倶楽部メモ(620)
平成22年 8月27日〜 8月29日 |
急行「まりも」食堂車の朝食メニュー ・ 「まりも」のスハシ
投稿者 |
仙コリ(管理人) |
投稿日 |
2010年 8月27日(金)10時40分46秒 |
タイトル |
急行「まりも」食堂車の朝食メニュー |
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マロネロ38様より、急行「まりも」食堂車の朝食メニューと、初代「摩周丸」の記念スタンプを
送っていただきましたので、掲載させていただきます。
急行「まりも」は、昭和27年7月末にお父様と札幌から釧路までご乗車されたそうで、その際の
食堂車(ダブルルーフのスハシ38?)での朝食メニューだそうです。
当日の果実はメニュー画像にあるリンゴではなく、分厚い西瓜の1/4切れだったそうです。
またもう一枚は、帰路にご乗船された「摩周丸」(初代)の記念スタンプだそうです。
詳しくはマロネロ38様からお願いできれば幸いです。
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投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2010年 8月27日(金)14時02分19秒 |
タイトル |
「まりも」のスハシ |
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当日は池田を過ぎて6時前に行ったら「定食なら出来ています」で「ベーコンエッグ」を
注文しました。
フルーッは確かに分厚い西瓜1/4程でしたー甘くて水分が多くて。帰途は長万部から函館
まで上り「まりも」でしたが、昼定食が「チキンライス付き」なのに、チキンが一切れも
無くて,玉葱とグリーンピースばかりで、「コレはケチャップ飯じゃないか」!とクレーム
を言ったら、他のお客さん達も大笑いで「そうだそうだ欠けらも入っていない」と-----
行きは良い良い帰りはアカンの「まりも」食堂車の思い出です。
「摩周丸」は帰途昼間便でしたから、「ロ」のソファー席に座りましたが,ゆったりしていて
蒸気タービン船だから静かだし快適な航海でした。
ED76109先生:
「摩周丸」経年劣化と1ケ所虫食いがあるけれど、ご希望なら管理人さんにご連絡ください。
プレゼントしますから。(私はもう一枚持って居るので)ご遠慮なく。 |
投稿者 |
雑魚 |
投稿日 |
2010年 8月27日(金)15時12分40秒 |
タイトル |
碓氷峠鉄道文化村 |
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▼急行えびの
3号様:
折尾・吉松駅における駅弁事情を御教示頂き、有難うございました。吉松駅の往年の
要衝振りについては、ED76
109様が度々講釈されていますが、駅弁販売に、かかる
栄華の名残りを感じます。ちなみに、定期列車が普通便のみとなった現行横川駅では、
休日にワゴン・セールがホームで行われると聞いた事もありますが、通常は改札外の
販売店のみでの対応なのでしょうか。
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先日、行楽序でに、その横川駅に隣接する「碓氷峠鉄道文化村」を久々に訪れました。
やはり、客レ編成が集う奥の区画が最大の見処ですが、信越線の保存区間を利用した
トロッコ列車「シェルパ君」は、前回の訪問時には設定が無く、インパクト大でした。
時間の都合から「シェルパ君」ではなく、園内を一周する狭軌の「アプト君」に試乗。
国内標準軌と狭軌の並行区間もあり、視覚的にもなかなか面白い趣向でした。
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投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2010年 8月27日(金)19時35分25秒 |
タイトル |
Re: 「まりも」のスハシ |
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マロネロ38様、管理人様
これまた貴重な資料と体験談をご披露下さり、ありがとうございます。
昭和27年ということは、「まりも」に食堂車が連結されて1年後のことですね。
朝の定食150円というのは、当時の物価水準から見て安くはない?様に思いますが、
食堂車そのものが高級レストランのような存在だったのでしょうね。
チキンライスのチキン抜きの件、当時の食糧事情はもうだいぶ正常化していたと思っていましたが、
