倶楽部メモ(508)
平成21年 4月 5日~ 4月 8日



投稿者 5112-5201
投稿日 2009年 4月 5日(日)22時30分4秒
タイトル 昔の急行さんべ(?)編成
おたずねします。
昭和51年の12月~52年の1月あたりだったと思うのですが、博多から米子方面へ夜行急行に乗りました。
「さんべ」とか「だいせん」?山の名前だったと思います。寝台とイスの車の両方がつながっていました。
当時の編成車両などについてお聞かせいただければ幸いと存じます。
よろしくお願い申します。(昔の旅の思い出です)



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月 6日(月)07時54分32秒
タイトル Re:昔の急行さんべ(?)編成
おはようございます。代休扱いで平日休の「ED76109」であります。

  5112-5201様

  初めまして。「北の大地」在住の「ED76109」であります。
小生、編成等はあまり得意ではないのですが、「山陰線の客レ」とあっては黙っていられません(!?)ので・・。
 昭和48年6月「JTB時刻表」等の資料では、次のとおりであります。

    ↑ 博多
   DD51(米子・下関)・EF30(下関・門司)・ED76(門司・博多)
   マユニ(下りのみ浜田・出雲市)
      マニ (博多・浜田)
      オハネフ12(昭和49年11月末まで「オロハネ10」)
   オハネ 12
   オハネ 12
   オハ
   ナハ
   ナハ
   スハフ


   先達の皆様方には「釈迦に説法」でありましょうが、
昭和53年10月以降は寝台車が「20系」、座席車が「12系」化されていたはずであります。
誤り等があれば、他の先達の皆様方からの御教示等をお願い致します。

 以上、「中年客車鉄ちゃん」の」「戯言」情報でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 6日(月)12時48分2秒
タイトル さんべ
客車版「さんべ」に関して、十八番の「ARC資料室」を改めるも、ED76 109様が
御示しの1978年より以前は、不明な点が多い様ですね。この列車、山陰と九州を結ぶ
印象が強いのですが、漢字で「三瓶」と記した「ヨンサントオ」以前は、大阪と大社・
浜田を結んでおり、同改正で、その役割を「だいせん」が継承した、という印象です。

急行「さんべ」といえば、山陰線と美祢線、夫々を経由する分割編成が、再合流する
気動車便の「美談」が有名ですが、同運用は「ヨンサントオ」以降、急行が全国的に
大幅淘汰された1985年の「科学博改正」まで、意外に長期間、続いていた様子ですね。
更に、1975年までは山口線に入る編成の記述もありますが、これは、小郡折り返しで
上記「美談」には与しないとの事、残念………(^^)

この様に「ヨンサントオ」を契機に守備範囲が変遷するも、総じて山陰線の全線域に
ゆかりの列車という印象で、愛称の由来たる島根県大田市郊外の三瓶山とは、かくも
名峰とされているのでしょうか。標高は 1,100m程度ですが、形の良い円錐の山容が、
平面地図からも窺えますね。

私が「さんべ」を利用したのは、1988年の春。小郡→長門市の移動で「おき」からの
乗換えでした。当時は既に美祢線経由の多層建も廃止され、車内はガラガラでしたが、
団臨または回送扱いで、御座敷客車を併結しており、もしや、グリーン料金を払えば
乗せてくれるだろうかと、車掌に尋ねたら、にっこり微笑んで、きっぱり「駄目です」
………世の中、そう甘くない………

この「さんべ」に準ずる「美談」で思い出すのが、函館を朝発つ長万部行の普通列車。
大沼で渡島砂原迂回の便を分離後、赤井川経由で北上するも、森では長時間停車して、
上記分離便の到着を待つというダイヤ(ただし再連結は無し)が印象的でした。



投稿者 尼港線
投稿日 2009年 4月 6日(月)16時47分10秒
タイトル 尼港線について
尼港線でございます。
諸先輩方からのご下問がありながら、ここ数日、多忙を極めておりまして、
お返事がなかなかできずにおり、心苦しい限りです。

> マロネロ38様
> 「尼港線にジハが運転されていた」
これについては、ほぼ確証があります。
資料を当たって、追ってお返事いたします。

> 雑魚様
塚口〜宝塚間電化前の塚口駅の写真が、手持ちの中にあったはず。
もし発見できれば、ある程度、ご参考になるかと思います。
なお、尼崎港駅周辺は重工業地帯ですので、貨車は塚口〜吹田操経由、
全国との間を行き来していたと考える方が自然かと思います。



