倶楽部メモ(524)
平成21年 5月20日〜 5月23日



投稿者 千キウ
投稿日 2009年 5月20日(水)11時28分59秒
タイトル 台ワク
なるみ様
手持ちの資料を探したところレアな台ワクに関する資料はほとんどありません。
唯一1968年版客貨車データブックに少し記載がありました。
UF330-337 マニ20.ナロネ20.ナロネ21.ナロ20.ナシ20.ナハネ20.ナハ20.ナハフ20
UF338 オロネ10
UF339 カニ21
UF410 ナロネ22
UF411 ナハフ21
UF420 カニ22
UF423 オシ16
UF424 オユ12.スユ13
UF425 オハネ17.ナハネフ11
と記載のあるものはここまでです。
一様気動車の記載も少しありますがキハ55 UF310までです。
4.5ペ−ジですので必要ならメール頂ければコピー致します。
私信みたくなり申し訳ありません。



投稿者 なるみ
投稿日 2009年 5月20日(水)21時32分36秒
タイトル Re: 台ワク
>千キウ様

重ねがさね詳細な情報をいただきありがとうございます。
現時点では、お書きいただいた情報で充分ですので、早速コピーペーストさせていただきました。
国鉄の図面に記載がない以上は、趣味誌への掲載もなさそうですので、
とりあえず台枠の情報はないままHPを更新しました。

皆さまもありがとうございました。
URLを掲載させていただきました。
拙いサイトですが、お手すきの時にでもご覧ください。
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月21日(木)11時09分13秒
タイトル 高原の ポニー
▼ED76 109様:
>「昭和48年 JTB時刻表 6月号」では、次のようなダイヤで運転されております。

六時間弱とは、長丁場ですね。同様の循環運転急行としては「のべやま」「すわ」を
連想しますが「ウィキペディア/循環急行」を改めますと、意外に多かったのですね。

>「鉄鋼」関係や「海産物」関係で、古くは「C58」牽引の貨物列車が多数運転

上記急行が経由した小海線では、十八番の保育社「国鉄の車両/中央線」1983年版を
改めると、八ヶ岳を望む御約束の撮影名所にて、ワム一両、緩急車二両、旧客一両を
牽く「高原のポニー」C56が、写っています。それにしても「ポニー」「貴婦人」と、
全身真っ黒の蒸機をして、かかる命名感覚とは、これ如何に?

ちなみに画像は、冬前後の晴天日に限られますが、意外や地元の常陸太田市域からも
眺望が効く八ヶ岳の様子です。これまた意外な事に、直線距離ですと、富士山よりも
近いのですね。小海線が見えるかなと、望遠越しに暫く目を凝らしていました(^^)




投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月21日(木)11時12分48秒
タイトル 北上線 vs 田沢湖線
▼ED76 109様:
>「上米内」から「区界」の辺りにかけてと「岩泉線の押角」は「スイッチバック駅」

前者と後者の相違点は、スルー通過が出来たか否か、という点ですね。なお岩泉線の
沿線自治体の総人口は七万弱。旧田老町など、利用に与しない地域を含めた広域化で
この状況ですから、並行国道の押角峠隧道の整備次第では、いよいよ廃止が取り沙汰
されるのでしょうね。

>「黒沢尻工業高等学校」を破って優勝の歓喜に湧いた

旧黒沢尻町が河川名に因む北上市に発展解消したのは、半世紀前の1954年。半年後に
東北線の駅名も改称されていますが、やはり「黒沢尻」「横黒線」の方が、余所者の
勝手な所感ではありますが、何となく旅情を覚えます。

その「横黒線」改め北上線については、錦秋湖の畔を行く「つばさ」間合の「あおば」
そして、20系寝台「おが」を思い出します。私自身、北上線を消化したのが、仙台〜
秋田直通の「エレガンス・アッキー」使用による臨時快速「やまどり」という事から、
格別の思い入れがあります。

東北新幹線開業の直前、非電化だった田沢湖線の優等列車は、一日僅か急行二往復と
記憶します。当時、仙台〜秋田の主流は北上線。大曲でのエンド交換の有無は素より、
距離にして40km以上も短いとなれば当然ですが、それでもなお、新幹線の連絡特急を
北上線ではなく田沢湖線に設定したのは、新幹線の停車パターンとの整合性において、
より拠点性が高い盛岡を結節点とした方が、一点集中的な体系が確保できる、という
考え方だったのではないか、と想像します。

同様の感覚を、岩手県の他市に当て嵌めると、やはり「二戸」ではなく「北福岡」と
なるでしょうか(^^)これは、北海道の北広島市と同様「北国の福岡」という意味で
命名されたそうですね。ちなみに駅自体は、福岡地区(二戸市の中心部)の南側です。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月21日(木)12時51分55秒
タイトル 再び ハエタタキ の話
▼コスモス様:
> しばらく東北本線と並行したあと単線の細いレールが分かれていくのは、心細く

