倶楽部メモ(617)
平成22年 8月 3日〜 8月 9日

郡山での分割併合:匠の技 ・ 支線への直通性


投稿者 コスモス
投稿日 2010年 8月 3日(火)23時24分20秒
タイトル 郡山での分割併合
雑魚 様

電車急行時代は、磐越西線系の「ばんだい」が上野寄りで、本線系の「まつしま」や「いわて」が
盛岡寄りになっていました。郡山での上り列車は、「ばんだい」が先着し、数分後に本線列車が先着
列車の後部に進入して併合されていました。「ばんだい」が遅れた場合は雑魚様が体験されたように
「まつしま」が場外で待たされることになりますね。
このように先着列車が在線している線に、編成併合するために別の列車を進入させる必要があり、
当時の郡山の場内信号機には、誘導信号が設置されていました。現在は郡山を経由する定期列車では編成の
分割併合はないようですが、誘導信号は健在なのでしょうかね。
この分割併合による支線区間への直通サービスネットワークのDNAは、東北新幹線系統に受け継がれていますね。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 8月 4日(水)12時30分3秒
タイトル 匠の技
▼コスモス様:
> 郡山での上り列車は「ばんだい」が先着し、数分後に本線列車が後着

本線列車を中心に据えた発想ですね。一方、急行時代からの伝統か否かは不明ですが、
特急「水上」「草津」は、共に渋川に停車するにもかかわらず、分割併合は新前橋で
行われていますね。渋川駅は上越線と吾妻線が方面別にホームを共有する構造ですが、
作業員の配置を、運行上の拠点である新前橋に集約する発想でしょうか。

> 東北新幹線系統に受け継がれていますね。

構内配線の制約上、本線の上り列車が停車前後に下り線を横切るダイヤ干渉の構図は、
新幹線にしては中々大胆な方法ですね。全列車が停車する盛岡はともかく、ホームに
掛からない中線を「こまち」が高速で通過する福島駅は、遅延等発生時の安全確保に
御苦労がありそうで、実際、ダイヤ編成上の隘路と聞きます。

同様に構内配線上の制約が大きな地元・水戸駅の場合、上り「ときわ」「奥久慈」の
併結手順も、なかなか大胆でした。上り「奥久慈」は先ず水郡線ホームで降車を行い
常磐線の下りホームを横切り、上りホームに転線するのですが、朝の 2号は上野寄り、
午後の 4号は仙台寄りに引き上げる為、上野折り返しを挟んで、編成中「奥久慈」の
連結部位が異なっていた様です。

当時、水郡線の車両基地(水戸機関区)側線群が、水郡線ホームとは常磐線を挟んだ
位置関係にあった事、上り急行併結時に特急「ひたち」退避があった事を勘案すると、
かなり煩雑な遣り繰りだった様です。更に「奥久慈」2・3号は上菅谷で緩急接続する
常陸太田支線便との間で急行用一両を遣り取りしましたから、その支援要員だけでも、
結構な「賑わい」を見せていた事でしょう。

多層建ての典型といえば、東北新幹線の開業直前における「くりこま 1号」の関連が
挙げられますね。必ずしもコンピューター支援が無かった「幹線・支線一連托生」型
ダイヤを、アドリブ対応を含め仕切った「スジ屋」の技量は、無形文化財に相当する
匠の技ではなかったかと思う、今日この頃です。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 8月 5日(木)14時00分26秒
タイトル 秋田「しらゆき」+「あけぼの」
DC時代ですが,坂町から「しらゆき」に乗って,秋田で1番ホームに停車すると,間も
なくDC時代の「あけぼの」が奥羽本線から入ってきて、「しらゆき」を引き揚げて
「あけぼの」に併結で青森まで--------。当時羽越本線は上り下りとも1番ホーム使用
でしたし、後年の寝台特急「日本海」も同じでした。羽越本線同士「秋田での離合は無か
った」様です。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 8月 5日(木)18時32分40秒
タイトル 秋田近郊の羽越線
気動車急行「あけぼの」が「しらゆき」と多層建を組んでいたのは、1960年代の中期。
その頃、毎朝、上野行「つばさ」大阪行「白鳥」と、キハ80系の特急同士が同時発車、
併走するのも秋田駅の名物だったそうですが、実際には中々「揃わなかった」との事。

