倶楽部メモ(547)
平成21年 8月16日〜 8月18日 |
投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2009年 8月16日(日)10時22分1秒 |
タイトル |
三軸台車を見てきました |
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2ヶ月前の話題ですが…
6月7日に一二等急行弓張様がご質問された三軸台車の「ハの字型の大きな部品」(倶楽部メモ(530)に収録)について、
ようやく実物を観察してきましたのでご報告します。
この部品はクモハ32000様のご回答にある通り「揺枕アーチ棒」といい、
仙コリ(管理人)様の仰るように「車体が傾かないように車体の横方向の荷重を受ける」ものの様です。
幸いなことに大宮の鉄博には、TR73の単品と、それを履いた車両が共に展示されています。
【写真上】マシ29 107が履いていたというTR73の揺れ枕アーチ棒の頂上部アップ。
神田の交通博物館でお馴染みでしたね。
【写真中】同じ台車を履いた、ご存知マイテ39 11です。
ただ、ご覧の様にプラットホームと柵があって、台車の観察には向きません。
【写真下】それでも根性で柵の間からカメラを突っ込み、アーチ棒が車体を支えている部分に迫ってみました。
判るでしょうか…?
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投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2009年 8月16日(日)10時26分39秒 |
タイトル |
マイテ余談 |
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【写真上】マシの台車とマイテはこのような位置関係に置かれています。ちなみにマシ29 107の新製時の車号はスシ37812、
この2両が同じ列車に組成されて走ったことがあるかどうかわかりませんが、鉄道黄金時代をともに走り抜き、
青梅と神田に分かれて保存されていた両者が、奇しくも大宮の地で再会しているわけですね。
【写真中】再会と言えば、この組み合わせも見過ごせません。
特別急行「富士」と下関で接続していた関釜連絡船「金剛丸」の模型です。
こちらも神田にあったもので、大宮で初めて実現した対面です。
もっとも金剛丸は主に夜行便に運用されたと言われ、「富士」の接続は昼行便でしたから、
実際にこの組み合わせの乗り継ぎがあったのかどうかよくわかりません。
なお、金剛丸の模型の後方には、稚泊連絡船「亜庭丸」もいます。(この写真のみ昨年8月に撮影)
【写真下】8月10日からマイテ39 11の展望デッキに入れるようになりました。
新しい記念撮影スポットとなっているようです。
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投稿者 |
雑魚 |
投稿日 |
2009年 8月16日(日)11時35分20秒 |
タイトル |
磐越東線と只見線 |
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▼ユーラシア鉄道様:
>
磐越東線の「あぶくま新緑号」
磐越東線の真骨頂は、やはり小川郷〜夏井の渓谷区間ですね。その山紫水明振りゆえ
列車本数は少なく、郡山志向が強いと思われる小野新町界隈から、共通学区の特例で
いわきの高校に通学する場合、部活など、放課後活動が、かなり制約されるそうです。
>「あれ、今度は何処で客車が走るんですか?」
馴染みの窓口氏は「また
発券が面倒な臨時列車?