この分岐点は通過する度に感慨を覚えたものですが、その後、新幹線の高架が頭上を
跨ぐ様になって、いささか興醒めの観がありました。

水郡線の分岐駅が安積永盛である事を知らなかった幼少時代、仙台→上野を12系臨時
急行「八甲田」で移動する際、郡山を発車してから、進行方向の左側に目を凝らすも、
操車場やら車両工場やらの側線が錯綜するばかりで「どさくさに紛れて分岐するとは、
水郡線も奥が深い」と、思い切り、勘違いしていました(^^)

なお、電柱愛好家の私としては「ハエタタキ」のバリエーションが、特に、磐城棚倉
以北で目まぐるしく変わる事情から、水郡線の旅は結構楽しめましたよ(^^)画像の
左側は磐城棚倉〜磐城石川、右側は野木沢〜泉郷のバージョンです。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 5月21日(木)22時59分58秒
タイトル 昭和40年代の時刻表から
 失礼致します。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >八ヶ岳を望む御約束の撮影名所にて、(中略)、旧客一両を牽く「高原のポニー」

 「キャンブックス 昭和を走った列車物語 アルプス定期便(平成13年JTB編)」に採録されている
「昭和47年3月号JTB時刻表」によりますと、新宿から「9本の夜行列車」が運転されております。
その内、「0時30分発8401レ(アルプス53号)」に
「八ヶ岳51号(小淵沢・野辺山9135レ、普通列車扱いで野辺山着6時)」が増結されており、
この列車が「C56」牽引であったはずでございます。
小生も、「八ヶ岳」をバックにした「C56+ハザ×2」による旧客列車の写真を見た記憶がありますが、
近年は付近を「中央道」が通過しており、過去の趣は皆無であるとか・・・。
確かに「清里」の変貌振りには、小生も呆れるのを通り越し、唖然呆然といったところでしょうか。
さて、山男(「山女」だった小生のお袋も・・・)を満載した「9135レ」は、「小淵沢・野辺山」を1時間20分で鈍走。
「25/1000」の急勾配とは言え、本当に長閑な列車であったようであります。

 >非電化だった田沢湖線の優等列車は、一日僅か急行二往復

 「たざわ」でありますね。件の「昭和48年6月号JTB時刻表」によりますと、以下のとおりであります。

  「たざわ1号(4811D)」
   仙台発7時25分→盛岡発10時28分→大曲着12時→秋田着12時50分

  「たざわ2号(4813D)」
     盛岡発16時34分→大曲着18時18分→秋田着19時10分
   ※ 6月30日までは、「宮古」始発の秋田行(よねしろ1号に増結)を連結。宮古発14時01分

 上りも同様の「2往復」であり、「たざわ1号」は下りと同様に「宮古行」が
「秋田」から連結されております(宮古着13時15分)。
さらに、「大曲・田沢湖」に2往復の客レ(内1往復は「秋田・田沢湖」)が運転されております。
実は小生も、昭和54年の夏に「秋田・大曲」で「秋田始発の田沢湖行客レ」にお世話になっております。
当然これらは、「昭和57年」に全線電化される以前のお話でありました。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 5月22日(金)10時26分10秒
タイトル C56小海線
ED76109先生:
C56+オハフ60+貨車の混合列車に乗ったのは確か大学生の昭和30年でした。
東京へ行って新宿から準急「穂高」で茅野まで(小淵沢は通過の為)引き返して
上記に乗車しました。甲斐小泉までの大周りのカーブや甲斐大泉−清里間の「馬蹄形
のトンネル」など,初乗りの楽しさを満喫しました。その後社会人になったからも、
休暇を利用して度々乗車しましたが、一度立川から例の「山屋夜行列車」のスロハ32
で小淵沢まで行き、もうキハ55になっていましたが、甲斐小泉−甲斐大泉辺りで「
夜明けの逆さ富士」が見えて美しかった記憶が残っています。
八ヶ岳バックは急行「諏訪」を写しています。(11月だったので)頂上が少し
白くなって居ました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月22日(金)14時30分21秒
タイトル 小淵沢
▼ED76 109様:
> 新宿から「9本の夜行列車」が運転されております。

その十数年後、私が都内の大学に在籍していた頃ですと、中央線夜行は 165系による
急行「アルプス」が一晩当たり、定期二往復+アルファと、そこそこ、活況を呈して
おりました。定期便はみどり湖経由と辰野経由が一往復ずつと、飯田線直通需要にも
配慮した格好でした。当時は「アルプス」併結の「こまがね」が健在でしたからねぇ。