投稿者 尼港線
投稿日 2009年 4月 6日(月)16時54分40秒
タイトル Re:昔の急行さんべ(?)編成
連続投稿、お許しください。

> 5112-5201様
お尋ねの夜行「さんべ」は、生まれて初めて乗った夜行列車、寝台車でありましたので、私にとっても思い出深い列車です。
編成の参考資料としては「鉄道ファン」1979年2月号があります。
1978(昭和53)年10月2日ダイヤ改正で夜行「さんべ」(改正前3号、改正後5・6号)は
一般型客車から12+20系の編成に置き換えられましたが、その前後の記録です。
以下に、引用いたします。

10/1博多発「さんべ3号」(一般型客車最終運用)
マニ36 93 大キト
オハネフ12 30 米ヨナ
オハネ12 68 米ヨナ
オハネ12 46 米ヨナ
オハ46 398 米ヨナ
ナハ11 45 米ヨナ
オハ46 379 米ヨナ
オハフ45 2001 米ヨナ
DD51 727(鳥)
↓米子

10/1米子発「さんべ5号」(12+20系初使用)
↑博多
DD51 731(鳥)
マニ50 2001 米ヨナ
スハフ12 38 米イモ
オハ12 157 米イモ
オハ12 106 米イモ
オハ12 49 米イモ(※増結車)
スハフ12 45 米イモ
ナハネ20 1324 米ヨナ
ナハネ20 2237 米ヨナ
ナハネフ22 1013 米ヨナ

なお、牽引機は私の記憶、写真(昭和54年3月に乗車時)によると、
米子・下関=DD51、下関・門司=EF30、門司・博多=DD51です。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 6日(月)17時15分50秒
タイトル 吹田操車場
▼尼港線様:
> 尼崎港駅周辺は重工業地帯ですので、貨車は塚口~吹田操経由、全国との間を
> 行き来していたと考える方が自然かと思います。

御教示、有難うございました。そうなると北鹿島よろしく、エンド交換が必要になる
塚口において、貨物牽引をここから電機に渡せる、といった利点が、特急回送の為の
電化動機に与したのか……などと考える訳です。その一方、曖昧な記憶ながら、吹田
操車場の「電化率」は、それほど高くはなかった様で、吹田発着便は、塚口電化後も
SLまたはDLが牽引したのでは、とも感じます。

その吹田では、梅田貨物駅の機能移転先として、現在、改装中と聞きますが、同様に
機能移転が取り沙汰されている百済とは、どの様に済み分けるものやら?



投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 4月 6日(月)21時54分26秒
タイトル 2/26下りは押さえましたが・・・
_汽車ぽっぽ様。
初めまして、ブルトレ編成記録をライフワークにしている赤まんとです。
2/26の下りは押さえていますが、、肝心の2/25はノーチェックでした。
ただし、最後の半月ほどはあまり差し替えがありませんでしたので、同じ編成を組む3/7下り編成を紹介しておきます。
参考になれば幸いです。
おそらく、2/25から差し替えがなかったのではないかと推察しています。
EF66 50~スハネフ15 2~オロネ15 3001~オハネ15 2004~オハネ15-1246~オハネ15-1102~スハネフ14-6
+スハネフ14 101~オロネ15 3004~オハネ15 2005~オハネ15-1202~オハネ15 1122~スハネフ14 12
なお、最終日3/13はスハネフ14 101が外され代わりにスハネフ15-1が入りました。
EF66 53牽引。
オロネ15 3001は1月に全検出場し、同時期に出場したスハネフ14 11ともども、床下グレー塗装になっています。
トミックスからモデル化されるのはまさにこの編成です。
スハネフ14 5、オハネ15-1201といった車両は検査期限が迫っていたためか、早々と戦線離脱しています。
結果、九州で最後に全検実施したのは、オロネ15 3001、スハネフ14 11となりました。



投稿者 スイロフ
投稿日 2009年 4月 7日(火)01時03分48秒
タイトル さんべの思い出
昭和51年、山陰線の乗り回りで上り夜行さんべに長門市から乗車し、浜田で降りるはずが、
目が覚めたら出雲市-米子間だった、という思い出があります。朝日が眩しかったでした(^^;)。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月 7日(火)07時48分42秒
タイトル 懐かしきかな「山陰鈍行」
 おはようございます。代休扱いで平日休2日目の「ED76109」であります。