食糧難の記憶がまだ真新しかった故に、笑って済ませられたのでしょうか。
初代摩周丸のスタンプも貴重ですね。
描かれた船影はなぜか後ろ姿ですが、この船を含み4隻の「洞爺丸形」を特徴づける大きな煙突が印象的です。
蒸気タービン船の静かな乗り心地、一度体験してみたかったです。 |
投稿者 |
ED76109 |
投稿日 |
2010年 8月28日(土)00時21分5秒 |
タイトル |
昭和20年代中後半の道内事情 |
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おばんでございます。「ED76109」でございます。
「マロネロ38」様
素晴らしき「まりも」の想ひ出をありがとうございます。
昭和20年代後半は、「朝鮮戦争」開戦に伴う米師団の兵員及び資材輸送、
同26年3月の雑穀価格の統制撤廃に伴う雑穀類の出荷増大により、
「青函航路」、「函館本線」及び「室蘭本線」の輸送量確保に全力を注いでいた時期であります。
そのため、同25年から「札幌鉄道局(後の北海道総局)」が開始していた
「旅行を楽しくする運動」及び「運送サービス向上運動」を停止するとともに、
国鉄主催の団体旅行及び団体旅行用の臨時列車の編成を中止するなどして、
膨大な輸送量の確保を第一義とした取組がなされていた時期であります。
また、当時は様々な物資(例えば、シートの背摺りに必要な「スポンジ」等)が、
当時の北海道では統制対象であり、容易に入手できなかったという事情もございました。
「鶏肉」の話はそんな状況を反映しているのかもしれませんね。
義父の話によれば、「駅弁」に「大豆を混ぜた混ぜご飯」が使われていたという話も・・・。
しかし、「食堂車のメニュー写真」は豪華であります。
当地の「札幌グランドホテルの朝定食」のようなイメージを感じました。
参考文献 「北海道の鉄道」(田中和夫 著・北海道新聞社)
>「摩周丸」経年劣化と1ケ所虫食いがあるけれど、ご希望なら管理人さんにご連絡ください。
・・・(絶句)。本当にご厚意に甘えてしまってよろしいのでしょうか。
心からお礼申し上げますとともに、「仙コリ」様に当方から連絡させていただきます。ありがとうございました。
長々と失礼致しました。以上、「マロネロ38様」のご厚意に感涙が止まらぬ「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |
投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2010年 8月28日(土)15時36分36秒 |
タイトル |
食堂車の価格 |
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クモイ103様:
当時の日本食堂は同一価格だったみたいですね。上野から青森までの「みちのく」の
メニュウも、朝食:@¥150-,昼,夜@¥240-(遊興飲食税込み)です。「つばめ」、
「はと」はもう少し高かったかと?
連絡船は「連絡船食堂」と書いた箸袋しか残っていませんので値段は解りませんが。
当時は学生食堂で肉が2切れ程とカレー粉よりメリケン粉が多い「カレーライス」が
@¥50-の時代だったです。
「みちのく」の「チキンライス」が@¥80-これも「ケチャップライス」に近かったかも? |
投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2010年 8月28日(土)23時10分36秒 |
タイトル |
Re: 食堂車の価格 |
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マロネロ38様
ご教示ありがとうございます。
「遊興飲食税」というのが時代を感じさせますね。
やはり列車食堂は日常と一線を画した特別なご馳走をいただく場だったんですね。 |
投稿者 |
ED76109 |
投稿日 |
2010年 8月29日(日)14時38分57秒 |
タイトル |
昭和27年9月当時の食堂車連結列車は? |
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失礼致します。「ED76109」であります。
来週に「定期考査」があり、そのために「道立図書館」に資料漁りと作成業務で午前中に籠っておりました。
しかし、いつの間にか「鉄」資料を読み漁って・・・。
まあ、夜にでも問題作成すりゃぁと、小生割り切って様々な資料を読んでいましたところ、
「標題の資料」に当たりましたことから、先達の皆様方にご紹介申し上げます。
