倶楽部メモ(494)
平成21年 2月18日〜 2月21日



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月18日(水)23時17分49秒
タイトル 過去の栄光ですね・・・
 ルーティンワーク的にお邪魔しております。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >高砂付近の分岐点に、永らく腕木式信号機が残っていましたね

 現在でも「旧北海鋼機」駅付近に、腕木式信号機が「夕張鉄道の遺構」として残存しております(説明碑もあります)。
家族で立ち読みやDVDを借りるために出かける「TSUTAYA」の道すがら、
「函館本線高砂」から徒歩10分といったところでしょうか。
 大正15年に開業した「夕張鉄道」は、昭和27年に「DC」を導入し、
翌年には北海道初の「液体式DC」の運行を開始しました。
同36年には、当時の国鉄の準急「夕張」に対抗し、急行列車を運転。
「DC」による「札幌」までの直通運転を計画し、「DC」の寄贈によって「札幌乗り入れ」を画策した結果、
国鉄に断られた逸話が残されております。
また、「錦沢」に開設した「錦沢遊園地」は、当時「夕張随一の行楽地」としての賑わいを見せたとの記録がございます。
 しかし、同37年頃から、石炭産業の衰退による炭坑の合理化・閉山が進み、貨物輸送が減少。
さらに、バス路線整備、マイカーの普及及び閉山による人口減に伴い、旅客輸送も激減したことから、
同46年11月「鹿ノ谷・夕張(本町)」間の鉄道営業及び「鹿ノ谷・栗山」間の旅客営業を廃止しました。
最後まで残った「野幌・栗山」間も、同49年3月31日をもって旅客営業が廃止。
そして、同50年3月31日、沿線で最後まで操業していた「北炭平和炭鉱」の閉山に伴い、全線が廃止されました。
 当時、「運炭列車」の牽引機として、「旧国鉄の9600」が活躍していたことは、
先達の皆様方には、「釈迦に説法」でありましょう。

  資料 「ゆうてつ50年のあゆみ」(夕張鉄道刊)
          「記録写真集 昭和40年代の鉄道 第T集/北海道編」 (Bee Books刊)

  長々と失礼しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 2月19日(木)11時00分12秒
タイトル 夕張鉄道
国鉄が野幌からの乗り入れを断った理由は、下りが「本線横断」するのを嫌ったのと
まだ他にあるのですか?
夕張の車両が廃止後「倉敷市営」(倉敷−水島)に来ていましたがDCの間に客車改造
のキサハがあって、それも倉敷へ来ていましたね。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 2月19日(木)16時03分36秒
タイトル 夕張鉄道
▼赤まんと様:
> スハネフ14の床下エンジン音は想像よりうるさかったこと、

先日、出張序でに横浜に赴きまして、夕方、横浜駅の乗換用地下通路を歩いていると、
気動車を思わせる重低音が通路内に響き、慌ててホームに駆け上がると、丁度「富士・
はやぶさ」が到着した処でした。何とも存在感のあるエンジン音ですね。

> 寝台の区分柱には、切符の座席番号に呼応したステッカーが貼られていました。

上り便という事で「あけぼの」「日本海」同様、座席指定の扱いになるのでしょうか。
嗚呼、昔日の「指定券収集癖」が沸々と………(^^)

▼ED76 109様:

> 現在でも「旧北海鋼機」駅付近に、腕木式信号機が「夕張鉄道の遺構」として残存

1975年の廃止後も、野幌〜北海鋼機前・若菜〜鹿ノ谷と、両端区間が事業所線として、
暫く命脈を維持した様ですね。国鉄夕張線と接続したのは、終着の夕張本町ではなく
鹿ノ谷で、当時の同駅は広大な操車場を擁するなど、堂々たる陣容だったと聞きます。

内容そっちのけで踏切や線路が散見される映像に魅せられた(^^)かの名作「幸せの
黄色いハンカチ」に登場したのが、この界隈だったとか。なお、北海鋼機前〜栗山〜
若菜の廃止時期は、同作品封切りの丁度一年半前です。廃止前の様子が、フィルムに
反映されているか否か、微妙な時期ですね(^^)

同鉄道の存在を初めて知った当時、鉄道路線地図では栗山以西のみの表記で、直ちに
炭鉱関連とも思えない経路の必然性とは何か、疑問に感じたものですが、その時点で、
栗山以東も、貨物専用で残存していたのですね。しかし、当時の「鉄」仲間の関心は、
専ら「三軸ボギー車」で有名な三菱大夕張線に向けられ、夕張鉄道はマイナーでした。

