倶楽部メモ(542)
平成21年 7月26日〜 7月29日 |
投稿者 |
雑魚 |
投稿日 |
2009年 7月26日(日)09時10分14秒 |
タイトル |
会津若松駅 |
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先日「あいづ」撮影で磐越西線を訪れました。画像は会津若松駅西側の路地を徘徊中、
見掛けたものです。SL列車が折り返す駅だけあって、重厚な施設が残っていますね。
四番庫の青い妻面は客車の様でもあり、正体が気になりましたが、一般人の立入りは
ここまでなので、後ろ髪どころか前髪も抜ける思いで、現地を後にしたのでした。
それにしても、盆地の夏は蒸しますねぇ………
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投稿者 |
XD1 at Phuket |
投稿日 |
2009年 7月26日(日)09時21分4秒 |
タイトル |
WCです |
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お食事時の方には失礼申し上げます。
白いホースが写っていますが、これは日本では取り付けられていなかったと思います。
WCにて、日本では紙を使うことが多いのですが、東南アジア全体では水を使うことが多いです。
この白いホースも、典型的な物です。こんな改造も、行われています。
ちなみに、個室の外の洗面所では水は出ませんでしたが、個々のは出ました。
でも、なんか途中で途切れてまた出るという感じで、スムーズではありませんでしたが、まあ実用上は支障なし。
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投稿者 |
仙コリ(管理人) |
投稿日 |
2009年 7月26日(日)13時17分8秒 |
タイトル |
本日のSL郡山会津路号 |
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本日は地元でのSL列車(SL郡山会津路号)の運転日でしたので、撮影に行ってきました。
場所は磐梯熱海駅−中山宿駅間の有名撮影地で、いつも撮影者がいっぱいで敬遠していたのですが
本日は比較的すいていたので(とはいってもSL列車通過時には20人程度はいましたが)そこでの
初撮影となりました。
おまけは、SL列車の少し前に通過し、試写した583系使用の快速「あいづライナー」です。
雑魚様が会津若松駅で見た客車?はなんでしょうね?
妻面の見た目は50系客車のように見えるので、郡山のマニ50
2050(救援車代用)が何らかの理由で
会津若松に行っていたと考えるのが一番自然でしょうか?
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投稿者 |
雑魚 |
投稿日 |
2009年 7月26日(日)16時39分48秒 |
タイトル |
「あいづ」 |
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▼仙コリ様:
>
磐梯熱海駅−中山宿駅間の有名撮影地で、いつも撮影者がいっぱいで敬遠
私も一、二度、ロケハンを試みた事がありますが、車を寄せる場所が見当たらない侭、
今日に至っています。安直な処では、分水嶺を貫く中山隧道の直前、旧道絡みの広い
路側帯からですと撮り易そうですが、個人的には、猪苗代高原の広々とした水田での
構図をより好感します。
画像は、今月初頭に運転された「あいづ」の様子です。まず、水郡線沿いに北上した
泉崎〜矢吹で撮り、高速道で川桁〜猪苗代に先回り。更に高速道で広田〜会津若松に
先回りして、会津若松でのエンド交換を利用し、車で数分の会津若松〜堂島でも一枚。
更に、喜多方から折り返した回送便を、姥堂〜会津豊川で撮り、計五回と中々効率的。
三脚組で最も盛況だったのは、姥堂〜会津豊川でした。ここは足回りまで綺麗に入る
水田広がる平坦区間で、線路と直角に交わる畦道が足場となる為「構図確保」に伴う
鬩ぎ合いはほぼ皆無、近くの農道には広幅の路側帯が延々と続き、車が寄せ易いなど、
