倶楽部メモ(615)
平成22年 7月25日〜 7月28日

スエ78 15の消息 ・ 沼尻軽便鉄道 ・ 郡山駅のBGM


投稿者 ED76109
投稿日 2010年 7月25日(日)23時29分11秒
タイトル Re:スエ78 15消息
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 TR73様

 はじめまして。「ED76109」と申します。
ほとんど、不得意な分野でありますが、「鉄」勉強のつもりで関係諸サイトを確認したところ、
以下が確認できましたので、ご参考までに記させていただきます。

 「スエ78 15」は、JR化後も「JR東日本」の高崎車両センターに車籍が残置されておりましたが、
同車は「戦災復旧客車」であり、国鉄末期に「3軸ボギー台車」を装着した本線走行可能な一般用客車でありました。
そして、保存運転用に引き継がれてJR発足直後は頻繁に使用されておりましたが、
平成19年に除籍されて同センターに留置されております。

 失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 スカセン
投稿日 2010年 7月26日(月)00時01分36秒
タイトル Re:スエ78 15消息
 「スエ78 15」は、JR化後も「JR東日本」の高崎車両センターに車籍が残置されておりましたが、
同車は「戦災復旧客車」であり、国鉄末期に「3軸ボギー台車」を装着した本線走行可能な一般用客車でありました。
そして、保存運転用に引き継がれてJR発足直後は頻繁に使用されておりましたが、
平成19年に除籍されて同センターに留置されております。

そうですか、残念です。
営利企業モトイ株式会社との立場(都合)があるにしても、クモニ13等の様に
安易に解体しない様に望みます。



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年 7月26日(月)00時54分50秒
タイトル 日本製ブルートレイン
 毎度のバンコク駅での撮影です。確信は持てませんが、外側の青色、タイで塗り直したような印象を受けます。

 画像で右隅に写っていのは従来からの日本製ではない車輌で、これらと連結されていますし、
使われているのだと思いますが、走行区間等の表示は無く、良く分かりませんでした。




投稿者 仙コリ
投稿日 2010年 7月26日(月)09時57分56秒
タイトル Re:スエ78 15消息
スエ78 15の消息についてですが、ネット上で調べる限りでは、非常に残念な話ですが
約2年半ほど前に解体されてしまっているようです。
長年の休車状態で、台枠が修復不能で危険な状態になってしまった事が原因のようです。

私も実態について詳しくは存じませんので、詳しい事がわかる方がいらっしゃいましたら
フォローいただけると助かります。



投稿者 TR73
投稿日 2010年 7月26日(月)12時11分0秒
タイトル スエ78 15 「解体」ですかぁ。
ED76109様  スカセン様  仙コリ様

皆さま、Re、ありがとうございます。

仙コリ様の情報によると、「解体」ですかぁ。(T_T)

スエ78 15復活の頃、運転のたびに
「いつかは乗ってみたい。今回は駄目だったがまた機会があるだろう。」
と思っていましたが・・・、そうですか、残念です。

となると、TR73を履いた、現在乗車可能性のある車両はマイテ49 2だけですね。
それさえも私にとって乗る機会があるかどうか。

460や461(一号編成)でもいいんですが、乗車可能性0(ゼロ)ですね。



投稿者 仙コリ
投稿日 2010年 7月26日(月)17時43分20秒
タイトル 沼尻軽便鉄道
本日、猪苗代方面に出かけたので、猪苗代町の緑の村というところに保存されている
旧「沼尻軽便鉄道」の客車を訪ねてまいりました。
沼尻軽便鉄道は私の幼少期に廃止となってしまっているため、そのような軽便鉄道が
比較的身近にあったという事も大人になってから知ったような次第で、詳しいことは
なにも知らないのですが、軽便鉄道としては全国的に有名であったようです。
どなたかご乗車になった経験をお持ちの方がいらっしゃいましたら、思い出話などを
お聞かせ願えれば幸いです。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 7月26日(月)21時11分8秒
タイトル 日本硫黄沼尻鉄道
もう40年ほど以前ですが、夏に川桁から沼尻まで往復しました。客車はもっと汚い色でし
たが、DL+2両連結でした。平坦区間道路端?を脱線しそうな速度で走り,勾配に掛ると
トロトロ----。沼尻温泉が満員で中ノ沢温泉迄タクシーを飛ばしました。硫黄がきつくて
番頭さんが、「絶対に顔と頭を洗ってはいけません」と宿帖記入の時に注意があつたり、
部屋に狸の剥製が飾ってあったり、階段下に米俵が積んであったりの湯治場?雰囲気を
満喫。
翌朝端単式DC+キサハ?で川桁へ戻り、臨時準急のオロ40で郡山へ出て併結する仙台
からの臨時準急がオロ35だったので乗り換え------
郡山のホームにヴィヴァルデイの「四季」が流れていたのが印象的でした。



