おばんでございます。「ED76109」であります。
前回の「桜島」の「戯言」は小生の勘違いもございましたが、
自分の「鉄旅」を回顧できるなど、小生自身が楽しんでおりました。
今回は「ニセコ」を「戯言」させていただきます。
しかし、何度も記しておりますが、「山線」の衰退ぶりは言葉を失うばかりであります・・・。
1 小生が最初に渡道した昭和48年の3月、「鉄」親父に連れられて、初めて「PCニセコ」に乗車いたしました。
既に「C62」は引退してしまっておりましたが、「DD51」が逞しい轟音を立てながら「スハフ44」以下の
長編成を牽引するとあって、当時小学4年生のガキ(小生)には眩しい限りでありました。
「森〜八雲」辺りの噴火湾から、対岸に見えた「伊達」や「室蘭」が夕陽に輝く風景は、今でも強く小生の脳裏に浮かびます。
そして、夕闇迫る「長万部」から「タブレット交換」の「山線」の隘路を越え、
残雪深き「倶知安」を経てフォームがカチカチに凍り付いた「小樽」へ・・・。
北海道には「電化区間」は無き物と思い込んでいた小生には、氷雪で覆われた「ED76500番代」への交換は意外であり、
「交流EL」の甲高いホイッスルへの憧憬は、この時から始まったように記憶しております。
2 昭和60年の1月、厳冬期に乗車した「ニセコ」は、
北海道の冬の厳しさをいやというほど痛感させられる旅でありました。
まず、「ニセコ」が入線した「札幌の1番フォーム」は快晴とはいうものの「-13℃」。
コートの襟を立てても全く温みは感じられず、「EL」に牽かれた「14系」は氷雪に覆われておりました。
しかも、車内は暖房が効きつつも、自動ドアが凍り付いたのか、発車時刻になっても「ニセコ」は全く動く気配もなく、
駅員がハンマーでしばれをたたき割って5分遅れで発車・・・。
快晴であったがため、「張碓の断崖」や「羊蹄」、そして「ニセコアンヌプリ」を雄姿を見せてくれましたが、
窓ガラスには薄く氷が張りつめて少々ピンぼけ気味。
そして、圧巻は「長万部」で購入した「かにめし」。売り子さんの「すこししばれて(凍って)いるから。」と言われ、
包み紙を開けても箸も立たぬ始末。
何とか、ヒーターの上で「解凍」して、小生何とか「函館」までにはお腹に収めましたが、
シャーベット状の「かにの切り身」は後にも先にも唯一の経験でありました。
3 昭和61年の9月の連休、廃止直前の最後の「ニセコ」に乗車しました。
この時は、「ニセコ」の最期に相応しく、快晴の1日。
しかし、車内は閑散としており、小生を含めて最後尾の「スハフ14」は閑古鳥が鳴く状況でありました。
しかし、「札幌車掌区」のカレチ氏が「沿線案内の放送」で数少ない乗客を楽しませて下さり、
清秋の「山線」を十二分に堪能。
さらに「鉄」である小生に、「『まりも』の頃、急病の夫婦を『倶知安』で病院に入院させるために、
『比羅夫』で通信筒を放り投げて駅員に連絡した」想い出話をご披露くださり、
昔の「山線」の一端に触れることが出来た愉しい旅でありました。
「函館・札幌」の6時間弱、「DD51」と「ED76」とともに越えた「ニセコ」の旅。
是非とも「想い出のニセコ号」を復活させてほしいものであります。
長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |