倶楽部メモ(619)
平成22年 8月21日〜 8月26日

サンパチ豪雪における北陸地方の状況


投稿者 ED76109
投稿日 2010年 8月21日(土)07時35分56秒
タイトル 上越線における原風景
 おはようございます。昨晩はゆっくりとお休みになられましたでしょうか。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >181系「とき」と暖色塗装 80系が、上越線における原風景

  奇しくも因縁であるのか、小生が生まれた直後に発生したのが、あの「サンパチ豪雪」。
この掲示板でもご紹介されておりますが、史上最悪の雪害で約一カ月の間「上越線」は無ダイヤ状況となりました
(よく復旧後の映像で、EL牽引の客レを見ます)。
そして、その三年後の冬に両親に連れられて、「湯沢温泉」を旅したことがあるようで、
「土合のフォーム」で撮影したスナップがございます。その写真は、2mはあろうかという「雪の回廊」。
駅名票を覆い隠すが如くに降り積もった雪と雪の三国山脈。
ただ上越線は「雪の鉄路」というイメージがあり、件の「上越EC鈍行」には厳冬期や春先によく乗ったものであります。
特に「新清水隧道通過後の雪景色」に湧きあがった歓声は、子供ながらにも強い印象がありました。

 クモイ103様

 詳しい「上越夜行」の説明に係り、お礼申し上げます。
これらの「EC鈍行」は、様々な「鈍行レ」の接続がよく、小生は好んで利用したものであります。
「上りの最終便」も「秋田始発のPC新津行」や「会津若松始発のDC小出行」からの接続がよく、
小生の鈍行紀行を演出してくれました。
そういえば、「上越線のサンパチ豪雪被害」はよく見聞するのですが、
「北陸本線の惨状」は小生、資料等に接する機会があまりなく、どのような状況であったのでしょうか。
逆にお尋ねしたいところであります。


 長々と失礼致しました。
以上、「北陸本線のサンパチ豪雪被害状況」は如何ばかりであったが気になった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 8月21日(土)10時56分13秒
タイトル 38豪雪北陸本線
ED76109先生:
北陸本線は全くの壊滅状態でした。金沢の産元勤務の高校大学同期生が、岡山県の
笠岡まで帰るのに、何とか敦賀まで列車が到達したので米原まで行けて1日遅れで帰郷。
彼の列車が最終で後は不通。
私は貿易マンだったので、北陸の染物工場から輸出用反物の出荷が止まり、大騒動の毎日
でした、「納期が間に合わないから信用状を延長してください」の手紙を何十通もお客さん
宛てにタイプする毎日、やっと富山−金沢間が開通して、立ち往生していた準急「しろが
ね」のキロハ25に当時の運輸大臣河野一郎がロもハもゴチャゴチャの車内で通路側に腰掛
けて居た写真が新聞に出ました。開通は高山本線の方が早かった?(北陸本線が不通でも
高山本線は何とか動いている場合が多かったです)

高岡商工会議所が送ってきた写真では、駅の改札口バーの高さ
ぐらいまで線路に雪が積もっているのや、一部工場の屋根が破壊されているのやで、
「雪害証明書」を要求したら、中学生よりも酷い英語で各商社マン大爆笑のおまけ付きで
した。
今でも一部記憶していますが;−”Takaoka district was visited by the heavy snow
falling for the long days-------"
「こんなの外国へ送れるか」!で旧制福岡外専OBの上役が書き直し、会頭の「空サイン」
用紙を送ってもらってタイプ。でも南アフリカのお客さん等写真を見ても「信じられない」
と返事が来た次第でした。
2月上旬にやっとガタガタダイヤ乍ら動き出したので、出張しましたが米原から循環
準急「こがね」に乗り換えたら、キハ25に乗せられ途中農作業小屋などが、ぺしゃんこに
潰れているのを見て驚きました。
鈍足急行503レ「立山」など、オハ35が組み込まれたり、特ロがスロ60→
スロ50(501-502レの予備車)とか、編成も目茶目茶が暫く見られました。
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蛇足ですが、例の平取のトマト"Nispa's lover"と書いてありますが、なにかもう少し
詩的な表現が無いかと------評判が良いのか「阪急オアシス」でも売り出しました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 8月21日(土)16時54分0秒
タイトル サンパチ豪雪
サンパチ豪雪における北陸地方の状況、私は詳細はわかりかねますが、
マロネロ38様より生の情報をご提供頂き、ありがとうございます。

この時の雪は日本全国を覆う大変なものであった様で、当時の鉄ピクに次のような記事があります。

鉄道ピクトリアル第142号(1963-3)P.67「1月のメモ帳」より
****************
23日○裏日本に未曾有の豪雪襲来
 降雪量15億トンといわれる大雪のため,多数の列車が雪に閉じこめられた.
(中略・急行「越路」の件)
国鉄では24日から上・信越・北陸の準急以上の全列車を計画的に運転休止したが,
平常運転にもどるのは2月20日すぎになる見込.
この極東寒波は北は北海道から南は九州まで日本全土を本年当初以来すっぽり包み,四国では70年ぶりで,70cm〜1m,
九州では80年ぶりで最高2m,南国の山野線でさえ1mの積雪で列車が運転不能となった.
****************

前年に新潟電化が成っていましたから70系は登場していた筈ですが、
修学旅行用電車もどきの「新潟色」になるのはもう少し後の事で、当時はぶどう色1色だった様です。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 8月21日(土)20時38分14秒
タイトル 雪害による遅延やウヤ
 本日、2度目の乗車失礼申し上げます。「ED76109」でございます。

 「サンパチ豪雪」に係り、様々なお話ありがとうございます。お礼申し上げます。

 マロネロ38様
 >駅の改札口バーの高さぐらいまで線路に雪が積もっている

 当地も毎年雪害で「ウヤ」等が話題となりますが、さすがに「水分の多いベタ雪」で
2ヶ月弱に渡る不通という話は凄まじきばかりです。
「鉄」親父の話では、小生が生まれた前後は「東京の都心」が連日、最低気温「-3℃」。
水道の水落しをしないとしばれてしまったようでありました。
「ドキュメント・感動の所在地1(ネコ・パブリイッシング編)」には、往年の「山線の厳しさ」が記されております。
「PCていね」にせよ、「DC宗谷」にせよ、冬季は「2時間程度の遅延」はざらであったとのこと。
また「まりも」や「423レ」に至っては、「吹きだまり」や「暴風雪」で
「幾寅や落合」から「富良野」まで引き返すことも珍しくなかったという逸話も・・・。
平成6年2月に発生しました「狩勝峠『おおぞら』脱線事故」の映像を見ましたが、
地吹雪が脱線した「183系の車内」を吹きすさび、窓ガラスを覆い尽くしている粉雪には、鮮烈な記憶がございます。

 >平取のトマト"Nispa's lover"

 訳は「ニシパ(アイヌ語で『酋長』)の恋人」。ネーミングは今一つかもしれませんが、味は天下一品であります。
そういえば「北前船」の影響か、当地は「関東<関西」の文化が優勢な感覚が致します。
小生の周囲では、「お好み焼きをおかずにして食事する」ことに違和感を感じない方々が少なくありません・・・
(「鉄」に関係なく申し訳ありません)。

  長々と失礼いたしました。
以上、祭りの屋台の「お好み焼き」がおかずにできる愚妻の亭主である「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 8月22日(日)08時04分31秒
タイトル 「こがね」と「しろがね」
 連投失礼申し上げます。「ED76109」でございます。

