倶楽部メモ(581)
平成22年 2月17日〜 2月19日



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月17日(水)13時21分35秒
タイトル 尚も 下関 ネタ
▼クモイ103様:
> 戦前の国鉄関釜連絡船は、前書き込みで触れたように旧下関駅裏の岸壁に接岸し、

接岸箇所を巡る関門連絡船との位置関係次第では、関門隧道が開通した事で下関港に
ある程度の余裕が出来た可能性がある1943年になって、対釜山の輸送力を補強する為、
博多発着の「博釜連絡船」が設定されたのは、興味深いですね。鹿児島線の香椎から
箱崎埠頭に通じる貨物線は、その名残りでしょうか。この貨物線、多々良川における、
鹿児島線や、西鉄宮地岳線(現貝塚線)の紹介写真では、御馴染みでしたね。

現行の博釜航路といえば、やはり高速船「ビートル」ですね。現在は関釜航路以上の
主要導線と見受けますが、就航の数年前、博多駅改札で、駅員による韓国語も交えた
朝の挨拶は印象的でした。現在、こうした旅客導線は更に増大しているのでしょうね。

> 門司側の小森江と結んでいた貨車航送専門の「関森航路」です。

関門航路では、客貨は終始、分離されていた様ですね。1988年に、ようやく旅客駅が
設置された小森江は、複線区間に相対式のホームを配しただけの「棒線仕様」ですが、
側線など、航送用の名残りは何かあるのでしょうか。

> そもそも「長府」という地名が「長門の国の府」を表していますからね。

徳川時代は長府毛利家の城下町でもあった様で、山陰線川棚温泉界隈(旧豊浦町)と
間違えそうな古名「豊浦」を名乗る藩校系高校も所在するなど、それらしい地勢です。
赤間関と長府の関係は、新潟県上越市の高田&直江津、宮崎県日南市の飫肥&油津に
通じるものを感じます。

関門隧道の特性や開業時期、そして交流電化の実用時期を考えれば、門司駅の構内で
交直流切替が行われる事情は判りますが、ホームを外れた区間で惰行に任せるデッド・
セクション方式だと、隧道の途中から登坂となる下関側からの列車(特に サヤ420を
電源車に宛がい、機関車牽引で博多に直通した 151系特急「つばめ」「はと」等)は、
少々しんどい事になっていたのでは、とも感じます。あるいは、停車駅の直前ゆえと
割り切っての事なのかも知れませんが。

下関市自体が、広域的には北九州、延いては福岡の経済圏に属する事をも踏まえてか、
山陽線の下関〜門司は、JR九州に属していますが、動力分散方式に則った旅客需要
導線本位の発想で、切替点を下関駅に移すという動きは全く無いのでしょうか。以前、
交直流両用車の具備状況ゆえに、関門間の普通電車の運転頻度が制約気味という話を、
度々、耳にしたのですが。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月17日(水)14時45分53秒
タイトル 日欧国際特急構想
▼ユーラシア鉄道様:
> トンネルでのロシアとの陸続きは、国防上の危険が先行すると思います。

海底隧道の鉄道路線を介して、大陸と島国が結ばれた典型事例として挙げられるのが、
1994年に開通した英仏海底隧道でしょう。

現在でも王国制度を維持している英国では、欧州大陸には属さない地勢を「栄光ある
孤立主義」という大英帝国の矜持の一環と捉え続けていた様で、ECに参加するまで、
海底隧道構想には消極的だったとの事です。今でも「ユーロ」ではなく「ポンド」を
通貨単位とする辺り(1992年の通貨危機の経緯も相まって)そうした感覚の名残りが
窺える様でもあります(この辺り、前回渡英した際、御話を伺う機会がありました)

昨年末、寒波が影響し、隧道内で複数便が長時間立ち往生した「ユーロ・スター」は、
高い定時性で、航空便からの需要のシフトも順調ですが、それでもなお、目標とする
利用者数の実績には、遠く及ばず、2006年に隧道の運営会社が破綻(負債額は、実に
一兆円相当を大きく上回る規模)するなど、課題も山積している様です。

