倶楽部メモ(483)
平成21年 1月 8日〜 1月12日



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2009年 1月 8日(木)23時43分29秒
タイトル 震災臨時寝台特急
>>ED76109様
阪神淡路大震災時に運転されたあかつき82号の画像がありました。
播但・福知山線で経由で、まだ京都駅ビル建て方前の1番線到着時です。
このあと向日町への回送時もDD511116の牽引ですが
駅東留置線でどのように機回ししたかは今も謎です。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月 9日(金)12時32分50秒
タイトル 重ね重ね御礼申し上げます
 失礼致します。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様及びヒゲ無し雷鳥様
 小生の拙い質問に対する様々な御教示に際し、心からお礼申し上げます。
「DD51」牽引によって「あかつき82号(下りは81号でしょうか?)」として運転されていたのですね。
「機回し」については興味あるところです。
まさか大昔の「連合軍列車」の如く、京都駅構内を堂々と横断したわけではないでしょうが・・・。
また、「播但線」や「加古川線」の「臨時快速」のことも詳細を知ることができ、「鉄」勉強になりました。
しかし、この「奮闘記」には、当時の「関西の鉄道員の方々」が、
心血を注いで復興に取り組まれていたことが記されており、
何度も感銘を受けながら読了しました。
もう14年経つのですね・・・。改めて、被災された全ての方々に、心からお見舞い申し上げます。

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 ただ、一つ疑問として残りますのは、「福知山車掌区のカレチ氏」の「2本の臨時ブルートレイン」の記述であります。
平成7年当時、「関西の対九州ブルトレ」は「あかつき(京都・長崎、佐世保)」、
「彗星(新大阪・南宮崎)」及び「なは(新大阪・西鹿児島)」の3本と理解しております。
であれば、マロネロ38様及びヒゲ無し雷鳥様御指摘の「臨時あかつき」以外に、
「臨時なは」もしくは「臨時彗星」が運転されていたのでしょうか。
この件については全く無知な小生、恥の上塗り覚悟で「臨時あかつき」以外の「震災臨時ブルトレ」の情報があれば、
先達の皆様方からのさらなる御教示をお願い致します。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 尼港線
投稿日 2009年 1月 9日(金)12時55分9秒
タイトル 震災臨時寝台特急について
ED76109様

HNからお察しいただけるかもしれませんが、小生も阪神・淡路大震災の被災者でありました。
地震後、山陽方面への所用ができたので、「なは81号」の寝台券を購入した経験があります
(その後、都合が変わって結局、乗車しませんでしたが)。

震災時の臨時寝台特急は、1月30日から「あかつき81・82号」(京都・長崎/佐世保間)、
「なは81・82号」(新大阪・熊本間)の2往復が福知山線・山陰本線・播但線経由で運転されています。
「鉄道ジャーナル」1995年4月号P.97の記事によると、運転時刻は以下の通りです。

「あかつき81号」京都20:02→長崎12:04/佐世保12:03
「あかつき82号」佐世保17:29/長崎17:05→京都9:57
「なは81号」新大阪21:21→熊本11:48
「なは82号」熊本16:32→新大阪6:33

姫路以西は運休中の「さくら」「はやぶさ」のスジを概ね踏襲した、とのことです。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月 9日(金)17時22分13秒
タイトル (無題)
ED76109先生
京都駅の機回しは1-2番にほり込んだら容易に出来たと想います。
あの日は1)東海道新幹線=京都折り返し。東海道本線は午後に尼崎まで運転。
2)翌日阪急神戸本線が西宮北口まで、阪神が尼崎?か西宮まで?山陽本線が
はっきり覚えていませんが、2−3日経って神戸?折り返し、山陽電鉄などは
塩屋がホームごと崩落で「霞ヶ丘」折り返し-----山陽新幹線は尼崎市北部で
高架が崩れ等々大変な状態でした。
あの時活躍したのが「船舶」で、大阪港‐神戸港の使用できる突堤‐‐明石‐飾磨
(姫路)港と高速艇が活躍しましたが。まるで明治時代の沿岸航路に戻った如き有様
でした。