勘弁して下さいよぉ」と、いつも
N型端末機の前で入力ピンを持ったまま渋面。時々、助けを乞う電話もしていました。
>
やはり一番の想い出は、只見線SLでした。
只見線は会津盆地にせよ只見川渓谷にせよ、とにかく絵になりますね。会津盆地では、
速達度外視で、本郷や高田の街の旅客需要を集約するべく、大規模な迂回路線となり、
車との競合が顕在化していなかった「古き良き時代」の名残りを感じます。
沿線をドライブした際、最も印象的だったのが、紅葉の盛りを迎えた田子倉湖でした。
運転した実感として、麓の只見との高低差は著しく、かかる勾配や長大隧道を思えば、
件のSL列車が只見で折り返すのは当然ですね。小出、更に欲張り浦佐に直通すれば、
観光客の誘致効果は、更に高まるのでしょうけれど。
なお、あまりの景色の良さに、数km上流の大鳥堰堤に寄り道しようと地図を広げた処
………道路事情が凄い事になっていたので、諦めました(^^)
>
JR東日本様では旧型客車を大切に扱っているのが羨ましい限りです。
これは偏に、高崎車セ支所(旧高崎第一機関区)の「物持ちの良さ」そして、かかる
経営資源を積極的に活用する、高崎支社のスタンスの賜物ですね。これは、首都圏の
外縁部に位置しつつも、奥利根など観光地を多々控えた要衝・高崎ならではの立地も
大きく作用していると感じます。
>
樺太・これは国際法上「所属未確定」のちにソ連実効支配で、
北方領土問題で隘路となっているのは、1952年発効「サンフランシスコ講和条約」で、
日本が権利、権原、請求権を放棄した「千島列島」の範囲の解釈ですが、同条約では
併せて「南樺太」も放棄しており「四島問題」に比べ、関心度の温度差がありますね。
>
現在の豊原駅(ユジノサハリンスク駅)と称し、ジオラマで再現致しました。
左側に停車しているキハ58系(水郡線からの転属車も含まれるとか)は、ソ連崩壊後、
経済的混乱の影響か整備が覚束ず、結局は全廃された様ですね。嗚呼、何と勿体無い。
ジオラマでしたら、旧豊真線のループ区間にも挑戦して頂きたいものです(^^)なお、
ソ連の鉄道事情が明らかになったのは、ゴルバチョフ政権の下で「グラスノスチ」が
導入されて以降で、それ以前は、この「名所」も良く知られていなかったのでしょう。
画像は、上越線「SL奥利根」の様子です。
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投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年 8月16日(日)14時43分14秒 |
タイトル |
芸能人と最寄駅他 |
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ユーラシア鉄道様:
面白い話ですね?
南野陽子は大地主の娘とか?アノ人生まれたのが拙宅から自転車で10分程の
(最寄駅が阪急塚口)病院で、その北側に「南野」と云うバス停があり、それから
芸名をつけたと言われています。
少し古いけれど石野眞子といしのようこ姉妹が「芦屋」ですかね。浅野ゆうこが攝津
本山とか---
DD54は夜行急行「しまね」だつたか?の湖山駅での棒高跳び脱線で一躍悪名を馳せた
ですが、飛び込まれた線路脇の工場の本社役員さんが有名な鉄道ファンで、「夜中に
汽車が飛び込んできた」!!と工場からの電話で起こされたと話して居ました。
停車間際に「ガクンガクン」と衝撃があったし、出来の悪いDLでしたが。
C54,EF54,DD54‐‐‐国鉄は54との相性が悪かったですね。
沿線ですが度々撮影に行つた「相野」は少し賑やかな街で、元郵便局の建物を利用
した喫茶店へ毎回立ち寄りコーヒーを飲んで帰りました。立杭焼の窯元へ行くのは
相野からではなかったでしょうか?その方は趣味が無いので解りませんが。 |
投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年 8月16日(日)17時55分38秒 |
タイトル |
金剛丸の運用 |
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クモイ103さま:
金剛丸が夜行便(7-8便)専用とは初耳です。天山丸、崑崙丸(就航してすぐ撃沈
された)が就航するまでは、「金剛丸」、「興亜丸」の2隻と臨時便用の「徳壽丸」、
「景福丸」、「昌景丸」(後に博釜連絡に転配)でしたから、主に「金剛丸」と
「興安丸」で、1-8,7-2便と廻していたのではないでしょうか?
