倶楽部メモ(506)
平成21年 3月31日〜 4月 2日



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 3月31日(火)10時41分4秒
タイトル 大阪方の方向転換
雑魚様:
失礼ながら「位置関係」を相当誤解されています。
特急の回送列車は大阪−尼崎−塚口−尼崎-塚本西方から北方貨物線−宮原客車区−
塚本西方で東海道本線合流−大阪で、推進運転回送や新大阪は全く関係ありません
でした。
管理人の仙コリ様が東京の「蛇窪回し」と大阪の「塚口方向転換」を図解されてい
ますのでよくお解りと存じます。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 3月31日(火)12時31分17秒
タイトル 三角線に関する私的補足
▼マロネロ38様:
> 失礼ながら「位置関係」を相当誤解されています。

30日付の拙稿の文脈に不備があったとすれば、御詫びを申し上げますが、管理人様に
御掲出を頂いた図解との整合性において、以下の点を申し上げたい意図がありました。

図解によると、塚口に回送された編成は、機回しの上、宮原にスルー入線し、ここで
再び機回しをして、大阪駅に戻っていますね。それなら、宮原でエンド交換をせずに、
新大阪駅の南西側を掠める短絡線を通り、大阪駅に回送する選択肢もあり得たのでは
ないかという事です。

それでも宮原でエンド交換を行った理由として「新大阪駅南西側の短絡線が、当時は
未整備だったのか?」あるいは「塚口→宮原が実は推進運転なので、その侭の状態で、
新大阪側から大阪駅に進入する事が憚られたのか?」更には「機回しは、大阪駅より
宮原操車場で行った方が、都合良いのか?」といった事情を勘繰った、という事です。

更に29日付の拙稿においては「大阪→塚本→宮原→吹田操車場 (エンド交換)→大阪」
あるいは「大阪→神戸方面 (折返しが可能な 東海道線上の駅/エンド交換)→宮原→
新大阪駅南西側短絡線→大阪」という方法が可能であれば、わざわざ福知山線を部分
電化する程の事ではなかった様にも思えるが、そうならなかったのは、東海道線では
エンド交換に足る施設が既に確保困難な状況にあったのか、とも感じた訳です。

少なくとも、30日投稿の段階では、管理人様御教示の内容を踏まえた積もりですので、
その旨、御含み置きを頂ければ幸いです。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 3月31日(火)18時40分30秒
タイトル 大阪方での方向転換について
特急列車の大阪での方向転換について議論となっているようですので、どうして大阪-塚口-宮原-塚本-大阪
といったような経路となったのかを推測してみました。

大阪駅と宮原については非常に良い位置関係となっていまして、東西の両方向に回送線が存在しますので
どの方面に向かう列車においても順方向で大阪駅への入線が可能になっています。
しかし裏を返せば、大阪駅は構造・運用上ホームに長時間列車を停車させておく余裕が無い為に、必然的に
このような配置になったのであると思われます。
この事は当時の花形列車であった東海道本線特急列車においても例外ではなく、事実運転時刻を見てみると
東京駅での発車前・到着後のゆったりした時間(30〜40分程度)と比べて、大阪駅では10分程度の停車時間
であわてて発車していく状況が垣間見れます。
よって
(1)大阪駅到着後、すぐに回送するには西方に進む必要があった。
(2)三角線を使用して編成の向きを変えるには尼崎駅以西まで回送する必要があった。
(3)大阪近辺の東海道本線は列車密度が高く、東海道本線の駅での機回しは困難であった。
といった理由から、比較的余裕のあった?福知山線の最初の駅である塚口駅が機回しする駅として白羽の矢
が立ったものと思われます。

次に宮原で進行方向を変えた理由ですが、確かに雑魚様のおっしゃる宮原をスルーして東側回送線を使用し
大阪駅に入線する経路でも編成の方向転換は可能でしたが、上記のとおり大阪駅での機回しは事実上不可能
であったと思われますので、必然的に塚本経由の西側回送線での入線となったのだと思われます。
それ以上に当時の東海道本線特急列車の1日の運用は片道のみであり、当日の折り返し運転ではないので、
宮原停車は方向転換の為ではなく、車両整備を含めた1泊?でしたので、このような経路となったことが
推測できます。

このように線路配置・運用面などから考えますと、折り返しが塚口駅である必然性は別として(尼崎駅以西
で折り返し可能であればどこでも良いので…)この経路は理にかなっていたものと思います。
投稿者のホームページ