EU圏内ですらこれですから、北方領土や排他的経済水域など、外交上の懸案事項が
決着しない限り、日露間での機運の高まりは考え難いでしょう。それ以前に、かかる
海底隧道を整備する前提として、例えば、新幹線を稚内まで延長するなど、宗谷線の
導線強化が必要となる訳で、沿線の人口分布を考えると、余りにも無謀が過ぎますね。

当分は妄想全開で「カシオペア」辺りを、シベリア鉄道で運用しましょう(^^)



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 2月17日(水)23時06分10秒
タイトル Re: 尚も 下関 ネタ
雑魚様

> 関門隧道が開通した事で下関港にある程度の余裕が出来た可能性

 同じ下関にあっても、関釜航路用の接岸設備は大型船3隻が繋留できる長大な岸壁でしたが、
関門航路用は小型船に対応した浮き桟橋でした。
ちなみに関森航路用はもちろん貨車航送の可動橋です。
 博釜航路が開設された背景は、下関側の容量が限界に達したためという主旨のことが
「日本国有鉄道百年史」や「鉄道連絡船100年の航跡」に述べられています。
関門連絡船用の浮き桟橋を移転した程度の余地では、
おそらく関釜連絡船を増発するには焼け石に水だったのではないでしょうか。

> 鹿児島線の香椎から箱崎埠頭に通じる貨物線は、その名残りでしょうか。

 仰る通り、博釜航路の開設に伴い「博多港」駅を設け、鹿児島本線香椎駅西方に設けた貨物仕訳ヤードとの間に
臨港線を敷設したとのことです(日本国有鉄道百年史第11巻より)。

> 小森江
> 航送用の名残りは何かあるのでしょうか。

 「鉄道連絡船100年の航跡」に可動橋の柱が1本だけ残っていると写真入りで紹介されていたので、
1989年の夏に現地へ行ってみました。
場所は確認できたものの柱は撤去されており、門司駅から延びていた線路も剥がされて
砂利だけが生々しく残る状態でしたから、その後再開発されたかもしれませんね。
 国土地理院のサイトで閲覧できる二万五千分の一地形図で言いますと、
「ニッカウヰスキー工場」の「ニ」の字から右へたどって海岸線に当たる付近が、可動橋のあった場所です。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 2月17日(水)23時19分31秒
タイトル 関門に係る「小ネタ」です
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 「関門」に係る「雑魚様」及び「クモイ103様」からの御教示は、小生にとって「鉄勉強」になっております。
様々な視点からのお話、心から敬意を表したい思いであります。
先達の皆様に比べれば・・・でありますが、「戯言」レベルでお耳触りのお話を。

 1 「下関」、「門司」といえば、「JR」への移行以前から「車掌区」が存在しており、
  「山陽筋」の長距離列車の乗務を一手に引き受けていた感が小生にはございます。
  古くは記憶違いでなければ「彗星」「あかつき」等の「関西ブルトレ」の一部や「さくら」を「門司車掌区」が、
  「下関あさかぜ」や「みずほ」等を「下関車掌区」が担当していたはずであります。
  また、往年の「桜島・高千穂」も「東京車掌区」のカレチ氏たちは「下関」までの乗車勤務であり、
  「下関」からは「鹿児島車掌区(桜島)」と「大分車掌区(高千穂)」のカレチ氏に交代していたものでございました。

 2 「下関」から「門司」であろうと、また「門司」から「下関」であろうと、
  「関門隧道」を抜けての経路は興味深いものがありますね。
  以前、記述させていただいたように、「さくら」での「門司」から「下関」の眺めは印象的。
  「門司の灯り」を「最後尾のスハネフ14」から見つめ、そのまま「関門隧道」へ。
  そして、「下関」に到着後に見える「対岸門司の灯り」の美しさ。
  昭和40年代に運転されていた「旧客急行」の「最後尾のデッキ」であれば、
  潮の香りを嗅ぎながらの旅ができたことでしょう。
  小生、強い憧憬を感じるものであります。