我が地元の鹿島鉄道に転出した、元夕張鉄道の キハ714形は、鹿島鉄道廃止と同時期、
財政再建団体となった古巣の夕張市に里帰りした様ですが、今はどうしているのやら。
画像は廃止後の常陸小川駅跡、元加越能鉄道 キハ714形との貴重な「邂逅」場面です。
側面にはいつも「サンケイ・スポーツ」の広告が掲出されていたのが印象的でしたね。




投稿者 雪だるま
投稿日 2009年 2月19日(木)21時27分52秒
タイトル 夕鉄
中学生の時に夕鉄で遠足に行きましたが、横揺れがすごく脱線するかと思いました。
栗山〜野幌にはDD13タイプのDLが走ってましたね。
錦沢遊園地は桜がきれいな場所でしたが、去年北海道の番組で現地を取材しましたらまだ桜が咲く樹が何本かありました。
ED76109さま
私も同じ本屋さんに行きますよ。生活圏があまりに近くてびっくりです。

腕木式信号機まだありますか?パチンコ屋さんで車内から見えないのでしょうか?
長々と失礼致しました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月19日(木)22時40分50秒
タイトル 夕鉄の野望だったのでしょうか・・・?
  お寒うございます。「ED76109」であります。
本日、「陸別」「阿寒湖畔」で「−25℃以下」となりました・・・。

 マロネロ38様
 >国鉄が野幌からの乗り入れを断った理由

 手持ちの資料や関係サイト等を確認したのですが、明確なものは確認できませんでした。
小生の勝手な私論ですが、前述の「札幌・夕張」を結ぶ「札幌急行鉄道」構想が
当時の国鉄との利害関係に影響した可能性を考察しています。
現に「夕張鉄道」は、昭和36年の急行列車運転開始に伴い、
「野幌・札幌大通」間にバス連絡による輸送を開始しております
(現在も「札幌大通・夕張」間に6往復のバスを運行中)。
地方鉄道「夕鉄」の「札幌乗り入れ」は、社運を賭けた一大事業だったのかも知れません。

 >夕張の車両が廃止後「倉敷市営」(倉敷−水島)に来ていましたが

 小生の確認できたところでは、「岡山臨港鉄道」で活躍した「元夕張鉄道のキハ252及びキハ253」が、
「岡山県美作市」で保存されているそうであります。

 雑魚様
 >鹿ノ谷(中略)は広大な操車場を擁する

 最盛期は、広大な構内を運炭車が埋め尽くしていたようであります。
「黒いダイヤ(石炭)」、「赤いダイヤ(小豆)」及び「黄色いダイヤ(鯑等の海産物)」などが、
過去本道の貨物輸送の中心でありました。
さらに「錦沢」は、雑魚様が仰ったように「多重構造のスイッチ・バック」が有名であり、
当時の私鉄最大のものであったようであります。

 >かの名作「幸せの黄色いハンカチ」に登場したのが、この界隈だったとか

 そうだったのですか。「ボタ山」、「炭住」、そしてクライマックスでの「翻る黄色一色のハンカチ」・・・。
邦画史上の名シーンの一つであると小生は考えております。
小生は、「山田洋次監督」作品には強い「鉄」色が感じられ、ストーリー性も含めて贔屓にしております。
前述しました「家族」、父親の願いを叶えるため「山線の貨物列車」を追いかけた「男はつらいよ」、
そして「遙かなる山の呼び声」の「急行大雪でのラストシーン」・・・。北海道の鉄道は永遠です!!

  長々と失礼しました。
以上、先達の皆様の「はやぶさ・富士」お別れ乗車記を拝読するたび、
昨年暮れの有馬記念「アドマイヤモナーク」の悪夢が甦ってやまない「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月19日(木)22時46分19秒
タイトル 連投失礼します!!
  連投失礼します。「ED76109」であります。

 雪だるま様
 >私も同じ本屋さんに行きますよ

 えっ・・・(絶句)。
土・日に「鉄」雑誌に夢中になっている「メタボの中年男」がおりましたら、恐らく小生であります。
改めてよろしくお願い致します!!!