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 3月31日(火)21時56分16秒
タイトル 操車場の謎
 春休みも「入試結果報告書」や「次年度の計画作成」等で扱き使われております「ED76109」であります。

 出典がハッキリしていませんので、正確さでは問題が残りますが・・・。
大都市圏の「操車場(客レ)」の機能に関しては、「大ミハ」や「大ムコ」が東京の「南シナ」や「北オク」よりも
優れているという記述を、読んだ記憶(「RJ」か「RF」?)がございます。
 特に「北オク」は 推進運転に加えて、「上野」での荷下ろしのための長時間の滞留や
地上・地平の2種類のホーム構造等、「スジ屋」氏からは「白紙改正」の度に嘆息ばかりであったとの逸話が。
さらに「北オク」は住宅街のど真ん中に存置し、
踏切による渋滞解消も考慮しなければならなかったという話もあったとのこと。
件の「スジ屋」氏が「回送線のある「大ミハ」のような構造だったら・・・。」とぼやいていたようであります。
 そういえば、以前「震災臨時ブルトレ」の話の折、「京都」の「上りホーム」から苦もなく「臨時あかつき」等を
「大ムコ」に回送できると、「マロネロ38様」が仰っておられました。
小生、「大ムコ」の詳細な構造は知り得ませんが、「大ミハ」のような「トリック」があるのでありましょうか。

 雑魚様
 >常陸太田市域は田園地帯が殆ど

 小生、「偕楽園」と「光圀公の史跡」等を訪問しながらの「旅」でありました。
阿武隈の山々を望みながら、駅前食堂で昼食。
「味噌汁付きのオムライス」を堪能しながら、古びたTVで見た「森昌子」さんの旅情溢れる「恋ひとつ雪景色」が、
なぜか記憶に残ります。
旅のラストは「日立駅近くの太平洋に沈む夕日」。
海原に沈む夕日を眺めながら、気分は「遠くへ行きたい」の「渡辺文雄」さんでありました
(生意気な中学生でしたねぇ・・・)。

 長々と失礼致しました。以上、寒風荒む「夕焼けの手稲山」に見とれてしまった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 1日(水)08時24分39秒
タイトル 宮城野貨物線
▼管理人様:

更なる御教示、有難うございました。大阪における線路容量の問題や、宮原における
車両整備・駐泊を勘案すれば、確かに仰る通りですね。当方の言葉足らずで御手数を
掛けました事、御詫びを申し上げます。

▼ED76 109様:
>「大ミハ」や「大ムコ」が東京の「南シナ」や「北オク」よりも優れているという

平坦地の展開度合が比較的小さい事から、首都圏に比べると、並行私鉄との競合性が
高いとされる畿内の国鉄(JR)では、独自の創意工夫が見受けられるなどと、間々
評される様ですが、宮原の「完璧な」路線配置も、かかる感性の産物でしょうか。

一方、梅田地区に立ち寄る関係上、わざわざ淀川を二度渡ってまで、大阪駅の前後で
かなりの迂回経路を呈する東海道線の態様を考えると、宮原の設置は、まず業務用の
短絡線ありき、という発想を出発点とした様な雰囲気も感じられます。

この種の短絡線としては、仙台駅前後の「宮城野貨物線」を連想しますが、こちらは
仙台駅が夜間、新幹線の工事で閉鎖された1970年代中頃、長町の代替停車とセットで
夜行列車の迂回に供された歴史がありますね。宮原で、そうした措置がとられた事は
あったものやら?

>「京都」の「上りホーム」から苦もなく「臨時あかつき」等を「大ムコ」に回送

京都駅30番線始発「はるか」の要領でしょうか。これだと、東海道線西側に並行する
貨物線を南下、そのまま桂川駅付近で本線を跨ぎ、向日町では、下り快速線の外側に
シフトする格好になりますが………

> 旅のラストは「日立駅近くの太平洋に沈む夕日」

海岸線の態様にもよりますが、かの地で太平洋と夕日を絡め得るとすれば、落日点が
最も南に偏る師走頃になるでしょうか。常陸太田絡みで夕日を拝むなら、日立電鉄の
川中子駅跡に近い小目地区が御薦めです。ここは何と言っても、かのNHK「新日本
紀行」主題曲着想の原点となった、由緒ある地ですから(作曲者談)