好条件が揃っています。
最下段の画像は、そこから喜多方方面を眺めた様子です。会津若松方面もまずまずの
構図でしたが、建設中の「会津縦貫北道路」の築堤で、少し損なわれてしまいました。
>
郡山のマニ50 2050(救援車代用)が
何らかの理由で会津若松に行っていた
御教示、有難うございました。この後、駅南側の踏切を横切りましたが、磐越西線の
ホームが「コの字」型仕様であるにもかかわらず、架線はなお、西若松方面に延々と
続いていました。現在でも、電機の入替作業などで使用される事はあるのでしょうか。
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投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年 7月27日(月)08時44分4秒 |
タイトル |
タイ国の鉄道トイレ |
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Phuket様:
私がバンコクで見た英字新聞の写真がよく似た物でした。
(垂れ流しの衛生問題の記事)
ホースの水‐‐‐‐痔の患者には良いですね!!??? |
投稿者 |
XD1 at Phuket |
投稿日 |
2009年 7月27日(月)12時31分55秒 |
タイトル |
Re タイ国の鉄道トイレ |
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レスありがとうございます。
WCは狭いですし、どれも似たような物で、どう撮影してもあのような図にしかならないですね(笑)。
車両ですが、ピカピカに磨き上げるという意味での手入れについては、至らぬ所もあります。
しかし、例えばWCに現地式のホースを追加するとか、前にもお書きしましたが、
ステップを現地の低いホームに合わせて改造するなど、ある一定レベルのことは一通り行っているんですね。
そのあたりの現地の感覚も、ある程度は理解しておいた方が良いのかなと思っています。
ついでに紙ではなく水の件ですが、慣れるとこの方が良く汚れが落ちでさっぱりします。
凍てつくような冬には不向きですが、常夏の国なんで(笑2)。 |
投稿者 |
仙コリ(管理人) |
投稿日 |
2009年 7月27日(月)23時01分57秒 |
タイトル |
Re:オヤ17 1 |
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のり様
大変遅レスで申し訳ありません。
ご質問のオヤ17
1の図面等の資料について手持ちの資料を探してみたのですが、やはり2の
図面ばかりで、1の図面は見つける事が出来ませんでした。
現存するほうの車両の資料が出てこないのが幸か不幸か、現存車を確認するしかなさそう
ですね。
もっとも横川の展示車両は車内まで入れる状態でしたっけ?
なお、すでにご存知かもしれませんが、当サイトのリンク集に掲載させていただいている
「国鉄事業用車博物館」様に、写真と解説が掲載されていますので、もし未訪問でしたら、
ぜひ訪問されてみて下さい。 |
投稿者 |
ユーラシア鉄道 |
投稿日 |
2009年 7月28日(火)02時19分4秒 |
タイトル |
紀勢本線50周年によせて |
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夜分に失礼いたします。
紀勢本線50周年に、小生の紀勢本線の想い出を綴らせて頂きます。
1、小学校臨海学校で訪ねた白浜
特急「くろしお」のキハ80系ボンネットが電車と区別がつかず、
走行音で気動車と理解した記憶。
復路は急行「きのくに」のキハ55系(手動扉でキハ58と区別)
2、家族での紀伊勝浦旅行
小学校5年生時、夜行客車快速(当時はやたま等の列車名なし)で
オハネ30更新車で新宮まで乗車。
天王寺〜和歌山ノンストップで紀伊勝浦まで快速でした。
天王寺・阪和線国電用行止りホームに、客車列車が入線している
異様な光景が鮮明な記憶です。
牽引はED60電機+郵便荷物+旧客X4両+スハネ30X2両。
新宮到着時のDF50が当時の福知山線と同じ機関車だったので嬉