 「マロネロ38様」から「準急こがね」のことが記されておりましたので、「釈迦に説法」させていただきます。


 昭和30年代半ば、「北陸圏と名古屋」をダイレクトする列車が要望された結果として、
昭和35年10月に誕生したのが循環準急の「こがね」でありました(なお、同時に「しろがね」も新設)。
「こがね」と「しろがね」は、「名古屋始発・終着」として「トカホセ・北陸本線・高山本線」を循環する気動車準急。
「こがね」が外回り(名古屋→米原→富山→高山→名古屋)、「しろがね」がその逆の内回りを走りました。
「こがね」のダイヤは
「名古屋9:30→米原10:42→金沢14:15→富山15:20→高山17:00→名古屋に20:03」であり、
途中「敦賀」から小浜線からの「準急わかさ」を併結しました。
方や「しろがね」は、2本体制で運転され、
「しろがね1号」が「名古屋8:25→金沢14:20→米原18:00→名古屋19:10」、
「しろがね2号」は、「名古屋23:55→金沢6:50→米原10:17→名古屋11:31」
という「夜行便」でありました。
このうち「しろがね1号」は、「金沢」から「敦賀」まで「わかさ」を、
「敦賀」から「米原」まで「準急大社」をそれぞれ併結しておりました。
なお「わかさ」は、「こがね」と「しろがね1号」の両方に併結されることから、
「金沢」でのわずかな行き違いの間に、分割・併結作業が展開されたというエピソードを持つ、異色の準急であります。
「こがね」も「しろがね」も、相互の都市間連絡、観光など多様な役割の中で、
「昭和41年3月改正」で急行に格上げされました。
また、同年10月に誕生した「兼六」とともに、「北陸圏と名古屋」を結ぶ急行としての地位が確立されたのであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 急行えびの3号
投稿日 2010年 8月22日(日)11時10分23秒
タイトル 駅弁の立ち売り
初めて投稿いたします。福岡市在住の急行えびの3号と申します。
客車といえば専ら「ブルートレイン」の世代ですが、皆様のご投稿を楽しく、
そして興味深く拝見させていただいております。
どうぞ宜しくお願いします。
さて、早速本題ですが、今月18日に雑魚様が「駅弁」の表題で投稿された文章中、
「半纏を着た販売員が肩紐で支えた番重で駅弁を売り歩く古風なスタイルは、
信越線の碓氷峠区間が廃止されて以来、残っているのでしょうか。」
との記述がありますが、九州では鹿児島本線折尾駅、肥薩線人吉駅で駅弁の立ち売りが行われています。
この2駅はどちらも、駅弁や旅関係のテレビ番組ではよく紹介されるので、ご存知の方も多いかと思います。
そこで私が取り上げたいのは、メディアではほとんど取り上げられることが無い、肥薩線吉松駅の駅弁です。
吉松は久しく訪れていないので現在も行われているかは分かりませんが、
2007年3月時点では駅弁の立ち売りが行われていたと記憶しています。
吉松駅は、2000年3月改正で急行「えびの」が廃止され、優等列車の発着が一時期無くなりましたが、
2004年3月改正で特急「はやとの風」が新設され、「いさぶろう/しんぺい」がリニューアルされました。
また、時刻表では駅弁マークが付いているので、立ち売りも行われているかも知れません。
私の知る限りではこんなところですが、お役に立ちましたでしょうか。
今後も何かあれば投稿いたしますが、多分閲覧の方が多いと思います。
以上、拙文失礼いたしました。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 8月24日(火)23時36分20秒
タイトル 肥薩線の想ひ出
 ルーティンワーク的にお邪魔しております。「ED76109」でございます。


 急行えびの3号様

 初めまして。「ED76109」と申します。
産は東京なのですが、現在は「札幌市内の高校」に勤務しております「中年客車鉄ちゃん」であります。
伯母が「出水」に在している関係から、「はやぶさ」や「桜島」、「DCなは」等にお世話になり、
先達の皆様方の仲間入りさせていただいております。
「吉松」は「南九州の鉄道の要衝」として憧憬の駅の1つでありました。
それでは、「吉松」に係る「肥薩線の戯言」を述べさせて頂きます。

 1 何と言っても、小生には「吉松」は「人吉・吉松」のループ線と
「隼人」からの急勾配のゴールに代表される山岳路線の一大基地であったという印象がございます。
「C55」や「C57」も元気でした。
「鉄」親父に連れられて、「D51牽引の混合列車」に乗って以来、幾度か訪れました。
しかし、「真幸の土石流」に代表されるが如く、梅雨末期や台風の集中豪雨によって、
全線不通で「乗り鉄」できなかったこともあり、天候に左右された路線であるというイメージがございます。
「D51の混合列車」で訪れた「吉松」は、霧島連山を望む真夏の太陽が眩しい南国の駅。
抜けるような青空が広がる蝉時雨が響いていた駅前広場は、小学3年生だった小生には鮮烈な印象が残っております。

 2 件の「人吉」までのルートは、球磨川ぞいに緩やかな勾配を「八代」から上り詰めていく隘路であります。
当時の九州内を半周していた「DCフェニックス」から乗り換えた旧客鈍行は、「C55」が牽引しておりました。
小生の印象に残るのは「一勝地」辺りから少しずつ車窓に広がっていった「人吉盆地」。
そして車窓の左右に広がる「球磨の流れ」。
途中「白石」(?)で交換した「上り貨物」レを牽引していたのは、確か「C57」だった記憶が・・・。
「鉄」親父は、「貨物を幹線で活躍した『C57』が牽くとはぜいたくだなぁ・・・」と意外な面持ちでありました。