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 4月 1日(水)10時56分44秒
タイトル 大阪駅空襲被災時の措置
雑魚様:
>宮原でそうした措置(迂回)--
戦争末期に大阪駅が被災した時に、北方貨物線(宮原)経由で長距離列車が迂回する
と当時ラジオで聞いた記憶があります。大阪乗車,下車の客扱いを何処でしたのか?
までは記憶にありません。報道管制が厳しかった当時なのでそこまで報道されなかつ
たと------。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 1日(水)12時57分40秒
タイトル 戦時体制
▼マロネロ38様:
> 大阪乗車,下車の客扱いを何処でしたのか? までは記憶にありません。

前後の東海道線では既に、複々線化が相応に進捗していた様ですが、首都圏と異なり、
当時から方向別仕様だとすれば、代替停車措置の融通は割と効いたかも知れませんね。
なるべく大阪の近くに、となれば、吹田か神崎(現尼崎)辺りでしょうか………

> 報道管制が厳しかった当時なのでそこまで報道されなかったと------。

下車客はそれで良いとしても、乗車予定客への誘導対応が、困難になりますね。

==================================================================

戦時対応といえば、山陽線や呉線では海軍関連施設を衆目から隠す為、瀬戸内海側の
窓を一律封鎖(遮光幕? バリケード?)した事も あったそうですね。景色を眺めて
なんぼの列車移動でこの状況、戦時下だからと言えばそれ迄ですが、想像するだけで
ストレスが溜まりそうですね。その頃、陸軍に応召した我が祖父は、時として貨車に
押し込まれての移動を経つつ、中国東北部で転戦を重ねていたそうな。

戦時下の山陽線と云えば、やはり広島での惨禍ですが、原爆投下の翌日には宇品線が、
翌々日には部分的ながら山陽線が復旧し、被災者や救援物資の輸送に与されたとの事。
襟を正す話です。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月 1日(水)21時17分36秒
タイトル 長町駅に停車した夜行列車
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >この種の短絡線としては、仙台駅前後の「宮城野貨物線」

 昭和48年3月に「鉄」親父と乗車した「八甲田51号」が、このルートで運転されました。
残念ながら小生は「夢の中」だったので、印象は皆無です。
ただ、同年6月の「JTB時刻表6月号」では、0時〜5時の間に6往復(多客期は10往復)の連絡バスが、
「仙台・長町」間の運行されております。
「仙台」では、下りは「0時22分発八甲田」から「5時23分発いわて3号」までの間の急行3本
(十和田1号、2号及び3号)、
上りは「23時30分発いわて3号」から「5時38分発八甲田」までの間の急行3本
(北星、十和田3号及び4号)がそれぞれ「長町」に停車しております。
 確か、昭和52年頃(?)まで、「長町」の代替停車措置が取られたはずでありますが、
時期は明確ではありませんので、先達の皆様方から補足いただければ幸いであります。

 長々と失礼しました。以上、「戯言」情報でありました。



投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 2009年 4月 1日(水)21時27分16秒
タイトル RE:宮城野貨物線
雑魚さま

>宮原で、そうした措置がとられた事はあったものやら?

大阪駅は大改装の真っ最中ですが、この工事の過程で東京発のブルトレを宮原経由(貨物線)としたこと
がありましたよね。
時刻表にも記載があったはずです。
投稿者のホームページ



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 4月 2日(木)10時21分59秒
タイトル 大阪駅被災時代替駅
雑魚様:
多分神崎(尼崎)と吹田だったかもしれません。
吹田は千里山線が近いですが、神崎は例の「ドテカン」(尼崎昇降場)−−尼崎で
阪神尼崎が大阪への連絡方法?だったのかと。何しろ当時は「博釜,関釜、青函、
稚泊連絡船」時刻は「駅で切符を買う乗客が問い合わせ」でないと時刻表には
「省略」の時代、隠岐島航路も「省略」の状態でしたから、代替駅も「駅へ問い
合わせ」だったかも知れません。
呉線のブラインド下ろし命令は「大和」を隠蔽の為、神戸の川崎重工ガントリー
クレーンの「簾」は空母「大鳳」隠蔽でしたが、三ノ宮駅などホームから丸見えで、
平甲板なので航空母艦とすぐ解りました。北陸本線の新保−杉津なども
「ロ」の車内ではカレチが「写真機を預かります」でした。
明石海峡なども要塞地帯ではないのに昭和15年頃から海峡の撮影禁止」でした。
戦後の「周遊指定地」の多くが「要塞地帯」と被っているのも皮肉な結果と感じ
ました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 2日(木)11時29分57秒
タイトル 宮原迂回
▼竹中@ノーブルジョーカー様:
> 大阪駅は大改装の真っ最中ですが、この工事の過程で東京発のブルトレを
> 宮原経由(貨物線)としたことがありましたよね。

この件は初耳でした。梅田貨物駅で行われている「大阪駅新北ビル」の再開発工事に
関連して「富士/はやぶさ」「サンライズ」が宮原を経由した、という事でしょうか。
前者の下り便と後者の上り便は、大阪に停車する事から、代替駅の確保が必要ですが、
吹田からの東側回送線では、新大阪には配線構造上、停車不可ですよね………すると、
やはり、要衝である尼崎に停車?