 先達の皆様方の「さんべ」に対する書き込みを目にしておりますと、
標題の如く「旧客王国山陰本線」の想い出が甦ってまいります。
昭和50年代の中後半、乗りましたねぇ。
徒然なるままに、記してみます。(昭和59年4月1日時点でのデータ参考)

 「833レ  京都→浜田  474・9㎞」
 「721レ  大阪→出雲市 412・1㎞」
 「829レ  京都→出雲市 386・2㎞ 「山陰号」」
 「827レ  出雲市→下関 292・7㎞」

 しかし、この時点では廃止されていましたが、

 「824レ  門司→福知山 595・1㎞」
 「831レ  豊岡→門司  525・6㎞」

 も有名どころでありましょうか。小生が「制覇」できなかったのは、

 「726レ  浜田→大阪  500・8㎞」

 でありました・・・。先達の皆様方の想い出は如何でありましょうか。

 長々と失礼致しました。以上、「DD51」と「青松白砂の日本海」が心に残る「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 7日(火)14時01分24秒
タイトル 耐久列車
▼スイロフ様:
> 朝日が眩しかったでした (^^;)。

寝過ごした結果「朝日が眩しい」とは、本来、どの様な行程を予定されていたのやら、
色々と想像してしまいます(^^)私が初めて山陰地方を訪れたのは、20系「だいせん」
車中泊明けでした。目が覚めると、眼前に宍道湖が広がり、大垣行 345Mに続いての
夜行連泊の疲れも一気に吹き飛ぶ思いでした。

その日は松江に投宿。日没時を見計らい、宍道湖畔に赴くまで、手続を済ませた宿で
一休み………の積もりが、気がついたら日付が変わっており、晩飯も食べ損ね(滂沱)
翌日は確か、境線の車中で「吾左衛門寿司」を丸齧り、という状況でした(^^)

▼ED76 109様:
>「824レ 門司→福知山 595.1㎞」

この列車は、旧客愛好者の間では「御伊勢参り」の様な位置付けだったらしく、私の
周囲でも、全区間を乗り通した手合が数名おりました。耐久性も然る事乍ら、前後に
投宿を要しての「一大イベント」だった様ですね(^^)

1980年代中頃、一ノ関以南で客レが一気に電車置換された東北線の事例にも鑑みるに、
かかる長距離鈍行は、通し需要の有無以前に、機回しなど運用上の手間隙を端折った
産物である印象を、今更ながらに感じます。

置換された 715系も、今や「過去の遺物」ですね。私自身、何度か利用していますが、
あの「月光型」の近郊型転用は、通路の狭さと云い、側扉位置の偏りと云い、立席の
目線と側窓との位置関係、延いては車内採光と云い、かなり無理(または無茶)した
印象が否めません。

オリジナルの国鉄色編成は、現在でも磐越西線の快速運用など、一般利用が効く事も
ある様ですが、上記、20系時代の「だいせん」すら髣髴とさせる、あの車室の仕様は、
開放性が大きな意味を成すであろう、今時の感覚にあって、昼行の一般乗合運用では、
どの様に評価されているのか、気になる処です。



投稿者 スイロフ
投稿日 2009年 4月 7日(火)22時44分4秒
タイトル 旧客乗りまくり
>ED76109様
添付した写真は昭和51年当時の829レ(と私の記録にあるのですが、
ED76109様の書き込みの827レに該当すると思います)です。
私も乗りまくったクチです(^^;;)。
もっとも「制覇」した列車はほとんどありません(824レも長門市-福知山のみ)。

>雑魚様
>寝過ごした結果「朝日が眩しい」とは、本来、どの様な行程を予定されていたのやら、

もともとは浜田で降りて折り返しの早朝客レで益田に戻り、山口線~宇部・小野田線~岩徳線と攻める予定でした...
それが米子まで行ってしまったので予定を変更し、境港線~伯備線~芸備線と乗って広島で元の予定に合流(^^;;)しました。
ちなみに、そのとき乗り残した宇部・小野田・岩徳線は2002年に乗ることができました。

そうそう、824レが福知山に着くと、しばらくして下り「山陰」が来るので宿代わりにできましたね。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月 8日(水)00時18分37秒
タイトル 小生も乗りました・・・
 おばんでございました。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >この列車は、旧客愛好者の間では「御伊勢参り」の様な位置付け

