また、御邪魔致します。「ED76109」でございます。
先達の皆様方の「20系」の写真を拝見していますと、
晩年は臨時列車等での運用が多かったのだなと改めて感じております。
小生は幼い頃であっても、定期運用で「はやぶさ」や「銀河」に乗車できたことで、
恵まれた「鉄」人生であるなと思っております。
さて、今回は「乗り鉄」の「戯言」をまた記させていただきます。
いつものように、先達の皆様方の話題にしていただければ幸いであります。
1 昭和46年の夏、「鉄」親父と「出水」の親類宅から帰路に乗車したのは、京都行583系「きりしま」。
本来であれば、「桜島のハザ」で帰京する予定だったのですが、叔母が急遽「名古屋」の従兄弟宅まで同行する事になり、
出水駅の助役であった叔父の尽力で「きりしま」を確保。
しかし、当時の「きりしま」は「出水」を22時過ぎに発車して、「熊本」で日付が変わるダイヤで運転し、
「博多」や「小倉」無視の特徴ある寝台特急。
翌日の「三原」付近で目覚めましたが、「110p幅の下段」は心地よい眠りだったことを、小生記憶しています。
2 昭和56年の9月の連休、「飯田線」に「乗り鉄」に出かけました。
「豊橋」まで「大垣夜行」を利用し、豊橋始発の「辰野行」の最後尾「クハユニ56」のボックスを占領。
「天竜峡」までは渓谷をぬうように、そして後半の「辰野」まではアルプスを眺めながら、伊那谷の風景を満喫しました。
その時、もう一つ印象に残っているのは、「新宿行」の鈍行の待ち時間を利用して入った「辰野」の駅前食堂。
生まれて初めて、卵でとじていない「カツ丼(ソースカツ丼)」を堪能。おいしかったですね。
3 平成8年の盛夏、「白鳥」の自由席に「青森」から「大阪」まで乗車。
「上沼垂色」に少々違和感を感じつつも、快晴の日本海と象潟等の名勝、鳥海や黒部などの山岳風景、
そして「新疋田のループ線」や3度の「デッドセクション通過」と、
まさに「現代の北前船」に相応しい素晴らしい「乗り鉄」体験でした。
最も印象的だったのは「新潟の6分停車」。下車客の全員がホームに降りるのに「3分」。
そして、ホームの乗客が乗り切り、乗客の座席転換が終了するのに「3分」。
車両も最前部から最後尾に向きを変えて、全く別な「白鳥」に「変身」したかのような鮮やかさでしたね。
長々と失礼しました。しかし、「20系」も「白鳥」もつい先日まで現役だったのに・・・。
少々感傷的になっている「中年客車鉄ちゃん」でした。 |