更
▼ED76 106様:
>「津軽海峡」という「特定海域 (国際海峡)」を横断する事から「外洋航路」扱い

国連海洋法条約に則り、軍用を含む外国の艦船が自由往来する手前「非核三原則」に
抵触する可能性を排除する為、領海幅を 本来の 12海里から 3海里に圧縮するという、
複雑な位置付けなのですね。ゆえに北海道を、領土上「飛び地」と解釈し得る向きが
あるかも知れませんが、少なくとも、海峡線の列車は「回廊列車」ではなさそうです。

青森駅は対岸の函館と同様、連絡船への接続を第一義とした仕様の為、更なる北進を
前提とした新幹線の駅になり得なかったのは、当然と言えば当然の結果ですが、実は
青森市は1980年まで、青森駅への新幹線誘致を主張していたのですね。これに対して、
国鉄側は、当時から既に現在地を主張しており、奥羽・津軽両線にスルー進入が効き、
県庁や市役所を含む中心街にも比較的近い青森信号所(旧青森操車場)を、有力地と
目した私の予想は、端から見当違いだった訳です。

東北線は元々、野内~青森信号場では、国道四号線の旧道沿いと思われる海岸寄りを
経由していましたが、操車場の設置に伴い、1926年に浦町駅の移転を含む経路変更を
行っています。現在の経路に変更されたのは「ヨンサントオ」の伏線として全線電化・
複線化が完成した1968年の夏で(但し青森駅直前の三角線は事実上の単線)この時に
浪打・浦町(二代目)両駅が廃止、一方で、東青森駅が新設されています。従前より
明らかに迂回気味と思われる経路への変更は、複線用地確保の為かと想像します。

1926年の前後における旧経路の跡は、道路地図でも、容易に判別できますね。これに
関連して地図を何種類か漁ったところ「グーグル」「マピオン」は、新幹線が未だに
新青森に達しておらず、一方「ちず丸」では、予定線が、既に渡島大野(新函館)に
到達しており、妙に感動したのでした。

その新函館(仮称)駅、所在地が北斗市域という事もあり、正式な名称は今なお未定。
どうせなら「藤城線」を活用するべく、七飯で接続した方が判り易い様に思いますが、
周辺の民家分布の頻度が小さな渡島大野の方が、用地確保が容易なのかも知れません。
その様な次第で、新幹線延伸後の「藤城線」の処遇も、注目されます。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 3月 9日(水)22時18分51秒
タイトル Re: 青函連絡船運行開始の日
ED76109様

確かに3月7日は一つの記念日と言っても良いでしょうね。

有川桟橋ですが、どうやら当初独立した単位組織だったものが後に「函館桟橋」の一部として組織上組み入れられた模様ですね。
私も詳しい経緯は判りませんが…

なお、戦前?の当初案では、将来の輸送量の増加に伴う船便増発に対応して、北海道側が函館2バースと有川3バース、
本州側が青森3バースと小湊2バースのそれぞれ5バースずつの貨車航送設備(可動橋)を整備しようという壮大な計画でした。

このうち実現した可動橋は、皆様ご存知の通り函館2バース、有川2バース、青森3バース、
そして接岸試験までこぎ着けながら実稼働することなく終わってしまった小湊の1バースのみでした。
有川第3岸壁(のち函館第5岸壁)は、本来の可動橋は実現しませんでしたが岸壁そのものは存在し、
戦後例の米軍LSTの発着場所になってそのための可動橋?が設けられたり、
昭和30年代初頭には元関釜連絡船「昌慶丸」が国鉄船員のための訓練船として長期繋留されたりと、
活用されることもあった様です。

なお、この有川3岸と、やはり岸壁だけ出来て可動橋は手つかずに終わった小湊第2岸壁の2箇所は、
青函連絡船が左舷での接岸を前提に設計されているのに対し右舷着きとなり、
実現していたらまたひと味違った光景が見られたことでしょう。