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 2月20日(金)10時32分39秒
タイトル 更に夕張鉄道
▼ED76 109様:
>「札幌・夕張」を結ぶ「札幌急行鉄道」構想が当時の国鉄との利害関係に影響

夕張線あらため石勝線の千歳空港〜追分が未開通だった頃、夕張線列車の運行導線は、
札幌スルーたり得ず、特に主流の運炭列車は専ら、積出港でもあった苫小牧や室蘭を
指向していた印象があります。

その意味で、夕鉄とは一見して棲分けが効きそうですが、札幌都市圏では開発時期が
比較的早いと見られる函館線の江別方面にて、優等列車や貨物列車も多数雁行する中、
マロネロ38様が指摘された、野幌駅の「平面交叉」に伴う干渉を含め、国鉄が一介の
地方私鉄の為にダイヤを融通するほどの動機には至らなかったと推察します。

国鉄では、夕鉄が急行運転を開始した1961年、札幌〜岩見沢〜夕張で準急「夕張」を
新設しており、小樽延長も行われた急行時代には「かむい」「ましけ」「狩勝」との
多層建も行われています。こうした辺りに、当時の逼迫した函館線の線路容量事情が
窺える様ですね。なお、急行「夕張」は1972年まで運転されました。

>「岡山臨港鉄道」で活躍した「元夕張鉄道の キハ252及び キハ253」

水島臨海鉄道経由で転籍の様ですね。入替用の簡易運転台を思わせる切妻の面構えが
強烈な印象でした(^^)実はこれ、意外にも夕鉄時代からの作風なのですね。

> 当時の私鉄最大のものであったようであります。

箱根登山鉄道をも上回っていたのでしょうか? 詳細は不明ですが 1962年全廃された
草軽電鉄も「大技続き」と聞きます。そもそも、浅間山麓を鉄道が通過する、しかも
L型電機牽引の客車ないし客貨混合列車も走っていたという作風自体、実際に現地を
運転した時の感覚からして、感慨を超越し、正に感涙モノでした(^^)

正規の旅客営業路線以外なら、富山県立山に「連続スイッチ・バック最大18段」なる
大技もありますが、これは、国交省所管の工事軌道なので、一応「国鉄」という事に
なりますね(^^)作業員輸送の為、ここでも 一応「客レ」が設定されています(^^)
何とも奇天烈な構図の画像は、隣を通過する鋼索軌道の車中からの眺めです。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 2月20日(金)17時12分16秒
タイトル 夕張−倉敷
昭和49-2-11に水島で下記撮影しています。
キハ301-302(2枚窓湘南タイプDC)
ナハニフ153(客車)転換クロス、蛍光灯2列(裸)、スピーカー付き、
以上



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月20日(金)17時48分55秒
タイトル また「鉄」勉強になりました。
 吹雪の一日となっています。「ED76109」であります。

 まず、「戯言情報」であります。
本日、札幌発の「北斗星」は「爆弾低気圧」による大幅なダイヤ遅延が予想されることから、「運休」となっております。
明日の「撮影」に係り、ご参考までに。

 雑魚様
 >国鉄が一介の地方私鉄の為にダイヤを融通するほどの動機には至らなかったと推察します。

 当時の「函館本線」の状況を落ち着いて考えれば、当然の事由でありましょう。
まさしく、道央と道北を結ぶ大動脈。「道央道」も完成前ですから、列車ダイヤの逼迫度はかなりのものだったでしょう。
「千歳線」の新線移行も、札幌市の都市化計画と並び、
「増大する貨物輸送への対応」を迫られていたことも理由のようであり、
マロネロ38様の御指摘と合わせて十分に理解できます。「鉄」勉強になりました。

 >1962年全廃された草軽電鉄も「大技続き」

 小生が小学生の頃、「山」母親が昭和35年頃「草津温泉」に旅行した折に乗車した話を聞いたことがあります。
母親曰く、「山越えは何度も方向を変えてノロノロ進んだね。
『マッチ箱の客車』が山麓を下る時は、ジェットコースターみたいだった・・・。」
「草軽電鉄」は、昭和30年代に公開された「カルメン故郷へ帰る」の舞台となっています。
当然、小生は乗車体験はありませんが、かなり「個性的な軽便鉄道」だったようであります。
一度「乗り鉄」」したかったものです・・・。


 雪だるま様
 >腕木式信号機まだありますか?パチンコ屋さんで車内から見えないのでしょうか?