>「9135レ」は「小淵沢・野辺山」を 1時間20分で鈍走。

SL時代ですと、野辺山高原で異常発生したヤスデに由来する車輪の空転も、大きな
問題になりましたね。私が初めて訪れた当時の小海線は「急行色+首都圏色」という
混色編成による、国鉄型キハの天下でした。清里までの登坂区間における鈍足振りは
言うに及ばず、後年、DL牽引を介して中央線から直通した「葉ッピーきよさと」の
話を初めて聞いた時は「ちゃんと登るのか?」と、心配になったものです。

一方の中央線は、小淵沢のすぎ先で山梨・長野県境を越え、それから間も無く富士川
水系から天竜川水系に移りますが、分水嶺部分は意外や、街中の富士見駅なのですね。
運転室展望DVDを眺めていると、同駅は確かに「てっぺん」という雰囲気でしたね。
長坂駅では、スイッチ・バック施設が明瞭に残っていましたが、今も「健在」かな?



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月22日(金)15時01分20秒
タイトル 田沢湖線
▼ED76 109様:
> 6月30日までは「宮古」始発の秋田行(よねしろ 1号に増結)を連結。

宮古〜秋田ですか………どう考えても、然したる直通需要があるとは思えず、広範な
路線網を擁する国鉄ならではの、車両の運用事情を優先した遣り繰りが窺える様です。
そもそも、能代を河口とする米代川からの命名なら、大曲でなく大館を経由するのが
本義ですよねぇ………

> 当然これらは「昭和57年」に全線電化される以前のお話でありました。

当時、田沢湖線の電化後、急行「たざわ」は 455系急行に置換されると、勘違いして
おりました(^^)和歌山線の全線電化時における急行「紀ノ川」の処遇(廃止)でも、
同様でしたが、蓋を開けたら 485系特急化、それで漸く、急行が淘汰傾向にある事を
実感したのでした。

余談ですが、一部「たざわ」が秋田から奥羽線に乗り入れ、青森まで直通していた頃、
朝の下り(青森行「はつかり 1号」と盛岡を同時に発車した 1号かと記憶します)を
角館で降りて、秋田内陸縦貫線「もりよし」に繋ぐと、鷹ノ巣に先回りが効くと云う
余禄もありましたが、中・遠距離列車の、経路における多元性が縮小傾向にある今日、
こうした面白味も、めっきり減りました………



投稿者 コスモス
投稿日 2009年 5月22日(金)22時16分38秒
タイトル 鉄路の分れ道
雑魚 様

鉄道が分岐するところは,鉄道ファンには見逃しがたいスポットですね。
Googleの航空写真で見ると,水郡線は新幹線の高架をくぐり抜けてから直ぐに分岐が始まる様子がわかりました。

列車運転上の始発終着駅から1〜2駅区間同居したあと分岐する形態の路線はけっこう
ありますね。宮内,篠ノ井,新前橋,伯耆大山,備中神代,東岡山,東津山,西若松,夜明などや,おひざ元の
友部もこの範疇でしょうね。
分岐駅からしばらく併走した後の分岐では,宇都宮の日光線,豊橋の飯田線,岩沼の常
磐線,新庄の陸羽東線、佐倉の総武本線、高崎における上越・長野新幹線などが思い起こされます。



投稿者 コスモス
投稿日 2009年 5月22日(金)22時47分24秒
タイトル 八ヶ岳高原号
昭和42年の夏休みに,清里から飯盛山にハイキングしました。
そのとき,新宿駅から小海線へ直通する客車を併結した夜行客車に乗りました。
小海線に直通する部分の編成は「八ヶ岳高原号」といっていたように覚えています。
オハ60系3両編成だったようです。
小淵沢でC56に引き継がれますが,その間に小淵沢始発のDC列車に乗り換えるハイカー,登
山者が多数いました。私は浮気せずに空いた高原列車を清里まで乗りました。

昭和45年夏時点での新宿駅発中央本線下り夜行(23時以降)は
23:00 臨時「アルプス53号」(8401M松本行き)、
23:15「アルプス10号」(411M南小谷行き)、
23:30 臨時「アルプス54号」(8403M信濃森上行き)、
23:45「アルプス11号」(413M南小谷行き)、
23:55 各停(425レ長野行き)、
0:20 臨時「蓼科高原」(8431M岡谷行き)、
0:40 臨時「アルプス55号」(8401レ松本行き)、
1:00 臨時「霧ヶ峰高原・八ヶ岳高原」(8435レ岡谷・野辺山行き)
という賑わいでした。
客車列車が425レ、8401レ、8435レと3本あったようです。