お話し変わって…
青函航路の船便は基本的に「客貨両用便」と「貨物専用便」だけで、
旅客専用便は戦後混乱期の傭船や洞爺丸のピンチランナー徳寿丸など、歴史的にも一部の例外でした。
津軽丸形が出揃った昭和40年代以降は、旅客と貨車を同時に運べる「客載車両渡船」が運用の都合で貨物専用便にも充当され、
それが多客期には臨時に旅客も乗せることにより、時刻表上はあたかも臨時便が増発される形になっていました。
昭和47年の札幌オリンピックに対応して運転された臨時特急「オリンピア1号」(583系臨時「ゆうづる」のスジ)から
「オリンピア2号」(キハ80系臨時「北斗」のスジ)への継送を担った臨時便も、定期貨物便の旅客設備を活用したものでした。

そういえばどこかで読んだ話ですが、ある夏期輸送のピーク時に、
あまりの多客のため有川桟橋に着く貨物便までも客扱いしなければならない事態となり、
貨物専用の岸壁に降り立った乗客を函館駅までバス輸送した事もあったそうです(乗りたかった…)。

とりとめのない話になってしまい失礼しました。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2011年 3月 9日(水)23時47分1秒
タイトル 洋上ホテル
>>クモイ103様
旅客専用便の範疇にはいるかは?ですが、函館港内に係留中の予備役となった
青函連絡船を函館船舶管理部で宿泊施設として昭和24年5月から運用をした
例がありました。
1泊2食付き1等600円・2等400円・3等200円で港からの送迎には
ランチが使われたそうです。
成績次第では本格改装工事のうえ函館駅そばに係留し、利用の便を高める計画
だったらしいですがその後どうなったことやら。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 3月10日(木)10時05分6秒
タイトル 函館のホテルシップ
私が始めて青函連絡船に乗船したのが昭和27年7月でしたが、函館で「羊蹄丸」から
下船した時に、反対側のバースに「景福ホテル」の看板が付いた船を見ました。
父が「元は関釜連絡船だ」と教えて呉れましたが一般客でも利用出来たのでしょうか?
帰途が「摩周丸」でしたが、津軽海峡ですれ違った「工」のファンネルマークの船が客
載貨車渡船でも貨車渡船でもなく、遠くて船名が解らず丁度甲板に居た乗組員に尋ね
たら「宗谷丸」との事で、時刻表では主要列車接続では無い便に就航していました。

当時は朝鮮戦争でソ連の浮遊機雷が津軽海峡で発見されたので、夜行便が中止されて
「羊蹄丸」も明るくなってから走り出して海峡へ出て居ました。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 3月10日(木)23時40分4秒
タイトル 景福丸のことでしょうか
 おばんでございます。「ED76109」であります。


 マロネロ38様
 >反対側のバースに「景福ホテル」の看板が付いた船

 「景福丸」は、終戦後に「青函航路」に転船し、昭和24年7月30日終航。
その後、「函館桟橋南側岸壁」に係留されました。
そして、船内を改装して「海上ホテル」として同25年1月25日に開業の運びへ・・・。
 ただし、空襲等で殉職した乗船員の遺族や人員整理による大量の解雇者の救済が必要とされていたことから、
これらの人々の雇用確保を目的としたするためであった福祉事業的な性格を伴った事業であり、
「鉄道弘済会」が船を借り受けての営業でありました。
 この海上ホテルの設備は、和室5室・洋室14室、
収容人員は一般客46人、団体客280人の収容能力を有しておりました。
「函館駅」に隣接されていたことから、利用者は多かったとのこと。
しかし、船体自体の老朽化により維持費の増大などで赤字経営となり、同31年に休業に追い込まれてしまいました。
その後、船体は放置されたのでありますが、同33年に解体されました。
なお、「鉄道弘済会」では、海上ホテル休業後の同年に「函館駅」にほど近い一角に
「景福ホテル」の名称で旅館業を再開した記録がございます。


 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 satokun
投稿日 2011年 3月11日(金)07時48分53秒
タイトル 電源車のディーゼルエンジンについて質問
皆様こんにちは。久しぶりに投稿します。
かつて東京駅でホームの両側に寝台列車が止まっていたころ、マニにはさまれるとすごい音がした記憶があります。
あの頃電源車に積まれていたエンジンはDMH17だと思うのですが、常に出力をあげた状態だったのでしょうか?
気動車のアイドリング時よりもはるかに大きい音だったと思います。



 
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