投稿者 アーノルドカプラー
投稿日 2009年 1月 9日(金)17時50分43秒
タイトル 阪神淡路大震災
 本年一番となります。
 お久しぶりです。今年もよろしくお願い致します。
 さて、表題の通りの話題が出ておりましたので釣られて出て参りました。
 客車列車ではありませんが阪神は当日は確か尼崎まで、それ以降甲子園へ伸びていったと思います。
 ただ、尼崎車庫への脱線復旧車の回送途中に脱線があり、
不喫茶裸子のホームで来ない電車を30分ほど待った思い出があります。

 ちなみに今年は初日の出を淀川河川敷で見ようとしました。曇天で見ることはできませんでしたが。
 去年までは初日の出を拝んだ後、銀河や日本海2号を拝んでから帰っておりましたのに
大阪7時台着の列車が消えてしまい寂しい思いをいたしました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月 9日(金)22時19分43秒
タイトル 様々な御教示本当にありがとうございます
 連投で失礼致します。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様、ヒゲ無し雷鳥様及び尼港線様のお陰で、小生の知りたかった「震災に係る臨時ブルトレ」の
ほぼ全容がつかめました。本当に小生が知り得なかった「鉄」勉強になり、先達の皆様方に心からお礼申し上げます。
 小生、震災発生時は「石北本線のスイッチバックのある街の高校」におり、生徒たちと「義捐金」や「支援物資」を
神戸に贈りながら、人としてできる事は何か?を彼らと真剣に考えていました・・・。
件の「奮闘記」では、「六甲道」手前で被災した「JR神戸線」の乗務員が乗客を全壊した「六甲道駅」に誘導した後、
線路沿いの倒壊した家屋から閉じこめられた人を必死に助け出した話が最も印象に残っております。
また、地震には強いはずの「地下鉄の駅」が崩れ落ちた「神戸高速鉄道大開駅の映像」にも愕然とした記憶があります。

 以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 1月10日(土)09時35分22秒
タイトル Re6: 妻面のテールライト
yokoyama様
ありがとうございます。昭和50年という事は14系・24系の登場後ですね。
つまり、スハフ14など「両妻面に尾燈がある特急形客車」が存在したのに、規程を20系時代のままあえて改正しなかった…
ということになるのでしょうか。謎ですね。

余談ですが、大宮のマイテ39 11も、展望デッキと反対側に尾燈が設けられています。
西日本のマイテ49 2は確認していませんが、昔の写真を見ると他の展望車もだいたいついている様です。
もっとも、昔は回送で逆向き最後尾となるケースが実際にあったようなので、ちゃんと意味があったのでしょうね。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月10日(土)10時17分26秒
タイトル 石北本線のスイッチバック
一発で解りましたが、昭和27年に父と北海道旅行の時、北見‐札幌間だけ「準急」に
なる、網走発函館行に乗車し、スイッチバックとは知らなかったので驚きました。
確かC58からD51に機関車交換していた?のでは無かったですか。
岩見沢から室蘭本線に乗り換えて、始めてスロハフ30に乗車し、朝食の駅弁が「小指
の先ぐらいある小豆のおこわ」だったので、「北海道はちがうなあ」と想いました。
阪神淡路大震災
4月始めに東海道本線が復旧した日に下り「さくら」が工事車両に追突した始末で、
翌日神戸へ出かけたら207型が六甲道駅を無理やり持ち上げて復旧した
(経過は後年TVで放映された)区間で大きく揺れたので恐くなりました。勿論徐行
運転でしたが。帰途の205はそろそろと恐々走っていた状態でした。

震災の時は全国の方々からお世話になりました。余談ですが両親が関東大震災を経験
していたので、「親子2代で大地震の被害」と皮肉な現実に苦笑いでした



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月10日(土)14時30分14秒
タイトル オホーツクの要衝「遠軽機関区」
 度々お邪魔しております。「ED76109」でございます。

マロネロ38様
>確かC58からD51に機関車交換していた?のでは無かったですか。
 「C58」は「北見機関区」所属だと思われます。
「遠軽機関区」には「D51」と「9600」のみ配属されておりました。
(当然、「北見機関区」にも「D51」と「9600」が配属されておりました)。
マロネロ38様はご承知だと思われますが、「遠軽」は「石北峠」と「常紋峠」の要衝として発展した「鉄道の街」です。
「名寄本線」の「天北峠」には「9600」が、「石北峠」と「常紋峠」には「D51」と「9600」が活躍しておりました。
当時、教え子の保護者が「遠軽駅」に勤務しており、帰省の折の「北斗星」や「乗り鉄のブルートレイン」の寝台券購入の時は、
大変お世話になりました。
「先生のお陰で、生まれて初めて『はやぶさ』や『さくら』を売りましたよ。」と懇談会の際には、
いつも「サカナ」にされていましたね。(笑)

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さて、「戯言」情報です。
本日、低気圧の影響により「トワイライトEXP」は上下とも運転休止となっております。
明日の「北陸筋」等での「撮影」のご参考まで。

 長々と失礼しました。
以上、連休は「張込み」、「点と線」、「飢餓海峡」、「砂の器」等の名画で感動と
「鉄旅」に浸る予定の「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 1月10日(土)16時55分33秒
タイトル 紋別駅の謎
>「名寄本線」の「天北峠」には「9600」が(中略)活躍しておりました。

名寄線で「天北」と聞くと、一瞬「おや?」といった感じですが、一ノ橋〜上興部の
分水嶺の事なのですね。天北線と同様、旧手塩・北見両国の合成名称と思われますが、
明治時代に設定された旧北見国が、北は稚内から東は斜里まで、オホーツク海沿岸を
広く網羅していた一方「北見市」が、旧国域ではかなり東に偏った立地である事から、
少し判り難い感覚です。かと言って、旧称「野付牛」では、標津から別海にかけての
景勝地「トドワラ」と混同しそうですね。

この天北峠から名寄方面に下った下川駅では「暑」の字を逆さにした表示で「日本一
寒い町」と謳っていましたね。私が足繁く渡道した80年代、下川を含むかなりの駅で、
写真入りの細長い観光入場券が良く売られていた事を思い出します。

>「先生のお陰で、生まれて初めて『はやぶさ』や『さくら』を売りましたよ」

1989年の名寄線廃止後、時刻表の巻頭地図には、バス・ターミナルと化した二重丸の
紋別駅表記が、緑色に塗られた侭で、鉄道が廃止された後もなお「みどりの窓口」は
営業しているのかと、感慨に耽ったものですが、実際はどの様な状況だったのやら?



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月11日(日)15時30分43秒
タイトル 「中標津」にしか残っていませんよ
 またまた、失礼致します。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >北見‐札幌間だけ「準急」になる網走発函館行
  準急「石北」の前身にあたる列車ですね。
 詳細なダイヤは持ち得ていませんが、「網走」を19時ごろに発車して、翌日の早朝6時前後「札幌」に到着。
 鈍行に姿を変えて「山線」を越え、「函館」に16時30分ごろ到着する「乗り鉄」の魅力に溢れた列車のようですね。
 牽引機は「C58(網走・遠軽)」、「D51(遠軽・旭川)」、「C55(旭川・小樽)」、「D51(小樽・函館)」。
 「ネ」は当然の如く「札幌・網走」のようです。

 雑魚様
 >明治時代に設定された旧北見国
  現在では「網走支庁」にあたりますが、東西に細長い「支庁」です。
 実話ですが「遠軽高」に在職中、管内の国語科研究会の当番校が「斜里高」から「興部高」へ引き継ぎになる際、
 それまでは学校の担当者同士で直接学校で事務引き継ぎをしていたのですが、
 出張旅費の関係(釧網、石北本線及びバス利用で片道約260q、前後泊付き!)がネックとなり、
 電話と書類の郵送で済ませたことがありました。兎に角、「網走支庁」、否「北海道」は広いです。

 >バス・ターミナルと化した二重丸の紋別駅表記
  同様に、JR移管直後「大樹」と「中標津」にも「マルス」が配備された「旅行センター」が設置されております。
 地域のJRへの依存度(特に対札幌)を考えてだったのでしょうが、昨年末の段階では「中標津」にしか残っていません。

 長々と失礼しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 秋アキ
投稿日 2009年 1月11日(日)18時52分43秒
タイトル 初めて参加します
こちらは、以前から拝見しておりましたが、初めて書き込みさせていただきます。