下関から7便、釜山から8便なら呉線経由の急行7-8レと朝鮮‐満洲は7-8レ「のぞみ」
でしたから、「冨士」-「ひかり」とは一格下になりますが------。 |
投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2009年 8月16日(日)21時21分57秒 |
タイトル |
Re: 金剛丸の運用 |
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マロネロ38様
金剛丸級については、「日本国有鉄道百年史」及び「鉄道連絡船100年の航跡」に夜航便専用との記述があり、
またそれで話の辻褄が全て合いますので、その様に認識しております。
「百年史」は持っているコピーが歯抜けなので肝心の金剛丸自体に関する部分が無いのですが(汗)、
「100年の航跡」では次のように述べられています。
****************
このころ(引用者注:昭和8(1933)年頃)になると,増加した旅客のなかには,
内地産業の発展に伴い,わが国に渡航する朝鮮人も多く,しかもその大部分が,
居住地の関係で夜航便に集中したため,新連絡船は,再び夜航便専用となった。
これが昭和11(1936)年11月と翌12(1937)年1月に就航した金剛丸(7,081総トン)と
興安丸(7,079総トン)の姉妹船である。
****************
金剛丸以前の関釜航路の主力は、大正末期に建造された景福丸級3隻(景福丸・徳寿丸・昌慶丸)でした。
これらのデビュー当時はこの3隻で2往復とし、「釜山は折返し,下関は朝着夕発,夕着朝発とした。」
(百年史第8巻P.365)とありますので、この時点では昼航便と夜航便の共通運用が組まれていたことになります。
しかしその後続けて「1船休航の場合の2船運航のときは,両港とも折返しとなったが,
下関における折返時間中の炭水補給と機関の手入れ時間の不足で相当無理があり,
機関の故障により休航する場合もあった。」との記述もあることから、
基本的に関釜航路での昼航−夜航折返し運航は、かなり条件が厳しかったことが窺えます。
その後金剛丸級の就航までは10年以上経過していますが、運航時間がさほど大幅に短縮されたわけではなく、
折返し運用の厳しさは大差なしと見て良いでしょう。
そこへ「夜航便専用」の金剛丸級2隻が就航したわけですから、これが夜航の7−8便に、
在来の景福丸級がその他の便(昼航便の他、夜航の増発便もあった)に運用されたと考えるのが妥当ではないかと思います。
なお、百年史には昭和14(1939)年7月1日現在の関釜航路運航時刻が記載されており、
景福丸級は旅客便の他に貨物便の運用もあったようです(景福丸級は元々旅客主体の船だった筈なのに…)。
余談ですが、昭和17〜18(1942〜43)年に就航した天山丸級(天山丸・崑崙丸)については、
「さきに建造された金剛丸級の代船として使用するほかに,臨時便として昼航便にも就航させるため,
金剛丸級のように夜航便専用の客室設備を設けず,昼航便として必要な公室を増備するとともに旅客の定員を増加した。」
(百年史第11巻P.17)とあります。 |
投稿者 |
ユーラシア鉄道 |
投稿日 |
2009年 8月16日(日)22時38分56秒 |
タイトル |
ありがとうございます。 |
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<マロネロ38様>
<雑魚様>
たびたびの、いろいろなるご教示ありがとうおございます。
マロネロ38様ご指摘の通り、南野陽子さんのご自宅は、新幹線高架南の伊丹市南野
から中山寺駅北方に、20年前くらい引越してこられ、ご自宅表札は「南野」です。
また機関車での「54」という符号は偶然にも、不運ですね。
雑魚様ご指摘の通り樺太南部は確かに「連合国」に対して領有権放棄するもソ連統治