 3 「吉松」から「西鹿児島」までのルートに選んだのは、「C57牽引の旧客鈍行レ」。
しかし、「八代・人吉」のイメージとは異なり、「西鹿児島行」は「隼人」までの勾配を滑るが如くに疾走。
その車内では、「八代」から小生達と同じ列車で「西鹿児島」まで同行する「撮り鉄」の先達方が、
情報交換宜しく「時刻表」を片手にお互いの成果をご披露されていたようでした。
「鉄」親父が、学生さんたちと仲良くなって「東京から来た年端もいかぬ小学生」であった小生に、
「肥薩線のループ線とスイッチバックを小学生で眺められるのは羨ましいなぁ・・。」と話してくれた記憶がございます。
前述しましたが、その「学生」さんたちも現在では「60歳前後の鉄先輩」であります・・・。

 長々と失礼致しました。
以上、「昭和46年盛夏の肥薩線」の想ひ出に浸った「道民球団熱烈応援団」である「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 8月25日(水)17時19分31秒
タイトル 吉松駅
ED76109先生:
2年違いでしたね。私が吉松へ行ったのは44年7月に鉄道友の会阪神支部の九州撮影旅行
でした。聊か風変わりなルートで伊丹-ANAのNH441(最終便だけYS11でした)板
付-西鉄バス貸切−八代−人吉(一勝地の鉄橋で1221レのC57撮影)−人吉(駅前の温泉旅
館で入浴,朝食,休憩)スハフ3243撮影−バスで大畑駅下まで−−−−徒歩で坂を上って
大畑駅-有名な湧き水で喉を潤し,ループ撮影-「えびの1号」で−吉松駅(駅前で昼食,
鯉こくがうまかった)−吉松機関区で撮影、C5699、C5534(門デフ),キハ53、D54889
(切り取り煙板)、C5691(型式入りでお召しに使用されたとか)、撮影後貸切バスで
湯之元温泉泊まり
------長くなるのでこの辺で止めますが,最後は宮崎空港から就航間もないB-737で帰阪
(NH−414便)でした。



投稿者 高速貨A
投稿日 2010年 8月25日(水)23時01分56秒
タイトル 小樽市総合博物館
 先日、久しぶりに小樽市総合博物館を訪れ、保存車輌等を見学しました。
保存車輌の詳細については当掲示板やHPに示されていますので、ここでは割愛いたしますが、
私は旧型客車の車内見学後、座席に着席して、しばし瞑想?にふけるようにしています。
 屋外展示の保存車輌ゆえ老化が進んでいますが、室内の雰囲気は、当時のままです。
「昔は、急行ニセコや山線夜行に乗車したんだよな。」とか、
「蒸気暖房始動時に”カーンコーン”と、けたたましい音が発生するんだ」といった感じで瞑想?にふけっています。
 保存車輌は窓が開かず、本州より涼しいとはいえ、北海道も猛暑なので
室内に10分もいると汗だくになってしまいますが・・・。
もう少し涼しくなったら、再び訪れようと考えています。
 添付写真は保存車輌のうち、スハフ5−1の室内です。二重窓が確認できます。
また妻面に家庭用エアコンが設置されていますが、作動していませんでした。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 8月26日(木)21時22分0秒
タイトル 南国の煙「吉松機関区」
 失礼致します。「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 「吉松機関区」については、小学4年生頃に「RJ」(?)で眺めた記憶がございます。
確か「ループ越えのD51」は「人吉機関区」の所属であり、
「吉松機関区」には「C57」や「C55」が「吉都線」や「隼人への肥薩線」で活躍していた記憶がございます。
「鹿児島・宮崎・熊本」の3県境は高原なのですから、
「八代→人吉→吉松」が上り勾配であれば、当然「隼人→粟野→吉松」も上り勾配。
「16.7〜26. 7‰」を「C57」が旧客を牽引しており、
「門司港〜都城」を「吉都線経由」で結んでいた「夜行鈍行レ」も昭和47年3月改正まで健在でありました。
「C50」や「C51」なども活躍したこともある「都落ち」の鉄路。
懐かしく想ひ出の残る「肥薩線」。もう一度訪れてみたいものであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
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