羽越線列車が当時、上下便合わせて一番線の発着に集約されていた、とは意外ですが、
今なお単線主体である事に加え、県都近郊の幹線にしては、普通列車が少ない事情が
あるのでしょう。冬期の寒冷振りから(仙台や札幌は例外だとしても)県都といえど、
郊外の宅地展開が制約される可能性を感じる、北日本固有の現象とも思われます。

十数年前、酒田から秋田まで国道七号線を運転した事がありますが、本荘の街を抜け
新屋までは、人家が極端に少ない海岸線が茫洋と続くばかりで(羽越線の羽後本荘〜
羽後亀田は、国道七号線とは異なり内陸部を経由します)その海の眺めも落ち着いて
楽しめない通勤型 701系を導入した必然性が 良く判りませんでした。

雄物川を挟んで秋田市街に抱合された新屋より以北は、区間便が設定されていますが、
こうした「小回り便」は 701系導入後の設定だった様に記憶しています。鉄道需要が
貨物から旅客へ、都市間連絡から都市近郊輸送へと移りつつある事を感じる一幕です。

なお「アンサイクロペディア」で「JR東日本 701系電車」と検索すると、羽越線の
利用時の心得として「車窓を見るときには、きちんと靴を脱ごう」とあります(^^)



投稿者 コスモス
投稿日 2010年 8月 8日(日)13時10分18秒
タイトル Re:匠の技
雑魚 様

気動車時代の水戸での分割併合について、教えていただきありがとうございます。
水戸では、客車の場合と同じように一旦入線して客扱い後に、構内運転で引き上げてから別線に
在線中の「ときわ」に連結していたのですね。この状況を見てみたかったものです。

上菅谷での分割併合も複雑なものでしたね。このような鉄道側の工夫によって支線からでも
東京や、地方の拠点都市への直通列車を走らせていた時代も過去のものとなって、直通の役割は
高速バスに代わってしまいましたね



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 8月 8日(日)16時23分40秒
タイトル 今月の会報
ED76109先生:
8月号鉄道友の会会報は寝台急行「新星」の編成と、手宮駅、それから函館市電特集です。
北海道支部へ行けば分けて呉れると存じます。
以上お知らせまで。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 8月 8日(日)23時50分15秒
タイトル 残暑お見舞い申し上げます
 久しぶりの暑さに、完全にグロッキー状態の「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 「神戸の夏」は如何でございましょうか。何時も何時もご配慮ありがとうございます。「残暑」にどうぞご自愛下さい。

 >寝台急行「新星」

 昭和39年の10月に登場した「10系ネ」による「旧客急行」であります。
昭和48年6月度版「JTB時刻表」によれば、
「1101レ 上野23:40→仙台6:00 1102レ 仙台23:20→上野5:37」となっており、
「1102レ」については「仙台では寝台を21時50分から使用できます」の一文付き。時代を感じさせてくれます。
編成は「ロネ1+ハネ7」の「8両編成」で、夜行の「ECあづま」が「ハザ+ロザ」の編成。
以前、「クモイ103様」が仰ったように「寝台中心」及び「座席中心」の「急行レ」が
それぞれの「役割」を担っていたのでありました。

 >手宮駅

 「手宮線」は、「幌内」からの運炭のために明治13年に「幌内鉄道」の一部として開通したものであり、
「手宮駅」は「小樽の積出港」でもあったわけであります。
明治44年には、石炭の積み出しのために「手宮高架桟橋(全長280m)」が完成。
樺太・朝鮮半島への国際物流基地となったのでありました。
戦後、石炭の積み出しが「小樽築港」に移った後は、昭和60年に廃線となるまで貨物線として活躍し
(南小樽駅から分岐していたはずであります)、平成13年以降は廃線跡が遊歩道しとて整備されております。
現在は、毎年2月に開催されます「小樽雪あかりの路」の主会場。
「札幌雪祭り」とセットで来訪される「観光客」の方も少なくありません。