昭和27年9月1日現在の「食堂車連結列車一覧」(「鉄道J 昭和48年4月号」より)
1レ・2レ 東京・大阪 3レ・4レ 東京・大阪 33レ・34レ 東京・鹿児島
37レ・38レ 東京・博多 101レ・102レ 上野・仙台 202レ・203レ 上野・青森
3レ・4レ 函館・釧路 (以上 一般旅客列車)
1005レ・1006レ 東京・博多 1001レ・1002レ 東京・佐世保
1201レ・1202レ 東京・青森 (以上 占領軍専用列車)
また、戦後再開された「へいわ」及び「霧島」の食堂車が、以下のような形式であったとの記述もありましたので、
小生以外の先達の皆様の話題にと思い、付記させていただきます。
「へいわ」の食堂車の一部 スシ48670→スシ3764→スシ472(昭和24年)
「霧島」の食堂車の一部 スシ492→スハシ371 オハシ315→オハシ315(昭和24年)
長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |
投稿者 |
きむたお |
投稿日 |
2010年 8月29日(日)15時49分12秒 |
タイトル |
インドの客車 |
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皆様、ご無沙汰しております。
所用でインドまで行ってきましたが、航空機の時間の都合で半日ほどムンバイ市内を見て回る機会が得られました。
そんな中、Chhatrapati Shivaji Terminus(Victoria Terminus)駅は世界遺産にも登録されている駅舎ということで、
予期せず鉄道に接触する機会に恵まれました。
さすがに大きな駅であり、多数の列車の発着があります。
頻繁に出入りする電車列車のほか、長距離便と思われる客車列車も目にしました。
列車は座席車の編成2本と寝台車主体に編成1本が据付されておりました。
座席車は車内はクロスシートで、窓は治安が良いムンバイであるにもかかわらず
物騒な雰囲気の保護棒&ヨロイつきとなっています。
寝台車は車内まではわかりませんが、固定窓であり、空調装備のようです。
編成端部には荷物車がつながれており、車内は日本の荷物車と同様、
床面は積荷の転動防止のためスノコ状で、窓も少ない外観です。
一方で、妻の貫通扉は無く、盗難防止か、客が乗るクルマではないからか、日本人の目からは奇異に映りました。
写真は座席車とホームの様子、先頭に立つ電気機関車です。
(2010/8/27)
*残念ながら、時間の都合で車番チェックにまでは至りませんでした。
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投稿者 |
きむたお |
投稿日 |
2010年 8月29日(日)15時57分34秒 |
タイトル |
インドの寝台車・荷物車 |
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引き続き、荷物車と寝台車です。
ちなみに、写真にも写っていますが、
スクリュー&リンク式のカプラをつけた現役の車両を目にしたのは日本でのあの時以来、実に22年ぶりでした(笑
*インドは歴史のある国でイギリス統治時代の古い建物がたくさんあり、美しい光景も多く見られましたが、
一方で街中にはスラムも多く存在し、貧富の差が大きいことも実感しました。
駅にも人が多くあふれ、汗臭いような生臭いような臭いが充満しておりました・・・。
写真は荷物車、寝台車、それに荷物車の妻面です。(同駅は頭端式ホームとなっております)
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投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2010年 8月29日(日)17時36分40秒 |
タイトル |
改造食堂車 |
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食堂車の番号変遷は大変複雑ですが:-
戦時中の改造:スハシ(小文字のシ)4814→スシ471、スハシ4819→スシ394→472、スハシ
4821→473:全車冷房化で最後は非冷房のスシ28に格下げ廃車。但し472の前歴については
疑問あり?
オハ35175→オハシ302が「みちのく」に連結されていた写真がありますが、仙鉄が「青葉」、
「みちのく」にハシ連結予定をしていた車があったので、それを「青葉」、「みちのく」に
充当し、オハシ301-3を鹿児島転属にした云々。これが「霧島」用になったのか?
