倶楽部メモ(458)
平成20年 9月28日〜 9月30日



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 9月28日(日)00時51分38秒
タイトル 「鉄」親父の話から・・・
 お邪魔致します。「ED76109」でございます。
 「イネ」「ロネ」に係り、小生の「鉄」親父の話を少し書かせていただきます。
参考にもならないかもしれませんが・・・。
 「鉄」親父は、昭和20〜30年代に「某商店」の「集金」の仕事で、
週一度日本全国を国鉄で駆け回ったらしいのです。
しかし、何処に行くのも(東京から九州や東北が多かったとのこと)出張旅費は「三等普通運賃」。
日当が多少付くことはあっても「準急料金」など支給されず、「夜行鈍行の往復」で出張旅費を浮かすのが
当たり前だったと話していました。そうしないと自分の足りない給料では生活できなかったと・・。
(「はと」「つばめ」は、自分とは「世界が違う列車」だと笑っていました。)
 その後、親父方の叔父達と昭和38年に「関西」へ出かけることになったのですが、
映画「天国と地獄」で有名になった「こだまの二等車(ハザ)」で西下する計画を、
同行する「祖母」(明治32年生)に「特急なんかに乗れる身分でない!!」と最後まで反対され、
当時1歳に満たない小生が同行することで、叔父達が「祖母」を渋々納得させたとのことでした。
 その後、「鉄」親父は叔父の伝手で「都職員」に転職。
少し経済的に余裕が出て、ずっと親しんでいた「時刻表」を片手に「乗り鉄」の道を歩み出したようです。
(当然、小生も同じ道を辿っております)
 「祖母」は、昭和20年の「東京大空襲」で夫である「祖父」を無くし、裸一貫から働き抜いた「市井の庶民」でした。
 ですから、小生の自宅のある「北海道」に両親が遊びに来る際、「北斗星」や「カシオペア」の「個室」に
小学生が一人で乗っていると、「鉄」親父は要らぬ説教をしたくなってしまうようです・・・。
「前近代的な分相応」という考え方が理解されるか否かが、
今回の「イネ」「ロネ」の話の出発点ではないかと、小生は考えております。

 失礼致しました。また、投稿いたします。以上、「道民球団」の最後の夢に期待をつなぐ「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 ど素人
投稿日 2008年 9月28日(日)11時28分40秒
タイトル オロネ10
オロネ10(またマロネロ38)のモケットの色についてのご教示、
ありがとうございます。
座席車では、急行グリーン車→エンジ、普通車→濃紺(戦前車は深緑)
と決まっていると信じていたので、私の思い込みだったかもしれません。
ただ、盛岡客貨車区で10系時代の「北星」を何度か見学したときの記憶では、
やはり赤系の色だったような....なのです。昭和47年以降のことです。
後年オロネ14の緑系の段モケットを見たときはちょっと驚いたものでした。

ところで、昭和38年(2歳の頃)に急行「北斗」のオロネ10に乗車した
ことがありますが、もちろんまったく記憶にありません。



投稿者 小荷物係1年生
投稿日 2008年 9月28日(日)14時42分2秒
タイトル 実は庶民でも?優等寝台車
こんにちは、いつもROM専でしたが、面白い話なのでお邪魔させていただきます。

らん丸さまの書き込みに対する、マロネ29様の書き込み、クモイ103様の書き込みに、そうだなーと思いました。
いずれにしろ、戦前の風習やバブル期以前の世の中の常識が、今ではすっかりなくなっていることを思うとともに、
(おそらく高齢の方が多いであろう)鉄道ピクトリアル等の著述者の皆様におかれては、今の読者にはそういうことを
補足しておかないと、ギャップが生じますよということを、ご留意いただければと思いました。