 3 以前、「TVのCM」の「鉄」ネタの話題が、当サイトを飾ったものでありました。
  その中で、「大分焼酎二階堂」の「CM」に、確か「早暁(深夜?)の門司駅構内」を映したものがありました。
  「碍子」がついた、独特の交流下の架線柱。「客車列車」の乗降を意識した「低いフォーム」。
  そして、「雑多なポイント」が印象的な「構内配線」。いかにも「幹線の主要駅」という印象が強く残っております。
  旅情豊かな映像は、小生を旅へと誘うセピア色の原風景でありました。

 長々と失礼致しました。
以上、「門司港」からの「海峡の眺め」と「潮の香り」が忘れられない「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 2月18日(木)01時47分32秒
タイトル 関門隧道・国鉄ダイヤ
 小生1986年・国鉄時刻表を持っておりますが、関門通過ダイヤで、面白いのが、
山陰本線・山陽本線・日田彦山線からの乗り入れる気動車、客車列車の存在です。

1.一番興味を引くのが厚狭発4:54〜小倉5:56の気動車列車
2.日田彦山線上り・朝通勤列車1本のみ下関行きがあること
3.山陰本線長門市〜門司に1往復のDD51客車列車の存在
4.都合10往復のディーゼル列車が設定されてたことと、このうち2往復の気動車の下関〜小倉のみの運用があったこと。
5.博多発米子行き「大山スキー号・12系」があったこと。

 こうして昔の時刻表には、国鉄1社時代が故の列車車両の融通性や思わぬ運用の面白さが窺えます。

 いまや優等列車の通過もなく、JR九州の415系「ロングシート」車4連での小倉〜下関運用限定です。

 あー一度でいいので、DD51牽引客車や、キハ55・20系気動車で関門隧道をくぐりたい???(妄想・笑)

*せめて「みすず潮騒号」(キハ47X2連)は休日の快速ダイヤ変更
序でに小倉発着となればいいのに・・・・・・*

 JR各社では、境界駅を超えての乗務員の他社への乗り入れは基本的にしていない
(事故時の責任問題なのでしょうか???)が、唯一例外が、
紀勢本線・紀伊勝浦まで乗り入れの特急「南紀」はJR西日本区間の紀伊勝浦〜新宮間も、
JR東海の乗務員で運行されています。

 ご先輩の皆様方で「南紀」のような例が他にございますれば、ご教示たまわりたくお願い申し上げます。

 失礼いたします。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月18日(木)09時45分59秒
タイトル いそかぜ
▼ユーラシア鉄道様:
> 2往復の気動車の下関〜小倉のみの運用があったこと。

交直流両用電車の不足を補う為の措置とも思えますが、関門隧道程度の距離であれば、
内燃動力者の運用は、特に問題にならないのですかね。

私が気動車で関門隧道を通過したのは「まつかぜ」が米子で系統分割されて間も無い
博多始発当時の上り「いそかぜ」でしたが、とにかく、空いていたのを憶えています。
後年、小倉〜米子、そして小倉〜益田と段階的に縮小されたのは然もありなんですね。

当時、萩市域における「いそかぜ」の停車駅は「萩」ではなく「東萩」で、東三条や
西鹿児島と同様、従属的な呼称の駅が「本家」を差し置き、拠点駅となっている事に、
違和感を覚えていました。阿武川河口の三角州に市街を擁する萩にあって、山陰線は
市街南側の対岸を大きく迂回しながら、東萩・萩・玉江と駅が続きますが、東萩駅が
比較的、市中心部に近い様ですね。特急は無くなりましたが、萩への主要導線である
新山口駅発着のバス「はぎ号」の乗降所として、依然、要衝ではある様です。