投稿者 仙コリ
投稿日 2010年 7月26日(月)23時55分36秒
タイトル Re:日本硫黄沼尻鉄道
マロネロ38様、早速のレスありがとうございます。
地元では「沼尻軽便鉄道」と呼んでいるのが一般的だと思うのですが、これはあくまでも愛称で
正しくは「軽便」とはどこにも入らず「日本硫黄沼尻鉄道」が正しいのですよね。
廃止になったのが42年前のようなので、マロネロ38様が乗車なさったのは、末期のようですね。
保存客車は画像のとおり車内にも入れるのですが、意外と広い感じをうけました。
乗り心地はマロネロ38様が「脱線しそうな」と表現されているくらいなのであまり良くはなかった
のでしょうが、もうすこし鉄道が長生きしてくれていれば、ぜひ乗ってみたかったと思います。

>郡山のホームにヴィヴァルデイの「四季」が流れていたのが印象的でした。

以前にも伺った事があったように記憶しているのですが、このホームでのメロディはまったく
記憶に無いんですよね…
もっともその当時に駅に行っていたとしても記憶できる年齢ではないのですが…
いつ頃までどのような感じで流れていたのでしょうね?興味があります。



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年 7月27日(火)00時32分40秒
タイトル 電車の空港線
 おまけのこのネタを。
客車ではなく電車ですが、鉄道ネタなので許容して頂ければと思います。これとあともう一回。


 やっとこさ空港線が出来ました。
寝台でバンコクへ到着した当日、6月の末ですが、無料試乗会とでも言うべきものがありました。
1日数時間に限定してですが、無料で乗れるというもの。事前予約は必要なく、行けばとにかく無料で乗れました。

 1枚目、2枚目のような車輌です。残念ながら日本製ではありません。バンコク市街の終着駅での撮影です。

 3枚目は空港ビル内で、このような案内があります。空港駅は空港ビルの地下です。
飛行機の到着フロアから、だいぶ降ることになります。もちろん、エレベーター、エスカレーターはあります。

 本格的な営業は、今のところ8月からとも言われています。
 本日現在の状況は、ちょっと確認できていません。
分かりませんが、無料試乗会を終えて、一時的に旅客の輸送を取りやめている可能性もあります。。。。

 もしバンコクに到着して、この電車が運行しているようであれば、一度乗ってみても良いと思いますけど。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 7月27日(火)14時44分5秒
タイトル 郡山駅のBGM?
仙コリ様
丁度夏の盛りでしたから「四季」の「夏」の部分で、雷鳴みたいな------
今CDで聞いていますが、当時は「上品な駅だな」?の感じでした。停車時間がそこそこ
長かった時代ですからBGM的に流れていました

地方の駅は民謡が多いのですが、郡山だけはクラシックで印象に残っています。



投稿者 仙コリ
投稿日 2010年 7月27日(火)19時05分1秒
タイトル Re:郡山駅のBGM?
マロネロ38様
郡山駅でのBGMについて詳しく教えていただきありがとうございます。
当時の発車ベルはベルそのものであったはずなので、どのようなシチュエーションなのかと思っていましたら、
ホームに流れていたBGMだったのですね。
しかも「四季」といえば当然「春」かと思いきや、夏場に「夏」とは当時は粋だったのですね。
現代の動力分散方式の時代では駅のどこにいても列車の発する音が結構うるさいのですが、
動力集中方式の時代には機関車の傍でなければ静かだったので、BGMもよく聞こえたのでしょうね。
機関車牽引時代で時間的にもゆったりしていた古き良き時代ならではのお話ですね。

