倶楽部メモ(560)
平成21年10月18日〜10月20日 |
投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2009年10月18日(日)07時44分33秒 |
タイトル |
Re: 急行「出雲」 |
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マロネロ38様
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大社へ行くオロ35の客はこの区間指定券無しでスロ53に乗れた???
確かにスロ53(特ロ)は大社編成、オロ35(並ロ)は浜田編成ですから、
大社線内では、当時としては異例の特ロのみ連結の豪華(?)列車という事になります。
昭和30年当時の特ロは指定席ではなく、特別2等車料金を支払って乗る「ワンランク上の自由席車」だった筈ですが、
昭和33年10月改正で2等車が指定席車+自由席車の体制に移行した後も、
指定席車スロが大社行き、自由席車オロが浜田行きという関係が続きましたから、同じ事ですね。
時刻表S30-8の大社線の欄を見ますと、「701.702 出雲今市−大社 普通2等なし」とあります。
従って、オロ35の客がこの列車で大社へ行こうとしたら、大社線内だけ特別2等料金(300キロまで300円)を払うか、
さもなくば下級変更するしかなかったと思われます。
元々この列車で大社を目指そうという人の殆どは「非日常の特別な旅行」をする人で、
当時人気のリクライニングシートの特ロを選ぶ人が多かったので大した問題にはならなかった…のでしょうか?
今の感覚では、特例措置で普通2等客も特ロに乗車可能なんて事も考えつきますが、
当時はそういう発想は無かったのでしょうね。
なお、その後36-10改正の直前には、指定席車も浜田行きとなり、大社行きはオール「ハ」の編成になっていました。
出雲市−浜田間が急行に格上げされたことと関係ありそうですが、
「出雲詣で」よりも地元の都市間輸送のウェイトが高くなったという事なのでしょうか。 |
投稿者 |
ユーラシア鉄道 |
投稿日 |
2009年10月18日(日)10時06分0秒 |
タイトル |
貴婦人C57-128の撮影地 |
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<マロネロ38様>
貴婦人の優雅なるお写真、有難うございます。
撮影地ですが、中山寺駅を通過後の小川にかかる鉄橋の手前かと
推察いたします。
現在では「ダイエー中山寺店」の少し東側地点と思われます。
終戦前後の宝塚界隈の話を、小生の母上(父上は軍務中)に尋ね
ますと、阪急宝塚線でも電車は1〜2両で、沿線周りは竹林の連続
で、空襲警報発令時は、電車が停止し竹林の中に隠れたと申してお
りました。
戦時中は、中山寺駅南東方向に、軍需工場があり、専用引込線が
(現在も天井川トンネルが自動車道として残っています。)あり、
宝塚村内(当時宝塚は温泉・歌劇・停車場[駅]の名称で住居表示
は兵庫県川辺郡小浜村、長尾村でした。)の米軍空爆目標は、この
軍需工場でした。
ただ宝塚市内でも中山寺駅(「停車場」の表現のほうが詩的?)
近辺は、コーナン、上新電機ができるまでは日本の原風景が残って
おりました。
福知山線でこの風景を求めるなら「相野」まで行かなければ?