しくなったものです。
3、家族での熊野本宮訪問
中学校時代、上記と同じく夜行客車快速・座席車で牽引はEF58
+ナハ10系X4両+オハネ12X2両でした。
4、家族での白浜温泉旅行
高校時代、「きのくに51号」なる臨時客車急行に往復乗車し、
EF58+12系6両で超満員でした。
天王寺国電用行止りホームに、今はなき竜華客車区からのEF58
牽引列車が、阪和線ホームへの客車列車進入用渡り線(現在は撤去)
を推進で入線した光景。
そして和歌山駅でのDF50〜EF58の機関車付替の光景には沢山
の人だかりが。
復路の天王寺到着時、行止りホームに頭から突込んだEF58が異様
に思えた事など、もう再現不可能な時代になりましたね。
5、キハ58X10連+キハユニ16の記憶
高校時代、御坊に友人と日帰り。
急行きのくにの郵便新聞輸送のため、キハ17系のキハユニ16が
キハ58X10連の先頭についておりました。
ただしキハユニは和歌山で切り離しです。
6、JR化後の快速「ふれあい紀州路」号で白浜へ2回の乗車
平成2年だった記憶ですが、紀勢本線に電機はなく当該快速列車は
DD51の牽引で、オハフ33−48+オハ46−16+
オハフ33−289+マイテ49−2で、全車指定席でマイテのみ
フリースペースでした。
白浜では、機回し出来てもターンテーブルなきため、復路はDD51
の次位にマイテ展望デッキ側で、あまり見栄え良くありませんでした。
先般、貴重なオハフ3348が解体されたとの報にふれ残念でなりません。
7、子供連れで「きのくにシーサイド」号往復乗車
夏季の臨時マリンレジャー用快速で、DE10牽引+12系改造
リゾート車3両+24系改造展望車で、評定速度70kmながらも
子供共々展望車が楽しかったこと。
12系改造車のシートが廃車グリーン車のものであったことなど、
夏の想い出作りには最高の列車でした。
以上長々と失礼いたしました。
<ロシア鉄の写真2枚添付します>
1枚目:デッキで遊ぶのは危険。でも考えることは日本と同じ。
2枚目:黒海沿岸「ソチ」駅の夏、マリンレジャーにモスクワから到着。
機関車はTEP70型電機式ディーゼル機関車で、ちなみに
「ソチ」は次期冬季五輪開催地です。
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投稿者 |
ED76109 |
投稿日 |
2009年 7月28日(火)23時47分3秒 |
タイトル |
海辺の鉄路が似合う季節です |
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学校祭が終了し、一息ついた「ED76109」であります。
ユーラシア鉄道様
>紀勢本線50周年に、小生の紀勢本線の想い出
小生もつたない想い出を・・・。
1 昭和51年の夏に、「DC急行紀州(?)」で「鉄」親父と初めて「紀勢本線」を制覇しました。
しかし、ちょうどお盆前の多客期で、帰省客から海水浴客、はたまた「臨海学校」の小学生までもが入り乱れて、
とにかく「天王寺」のホームは殺気立っていた印象が・・・。
さらに、当初は「旧客鈍行」で乗り潰す予定が、「鉄」親父の仕事の関係で「キハ58」に乗る羽目になったためか、
太平洋の海岸線はあまり印象に残っていません。
印象にあるのは、途中で交換した「名古屋」や「亀山」からの「長距離旧客鈍行」。
「紀州」とは対照的なまでのガラガラで、旧客独特の雰囲気が醸し出されており、
「あっちに乗りたい」と「鉄」親父と嘆息ばかりついておりました。
2 昭和58年の夏に、「天王寺」から「新宮」まで「はやたま」の「ハネ」にお世話になりました。
昼に「甲子園」を堪能した疲れか、直ぐに意識がなくなったのですが、
「ガサガサ」という物音で目を覚ましカーテンを上げると、窓には「御坊」の文字が・・・。
どうやら、「和歌山」から乗った隣席の「下段客」の物音らしく、
5、6分おきに一定のリズムで「ガサガサ」の音が止まりません。
小生、落ち着かずに寝返りを繰り返していつの間にか寝てしまいました。
しかし、落ち着かずに「太地」で起き出す羽目に・・・。
しかし、隣のベットはすでにもぬけの殻。通りかかったカレチさん(天王寺車掌区?)に尋ねたところ、
