中3日での連投失礼致します。「ED76109」であります。
連休とは言っても、中々「鉄旅」には縁遠くなってしまいました。
しかし、時刻表を眺めても短中距離列車中心のダイヤであり、何となく物足りなさを感じてしまうようで・・・。
過去の乗り鉄をもう一度繙いて、「1102レ(桜島)」の想ひ出を「戯言」させていただきます。
先達の皆様方にとって話題の欠片となれば幸甚の限りであります。
1 「1102レ」を初めて「制覇」できたのは、昭和47年の春のこと。
件の「出水」在の従兄の結婚式に出席した帰路、
「東京」までのルートを「鉄」親父が「五反田」のみどりの窓口で交渉したのですが、
「はやぶさ」も「みずほ」も「ECきりしま」も「全滅」の状況。
最後に窓口氏に示されたのは、「屋久島のハネ+新幹線」か「桜島のロザ」のいずれかをということでした。
すると、「鉄」親父は「乗れなかった『はとの二等車』に乗れる」とばかりに、「桜島のロザ」を選択。
「西鹿児島」を15:00に発車した「1102レ」が、終着の「東京」に辿り着いたのは「翌日の16:06」。
「東京の9番フォーム」で「山」お袋や伯母、従兄たちの出迎えを受けましたが、
「25時間6分の旅」であったことを知ると、「よく飽きなかったね」と一同あきれ顔に。
しかし、小生「『高千穂』との増結」や「EF76→EF30→EF58への交代」、
そして「徳山でのフレートライナー先行」など、
今では味わうことのできない夜汽車の旅に開眼した貴重な経験でありました。
2 3度目の乗車は、昭和49年の盛夏に「甲子園見物」の帰路、「神戸」からでありました。
従兄宅の「明石」から「73系」に乗って「神戸」へ。
「ゲタ電」贔屓の小生は、これだけでも興奮状態でありましたが、
「神戸」で「最後尾のナハフ10」に乗り込んだ途端、満員の車中にがっかり・・・。
しかし、「東京車掌区」のカレチさんの「大阪と新大阪」でガラガラになるとの予言とおり、「大阪」で半数、
そして「新大阪」で3分の1が下車してしまい、「鉄」親父と最後尾の左右のボックスを占領して、
「大阪」から「東京」まで、今は無き「トカホセ昼行急行」を堪能しました。
その時の印象に残っているのは、全開の窓からの「近江長岡」と「金谷」付近のカーヴの眺め。
「EF58」が牽く編成は、「旧客14両編成」の圧巻。
今ではお目にかかれない筆舌には尽くしがたい眺めでありました。
3 最後の乗車は、廃止が決定していた昭和50年の正月。「浜松」から「品川」までのチョイ乗りでありました。
しかし、小学6年生の小生にしてみれば、お年玉を全てつぎ込んだギリギリの「鉄旅」。
さらに、品川始発の「鈍行EC浜松行」から走り込んで飛び乗ったとあって、
カレチさんは小生を「家出少年?」と勘違いする始末でありました。
そこで、小生が「『桜島』にお別れを言いに来ました。」とカレチさんに演説(?!)したところ(生意気なガキでした)、
「そうなのかい。」と微笑まれて「車補」を切ってくれました。
その時、印象に残ったのは「増結されたロザ」。
カレチさんは、「運用の関係で、一両は『北オクのスロ』」と仰っておられましたが、
以前に当掲示板に掲載された「スロ50(?)」が正しく「それ」であり、
今にしては何か因縁を感じさせるものであります。
「品川」でカレチさんに、小生「お世話になりました。」と挨拶したところ、
「記念にあげるよ。」と「乗客専務の赤腕章」を頂く羽目に・・・。
「EF58のフォイッスル」が一声聞こえ、夕暮れのフォームをゆっくりと離れる「桜島・高千穂」。
「南チタ」のカーブに「スハフ42」の尾灯が消えていく記憶は、小生の「鉄」風景の想ひ出の1つであります。
長々と失礼致しました。以上、「霧島の食堂車」の乗車経験もある「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |