ルーティンワーク的にお邪魔しております。「ED76109」であります。
雑魚様
>高砂付近の分岐点に、永らく腕木式信号機が残っていましたね
現在でも「旧北海鋼機」駅付近に、腕木式信号機が「夕張鉄道の遺構」として残存しております(説明碑もあります)。
家族で立ち読みやDVDを借りるために出かける「TSUTAYA」の道すがら、
「函館本線高砂」から徒歩10分といったところでしょうか。
大正15年に開業した「夕張鉄道」は、昭和27年に「DC」を導入し、
翌年には北海道初の「液体式DC」の運行を開始しました。
同36年には、当時の国鉄の準急「夕張」に対抗し、急行列車を運転。
「DC」による「札幌」までの直通運転を計画し、「DC」の寄贈によって「札幌乗り入れ」を画策した結果、
国鉄に断られた逸話が残されております。
また、「錦沢」に開設した「錦沢遊園地」は、当時「夕張随一の行楽地」としての賑わいを見せたとの記録がございます。
しかし、同37年頃から、石炭産業の衰退による炭坑の合理化・閉山が進み、貨物輸送が減少。
さらに、バス路線整備、マイカーの普及及び閉山による人口減に伴い、旅客輸送も激減したことから、
同46年11月「鹿ノ谷・夕張(本町)」間の鉄道営業及び「鹿ノ谷・栗山」間の旅客営業を廃止しました。
最後まで残った「野幌・栗山」間も、同49年3月31日をもって旅客営業が廃止。
そして、同50年3月31日、沿線で最後まで操業していた「北炭平和炭鉱」の閉山に伴い、全線が廃止されました。
当時、「運炭列車」の牽引機として、「旧国鉄の9600」が活躍していたことは、
先達の皆様方には、「釈迦に説法」でありましょう。
資料 「ゆうてつ50年のあゆみ」(夕張鉄道刊)
「記録写真集 昭和40年代の鉄道 第T集/北海道編」 (Bee
Books刊)
長々と失礼しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。 |