を連合国側も認めてなく、ロシア側もそれが気がかりな証拠に、小生は、ロシア国鉄の
サイトを時々拝見しておりますが、対独戦勝60周年記念コンテンツに何と麻生総理の
ユジノサハリンスク訪問コメントに「とうとう日本は、サハリンに対しロシア施政権を
認めた。」のくだりがあり、日露間で捉え方の違いを感じます。
また、仰せのとおりソ連時代はすべての鉄道施設は撮影厳禁でしたが、小生はかなり
撮影しまくり、実はタシケント(ウズベキスタン)地下鉄を撮影してて駅の警察に連行
(連行といえど一切身体に触れられず極めて紳士的応対)され、宿泊先ホテルのKGB
将校に引き渡された経験があります。
この将校もかなり親日的でホテルのKGB係官室でフイルムを抜かれるでもなく常に
笑顔で、日本ってどんな国か?とかの質問攻め。最後に「人民警察官は頭が固いバカが
多く、お気分を害して申し訳ない」とまで言い、「しかし彼らは任務に忠実なため駅へ
はカメラは持っていいかないでください。」といって最後に、タシケントのお土産まで
くれる始末。
皆様信じて頂けないかも知れませんが、ロシア・旧ソ連諸国の市民は本当に親日的で、
小生もソ連時代にはいやな思いひとつなく、機関車の写真を撮ってても機関士が運転台
に招き入れたくれたり、自由市場でも日本から来たとわかれば果物や菓子をプレゼント
されたことがいっぱいです。
鉄道趣味よりヨーロッパ各国、NZ、カナダ、オーストラリア、などを訪問しました
が、人々との心のふれあいではロシアが一番印象に残りました。
ソ連(というよりスターリン個人)の過去の犯罪行為をロシア人はあまり知らず、こ
んなにも親日的な国民はほかに台湾とドイツ、トルコくらいしか感じません。
なおロシア国鉄サイトでは、いまや鉄道マニア向けに、各機関車・電車・気動車・保
線車両までもが型式表示で紹介されています。
このサイト内にも各鉄道管理局別にコンテンツ化され、サハリン鉄道局サイトには、
キハ58も掲載されています。(写真に著作権表示なし)
祖父のアルバムより鈴谷ループ線の写真がありましたので添付いたします。
<鈴谷ループ線・戦前>
<鈴谷ループ線・近景>
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投稿者 |
ユーラシア鉄道 |
投稿日 |
2009年 8月17日(月)00時15分18秒 |
タイトル |
マイテ展望車 |
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たびたび失礼いたします。
<クモイ103様>
マイテ39とTR73台車の解説ありがとうございます。
大宮では大切に美しく保管されているのが頼もしく思えます。また写真も美し
く、JR西日本のマイテ492に思いを馳せさせていただきます。
小生は、マイテ492の臨時列車に数度乗車し、TR73の走行感覚をかなり
記憶しております。
まず「すきやねん国鉄ご愛顧感謝号」で大阪ー姫路往復、「マイテ紀州路号」
で天王寺ー白浜2往復、「瀬戸大橋グルメ列車」で大阪ー高松往復しましたが、
特に転轍機を通過する時のジョイント音が印象的でした。
また乗り心地はほかの旧型客車より横揺れに対し若干良好で、縦揺れの差異は
あまり感じられませんでした。
夏季以外は、旧型客車3両との4両編成が主流でしたが、冷房使用時は12系
または14系との併結で、見栄えたるや散々なものでした。マイテ492の値打
が丸つぶれではないか?と思いました。
時代の流れに抗する事はできず、いまやマイテ492のパートナーは山口線の
12系改造レトロシリーズのみとなりました。
アスベスト問題があるにせよ、なつかしの車両が消えて行くことに一抹の寂し
さを禁じえません。
大糸線のキハ52、金沢区・岡山区のキハ58はいつまで持ちこたえれるのか?
新津のキハ58・キハ52は?
これからKATO、天賞堂、ジオラマの世界で会えるよね?