さて、なぜ郡山駅だけがクラシックだったのかですが、郡山市は昔から音楽(特に合唱)が盛んでありまして
一昨年「音楽都市宣言」をして、「東北のウィーン」「楽都郡山」として音楽活動が多数行われています。
その市民による音楽活動が盛んになり「東北のウィーン」と呼ばれ始めたのが昭和40年頃であり、
草分け的な初の本格的なオーケストラ演奏会が行われたのが当時の国鉄郡山工場の大食堂だった事が
密接に関係しているのだと思われます。
現代のスピード社会も便利ですが、そういった心のゆとりを持ちたいものですよね。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 7月27日(火)21時44分23秒
タイトル 客レに流れた音楽
 おばんでごさいます。「ED76109」であります。

 「郡山駅のBGM」のお話は、長閑な時代の想ひ出話でありますね。
しかし、小生もキャンペーンの一環として「一枚のキップから〜」が「札幌のコンコースやフォーム」に
平成2〜3年ころに流れていたことを思い出しました。
そこでと申しますか、今回は「客レに流れた音楽」に係る戯言を述べさせていただきます。

 1 昭和48年の「鉄」親父との初渡道の折、「釧路」からの「網走行の混合列車」にお世話になったのですが、
  発車前の一時、スチームの利いた「オハフの車内」にスローテンポのジャズが流れました。
  子ども心にも、古ぼけた旧客には似つかないなぁと思っていると、
  ジャズ好きの「鉄」親父は「ガーシュインだな」と一言。
  まだ、春遠い薄曇りの車内に響いた懐かしきジャズの調べは、旅人の心をとらえたようでありました。
  「ジャズとは粋ですね。」と「鉄」親父が尋ねたところ、
  「釧路車掌区のカレチ」さんは「気に入ってくれたのなら、嬉しいですね。」とニコッとされました。

 2 昭和52年の晩夏、「日立木」からの帰路に「平から上野行に化ける鈍行旧客」にお世話になりました。
  「上野」が近づいた「佐貫」で、遅れていた「EC急行(「いわき」か「もりおか」?)」を待避することとなり、
  10分以上停車する羽目に。
  小生、ガラガラの車内で、フォームの外れから聞こえてくる虫の音に耳を傾けていたのですが、
  ふとスピーカーから聞き慣れた音楽が・・・。
  耳を澄ませば、当時国鉄のPRソングとして使われていた「夜行列車(森進一さん)」。
  フォーク調のメロディーと「本当に一駅だけだけだぜぇ〜」の歌い出しが印象的でありました。
  丁度、曲が終わるやいなや、待避も終了して「EF80」の汽笛とともに「旧客」は「佐貫」を離れました。
  その時、「スハフの最後尾」から眺めた「駅の灯り」は、小生の心に残る「鉄風景の1つ」であります。

 3 小生、教科書アドバイザーで「広島行」の際、「上りトワイライトEXP」に幾たびかお世話になりました。
  「札幌」を離れた直後の車中に流れるは「三都物語(谷村新司さん・トワイライトEXPバージョン)」。
  「苗穂」のカーヴで「DD51の重連」を眺めながら、「胸騒ぎの旅は今始まって〜」の一節が流れると、
  「ああ、旅が始まるな」の思いが自然と込み上げて、期待感が膨らんだものでした。
  また、「新大阪」を離れて「淀川」や「新地辺りのビル街」を眺めながら聞いた「三都物語」は、
  「札幌からの汽車旅」の満足感が自然と感じられて、「大阪車掌区のカレチ」氏の
  「再び、皆様とこのトワイライトEXPでお会いできることを楽しみにしております」
  との一節と合わせて、旅の終わりに似つかわしい「メロディー」であります。

 長々と失礼致しました。
以上、「NHKのど自慢予選会」で「山川豊さんの『北斗星』」を熱唱した「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年 7月28日(水)00時48分59秒
タイトル 空港線車輌雑感
 車内の撮影は、人が多かったので自粛しました。
従来のタイの高架電車や地下鉄(ドイツ製だったかな?)と大差ありません。
速くて、エアコンの効いていて、基本的には良いと思いました。