(ピクトリアル2005年5月号)から----
オハシ31はスハ32からの改造の筈ですがコレも3両あり、帳簿上と実際の相違が多かった
ので、実際カコに移ったのがオハシ311-313なのか?食堂車に詳しい方にお願いしなければ
ならないと思います。 |
投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2010年 8月29日(日)20時56分9秒 |
タイトル |
Re: 昭和27年9月当時の食堂車連結列車は? |
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ED76109様がご紹介下さった食堂車の記事ですが、
マロネロ38様も疑問を呈しておられるように、車番の間違いだらけですね。
>
「へいわ」の食堂車の一部 スシ48670→スシ3764→スシ472(昭和24年)
まず「スシ48670」がわかりません。
新製時の5桁番号スシ37806 →昭和16年改番でスシ3764 →戦時格下げでスハ(シ)4819(但し(シ)は上付き小文字)
→連合軍による接収・改造でスシ394 →返還で再度スシ3764 →特急「へいわ」用整備でスシ472
(→のち昭和28年改番でマシ29 103 →昭和29年冷房撤去でスシ28 104 →昭和40年3月31日廃車・最終配置名ナコ)です。
> 「霧島」の食堂車の一部 スシ492→スハシ371
>
オハシ315→オハシ315(昭和24年)
これまた「スシ492」がわかりません。
新製時の5桁番号スロシ38014 →昭和16年改番でスロシ3820 →戦時格下げでマハ(シ)4924
→連合軍による接収・改造でスシ392 →返還・整備でスハシ371
(→のち昭和28年改番でスハシ29 106 →昭和36年3月31日廃車・最終配置仙セン)です。
のちに「霧島」と命名される東京−鹿児島間急行1・2列車に投入された最初の食堂車は、
オハシ30の1〜5およびスハシ371の計6両だった事が、
マロネロ38様が引用されたピクトリアル2005年5月号の中村光司氏の記事で述べられていますね。
この情報はなんと半世紀以上前、ピクトリアル1953年2月号の星晃氏の記事まで遡ることが出来ます。
なお、元スハ32から来て半室食堂車になったものはオハシ30の4と5があり、
この2両は後にマヤ20に化ける数奇な運命を辿りますが、それはずっと後の事。
オハシ31という形式は聞いたことがありませんが…
さらにもう一つ、ED76109様の引用中「占領軍専用列車」との文言がありますが、これも誤りですね。
まず国鉄用語としては「占領軍」でなく「連合軍」と言っていましたし、
そもそも昭和27年9月であれば既に占領統治は終わっており、いわゆる「特殊列車」の筈です。
日本が連合軍による占領統治を脱して独立を回復したサンフランシスコ講和条約は、
昭和27(1952)年4月28日に発効しましたが、それに先立つ4月1日をもって国鉄は一足先に講和後の体制へ移行しました。
この時連合軍専用列車は名目上廃止されましたが、時刻・運用等そのままで「臨時急行旅客列車」が運転を開始したのでした。
これがいわゆる「特殊列車」です。
余談ですが、のちに多くの急行列車に愛称名が付けられても「特殊列車」はなかなか名前をつけてもらえませんでした。
しかし昭和29年10月改正で、晴れて正式に一般の急行列車扱いになると同時に「西海」「早鞆」「十和田」「洞爺」と命名され、
また昭和31年11月改正では、それまで異色の1000番台をとっていた列車番号が普通の急行列車の体系に組み込まれるなど、
次第に「戦後」が遠のいていきます。
しかし「元連合軍専用列車」の名残は、例の急行「西海」の「マニM」に残って、昭和40年代までその姿が見られたのでした。 |
投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2010年 8月29日(日)21時57分33秒 |
タイトル |
スシ31は米軍用でした。 |
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クモイ103様:
仙鉄オハシ302,303→昭和26年8月カコ へ転属
軍用スシ312→オハシ304
軍用スシ315→オハシ305
軍用スシ392→スハシ371
上記が「霧島」用の5両と想われます。 |
投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2010年 8月29日(日)22時08分35秒 |
タイトル |
急行1・2レ用の半室食堂車 |
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マロネロ38様
もう1両、
オハ3528→オハシ301(若松・S24-4)
も入れて計6両ですね。
【参考文献】「食堂車の復興」星晃(ピクトリアル1953-2) |
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