らん丸様のお書き込みで気になる点ですが
>明治以降、一応「階級制度」はできましたが、実際は「皇族とその他大勢」という形

このあたりは、学者によっていろんな考えがあると思いますし、身分や階級には難しい問題もあるので、
「こうだ」というのは難しいですが、皇族のほかに華族制度があり、また文官のあるレベル以上の公務員にある
判任、奏任、勅任、親任の区分は非常に大きなものでした。軍人の階級はいうまでもありません。
こういう格の世界は知っておく必要があると思います。

また、今、うだつの上がらない私がマニア心でグリーン車に乗っていて、
社長がグリーン車に後から乗ってきて遭ったとしても、会釈をすれば済みますが、
何事にも分相応が求められる戦前であれば、これは大事件。
分相応、常識を守らない人間として大減点の対象になるでしょう。
地位の低いものが優等に乗っていて、それが上司いえ社会からとがめられないで済むのは、
やはり新婚旅行か、年長者の随行の時でしかなかったはずです。
従って、制度としては「カネさえ積めば何でも乗れた」であっても、今よりもっと厳しかった「分相応の振る舞い」が
(それがいいか悪いかは申しませんが)求められた時代、普通の市井の人間が、趣味で優等車両を試すのは相当難しく、
とくに年少者においては困難だったと思います。

>祖父が交通公社にいた関係で・・・

これは最も疑問なところです。戦後においても交通公社は特別な存在でした。
これは戦後ですから実体験ですが、交通公社は今で言えば街一番の銀行のようなところで、
子供がフラフラ行くところでもありません。
まあ、別にノーネクタイでも、高校生でも入れるには入れましたが、問題は切符です。
ご承知のとおり当時国鉄駅以外に国鉄切符を買える場所(旅行会社)は交通公社しかなかったですし、
マルスがない時代(あっても最初の頃)は、各地域の乗車センター持ちの指定券類以外は各駅、公社支店毎の手持ち席を
販売するわけですが、これ、いい列車の切符は法人のお得意様のために売り惜しみしているのが半ば「常識」で、
人気のあるハネなどは、発売日でも、ふらっと来て「空いていますか」では、あいていないと平然と言われ、
なかなか手に入らない。
店側は、お得意先の法人が使わないのがわかってから、数日前に一般にも出すような感じでした。
ただし、新婚旅行などの特別な事情で宿と一緒に頼めば別です。
要するに交通公社では、数の少ない、いい列車の優等の切符については出し惜しみと客の値踏みをしていました。
それは常識でしたが、それをあれこれいう人が庶民に居なかったのは、まあ、縁遠い存在だったからでしょう。
庶民は理由がないと特急1等や、急行寝台車を買わない・・・新婚旅行、親孝行の温泉旅行・・・理由を考えて、
公社の人は、「これなら出してやろう」と席を出してくれる。こんな感じでした。
あまり表に出てこない話ですが、当時を知る方なら、金を払えばほいほい先着順位に売るということは
なかったことは承知かと思います(駅は、さすがに戦後は先着順で売っていたと思います)。
ついでいうと、そういう優等指定席の切符を自分で買う人も、実はあまりいませんでした。
大会社には事務雑用をやる(今はあまりいい言葉ではないので使いませんが)小遣いさんという人がおり、
彼らが御用聞きよろしく交通公社に取りに来ていました。
大企業の管理職が社用の出張の切符を交通公社の窓口に行くことはまずないわけで、
つまり言い換えますと、優等列車の優等車の切符は、自分で乗る分を自分で買う人は少なかった・・・そういうものでした。
今は、秘書のつくような方は別ですが、大会社の管理職でも(派遣の事務員でも居れば頼むのでしょうが)
自分で窓口に行く、あるいは電話やネットなどで切符を頼むことが珍しくないと思いますが、
そういうことは、当時(高度成長期の体験でも)まずありませんでした。

これから「昭和」の時代を懐かしむドラマなどがどんどん出てくるとは思いますが、
鉄道でいうのならば、車両の時代考証だけでなく、営業スタイルというか、切符の手配の仕方、買い方、
ボーイとの付き合い方なども重要になるでしょう。