 しっかしぃ、一部が従来の電車と変わっていて、その分なんか変に感じる箇所もナキニシモアラズ。


 座席ですが、ロングシートで表面がつるつる。良く滑るんです。
しかも、1枚目の絵は座席の断面図のつもりですが、図示の寸法が短い。どうも座っていて落ち着けないです。
 適切な写真が撮れませんでしたし、言葉だけでは上手く説明しきれないような気がして、図を描いてみました。


 それと、扉が一旦車体の外側に出てから開くんです。
逆に閉じる時は、外で2枚が合わさってから、内側に引き寄せられるのですが、
その時にバッタンとかなり大きな音がします。
3枚目の絵は、扉を上から眺めた図です。
 乗っている人も、「わっ何、今の音? おっどろいたぁ」という感じ。何でこんな機構にしたんだろう。


 重大な問題では無いのかもしれません。でもやっぱ、日本の電車の方が洗礼されている印象です。

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 長々と連載のようになっていまいましたが、とりあえずはここで終わりです。
なんせ鉄道に乗るのが数カ月に一度なもんで、しばらくこの板ではROMになってしまいそうです。

 何かありましたら、また投稿させて頂きます。
1年以内にマレーシアの夜行客車列車に乗りたいとも思っているのですが、どうかなぁ?




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 7月28日(水)14時42分41秒
タイトル 沼尻鉄道
沼尻鉄道は、採算性が合わなくなった硫黄貨物輸送と決別し、観光輸送をも踏まえた
旅客需要を重視する意図からか、1967年に非電化の侭「磐梯急行電鉄」と社名変更を
行っています。しかし、その翌年には休止され、軽便鉄道ゆえの脆弱さを感じますが、
観光開発事業の大風呂敷や仕手筋の介入などを含めた、経営上の異変が先ずありきで、
そこから、休止・廃止に追い込まれた、という事の様ですね。

廃止の数年後、スキー目的で沼尻を訪れました。猪苗代盆地の北側、桧原湖方面への
道路が分岐した少し先の辺りで「これが沼尻鉄道跡だ」と、車を運転していた親父が
ホームと駅名看板を指し示したのを覚えています。

猪苗代盆地の中心街を擁する猪苗代駅ではなく、川桁駅で磐越西線と接続した背景は、
諸説ある様ですが、元々が貨物主体の鉄道なので、必ずしも接続点を旅客上の要衝に
合わせる必要が無く、長瀬川の渡河省略や、川桁が一駅区間だけ首都圏に近い条件が
好感されたとする説に、説得力を感じます。

なお「磐梯急行電鉄」への改称とほぼ同時に磐越西線が電化されていますが、その際
設定された電車急行「ばんだい」は一部が川桁に停車したと記憶します。沼尻鉄道の
廃止後も、川桁駅は、こうした交通導線の結節点として、機能していたのでしょうか。

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沼尻鉄道と云えば、宮城の仙北鉄道から転入した気動車の印象が強いのですが、実は
経営破綻に伴い運転が休止される直前の導入なのですね。仙北鉄道は、20年ほど前に
築館線・登米線共に、廃線跡を車で辿った事があります。既に線路は撤去済でしたが、
両終端駅(駅名や所在町名としての「登米」の読みは「とよま」で、郡名改め市名は、
同表記ながら「とめ」と読みます)や、米谷のスイッチ・バック施設は、現役当時の
風情が色濃く感じられました。

沿線の築館・佐沼は現在それぞれ、栗原・登米市の中心部であり、こうした要衝への
結節点となっていた瀬峰の拠点性たるや、推して知るべしですね。そもそも東北線が、
宮城県北部の一大拠点である古川(現大崎市)や築館を経由する国道四号線と同様の
経路を採らなかったのは、国道の経路だと、比較的、丘陵がちとなる地形的な制約や、
現在の登米市域に配慮した折衷策も感じられますが、何にせよ、ちょっとした謎です。



 
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