参考HP:編集長敬白 2007年5月12日「八ヶ岳高原号」の季節の記事



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 5月22日(金)23時05分18秒
タイトル アルプス定期便
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 マロネロ38様
 >例の「山屋夜行列車」のスロハ32で小淵沢まで行き

 「昭和30年「旅」8月号(JTB発行)」に、当時日本山岳会副会長の「渡辺公平」氏が
「新宿発23時55分発『419レ(長野行)』は東京の山仲間に必要とされ、『アルプス定期便』である。」
と述べられた記述がございます。
当時のダイヤでは、「小淵沢5時30分→富士見5時47分→茅野6時03分→上諏訪6時12分」といったところであり、
山男達の頼もしき相棒的存在。
 何しろ、「419レ」は普通列車としては早期に「鋼製客車」化された列車として有名であり、
新宿22時40分入線にもかかわらず、17時過ぎには「アルプス広場」に長蛇の列ができることで
有名な列車でございました。
小生の「山」お袋も、当時勤務していた「国鉄大井工場」の「月末登山会」で
「蓼科」や「八ヶ岳」へ行く際の定番列車だったようで、仲間が「女性がいるから・・・」と一言言えば、
ボックスをいつも一つ空けてくれた(?)という伝説があるようであります。
 その後、小生が中学で「ワンゲル」に凝り、「EC鈍行長野行」で「赤岳」登山に行ったことがあり、
「客車じゃなくて電車になったんだねぇ・・。」と感慨深げだった「山」お袋の一言が印象的でありました。

 雑魚様
 >分水嶺部分は意外や、街中の富士見駅

 昭和58年の秋に「信濃境」にある縄文時代の重要遺跡「井戸尻遺跡」を訪問した帰路、
「青柳」まで下り「EC鈍行」に乗り換えて「新宿」まで直通したことがございました。
小生の記憶では、「青柳」から「富士見」までは「115系」のモーターが唸りっぱなしでありましたが、
「富士見」からは「EC」にしては乗り心地が「レ」とほとんど変わらない、
静かな走行音に変化したことが印象に残っております。
 前述しましたが、「日野春・長坂」付近からの「八ヶ岳」や「富士」の眺めは、中央東線のまさしく真骨頂であります。

 長々と失礼致しました。以上、「考古学」を少し囓ったことのある「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 スイロフ
投稿日 2009年 5月22日(金)23時15分14秒
タイトル アルプス銀座
皆様の中央線夜行の記事を懐かしく読んでおります。
私が学生の頃(昭和50年代)は、客レの臨時夜行「アルプス」が1本ありました。
夜行鈍行は115系、小海線はキハ52、57系がいたのを覚えています(私もほんの少し山をやったので)。
そういえば、キハ57が冷房付きだ!と喜んだのもつかの間、電源車?がなくて不冷房(^^;)だったのでがっかり、
なんてこともありました(遠い目...)。
小海線は学生時代に合宿で良く利用しましたが、
合宿仕様の格好でキャピキャピギャル(私語)の闊歩する清里の町中を歩くのは勇気が要りました(笑)。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 5月23日(土)07時31分44秒
タイトル 中央線は登山客のメッカです
 おはようございます。昨晩はゆっくりと御休になりましたでしょうか。「ED76109」であります。

 コスモス様及びスイロフ様

 小生、中学から高校1年まで「ワンゲル部」(当時の公立中学では唯一の存在?)におりまして、
何度か「441M」を利用し「八ヶ岳」や「南アルプス」に登ったものでございました。
「スイロフ様」が記されております「臨時夜行」は、
「新宿0時30分発アルプス54号松本行(列車番号不明)」でありましょうか。
小生が中学2年の夏休み、件の部活動で「八ヶ岳合宿」に行く途中、
隣のホームに入線していた「旧客列車」での記憶が残っております。
中学校の顧問の先生が少々「鉄」的な方で、「『南シナ』かな、それとも『長ナノ』なのかな?」と呟いておりました。
 また、「441M」は中央線の下り最終の役割も果たしていたことから、
必ず「通勤客」が「相模湖」辺りまで乗車しており、小生らのような登山客を目の敵にしていたことは記憶にございます。
確かに、20s前後の大型リュックを「115系」の通路に並べておれば、迷惑千万は至極当然でありましたが・・・。
 しかし、現在の中央東線には「レ」はともかく「夜行便」は皆無の状態。
週末や夏休みの「アルプス広場」の賑わいは、遠い過去のお話。
いつものことですが、「昭和は遠くなりにけり」といった心境でありましょうか・・・。

 長々と失礼致しました。
以上、登山家として「エベレスト」登頂に成功した「登山家」を友人に持つ「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
 
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