倶楽部メモ(529)
平成21年 5月31日〜 6月 5日



投稿者 コスモス
投稿日 2009年 5月31日(日)11時38分50秒
タイトル 阿武隈川の軌道
雑魚 様

亀レスにて失礼いたします。

>ところでこの阿武隈川橋梁、確か岩沼側の河川敷で、遠い昔、何かの軌道を跨いだ様な記憶がある
>のですが、御心当たりはございますか?

国交省の過去の空中写真を見ることができるページで確認すると、
日本製紙工場内の構内線路が常磐線の阿武隈川鉄橋に上っていく築堤の直ぐ下まで東側(海側)から伸びてきていました。
昭和59年撮影のものでは、貨車が線路終端近くまで留置されているのが確認できます。
常磐線列車から見ると、築堤の下を西側(山側)へ抜けているように見えていたかもしれません。
現在はこの部分の線路は剥がされているようです。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 5月31日(日)20時16分52秒
タイトル 水戸駅に行って来ました
 結局あまり時間がとれず、「駅前鉄」のみになってしまいましたが、
雑魚様のご教示のおかげで、こんなのが間近に観察できました。
ありがとうございました。




投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 5月31日(日)20時23分31秒
タイトル 内原の上下線分離区間
 雑魚様にご教示いただいた内原駅上り方の「上下線分離」区間についてですが、地図を見てピンときました。
これはひょっとして、計画に終わった幻の貨物操車場予定地ではないでしょうか(根拠はありませんが)。
ちょうど水戸線が友部で合流した直後で、しかも県都水戸を控えた位置関係、とくれば、
明治以来百年続いた国鉄貨物輸送のやり方から見て、結節点たる操車場を設ける意義があったように思います。
 ここは全くの平地で、東北本線中通り区間や上越線などと違い、地形上の制約によるものとは思えません。
「分離」した上下の本線は見事に真っ直ぐで、いかにも計画的に空けましたと言わんばかりです。
そこに確保された広大な土地は、数本の電留線など片隅にちょこんと飲み込んでしまい、
あとは草ぼうぼうの未利用地やら畑やらが広がっていますね。
 ここが見渡す限りの仕訳線群で埋まり、ハンプから次々に貨車が散転され、
入れ換え機が忙しく立ち回る風景を勝手に妄想してしまったのですが(^^;、
果たして実際の経緯はどうなんでしょうね…?



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 6月 1日(月)08時47分34秒
タイトル 大昭和製紙
▼コスモス様:

御教示、有難うございました。早速「グーグル・マップ」や「マピオン」を改めた処、
確かに、常磐線橋梁の直ぐ東側まで、線路が延びていますね(なお「グーグル」空撮
映像は、この一帯に限り、曇りで、良く判りませんでした)私が記憶している光景は、
上流側の眺めですから、かつては、引上線の類が常磐線を潜っていたのでしょう。

この構図、山陽線が下関駅の南側で本州と彦島を隔てる「海峡」を渡る橋梁の辺りに
通じるものを感じます。一方、製紙工場内の配線を見ると、クロス配置の表記もあり、
何やら製鉄所特有の「完全に独立した閉鎖系軌道」を髣髴とさせますね。

ここから阿武隈川を少し遡り、最初の架橋となる県道28号線の橋梁は、開通の時期が
比較的新しく、それより以前、一帯でロケハンするべくドライブした際、阿武隈川の
渡河に難儀した記憶があります。一帯は川の両側に丘が迫り、名取・角田それぞれの
平野部を隔てる「袋の締り口」との趣があります。地形に限らず、岩沼市と柴田町の
境界が走り、税務署管轄や公立高校学区でも線引きが成されるなど、岩沼分岐の先は、
東北線にとっても、大きな段落性がある様です。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 6月 1日(月)09時25分39秒
タイトル ゆうマニ
▼クモイ103様:
> 雑魚様のご教示のおかげで、こんなのが間近に観察できました。

添付画像の如し(これも立派な「客レ」です)が本来の用途ですが、最近はさっぱり
見ませんね。その一方、牽引機・電源車・電車という連結順序をエンド交換の前後で
維持すると、折り返し駅での機回し作業は、かなり ややこしくなりそうですね(^^)




投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 6月 1日(月)10時07分22秒
タイトル 羽幌−ひたちなか海浜
雑魚様:
ご教示有難う御座います。
廃車はキハ221じゃないですか?(一番古い製造昭和35年)
4月だったか?キハ222(スカ色)がエンジン故障で運転出来ないとHPに書いて
ありましたが、DMH17Cが今故障したら困るでしょうね。
阿字ヶ浦の眺めが良くなった事、万葉線時代から「アイデアマンで有名」だった
Y社長がやりそうな事ですね。万葉線時代からY社長を応援していますので---
色々関西の3セクの情報などお知らせしています。
只加越線時代の事はあまりご存知ないそうで、DCに関しては雑魚様やクモイ103様
が協力してあげてください。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 6月 1日(月)11時27分52秒
タイトル 内原電留線
▼クモイ103様:
> これはひょっとして、計画に終わった幻の貨物操車場予定地ではないでしょうか