[相野駅」での、朝夕のみに残る113系通勤「列車」の到着に
合わせた、働く夫の出迎え光景に、汽車時代の憧憬を重ねてしま
います。
つい2−3年前までは、113系は湘南色の美しい編成だった
のがJR西日本色に変わりました。
長閑な日本の原風景に貴婦人+旧型客車(当時はこれが当たり前)
**これ以上のものは、ございません**
いいお写真有難うございました。
以前にも掲載させて頂きましたが、貴婦人いるのあたりで撮影
しました写真を再掲載させて頂きます。
<中山寺駅西方・小川を越えたばかりのキハ26X9連> |
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< 同 ・小川手前ダイエー中山寺店脇のDD51> |
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投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年10月18日(日)10時23分31秒 |
タイトル |
急行の特ロ |
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特ロは最初から指定席制で席番が決まっていました。特別2等車指定席だったのです。
昭和31年8月10日乗車の602レ大阪→金沢の「特別2等車券」を保存して居ますが、
13時50分発、602列車2号車41番。昭和28年の602レ分裏面には姓名と年齢が書いてあります。
(申し込み書に姓名年齢を書かされた)
昭和33年10月改正で「急行のロはすべてリクライニング車」になって、車両が足り
ないと定員の半分ぐらいが自由席でした。最も特ロの需要が多い急行には従来の
並ロが暫く連結されていました。601-602レは上野‐福井に短縮され、大阪‐富山に
悪名高い鈍足のおんぼろ急行503-504レ「立山」が新設されましたが、これは指定席
スロ60+自由席スロ50か51、「しろやま」などは遅くまで並ロがオロ40の日があり
ました。
当時701-702レの特ロは多分出雲今市→大社間オロ35の客を黙認していたか、発券
当時「異級乗車券」発券だったのか?も知れません。 |
投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年10月18日(日)17時18分54秒 |
タイトル |
中山寺の軍需路線 |
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戦時中中学生で勤労動員された方の話では、戦車工場だったそうで、結局使用され
なかったらしいです。
C57128は確かに鉄橋の手前で撮影しました。ハエたたきと煙突がかぶらない様にした
のです。広角があればもっと良い写真が撮れたのですが、当時は大学入学祝いに父が
買ってくれた,キャノン4sb,f1.8,50mmしかなかったのであんな離れた構図になりました。 |
投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2009年10月18日(日)19時54分1秒 |
タイトル |
Re: 急行の特ロ |
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マロネロ38様
特ロがはじめから指定席制だったとは、不勉強でありました。ご教示感謝いたします。
昭和33年10月改正に絡むピクトリアルの記事を読んでも、そのことが読み取れませんでした。 |
投稿者 |
ユーラシア鉄道 |
投稿日 |
2009年10月18日(日)19時56分35秒 |
タイトル |
想い出のフォトアルバム11 |
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福知山線の想い出写真です。
事故問題でにわかに喚起されていますが、長閑な時代の写真です。
<宝塚電化後の高架を行くDD51(中山寺駅東方)> |
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<中国自動車道下のDD51(中山寺ー宝塚間)> |
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<阪急雲雀丘車庫下の大阪行きDD51(川西池田手前)> |
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投稿者 |
ユーラシア鉄道 |
投稿日 |
2009年10月18日(日)20時08分1秒 |
タイトル |
想い出のフォトアルバム12 |
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続投で失礼致します。
電化前・電化後と交錯して恐縮です。
<電化前・福知山行きキハ26・キハ17混結編成> |
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<武庫川渓谷を行く大阪行きDD51> |
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<篠山口駅留置線の大阪行き客車(今は223系電留線)> |
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投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2009年10月18日(日)20時59分2秒 |
タイトル |
続・急行の特ロ |
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改めまして、特ロの話題を続けさせて頂きます。
昭和33年10月改正を境に、急行列車のロザをめぐる旅客制度が大きく変わっています。
例によって、ちょっと長いですが文献引用です。
鉄道ピクトリアル第87号(1958-10)
「改正された旅客営業規則」(平林喜三造)より抜粋
****************
普通急行列車の2等サービスの改善については,特別2等車の増備と併せ研究していましたが,
この10月から,いよいよ普通急行列車の2等は原則として特別2等車とすることとなります.
すなわち従来は特別2等車料金を要する特別2等車のほかに必ず普通2等車を連結運転していましたが,
こんどは特別2等車のみの連結とし,2両の場合はそのうち1両を指定席,1両を自由席
(当分の間自由制の車両は車の都合で普通2等車を連結する場合がある)とし,
また1両の連結で充分なものでは,その1車両の中に一部分を指定席,他を自由席とすることとします.