>「南紀」のような例が他にございますれば、ご教示たまわりたく

末端区間で他社管轄域に乗り入れる特急として「ひだ」が挙げられますが、猪谷では
ちゃんと乗務員交代が行われているので、該当例ではありませんでした。この猪谷駅、
神岡鉄道消化の際、訪ねた事がありますが、周囲は神通川の山間部で人家も殆ど無く、
駅も旅客取扱上は無人、運転要員詰所があるだけと、備後落合に通じる寂しさでした。

ここから南側一帯の渓谷区間は、2004年秋の台風で壊滅的な被害を受け、完全復旧に
三年間を要する異常事態となりましたが、復旧後は並行する国道ともども、直線的な
隧道区間が目立つのは然もありなんですね。猪谷〜杉原では、宮川の水力発電関係と
思しき施設のインクライン軌道が、高山線の車窓を一瞬掠めますが、まだ健在かな?

高山線特急の乗務管轄といえば、名鉄直通の「北アルプス」は、美濃太田が乗務員の
交替駅でした。兄貴分の「ひだ」に比べ、短絡経路で、岐阜でのエンド交換もない分、
速達面で一見、有利にも思えましたが、実際は、木曽川橋梁の併用軌道に象徴される
名鉄区間での高速運転の制約や、岐阜もまた、一定の需要が見込める事情などにより、
案の定、廃止されてしまいました。

その「北アルプス」用編成は現在、鬼怒川温泉〜喜多方で活躍中ですが、これに伴い、
JR以外の私鉄で三社区間に跨り、座席指定の設定があった 350系急行「南会津」が
廃止されたのは、ちと残念でしたね。会津田島から会津若松寄りに、暫く続いている
電化の準備工事と思しき電柱が、本来の用に供される日は来るのでしょうか。

以上、コジツケ的な脱線話の連続で、失礼を申し上げました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月18日(木)15時37分57秒
タイトル 旧北陸線
現在は北陸道のPAとなった旧杉津駅を境に、南側は北陸道、北側は 県道207号線の
経路が旧線跡と見受けます。1996年に北海道の豊浜隧道で発生した崩落事故を契機に、
全国各地で隧道の点検作業が行われ、複数の隧道を擁する廃線跡は、その後しばらく
通行止だったとも聞きます。

杉津駅は「ウィキペディア」によると、海水浴場に(一直線の石段で)歩いて行ける
駅として、夏は賑わったと紹介されていますが、同地は海抜 200mと敦賀湾の眺望は
素晴らしく、地図上の印象からしても、少なくとも 現代の感覚では「歩いて行ける」
位置関係とは言い難いですね。

旧線固有の新保・杉津・大桐駅のうち、特に新保駅界隈は、地元・水戸の郷土史家が、
時々訪ねた様です。これは同地が、北陸線が開通する30年前、水戸藩の尊皇攘夷派と
佐幕派による、藩の内外での武力衝突「天狗党の乱」ゆかりの地である為です。

同党は、徳川慶喜経由で朝廷に尊王攘夷の志を訴える為、中山道から上洛を試みるも、
桜田門外の変で水戸藩を敵視していた彦根藩など、諸藩の防衛線を避けて「さらさら
越え」よろしく、厳寒期に伊吹山地を越え、今庄に抜けています。

結局、幕府による包囲網の下、その先の新保で投降し、敦賀で大半が処刑されますが、
その後の戊辰戦争では逆に佐幕派が弾圧され、こうした消耗戦の末、水戸藩では本来
明治新政府で活躍すべき有為の人材を全く輩出できず終いなのでした。

子供の頃、郷土学習でこうした話を聞いた当時、真冬での山越えを敢行した志士達の
勇壮振りを思えば、近所を走る越美南北線が一本に繋がらないのは実にもどかしいと
感じたものですが、後年、実際に油坂峠を越えた時、その険しさを目の当たりにして、
そうした考えを、あっさり撤回しました(^^)

並行する高速道を長距離バスが行き交う南線(長良川鉄道)では、経営状態がかなり
苦しい様ですね。一方の北線では、2004年の水害で「このまま廃止か」と見られるも、
先述の高山線と同様、三年かけ完全復旧しており、翌年の水害で廃止に追い込まれた
高千穂鉄道の事例に鑑みても、設立区分の違いがモノを云ったという印象です。

もちろん、北線が越前大野という独自の市街を沿線に擁したという事情もありますが、
これとて、元々は京福電鉄がカバーしていた地域を、後発の北線が凌駕した形ですね。
なお、1960〜74年の並存時代、北線と電鉄線は立体交差関係にあったそうです。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月18日(木)16時39分15秒
タイトル 宇高航路
▼クモイ103様:

船舶に関する、広範にして深遠なる御教示、誠に有難うございました。本掲示板では、
貴兄がやはり「生字引」格ですね。また、機会がありましたら、宜しく御願いします。

船舶といえば、宇高航路を運行するフェリー二社が、三月下旬に撤退する旨の報道が
ありますね。本四架橋を含む高速道における料金の割引が影響した結果との事ですが、
強風で瀬戸大橋の通行が規制された場合の代替輸送は、どの様に担保されるのやら?

当初の構想と比較すると、厳しい財政事情を反映して、実施規模が大幅に減免された
印象を伴う高速道無料化ですが、今回の宇高航路の廃止は、航路に限らず、高速道に
並行する鉄道の地方路線の今後のあり方をも示唆している様ですね。関連する報道を
概観すると、国策の是非に対する言及が散見されている様です。

この結果、宇野は陸路と海路の結節点としての要衝性が多々減退する事となりますが、
既に宇野駅自体は、移転を経て頭端式一面二線構造とかなり簡略化され、寝台特急が
発着していた当時の活況は、窺うべくもなさそうです。

宇野駅が所在する玉野市は「宇野」と旧日比町の中心部「玉」の合成名ですが、この
両地区を結んでいた市営電鉄は、市街を大きくS字状に抜ける独特の線形が、今でも
道路地図から、自転車道として容易に読み取れます。

電化施設を残しつつも、開業して十年余で気動車運転に切り替えるなど、台所事情は
終始苦しかった様ですが、琴電に移籍していた 760号電車が、旧塗装を復元した上で
玉野に戻り、静態保存されているのは、感慨深いですね。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 2月18日(木)17時36分8秒
タイトル 北陸本線の旧線
新保はスイッチバック駅でしたね。
新保‐杉津‐から大桐へ下る辺り「トンネルを出たり入ったり」で夏はD51の煙から
逃れるのに窓の開閉に忙しく、DD51が入った時は嬉しかったです。

主に「ゆのくに」,「北陸」、「日本海」に使用されていましたが、アノ格好から
渾名が「海坊主」。超毒舌のファンだった故野村董氏にそう言われた三菱三原の技師が
「あれは車体よりもエンジンカバーです」と言い訳した逸話があります。

それに「山中信号所」がありましたがその辺りで地すべりが起きて,長期間不通になり
「ゆのくに」、「北陸」、「日本海」がウヤで、一部長距離夜行鈍行が、大阪‐岐阜-
高山‐富山経由で運転された時もありました。昭和2?年ごろだったか?(25年よりも
後だったと想います)



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 2月18日(木)21時05分27秒
タイトル 電化の効用?
<雑魚様>
「電化施設を残しつつも、開業して十年余で気動車運転・・・」

 小生の、気動車好きが昂じた私見ではなく、率直に疑問に思うのが
例えば兵庫県の「加古川線(西脇ー谷川)」や「播但線」など、何の意味で電化したのか?

