おばんでごさいます。「ED76109」であります。
雑魚様
>「きたみ」は特急へ昇格する事も無く、相変わらず、1〜2両で「慎ましやかに」運行
「礼文(旭川・稚内)」と異なり、「きたみ」はまさしく「慎ましやか」に運行を続けております。
「遠軽在住」の時、道央や道南への部活動遠征のために生徒とともに利用しましたが、
「マロネロ38様御用達のキハ54単行」で事足りておりました。
現在も「オホーツク2号及び4号」の間合い的な運用であり、上りは「旭川」で「スーパーホワイトアロー」に接続。
「名寄」「士別」等がある「宗谷線沿線」の方が、確かに「人の気配」は多いですね。
>客車編成「利尻」や共通運用を組む「宗谷」「天北」
件の「急行ブルトレ」が消滅してから、早20年。そんな想ひ出を「戯言」調で・・。
1 昭和61年の秋の連休、「14系利尻」の「名寄・札幌」に乗車。
まだ、日高管内の高校に勤務していた頃で、「名寄本線・湧網線」等の乗り潰しの帰路、最後尾の「スハフ14」に。
「白石」通過も間近で、もう「札幌」と思っていた矢先に「苗穂」に停車しました。
「え〜」と思っていると、「旭川車掌所のカレチさん」が「先頭の『ユニ』を切り離します。」と小生に一言。
すると「ED76」が「スユニ50」を側線に据え付けて、再び「利尻」に・・・。
国鉄末期とは言え、今では見ることのない「往年の荷物輸送」の一端を体験することができました。
2 「14系ニセコ」は、昭和57年に「旧客」から転換された「新PC急行」でありました。
前述のとおり「厳冬」や「晩春」等、四季の自然豊かな「山線」を走破した魅力的な「ブルトレ」。
しかし、上りの晩年は「ユ+4連」を「ED76」と「DD51」が牽引するという「寂しい姿」でありました。
利用客も減少の一途であり、上記1の後に「最後の102レ」を堪能しましたが、
廃止1ヶ月半前にもかかわらず、ガラガラだった姿が今も脳裏に残っております。
3 当地の「ブルトレ」を牽引していたのは、大部分が「DD51」でありましたが、
小生の好みは「利尻」「ニセコ」に運用されていた「ED76500番代」でありました。
「札幌・旭川」や「札幌・小樽」と中途半端な距離が仇となって
「DD51」が主体的に活躍する姿に「嘆息」しながらも、
数少ない運用にエールを贈っておりました。
しかし、今となっては「道央」に「EL」の影形も見られず、淋しさばかりが募っております・・・。
長々と失礼致しました。
以上、「NHK総合のクローズアップ現代」での「オリエント急行廃止」のレポートに、
「はやぶさ・富士」の姿が重なってならない「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |