尼港線様:
ご教示有難う御座います。(汽)は確かに「ジハ」です。戦後と言っても私が尼港線
乗鉄し出してから(昭和22年秋)見ていませんので、戦争末期か21年頃?迄かと
想います。故亀井一男さんが昭和24年に姫路機関区で撮影された「播丹鉄道」のジハ
はいずれ管理人さんに送って掲載お願いする事にします。(もうボロボロ車ですが)
ED76109先生:
スロ346がぺしゃんこにされた116レと追突の8レですが、調べてみると当時としては
無理な?一種の過密ダイヤだった様ですね。
116レが下関6.20-柳井経由-岡山16.28-万富から区間快速になって、有年,那波
(相生)、網干17.47-姫路18.09着18.14発-明石18.46-兵庫19.05-神戸19.10-
大阪19.45着19.50発-京都20.27止。
8レが下関9.25-岡山16.55(116レと27分差)-姫路18.17着18.22発-神戸19.19-
大阪19.55着20.01発-京都20.39着-東京7.30
姫路では3分差で8レ到着より早発で、京都へ12分差で逃げ切りの当時としては曲芸
のスジでした。116レが網干に延着(霧とか)停車中に8レがこれも延着運転中で
3現示時代に回復運転に集中して「橙」を無視した速度超過で網干に突っ込んだもの
と想います。8レは当時下関-京都間にオイテ(木造展望車)を連結しており、呉線
経由だったので、海軍高官でも乗車していて回復運転を迫られていたのか?ですが
当時は軍部の事は報道管制でしたので解りません。
7-8レは洋食堂車付きの各等急行で関釜連絡船を介して「のぞみ」に連絡の急行
でしたが、表定速度は余り速くなかったみたいでした。(7レを舞子駅で度々見たが)
姫路-神戸:116レ54分(明石,兵庫停車)、8レ54分(ノンストップ)、三ノ宮-大阪
116レ28分,8レ30分、大阪-京都116レ37分、8レ38分。
上記を見ても8レの鈍足が解る一方、116レがギリギリの逃げ切りだった事も悲劇の
原因でしょう。昭和15年10月改正では宇野からの不定期列車も入って居るし、
当時としては「過密」気味だった様です。
姫路到着が9分差なれば「網干」の中線に116レを入れて8レを先に行かせて追いかける
スジなれば大事故も避けられたか----は素人考えですが。 |