 沿線地元はバカの一つ覚えの如く「複線電化」を要求するが、高い工事費用、永劫続く架線・電柱設備のメンテナンス、
を考えると何れ国民資産であるこれら諸設備(固定資産)の究極の負担は国民・国家の責務となります。

 また折角「複線電化」しても、一時的に観光客の増加あれど飽きっぽい国民性では、長続きせず、
かえって「ストロー効果」で若年層の都市への流出を加速させ、地方村落共同体の、崩壊を招いている気がしてなりません。

 それならJR九州が導入しているキハ220型(九大本線で乗車)など「高性能加速気動車」や
小海線のハイブリッド気動車、将来的に「水素気動車」など気動車の進化に資金投入するほうが、
鉄道事業のトータルサイクルコスト(ロングスパンで考察した費用対効果)的にも、ベターと思います。

 小生のキハ220乗車の感想は、何ら電車の加速性能と変わらないスタートダッシュのよさに驚愕しました。

 福知山線でも、アーバンネットワークの機能しているのは、実質的に大阪〜新三田であり
贔屓目に見ても「篠山口」までで、以北は昼間は113系2連のワンマン電車なら、キハ47X2連でも同じです。
 宝塚〜城崎までの電化延伸は、特急「北近畿」だけのためであり、
1時間に1本ヘッドでは「架線電流の自然放電」の無駄も、エコ的に問題かと思います。

 小生の私見ながら、既電化路線で「特急」を含め、高性能気動車化すべきは、上述の2路線以外に、
「和歌山線・桜井線」「山陰本線の城崎〜篠山口・園部」「小浜線」「信越本線高崎〜横川」など

<阪和線・和泉府中で旧型客車と165系との遭遇>写真添付します。




投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 2月18日(木)22時33分53秒
タイトル 100周年を目前に…
雑魚様

> 宇高航路を運行するフェリー二社が、三月下旬に撤退する旨の報道

 私もこれに触れようと思っていて、きっかけが掴めませんでした。
 宇高航路の歴史は今からちょうど100年前の明治43(1910)年6月、
宇野線岡山−宇野間の開通とセットで国鉄が開設した連絡航路に端を発します。
昭和63(1988)年4月の瀬戸大橋開通に伴い鉄道連絡航路としての役目は終えましたが、
並行する民間のフェリーは瀬戸大橋の通行料金の高さもあって今まで存続してきました。
もうあと3ヶ月で航路開設100周年を祝えたのに。
(そうか、一昨年が国鉄青函航路開設100周年だったんだ…)



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月19日(金)09時30分12秒
タイトル 電化区間
▼ユーラシア鉄道様:
>「加古川線(西脇ー谷川)」や「播但線」など、何の意味で電化したのか?

前者は、阪神大震災時の迂回路に供された際、非電化ゆえ緊急導線としての実効性が
不足した事に対する教訓と聞いています。起点の加古川市は、人口規模がほぼ同等の
我らが水戸市と同様に特例市の扱いで、ある程度の「集客性」はあるでしょう。

その一方、かれこれ20年ほど前、第三セクター路線を特集したRJ誌別冊の記述では、
国鉄時代、鍛冶屋線(1990年廃止)と共に、加古川線に直通する事で、加古川口での
運転頻度を段階的に高めていた三木鉄道や北条鉄道が、県立高校の学区割事情もあり、
旅客流動の導線が必ずしも一致しない旨の記述があった様にも記憶しており、転じて
加古川線の「微妙な立場」が垣間見える思いでした。

姫路市はその倍、政令指定都市に移行しても不思議は無い人口規模ですから(飾磨区・
網干区など、市内に六箇所ある「区」は、単なる地域区分であり、行政上の法人格は
ありません)御指摘の「高性能加速気動車」等が出揃うまでの間、現有車両で大都市
近郊の輸送体制を整える意図であれば、相応の意義はあった様に感じます。

その一方、路線の北半部が非電化で残っているのは、周辺路線の電化事情に鑑みても、
やや中止半端な感は否めませんが、隧道開口部の物理的制約もあり、姫路から30kmの
寺前で輸送体制が一段落するのは、程好い感覚なのかも知れません。

> 宝塚〜城崎までの電化延伸は、特急「北近畿」だけのためであり、

1986年の電化当時は確かにそうした印象でしたが、その後、山陰・舞鶴・宮福各線の
電化を受けて、智頭急行の様な新型気動車ではなく 485系を改造した 183系を充てた、
福知山を一大結節点とする特急網「ビッグX」を形成しています。御懸念の、放電や
設備保守の課題はあるにせよ、将来、新型気動車等が広範に普及するまでの過渡的な
措置と割り切れば、判り易いのかも知れません。