 御意。前述しましたが、昭和56年の春に「制覇」しております。
前日の「まつかぜ1号」で「門司」入りした翌日、4時起床(何時間か寝たでしょうか?)で「福知山」まで乗車しました。
その後は「山陰のハネ」で「松江」まで行き、市内観光・・・といった強行日程。
結局、「出雲市」・「下府」と宿泊した後、「上りみずほ」に「下関」から乗り込み、
着替えて「ハネ」に横になった途端に意識が・・・。
最終日は、「もうすぐ東京に着きますよ。」との「下関車掌区」のカレチさんの一言で目覚めると、
ちょうど「川崎」通過。小生の28年前の「武勇伝」でありました。

 スイロフ様
 >添付した写真は昭和51年当時の829レ

 いつも懐かしき「写真」をありがとうございます。
車窓の右側は「日本海」で、「温泉津」か「下府」あたりでしょうか。
スイロフ様の乗車された「客レ」を牽引するのは、「DF50」ですね。
小生は、昭和55年春・昭和56年春・昭和57年晩夏・昭和59年黄金週間と、4度「制覇」致しました。
確か、「米子」を7時前後に発車する「出雲市」行の「旧客」が、「出雲市」で「827レ」に化けたはずであります。
日本海を一日飽きることなく眺め、最後尾のデッキから流れ去る線路を見つめる。
そして心地良い旅の満足感に浸りながら、夕暮れの「下関」に降り立つ・・・。
小生のレトロトレインの想い出が甦ります・・・。
当時、小生は時刻表で「長距離旧客」を探し出しては、脇目を振らずにただただ「制覇」のみに血眼でありました。

 長々と失礼致しました。以上、時代遅れの旅人でありたい「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 5112-5201
投稿日 2009年 4月 8日(水)02時13分32秒
タイトル 昔の急行さんべ <<RE
5112-5201より
急行さんべについてお寄せ下さいましたみなさま、ありがとうございました。
引き続き、みなさまの山陰方面の思い出を拝読させていただきます。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 8日(水)09時20分53秒
タイトル 山陰線乗り潰し
スイロフ様やED76 109様の御話を伺いますと、旅程におけるホテル投宿や寝台利用、
果ては周遊券が網羅しない座席指定券ですら「ブルジョア的」として、軍法会議すら
受けかねなかった(^^)学生時代を思い出しますね。特に「彼女が出来た」は重罪で、
厳しい自己批判を強要されました(^^)

我が出身大学では、前期定例試験が夏期休暇の直前ゆえ、休暇中に阿呆になる学生が
後を絶たず(^^)我が「鉄仲間」が無精髭を生やして「旅行疲れ」した面構えで集う
休暇明けのアンニュイな雰囲気は、初秋の風物詩でもありました(^^)

▼ED76 109様:
>「長距離旧客」を探し出しては、脇目を振らずにただただ「制覇」のみに血眼

時刻表上は「細切れ記載」なるも、事実上「通し運転」だった新潟~長岡~直江津~
長野~高崎~上野という旧客列車が、80年代まで存在したのですが、これは御試しに
なりましたでしょうか?

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山陰線が話題となっていますが「出雲」に続き「富士/はやぶさ」も廃止された現在、
京都~下関を、山陰・山陽線で走破する場合、どれ程の手間となるのか、先月改正の
時刻表で調べて見ると、以下の様な感じでした。

【京都→下関】

京都0521→姫路0728~32→岡山0900~13→糸崎1040~45→岩国1252~1343→下関1650

京都0532→福知山0619~21→福知山0728~20→豊岡0937~47→浜坂1113~1200→鳥取
1246~1344→(特急)→益田1715~1856→長門市2045~2144→下関2344

【下関→京都】

下関0534→三原1059~1101→岡山1235~1314→姫路1420~22→(新快速)→京都1614

下関0635→滝部0754~0803→長門市0851~0901→益田1056~1208→(特急)→鳥取1548
~1622→浜坂1706~21→城崎温泉1815~18→福知山1921~24→(特急)→京都2048

これを見ると、まだまだ「陰陽」の差は大きいですね。特に山陰線下りは、全行程の
四割を特急で移動してなお、京都が始発、下関が最終という陣容です。



 
 
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