 >函館市電

 「函館市電」は、明治30年12月に「亀函馬車鉄道」として開通。
その後、「函館馬車鉄道」→「函館水電」→「帝国電力」→「大日本電力」→「道南電気軌道」と変遷して、
昭和18年11月に「函館市営」となりました。
現在は「本線(函館どっく前・函館駅前・五稜郭駅前)」、「大森線(函館駅前・松風町)」、
「湯の川線(松風町・湯の川)」、「宝来・谷地頭線(十字街・谷地頭)」の4線の運行がなされております。
先週、所用で「函館行」の折に実際に乗車いたしましたが、「ライトレール調の新型車両」。
しかし、「観光客」で満員なのに冷房が今一つの利き・・・。大汗を拭きながらの初体験でありました。

 長々と失礼致しました。
以上、久しぶりの「熱帯夜」に、故郷「東京の夏」を思い出した「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 8月 9日(月)17時22分12秒
タイトル 支線への直通性
▼コスモス様:
> 支線からでも東京や、地方の拠点都市への直通列車を走らせていた時代

そうした「秩序」が崩れて来た背景事情として、第一には、奥羽線や田沢湖線の様に
軌間変更など、大規模な改良工事を施さないと直通が覚束ない、新幹線を主軸とした
高速体系網が広がった事が挙げられますね。

そして「ときわ/奥久慈」が健在だった頃の常磐線でも、既に電車特急との速度差が
著しかった事からも窺える様に、速度性能が大きく異なる異種動力源の車両を、高速・
高頻度のダイヤで取り扱う事の物理的な困難性が顕在化した事、そして「多層建」の
宿命として、末端線区での「異変」が本線に影響する事の是非を巡る考え方の変化が
作用したものと推定します。特に第三点は、主要都市圏と地方との人口格差の拡大が
反映された社会現象の産物とも言えそうです。そう考えると、客レの衰退は(寂しい
話ですが)時代の必然という事にもなりかねません。

> 直通の役割は、高速バスに代ってしまいましたね。

何と言っても、周辺施設の保守・整備と云う意味では、鉄道よりはるかに簡便ですし、
発着地の設定も融通が効きますね。茨城では、鹿島線がその典型と言えるでしょうか。
地方都市間の連絡性を見ても、仙山線ですら、完全に高速バスの後塵を拝しています。

一方、高速道と市街・駅の位置関係を考えると、複数の都市間需要を集約する点では、
市街地でも速達性ないし定時性が確保できる鉄道の方が、効率的と言えます。折しも
高速道の料金設定を巡り、JR各社への影響や高速バスの定時性確保が、懸案事項と
なっている様ですが、上記に述べたそれぞれの特質を最大限に生かせる様に、鉄道や
バスと云った形状の差異にこだわらず(願わくば ある程度の料金通算制を確保して)
気軽に乗り換えられる様な相互補完性の確立が、遠距離移動における公共交通機関の
今後のあり方ではないか、と感じるのでした。

利用勝手の向上を図る施策として、東京メトロと都営地下鉄の経営統合も、取り沙汰
されていますが、都営地下鉄の債務の大きさに鑑み、国交相が難色を示している様で、
財政規律との整合性が難しい処ですね。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 8月 9日(月)17時31分0秒
タイトル 小樽の蹉跌
▼ED76 109様:
> 平成13年以降は廃線跡が遊歩道しとて整備されております。

終端部にある小樽市総合博物館(旧北海道鉄道記念館)の存在を完全に失念、ここで
引き返した己の阿呆さ加減が、未だに許せません(悶)




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 8月 9日(月)21時56分58秒
タイトル 北海道の「鉄」の聖地
 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >小樽市総合博物館(旧北海道鉄道記念館)の存在を完全に失念

  それでは「釈迦に説法(笑)」させていただきます。
「小樽市総合博物館」は、道内に数多く存在する交通関連博物館の中の代表的存在であります。
ここでは、国内現存最古の「機関庫」や「危険品庫」などの煉瓦造りの建造物が数多く保存されているとともに、
これらの近代化遺産は「明治時代に作られた転車台」を加えた国指定重要文化財となっております。
館内には、幌内鉄道で活躍した準鉄道記念物である「SLしづか号」、「い1号客車」。
さらに、国産機最古の「SL大勝号」、「キ601号回転雪かき車」、「DLキハ031号」を所蔵。
加えて「北海やおおとり」等で活躍した「キハ80」、「宗谷やニセコ」等の道内急行等で活躍した「キハ56」、
「スハ44」、「ED76500番台」などなど・・・。合計35両の野外にて展示されております。
再びのご来道の折は、ぜひ一見されんことを祈念いたします。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
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