>「和歌山線・桜井線」「城崎〜篠山口・園部」「小浜線」「信越本線高崎〜横川」

和歌山は、王寺〜高田でJR難波直通便や桜井線便が輻輳しますね。信越線の場合は、
安中駅における東邦亜鉛関連の貨物取扱が今でも一定の規模を擁しています。これに、
上述「ビッグX」を勘案すれば、これら電化施設の維持は意義ある事と考えます。

これに対し、電化後も畿内直通の定期列車が設定されていない小浜線の電化の意義は
良く判りませんが「匿名の寄付」「高い地元負担率」など、特殊な事情がある様です。
小浜線の今後は、小浜〜畿内の主要導線たるバス路線「江若線」を踏襲する「琵琶湖
若狭湾快速鉄道」の実現性次第ですね。この路線構想、湖西線の事実上の前身である
江若鉄道以来の課題と云えるでしょう。

以上「ビッグX」と聞くと、手塚治虫原作のアニメ番組を連想する雑魚でした(^^)



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 2月19日(金)16時56分45秒
タイトル 宇高国道フェリー
まさか国道フェリーが廃止とはです。
四国へ度々往来していた頃は帰途高松17.40の関西汽船観光船か同じころに出航の宇高
連絡船+特急「うずしお」でした。
時間の関係で早くなったら国道フェリー(連絡船より設備が良かった)+両備バスの
岡山行急行便(フェリー乗り場と隣接)で岡山迄行き、山陽本線の特急や急行に乗り換
えたものでした。
国道フェリーも一寸変った旅情を楽しめましたが廃止は惜しいですね。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月19日(金)17時36分50秒
タイトル 小松島港
▼クモイ 103様:
> もうあと3ヶ月で航路開設100周年を祝えたのに。

そう考えると少し勿体無いですね。ちなみに海外を含めると、鉄道連絡船の最古参は、
1833年、スコットランドで運河を介した例だそうです。鉄道発祥国の面目躍如ですが、
1980年までは、ロンドン〜パリの夜行列車を、乗客が就寝した侭、フェリーに載せて
ドーバー海峡を渡るという大技もあったそうな。昼行便ならともかく、通関手続きは
どの段階で行ったのでしょうね。

改めて調べると該当事例は意外に多く、アジアでは、渤海、長江、そして雷州半島と
海南島を隔てる瓊州海峡と、客レ大国・中国で数例見られます。両岸の軌間が異なる
チチカカ湖(ペルー・ボリビア国境)では、車両航送艀自体が三線化されているなど、
今更ながら、世界は広いと感じた次第。

==================================================================

国鉄連絡船ではありませんが、和歌山〜徳島県小松島の航路は、青函・宇高に準じる
風情があった様に思います。私が小松島港を訪ねたのは、小松島線の廃止直前ですが、
同線直通の優等列車はなぜか、徳島線急行「よしの川」のみで(徳島以南は快速扱い)
徳島線・小松島線の「消化」を、名物の竹輪で締め括った格好でした。なお、徳島の
ゆるキャラ「ちっかーず」の原型は、この竹輪なのだそうです(^^)

小松島線が廃止されて四半世紀、徳島県側の航路拠点が小松島から徳島に移り十年と、
歳月を痛感しますが、牟岐線における小松島市の代表駅は、旧小松島線に遠慮してか
相変わらず「南小松島」と、従属的名称ですね。旧小松島駅はあくまで築港駅であり、
市役所や中心街の玄関は、元々こちらという印象が強いので、そろそろ「小松島」を
堂々と名乗って頂きたい気もします(費用面で問題あり?)

以上、牟岐線特急の直通先が高徳線でなく徳島線なのが、どうも解せない雑魚でした。



 
 
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