件の音の主は「白浜」で下車したとのことでした。
2時間半程度なのになんで「ハネ」にと、寝不足の頭を抱えながら朝焼けの太平洋を眺めておりました。
3 平成14年の夏に「紀伊勝浦」で開催された国語研究会に、小生参加しました。
しかし、宿舎を「新宮」に取ってしまい、仕方なく「105系」の「EC鈍行」で3日間往復することに・・・。
2日目の夜、「紀伊勝浦」で全国の先生方と痛飲して、終電の「新宮行」にお世話になりました。
冷房の効くガラガラの車中、海風に当たりたくなってカレチさんにお願いしたところ、
「ガラガラやし、ええですよ。」と言われ、お言葉に甘えて右側の窓を全開にしました。
すると、潮の香り溢れる涼風が車内に流れ込み、酔いもさめる心地よさ。
波音だけが聞こえた月夜の「那智」のホームが後ろへ流れて行く風景とともに、
久しぶりに「鈍行」を堪能できた素晴らしい想い出として、今も心に残っております。
長々と失礼致しました。
以上、この夏は「抜海」と「浜中」を尋ねる「鉄旅」を密かに計画している「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |
投稿者 |
ユーラシア鉄道 |
投稿日 |
2009年 7月29日(水)05時11分21秒 |
タイトル |
紀勢本線の想い出 |
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たびたび失礼いたします。
「ED76109」様
小生もつたない想い出を・・・ありがとうございます。
紀勢本線電化前と電化後の普通列車運用(和歌山ー新宮)
を振り返ってみたいと思います。
<電化前>
全列車の80%が気動車で最大の嫌われ者「キハ35」。
ただし気まぐれのように「キハ17」X2がありました。
当時気動車は、関西本線・和歌山線・奈良線・桜井線での
共通運用で、古都奈良といえばキハ35オンリーといえる
世界で(たぶん観光客にも不評だったでしょう。)奈良駅
併設の気動車区ではキハ17数両・キハユニ16X2両と
奈良線・片町線(現:学研都市線)共用のキハ20X2両
のみでした。
丁度、首都圏近郊の八高線・相模線・千葉気動車区と同じ
状況です。
蛇足ですが、当時の片町線、長尾ー木津はキハ20が単行
での運用で、大阪府・京都府境の植生は竹林+広葉樹で、
京阪奈新都市開発前の「竹林をかきわけて」単行で走行の
キハ20が頼もしく思えたものです。
信州・大糸線の光景が(キハ52ですが)大阪近郊でも
見られたのです。
客車列車は名古屋・亀山からの長距離が主体でDF50牽引
の6〜8両編成でした。
<電化後>
1日4本の客車列車が奇跡的に残り、EF58牽引旧客という
夢のような光景が太平洋の荒波のもとで繰り広げられていました。
電車は、阪和線との共通運用の113系新快速色でした。
しばらくして、105系が営団地下鉄車両からの改造車で入線し
紀伊田辺までの運用で、紀伊田辺以南は、信州松本電車区からの
165系が入線しました。
近年では、新宮での165系とキハ58とのバトンタッチ光景が
話題でした。
阪和線を含めて考察しますと、電機はED60・EF58など
いまやKATOや天賞堂の世界であり、ディーゼル機も同じく
DF50など、鮮烈な想い出を提供してくれた紀勢本線です。
紀勢本線のご利用の方のお立場で小生主観で勝手に解釈しま
すと、キハ35系やモハ105系など、こんなにも風光明媚
な路線での「ロングシート」は???の感想です。
(最近113系更新2連化改造車も数編成あります。)
現在は関西空港線の運用で、臨時列車増発枠は作れない状況で
近年までの「きのくにシーサイド」号のDE10機関車が最後
だと思われます。
ただもし臨時客車の設定があっても牽引はもっぱらDD51で
電機の復活は2年前のEF58150の和歌山ー新宮での電化
記念列車以外はもうないと思います。
長々と失礼いたしました。 |
投稿者 |
雑魚 |
投稿日 |
2009年 7月29日(水)10時58分39秒 |
タイトル |
紀勢線や阪和線の事 |
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▼ユーラシア鉄道様:
