▼クモイ103様:
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戦前の国鉄関釜連絡船は、前書き込みで触れたように旧下関駅裏の岸壁に接岸し、
接岸箇所を巡る関門連絡船との位置関係次第では、関門隧道が開通した事で下関港に
ある程度の余裕が出来た可能性がある1943年になって、対釜山の輸送力を補強する為、
博多発着の「博釜連絡船」が設定されたのは、興味深いですね。鹿児島線の香椎から
箱崎埠頭に通じる貨物線は、その名残りでしょうか。この貨物線、多々良川における、
鹿児島線や、西鉄宮地岳線(現貝塚線)の紹介写真では、御馴染みでしたね。
現行の博釜航路といえば、やはり高速船「ビートル」ですね。現在は関釜航路以上の
主要導線と見受けますが、就航の数年前、博多駅改札で、駅員による韓国語も交えた
朝の挨拶は印象的でした。現在、こうした旅客導線は更に増大しているのでしょうね。
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門司側の小森江と結んでいた貨車航送専門の「関森航路」です。
関門航路では、客貨は終始、分離されていた様ですね。1988年に、ようやく旅客駅が
設置された小森江は、複線区間に相対式のホームを配しただけの「棒線仕様」ですが、
側線など、航送用の名残りは何かあるのでしょうか。
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そもそも「長府」という地名が「長門の国の府」を表していますからね。
徳川時代は長府毛利家の城下町でもあった様で、山陰線川棚温泉界隈(旧豊浦町)と
間違えそうな古名「豊浦」を名乗る藩校系高校も所在するなど、それらしい地勢です。
赤間関と長府の関係は、新潟県上越市の高田&直江津、宮崎県日南市の飫肥&油津に
通じるものを感じます。
関門隧道の特性や開業時期、そして交流電化の実用時期を考えれば、門司駅の構内で
交直流切替が行われる事情は判りますが、ホームを外れた区間で惰行に任せるデッド・
セクション方式だと、隧道の途中から登坂となる下関側からの列車(特に
サヤ420を
電源車に宛がい、機関車牽引で博多に直通した
151系特急「つばめ」「はと」等)は、
少々しんどい事になっていたのでは、とも感じます。あるいは、停車駅の直前ゆえと
割り切っての事なのかも知れませんが。
下関市自体が、広域的には北九州、延いては福岡の経済圏に属する事をも踏まえてか、
山陽線の下関〜門司は、JR九州に属していますが、動力分散方式に則った旅客需要
導線本位の発想で、切替点を下関駅に移すという動きは全く無いのでしょうか。以前、
交直流両用車の具備状況ゆえに、関門間の普通電車の運転頻度が制約気味という話を、
度々、耳にしたのですが。 |