私も以前より同様の話を聞いていますが「ウィキペディア」によると、1944〜48年に
実際に操車場が設置されていたそうです。こうした短期間に終始したのは、内原駅が、
国策に基く大陸入植者の為の訓練所に近く、固有の事情に基く乗降需要が少なからず
存在した事と関連があるのでは、などと想像しますが、詳細は不明です。

> 草ぼうぼうの未利用地やら畑やらが広がっていますね。

現在は、NREの直営農場とJRの野球グラウンドがあります。個人的には、朝夕の
特定時間帯で良いので、特急利用者用のP&R駅が設置されれば、と妄想しています。
面的な展開性ではバスに劣る鉄道の復権策として、P&R拡充の重要性は、新幹線の
本庄早稲田駅や那須塩原駅で実証済みですね。

画像は、内原駅の外れから電留線を眺めた様子です。最近では、特急編成や水郡線用
気動車も時々、入場している様です。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 6月 1日(月)18時17分21秒
タイトル 「鉄」親父の想い出の場所のようであります
 ご無沙汰しております。
週末に当地で「流行中のインフルエンザ(但し新式にあらず)」に罹りました「ED76109」であります
(現在は回復しております)。

 出遅れの感でありますが、「雑魚様」及び「クモイ103様」が御指摘の「内原操車場跡」は、
どうやら小生の「鉄」親父の「想い出の地」のようであります。
「友部」近郊の従兄宅に疎開していた折、汽車が見たくなった時によく眺めに行った話をよく聞かされました。
 「鉄」親父は、昭和20年1月から終戦までの約9ヶ月、件の「従兄宅」に疎開していたのですが、
淋しさを紛らすためにたまに通っていたことがあったようであります。
小生が幼い頃に聞いた話で、記憶が曖昧(「鉄」親父が小学6年当時)ですが、
「D51」牽引の「ワム」や「トラ」仕立ての長大貨物列車が何本か停車しており、
「9600」らしき蒸気が入換に活躍していたようであります。
「田端操車場」が空襲で機能停止となった場合の代替操車場だったと「鉄」親父は考えていた様ですが、
果たして真相は如何なものでありましょうか。先達の皆様方の御教示があれば幸いであります。

 マロネロ38様
 色々とご配慮下さりありがとうございます。
諸般の事情により、夏以降に入会させていただければと考えております。
その折は、どうぞよろしくお願い致します。

 長々と失礼致しました。以上、「発熱外来」で右往左往した「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 6月 1日(月)19時56分34秒
タイトル Re: ゆうマニ
>雑魚様
 エンド交換の際に手を抜いて電源車を最後尾にぶら下げたまま…って訳には行かないでしょうか?(^^;
 ところで、この「ゆうマニ」の登場はたしか1991年?あたりでしたね。
そのちょっと前、勝田電車区の485系を用い、大洗鹿島線へDL牽引で乗り入れる海水浴臨時列車の話が持ち上がった
と記憶しています。
ところが折悪しく、あの信楽高原鉄道の事故が発生し、JRから第3セクターへの行楽臨の乗り入れが出来なくなって
(自粛?)、「上野発大洗行き485系」は実現直前で幻となりました。
タイミング的に、乗り入れ区間用の電源車はもう準備済みだった筈です。
 「ゆうマニ」がデビューしたのはその直後でしたから、おそらく…



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 6月 1日(月)20時32分41秒
タイトル Re: 内原電留線
> 1944〜48年に実際に操車場が設置されていたそうです。

 それは不勉強で、失礼いたしました。またそれを実見されたED76109様の御尊父のお話は貴重ですね。

 内原操車場の機能について、田端操車場のバックアップという面もたしかにあるかもしれませんね。
 一方1944年といえば、平時であれば海路が主体の北海道→首都圏の石炭輸送が、
民間船舶の軍徴用による船腹不足のため鉄道に転嫁し、青函航路には貨車航送船を大量投入していた時期です。
次々に通過する隅田川行きの石炭列車が、常磐線の線路容量も圧迫していたと思われます。
ただでさえ貨物輸送が多かったこの時期、他線区へ迂回できる貨車をできるだけ水戸線へ逃がすため、
内原に操車場を設けて仕訳を行ったのではないか、と私は感じました(あくまで推測です)。
 戦後は一転して旅客輸送の需要が急激に増大し、貨物輸送の比重は相対的に低下しました。
そのため、戦時中に増強された貨物関連の諸設備が余剰となってうち捨てられる光景が、各地にあったようです。
内原操車場も、おそらくそういう運命を辿ったのではないでしょうか。