>
全列車の80%が気動車で最大の嫌われ者「キハ35」。
80年代の半ば、紀勢線の新宮以東を消化した際の便がキハ35で、この様な風光明媚な
山間の路線に、通勤仕様車を充てる理由が判らず、腕組みモノでした。近鉄奈良線の
後塵を拝し気味とは云え、関西線は非電化当時から既に、畿内圏の通勤路線としての
地位を確立しつつあったでしょうから、周辺区間における共通運用としての集約性を
考えると、やむ無しという感じでしょうか。
>
京阪奈新都市開発前の「竹林をかきわけて」単行で走行のキハ20が頼もしく思えた
当時の電化の終点だった長尾の立地から、大阪と京都の府境で旅客需要が一段落する
印象でした。電化完成後に設置された、松井山手駅の周辺における宅地開発振りなど、
当時の雰囲気からすれば隔世の観がありますが、同駅の設置を請願したのは、意外や、
JRと競合関係にある京阪電鉄(京阪東ローズ・タウン開発関連)なのですね。
>
EF58牽引旧客という夢のような光景が太平洋の荒波のもとで繰り広げられて
我が十八番の保育社「国鉄の車両/関西・紀勢線」1983年刊では、古座〜紀伊田原を
ゴハチ+荷物車二両+客車四両という編成が走行する様子が紹介されています。
>
電車は、阪和線との共通運用の
113系新快速色でした。
春日大社に因んだ関西線用の「朱帯編成」も一部、運用があった様で、件の資料では、
藤並駅で有田鉄道の単行キハ58と並ぶ場面が、紹介されていました。
>
近年では、新宮での 165系と
キハ58とのバトンタッチ光景が話題でした。
1978年の新宮電化後も、気動車急行「きのくに」は暫く存置されましたが、せっかく
165系が配置されるなら「きのくに」も電車化すれば良いのに、と
感じたものでした。
京都〜奈良〜高田〜和歌山の急行「紀ノ川」も、和歌山線電化が完了した後の動向が
注目されましたが、結局、廃止でしたね。
>
電機はED60・EF58など いまや
KATOや天賞堂の世界であり、
ED60ですか。今となっては、そんな形式もあったかなぁ、という印象ですね。更に
年季の入った事例としては、件の資料で、阪和貨物線を行くEF15牽引の貨物列車が
紹介されていますね。かつては特急「あすか」も通過したこの貨物線、当掲示板では、
数年前に、事実上廃止された旨、紹介されましたが、今年三月末を以て、正式廃止の
扱いだそうです。結局、旅客転用(おおさか東線)に与する事は、無かったのですね。
>
こんなにも風光明媚な路線での「ロングシート」は???の感想です。
同じJR西日本では、瀬戸内海が絡み車窓風景が抜群に良い呉線でも、103・105系が
幅を効かせていますね。JRの台所事情をも反映した措置かとは思いますが、せめて
広島都市圏の需要が一段落する広以東では、某か考慮して頂きたい処です。 |
投稿者 |
のり |
投稿日 |
2009年 7月29日(水)14時03分31秒 |
タイトル |
オヤ17 1の件 |
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仙コリ様、オヤ17の件調べていただき有り難う御座いました。
アナログ人間故にネットに不慣れではありますが、これからも宜しくお願いします。 |
投稿者 |
マロネロ38 |
投稿日 |
2009年 7月29日(水)17時03分53秒 |
タイトル |
キハ35 |
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最低のDCでしたね。30、35,36----。35が徳島本線を夏走るのはまだしも、冬の城端、
氷見線は「最低」でした。グロベンから雪が舞い込むし---。加古川線でも野村
{現西脇市}から以北はがらりと気候が変るので(北国型)寒い事。
新潟にはガーランドベンチレーターの35がありましたが、「すかたん列車」の
故吉谷氏が、関西本線を写しに行くのに、「キハ35車内では駅弁を食い難い」で
トイレの前の4人向かい合わせの席に臭いの覚悟で座るくだりがありました。 |
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