 「野幌駅南口」を江別方面に、パチンコ屋の角を右へ進むと右側の歩道に・・・。
恐らく「函館本線」からは見えないと推察されます。
小生、早速日曜日、件の「TSUTAYA」に出没予定です(笑)。

 長々と失礼しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 2月20日(金)21時48分20秒
タイトル これは必見です
みなさまこんばんは。
すでに手にした方、読まれた方、いらっしゃるとは思いますが、今回の「鉄道ピクトリアル」4月号は夜行列車特集です。
すでにさんざん書かれてきた内容のなかに、キラリ光る、違った切り口といいましょうか、
客車ファン垂涎の記事があります。
敢えて伏せておきますので、まだの方は、明日以降書店に走ってください。
また、「j-train」誌も旧型客車の時代パート2として、昭和50年冬の上野口臨時列車編成記録など、
マニアックかつ貴重な資料が載っています。
当時どの車がどこの所属だったのか。
どの臨時列車にどの区所の車があてがわれたのか。
興味深い内容で、なかなか楽しい週末を過ごせるのではないでしょうか。
週末こそ仕事の私は帰宅してから、家事をこなしつつ少しずつ楽しんでいます。



投稿者 彩稀
投稿日 2009年 2月20日(金)22時37分34秒
タイトル 急行越前
急行越前さま

貴重な資料ありがとうございます。お礼が遅れてすみません。
コンパクトな編成に旧客が凝縮されたみたいですよね。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月21日(土)08時41分21秒
タイトル 懐かしい写真集がありました
  昨日来の吹雪の夜が明けました。「ED76109」であります。

 本日、午前8時現在、「石北本線上川・網走」間が積雪による不通のため及び宗谷方面の猛吹雪のため、
「オホーツク」「スーパー宗谷」及び「サロベツ」が運休。
石狩地方の大雪により、「スーパーおおぞら」及び「スーパー北斗」に大幅な遅延が見込まれております。
本日の上り「北斗星」「トワイライト」の状況につきましては、状況を確認しだい報告致します。

 今回は、道立図書館にあった「発掘カラー写真 昭和30年代鉄道原風景 国鉄編」(JTB刊)の写真の中から
「戯言」を申し上げます。
恐らく先達の皆様方には懐かしい話題であるかもしれません。
一つでも先達の皆様方の話題に取り上げていただければ、幸甚の限りでございます。

 1 小生、小学生の頃は「鉄」仲間と「品鶴貨物線」に出かけました。
「貨物列車」を牽く「EF18」等や並行していた「東海道新幹線の0系」を
池上付近の切り通しから眺めた想い出があります。
また、「山手貨物線」でも旧電機の牽く貨物に興味を持ちました。
実は、昭和30年代にこの経路で、「新宿・熱海」間に「旧客準急あまぎ」が週末に運転されていたことを知りました。
列車番号は、「3709レ、3710レ」で「新宿13時20分発」。
冬晴れの「原宿」付近の「山手貨物線」を「EF58」に牽かれた「あまぎ」の姿が記録されております。

 2 昭和40年代末まで、「東京・上野」間は回送線で結ばれておりました。
東北最初のブルトレ「はくつる」が「東シナ受け持ち」で同ルートを回送されていたことや、
旧客普通列車が「高崎線」や「常磐線」から「東京」「新橋」へと乗り入れていたことは、
先達の皆様の周知のことでありましょう。
多くの列車は「C57」牽引でしたが、昭和35年頃は「C62」が「東京駅」に乗り入れたこともありました。
そんな列車の一つが「平行435レ」。
東京駅の「7番ホーム」から「通勤列車」を牽き出す「C6221」の勇姿が夕焼けに照らされて輝いております。
まさに鉄道が輝いていた時代でありました。

 3 小生の私論ですが、日本の鉄道を支えた「機関車」を一つ選ぶのであれば、「D51」を選びたいと思っております。
昭和40年代の前半、全国の至る所で「旧客や貨車」を牽引する姿を目にしましたし、
牽引する「旧客」にもお世話になりました。
そんな中、昭和36年4月に「福知山線宝塚駅構内」で撮影された「D51143」の1枚に、小生は注目。
「ハエタタキ」の勇姿や桜花の美しさもさることながら、「緩急車」の次位に連結された「補機」らしき姿なのです。
当該の列車は撮影位置から推察すると「福知山方面の下り貨物」なのですが、
小生、福知山線で「D51」が補機についたという話は聞いたことがなく、印象に残った1枚となりました。

 上記以外にも、懐かしい風景が一杯であり、機会があれば気になった「ショット」を「戯言」したいと思っております。
以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月21日(土)13時58分57秒
タイトル 「戯言」情報です!
  連投失礼します。「ED76109」であります。

 標題の件に係り、本日札幌発「カシオペア」「北斗星」及び「トワイライトEXP」は全区間運転休止となっております。
明日の「ブルトレ」撮影情報のご参考まで。

 以上、「戯言」情報でした。



 
 
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