わが心の中には、永遠に青春の思い出とともに機関車・客車・気動車がいる。 |
投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年 8月17日(月)10時49分43秒 |
タイトル |
関釜連絡船 |
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クモイ103様:
生憎「金剛丸」、「興安丸」完成直後の時刻表を持たないのでなんとも言えませんが---
昭和14-11-15改正の手帖型版時間表では:
1便:下関10.30→釜山桟橋18.00(24時間制で表示)
7便:: 22.03→: 6.00
2便:釜山桟橋 11.45→下関19.30
8便: : 23.30→: 7.15
昭和15年10月の復刻版だと:
1便 下関10.30 →釜山桟橋18.00(24時間制に直して表記)
7便 : 22.03 →: 6.00
1007便 22.07 → : 6.30
2便 釜山桟橋 11.45→下関 19.30
8便 : 23.30→: 7.15
1008 : 23.50→: 7.50
1007-1008便が所要時間から見て「徳壽丸」クラスだた解りますが。
上記のローテーションだとどうも昭和14-15年には1便→8便、7便→2便と廻していた
様に見受けられます。
この頃は旧朝鮮、満洲、支那との交通が戦略目的もあって爆発的に増えていた頃で
大阪商船の神戸‐大連航路など殆ど日発でしたから、1007-1008便も「付け船」として
満員だったのでしょう。 |
投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年 8月17日(月)17時38分22秒 |
タイトル |
博釜連絡船 |
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博多港-釜山桟橋の航路は戦時中開設ですが、時刻表には「省略」でわかりません。
「徳壽丸」クラスが就航したのは解っていますが,何方か時刻をご存知の方,このHPに
発表お願いします。
ED76109先生:
戦後昭和27年に渡道した時、函館で「羊蹄丸」(初代)から下りたら,桟橋の反対側
に「景福ホテル」の看板がある,ホテルシップがありましたが、関釜連絡の生き残り
「景福丸」だと想います。 経営は鉄道弘済会??だったのでしょうか??? |
投稿者 |
クモイ103 |
投稿日 |
2009年 8月17日(月)22時52分35秒 |
タイトル |
Re: 関釜連絡船 |
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マロネロ38様
私が「夜航便専用」説の根拠としている情報は、主に設計時の想定であり、
実際の運用状況を直接示すものではありません。
従って、鉄道車両によくある、想定と実際が食い違っていた可能性は、否定するものではありません。
また、昭和18年10月の崑崙丸撃沈を受けて夜航便が中止されてからは、当然金剛丸級といえども昼間に運航した筈ですね。
さて、改めて運航ダイヤの面から考察を加えてみます。
「日本国有鉄道百年史」第8巻によると、景福丸級3隻が出揃った大正12年7月の旅客便ダイヤは下記の通りで、
所要時間は昼航便8°00′、夜航便9°00′〜9°30′でした。
1便 下関10:00→釜山18:00 2便 釜山11:00→下関19:00
7便 下関23:00→釜山
8:00 8便 釜山21:30→下関
7:00
実は、景福丸級は旅客専用船でした(と言っても申し訳程度の貨物設備は有り)。P.362〜363には以下の記述があります。
****************
景福丸・徳寿丸・昌慶丸の3隻は,旅客輸送を主とする純客船で客貨分離を企図したもので,
稼働率を高めるため3船2往復をたてまえとし,昼夜両便に使用できるよう設計された(以下略)
****************
その運用は、前書き込みでご紹介した通り、通常は「1→8→7→2」と回して3日で一巡するものでした。
釜山側の折返しは最短3時間という短いもので、これは旅客専用便だからこそ出来た運用でしょう。
1船入渠で2船運航の場合、「1→8」「7→2」となって下関側でも最短3時間の折返しとなった訳ですが、
その場合は炭水補給と機関の手入れ時間が不足し運航に支障を来した事は、前書き込みの通りです。
昭和11年12月1日、金剛丸の就航を受けたダイヤ改正では、
所要時間が昼夜とも下り7°30′、上り7°45′にスピードアップされています。
しかし「1→8」「7→2」の間合い時間は、釜山側で最短5時間30分と伸びていますが、
下関側では相変わらず最短3時間でした。
この点は、マロネロ38様がご紹介下さった昭和14年及び15年のダイヤでもほぼ同様ですね。
せっかく新造船が就航して船腹に余裕が出来たのですから、
少なくとも機関の手入れ時間がとれない様な折り返し運用は、見直されたと考えるのが自然ではないでしょうか。
もう一つ重要な点は、金剛丸級は景福丸級と違って本格的な「貨客船」だったという事です。
関釜航路には、青函航路のような車両航送はありません。
貨物の積み卸しは一般の船舶と同様のクレーンを使用したもので、
車両航送とは比べものにならないほど時間のかかるものでした。
荷役について私は詳しい知識がありませんが、貨物満載の場合はだいたい半日仕事だったのではないでしょうか。
これらの事を考え合わせると、金剛丸・興安丸の姉妹船をペアで夜航便1往復に運用し、
昼間の時間で荷役と機関の手入れを行ったと考えるのが、最も妥当な線と思うのであります。
このような運航形態は、同航路の貨物専用便も行っていました。
ただ冒頭にも書きましたように、当初の想定と実際の状況が異なってくるのは、歴史上ままある事です。
金剛丸級の就航後も、関釜航路の輸送量はうなぎ登りでした。
昭和15〜16年には貨物専用の二代目壱岐丸・対馬丸が就航しますから、貨物はそちらに任せ、
金剛丸級はトンボ返りの旅客輸送に専念した…という可能性も思いつきます。
全く根拠の無い憶測ですが、今のところ否定もできません。
いろいろ勝手なことを申し上げましたが、全体を通してあくまで「推定」であり、
断定するだけの材料は持ち合わせておりません。
私の情報不足・考え違いなどがありましたら、何卒ご教示を賜りたいと思います。 |
投稿者 |
ED76109 |
投稿日 |
2009年 8月18日(火)00時28分34秒 |
タイトル |
景福丸について |
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おばんでございます。「ED76109」でございます。
マロネロ38様
>関釜連絡の生き残り「景福丸」だと想います。
関係サイト等、資料を精査した結果をご報告させていただきます。
「景福丸」は、終戦後に「青函航路」に転船し、昭和24年7月30日終航。
その後、「函館桟橋南側岸壁」に係留されました。
その後、船内を改装して「海上ホテル」として昭和25年1月25日に開業。
ただし、空襲等で殉職した乗船員の遺族や人員整理による大量の解雇者の救済が必要とされていたことから、
これらの人々の雇用確保を目的としたするためであった福祉事業的な性格を伴った事業であり、
「鉄道弘済会」が船を借り受けての営業でありました。
この海上ホテルの設備は、和室5室・洋室14室、
収容人員は一般客46人、団体客280人の収容能力を有しておりました。
「函館駅」に隣接されていたことから、利用者は多かったとのこと。
しかし、船体自体の老朽化により維持費の増大などで赤字経営となり、昭和31年に休業に追い込まれてしまいました。
その後、船体は放置、昭和33年に解体されました。
なお、「鉄道弘済会」では、海上ホテル休業後の同年に「函館駅」にほど近い一角に
「景福ホテル」の名称で旅館業を再開した記録がございます。
以上、ご報告まで。「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |
投稿者 |
ED76109 |
投稿日 |
2009年 8月18日(火)01時11分51秒 |
タイトル |
乗り鉄に行ってきました パート2 |
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連投失礼いたします。「ED76109」であります。
小生の「乗り鉄3連発」。最後の報告をさせていただきます。
3 昨日、「石狩沼田」に静態保存されている「クラウス15号」と
「石北峠」及び「常紋峠」を眺めに乗り鉄してまいりました。
「始発の旭川行DC」に早起きして乗車し、曇天の「石狩平野」を堪能後に
「深川」で「留萌本線」の「キハ54」に乗り換えて、「石狩沼田」へ向かいました。
「クラウス15号」は、明治22年にドイツから輸入された「タンク式のSL」で、
昭和6年から「留萌鉄道」で石炭輸送を中心に活躍。
赤い「15」のプレートと高い煙突と狭い運転台が印象的でありました。
見学後は、「深川」から「スーパーカムイ」で「旭川」。
そして、「キハ54仕立て特別快速きたみ」で一路2つの「峠」へ・・。
「石北峠」は「中越」や「奥白滝」が廃止され、駅舎の傷みが目立つ上に「旭川紋別道」の建設が進行しておりました。
一方の「常紋峠」は全く旧来のままで(ただし、「常紋信号所」は休止状態)、
「エゾシカ」も出没して緊急停止の一歩手前の最徐行のシーンも・・・。
しかし、初秋の冷風が深緑の峠に吹き渡っており、上着を持っていっていかなかったことを悔やみました。
「留辺蘂」から「最終のオホーツク」で帰札しましたが、両峠は真闇の中。
閑散とした車内とともに、旅の最後に相応しい締めくくりとなりました・・・。
長々と失礼いたしました。
以上、次は何処へとすでに次なる旅が脳裏を駆けめぐっている「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |
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