 時代は下って1960年代の高度成長期、来るべき輸送量の増大に備えて、国鉄は遠大な設備増強の構想を持っていました。
その中に内原操車場の計画があったのではないか…というのが私の最初の発想だったのですが、
実際はそれより一時代前の話だったとは、「事実は妄想より奇なり」…失礼しました。



投稿者 コスモス
投稿日 2009年 6月 3日(水)21時50分16秒
タイトル 内原の操車場
内原の操車場については,計画だけで完成はしなかったという話といちおう完成し使わ
れたが戦後は使われなくなり廃止されたという話と両方伝わっていたように思われます。
ED76109先生のお父様の目撃談などを勘案すれば,後者の可能性を感じさせますね。
「停車場変遷大辞典 国鉄・JR編」(1998,JTB)のデータによれば内原操車場駅
として昭和20年2月14日に開設され
戦後の23年3月1日に小原という名称の信号場に改称され,24年11月1日に信号場も廃止
されています。小原は操車場所在地の地名です。
たぶん沿海海路輸送が戦時状況の悪化により逼迫し,鉄道輸送の増強に迫られたので作られ
,完成した部分から使い始めたが,全面完成に至る前に終戦になってしまったのではと
想像します。跡地の内原寄りにターンテーブルの円形ピット跡が有りました。小学生の
頃ここを通ったときに何度か車窓から見ています。
国交省の空中写真閲覧ページで見られる昭和50年代ごろの空中写真でも判別できます。
今は,新設された電留線を整備したときに整地されてしまいました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 6月 4日(木)17時37分34秒
タイトル 幻の大洗直通特急
▼クモイ103様:
> 電源車を最後尾にぶら下げたまま…って訳には行かないでしょうか?(^^;

それでは、せっかくの「ゆう」の流線型マスクが台無しですよ(^^)

> 折悪しく、あの信楽高原鉄道の事故が発生し(中略)実現直前で幻となりました。

あの事故を巡っては、ローカル線における他社線直通、それ自体を良しとしない様な
風潮が醸成された印象を受けました。この結果、紀勢線開通前の路線系統を踏襲した
有田鉄道の湯浅直通が廃止され、一方、当該事故における事故車両の損傷が余りにも
酷かった事から、車両の強度が比較的小さいレールバスの淘汰を、招来していますね。

繁忙期の大洗界隈は、茨城では観光客が最も多い地域とされています。常磐線特急の
大洗直通が実際に行われ、一定の実績を残せば、水戸志向の通勤・通学需要が大きな
区間という事もあり、大洗鹿島線の部分電化すらあり得た様に思います。北関東道の
延長区間が常陸那珂港まで達した現在となっては、もはや、望むべくもありませんが。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 6月 4日(木)17時49分16秒
タイトル 田町車両 センターの終焉
先日、東海道線の下り列車から一瞥した、田町車両センターの様子です。撤去作業が
いよいよ本格化した印象ですね。跡地は再開発に供されるとして、東海道線下り線も
上り線寄りに移設されるのでしょうか。

当該センターとは直接の関係はありませんが、近くを掠め、浜松町の手前まで線路が
残っている東海道貨物線も、東京貨物ターミナル駅以北が事実上の廃止と目される中、
いつまで残るものやら、気になる処です。




投稿者 雑魚
投稿日 2009年 6月 5日(金)18時25分26秒
タイトル 複線化の進捗
▼コスモス様:
> 海路輸送が戦時状況の悪化により逼迫し,鉄道輸送の増強に迫られたので作られ
> 完成した部分から使い始めたが,全面完成に至る前に終戦になってしまった

常磐線平以南の複線化が完成したのは1925年ですから「分離区間」の上り線はその際、
現在の「迂回形状」に改められた可能性がありますね。ここでの複線化の進捗状況は、
常磐炭鉱に関連した貨物輸送事情を反映し、かなり先進的だった様ですが、さすがに
渡河は技術上の制約があった様で、那珂川を横切る下那珂川信号所〜勝田の複線化は、
1923年の事でした。

その反面、地磁気観測所絡みの制約から、電化は後発的な交流方式が採用されたのは
周知の通りですが、1985年の「エキスポ・ライナー」が、H電に接続する事で我孫子
以北に運転区間を限定しがちだった様に、交直流両用型電車の絶対数が不足したのか、
あるいは、並行新幹線を持たない事による「緩急混合型ダイヤ」の制約ゆえか、通勤・
通学需要の為の増発は、他線区に比べると今ひとつだった様で、1980〜90年代に漸く、
茨城県南部における宅地分譲が、都内でも注目される様になった印象があります。

竜ヶ崎市域はその典型ですが、軸線が微妙にずれる為、関東鉄道竜ヶ崎線の需要には
必ずしも反映されていないと、同地にマイ・ホームを建てた知人が申しておりました。




 
 
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