このようにして2等車の連結の合理化によって生み出された列車のけん引余力は3等寝台車の増結にあてられます.
ところで,この座席指定制の採用によって,あらたに座席指定席券を発売し,
距離に関係なく2等200円の料金をいただくことになりました.
****************
この最後の方の記述で、「指定制が新たに採用された」と思い込んでしまったのでした。_l ̄l○
なおこの改正から、急行列車の特別2等車料金が免除される様になった事が、時刻表の営業案内から確認できます。
距離によって300円〜720円の特別2等車料金が、200円の指定席料金に代わった訳で、実質の値下げですね。
ちなみに当時、準急以下の列車には特ロは連結されていなかったので、
これで特別2等車の制度が事実上消滅したことになります。
名目だけとなった特別2等車の制度は、翌昭和34年6月1日に正式に廃止されました。
車両称号規程が改正されて「特別2等車」の名称が消滅したことが、前日5月31日付けの鉄道公報から確認できます。
但し、宇高航路の特別2等船室料金60円はその後も存続していました。 |
投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年10月20日(火)10時16分34秒 |
タイトル |
601-602,503-504レ訂正 |
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訂正します:
31-11-19改正で601-602が上野‐福井に短縮、503-504レ「立山」新設でした。
「立山」の初日は優等車が601-602レ時代のスロ51+スロ34からスロ60+オロ40と
並ロが悪くなり、スロ60も「つばめ」のお古でした。「ハ」はスハ43系。「大ミハ」持ち
でした。
33-10-1改正で並ロがスロ50か51になったのでした。
以上訂正させていただきます。 |
投稿者 |
雑魚 |
投稿日 |
2009年10月20日(火)17時18分9秒 |
タイトル |
畿内 レポート 01 |
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久々に大阪方面に出掛けて参りましたので、同地での「鉄レポート」を少々。まずは
新大阪駅から俯瞰した宮原総合運転所の様子です。構内配線はその侭に、十年前なら
旧型客車が多々留置されていたのが、上段画像の様に、今ではかなり寂しい印象です。
ところで「トワイライト〜」以外の編成は、現在、稼動扱いでしたっけ?
中段画像は、再開発事業の進捗に伴い少しずつ「侵食」されている梅田駅の様子です。
古式ゆかしき「ザ・貨物駅」が無くなるのは、寂しい話ですが、大阪駅という要衝に
隣接して、この様な広大な施設が、この御時世まで存続し得たのは、稀有な事ですね。
この画像は、梅田スカイ・ビル「空中庭園展望台」からの視点ですが、特に夕暮時は、
淀川の河口が、下段画像の様に美しく色づくなど、イチオシのスポットです。聞けば、
今週は、落日と明石海峡大橋が重なるらしく、普段から矢鱈に多いカップルに加えて、
夕景目当てのカメラマンも多々訪れている事でしょう。
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投稿者 |
雑魚 |
投稿日 |
2009年10月20日(火)17時47分3秒 |
タイトル |
畿内 レポート 02 |
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若かりし頃の修学旅行気分(^^)で、京都タワーに初めて登りました。おお、これは
隠れた鉄撮名所ですね。奈良線の
103系運用も、坂東武者にとっては、感涙モノです。
梅小路蒸機館の扇形庫が、公園の木立に隠れている点のみが惜しまれます。
ちなみに、春先における新型インフルエンザ騒動の皺寄せから、京都市内の名所では、
修学旅行生が相当目立ちました。知人も、京都出張時のホテル確保が困難だったとか。
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投稿者 |
雑魚 |
投稿日 |
2009年10月20日(火)17時52分47秒 |
タイトル |
畿内 レポート 03 |
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上段は近江中庄、中・下段は蓬莱〜志賀での撮影です。琵琶湖沿岸も穏やかな天気で、
格好の鉄撮日和でした。あぁ〜癒される〜(^^)
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