書き込みのきっかけとなりましたのは、12月29日の赤マント様の発言で、
大雪で運休していたあけぼの〜
という記述でした。

決してイチャモンを付けるつもりは毛頭無いのですが、そのあけぼのに乗っていたものですから、
正確な理由をお知らせしたくこの場をおかりしました。

前置きがながくなって申し訳ありませんが、その理由は‘雪‘では無く‘風‘でした。
27日の2021レは中条でバス代行になり上野に引き返し、2022レは秋田で一晩過ごし、青森に引き返す、
という散々な目にあっていたのでした。

ちなみに27日のあけぼのの編成を記します。
EF81 138
オハネフ24 25
オハネ 25 213
オハネ 25 32
オハネフ24 2
オハネ24  553
オハネ24  552
スロネ24  551
オハネフ24 19
カニ24   23

以上でした。



投稿者 雪だるま
投稿日 2009年 1月11日(日)21時32分36秒
タイトル 遠軽区と言えば
今年もよろしくお願い致します。
ED76 109様
遠軽に勤務されていた時にはもう3軸ボギーの救援車は(スエ78?)廃車になっていましたか?
学生時代に初めて3軸ボギー車を見まして印象に残っていました。
同じ頃苗穂にはダブルルーフのスエ30がありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月12日(月)13時00分39秒
タイトル スイッチバックバンザイ!!
おはようございます。「ED76109」でございます。

 雪だるま様
 >3軸ボギーの救援車(スエ78?)
  はっきりと目視したわけではありませんので、詳細はつかめません。
 ただ、「昭和59年編鉄道ジャーナル9月号別冊P24」の「遠軽駅遠望写真」では、
 「スエ78」らしき旧客が留置されているのが確認できます。
 小生が「遠軽」に赴任したのは、平成4年の春。すでに「遠軽機関区」の施設はなく、
 「14系夜行大雪」も引退しておりました。
 「常紋信号所」もほとんど廃墟状態で一抹の寂しさを憶えております。

 今回は「スイッチバック」に係る「戯言」を述べさせていただきます。
いつものように先達の皆様方の話題にしていただければ幸甚の限りであります。

 1 昭和57年の初秋、四国・山陰鈍行紀行の際に「出雲坂根」のスイッチバックを体験。
  「備中落合」からの最終列車は小生のみの貸し切り列車状態。
  引き上げ線の暗がりからでも、駅舎の灯りで位置が確認できて三段式のスイッチバックを堪能しました。
  また、出雲坂根名物の「延命の水」も冷たい爽やかな喉ごし。
  「米子車掌区の老車掌さん」の解説を聞きながら、「C56牽引の混合列車」の想い出に聞き入っておりました。

 2 平成8年の1月中旬、「関西乗り鉄」の折に「北宇智」のスイッチバックを体験。
  小生、「和歌山線」にスイッチバックが存在していることを全く知らず、
  「王寺行」の「EL鈍行」が一旦引き上げ線に入り、いきなりバックし始めたことにびっくり仰天。
  金剛山の麓とは言え、山越えではなかったことから「鉄ちゃん」丸出しで周囲をきょろきょろ・・・。
  ガラガラでしたが、乗客の視線を一斉に浴び大汗をかきました。
  関西では、かつて「D51」牽引の貨物列車で名を馳せた、
  「加太越え」の「中在家信号所のスイッチバック」が小生の記憶にあります。

 3 昭和46年の盛夏に訪れて以来、二度再訪しているのが「肥薩線の人吉・吉松」。
  最も有名なのは「大畑のループ線とスイッチバック」です。
  しかし、小生は唯一宮崎県に属する「真幸」がご贔屓。
  山越えのカーヴの途中にある山間の小駅であり、霧島の山並みが望めるなど旅心を擽られます。
  しかし、昭和47年に発生した地滑りの被害のため、構内の三分の二が埋まってしまい、
  初めて訪れた幼い頃の面影はありません。
  小生には、「D51」が前後についた「混合列車」の想い出とともに大事にしたい「鉄道の原風景」です。

 長々と失礼しました。以上、「昭和の汽車旅」の想い出に浸る「中年客車鉄ちゃん」でした。



 
 
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