時代の必然とはいえ、NHK「その時、歴史が動いた」の東京駅再現にも用いられた、
梅田の風情ある頭端式貨物駅が無くなるのは、趣味の見地からは惜しい気がしますね。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 2日(木)16時31分37秒
タイトル 敦賀港駅
▼マロネロ38様:
>「駅で切符を買う乗客が問い合わせ」でないと時刻表には「省略」の時代、

行程の事前策定が困難という事で、時勢柄、行楽は憚られたにせよ、商用・実務での
利用動機、延いては経済への悪影響も著しかったものと、想像します。

> 呉線のブラインド下ろし命令は「大和」を隠蔽の為、

ブラインドがあったのですね。鉄道が通る街にあって、大型艦船を隠蔽する必要性が
予測できたなら、関連施設の立地を検討する段階で、一考の余地ありとも感じますが。

> 北陸本線の新保−杉津なども「ロ」の車内ではカレチが「写真機を預かります」

敦賀港は、杉原千畝氏による「命の査証」を携えたユダヤ人の上陸に象徴される様に、
軍港でなく、国際航路の拠点という印象を受けますが、それでも守秘性が求められて
いたのですね。この辺りの旧北陸線を踏襲する道路では、1996年に北海道後志支庁の
豊浜隧道で発生した大規模な岩盤崩落事故を受けて、隧道部分が一定期間、通行止の
扱いだったと聞きます。

福井県では、この難所を境に「嶺南」「嶺北」と分ける事が多いそうですが(ただし
律令制における敦賀は、若狭でなく越前に所属)直流電化が敦賀まで延伸された現在、
経済的な境界線として、県境以上に大きな意味を持つ事になりそうですね。

なお「ボート・トレイン」の運転を巡り、同港とは縁の深い敦賀港貨物駅が、先月末、
鉄道施設としての一世紀余の歴史を終えたそうで、今後は、線路の撤去は行わない侭、
コンテナ中継を行う「オフレール・ステーション」として稼動するそうです

> 戦後の「周遊指定地」の多くが「要塞地帯」と被っているのも皮肉な結果

茨城県の鹿島港や富山県の富山新港の様に、平坦な海岸に大型船舶を対応させる為の
浚渫技術が未確立だった時代、特に重量級が多い武装艦を擁する軍港では、喫水線を
確保する為、旧海軍の鎮守府が設置された横須賀・舞鶴・呉・佐世保は典型例ですが、
リアス式海岸か、それに近い地形が好まれ、必然的に風光明媚さを伴ったと考えます。




投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 4月 2日(木)20時03分30秒
タイトル 大阪駅改良工事に伴う迂回運転
大阪駅改良工事に伴う寝台特急列車の迂回運転は数回あったようです。

手持ちの時刻表からわかっただけで、下り「富士」「はやぶさ」で3回ありまして
現地(大阪地区)日で 2007年4月8日(日)・10月28日(日)・11月11日(日)に
本来停車駅の大阪駅( 1:06着 1:08発)を通らずに北方貨物線を経由し、停車駅が
尼崎駅( 1:13着 1:15発)に変更になったようです。

同様に上り「サンライズ瀬戸・出雲」も現地(大阪地区)日 2007年4月8日(日)に
本来停車駅の大阪駅( 0:32着 0:34発)を通らずに北方貨物線を経由し、停車駅が
尼崎駅( 0:27着 0:29発)に変更になったようです。

私の手持ちの時刻表でわかったのは上記4列車だけなのですが、それ以外の日にも
迂回運転となった日が存在すると思いますので、詳しい方がいらっしゃいましたら
フォローいただけると助かります。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2009年 4月 2日(木)23時04分41秒
タイトル Re大阪駅改良工事に伴う迂回運転
確かはやぶさと併結だったさくらも下りが尼崎に停車してましたね。
2005年の3月、さくら廃止の直前だったと思います。
出雲末期にも午前3時過ぎに京都駅に撮影に行くと、
本来通過のはずの富士・はやぶさが0番線に停車してました。
時刻表には記載されてませんでしたが駅では案内放送がされていた記憶があります。



 
 
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