私は無論、そういう上級車両の世界とは無縁の小僧でしたから、そうですね、高度成長直前くらいの思い出と言うと、
2等(ハ)の長距離旅行なら皆さん結構やったこと・・・
チッキで荷物出したり、両親に頼まれて赤帽を詰所に呼びに行ったり、
車内で親に勧められて専務車掌から電報打ってもらったりしたくらいです。
でも、これすらもう出来なくなってどれくらいたつのでしょうか?
長文失礼いたしました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 9月28日(日)14時59分55秒
タイトル モケットの色
1等は白いカバーがかけてあったのでモヶットの色は覚えていませんが戦後の
マイネ40からは特ロと同じ色だったか?(1等に乗ったことがないので)
特ロ=エンジ
並ロ=濃紺
3等=緑
昭和29年にマイネロフ37→マロネフ38の区分室(旧イネ)に父と乗車したら
モヶットは2等の「濃紺」でした。

後年これが目茶目茶になりましたね。(戦後混乱期にはオロ31に緑が張ってあったり)
エンジのオロ41(513-514レ、大阪‐青森)に乗った事もありました。
「イ」廃止後「ハ」にも「ロより少し薄い紺色」が増えてきて緑が無くなってしまいました。
私鉄で旧3等の「緑」が残っているのは保守的な「阪急電鉄」ですが、これなど
正真正銘?の「3等」色です。(少し国鉄色より明るいが)
クモイ103様
「富士」ではないが、東北本線の「イ」に内田百けん大先生が着物に下駄履きで仙台
まで乗車した随筆があります。超変哲の大先生だけあると思いました。



投稿者 らん丸
投稿日 2008年 9月28日(日)18時06分39秒
タイトル 人それぞれの考え方もあるでしょう
ちょっとお騒がせして申し訳ないです。

ただ、歴史と社会学を学んだものとして、「特定の史観にコチコチに凝り固まるのはいけない」と
先生方からきつく言われたことを思い出しました。

第一次大戦期のいわゆる「大正バブル」の頃の「イネ」「ロネ」の客層を調べたら面白いかもしれません。
作品名は忘れましたが、戦前に書かれたHな小説で、主人公と妾が「富士」の「イネ」に乗り、
シャワー室に行ったというシーンを読んだことがありますが、Hなシーンはさておき、
列車や個室の描写、他の客の描写が非常に良かったです。
そういった小説や雑誌などから紐解いて研究するのも面白い。



投稿者 ど素人
投稿日 2008年 9月28日(日)21時13分55秒
タイトル モケットイロイロ
マロネロ38様、
いろいろとありがとうございます。
とても興味深いことばかり書いてくださいました。

「鉄道ファン」1977年1月号にマイネ40、マイネ41の室内のカラーイラストが載っています。
また、同号のマイロネフ38区分室のスケッチによれば、モケットは薄エビ茶とメモされています。
さらに、ナロネ22の室内写真が掲載されているのですが、肘掛の板の外側のモケットが赤系であるので、
オロネ10でもこのことと混同しているのかもしれません。



投稿者 客車
投稿日 2008年 9月29日(月)03時34分35秒
タイトル スロ60モケットオリジナルカラー
2007年夏に両国で鉄道博が有りましたが、ここに特別二等座席車スロ60のオリジナルカラーのリクライニングシート
(R11型)と表示した座席が展示してありました。
出品者は「清瀬BBつばめ」となっており、展示場の係員に聞いたところ鉄道か鉄道模型関連の業者or会社とのことで、
座席のモケットはオリジナルカラーと言っていたとのことです。
座席のモケットは現役時代は3〜5年で張り替えるそうで、このときカラーや模様が変わってしまう可能性も有り、
オリジナルカラーモケットが残っているのは奇跡に近いと思われます。
事実隣に並んでいた交通科学館出品と表示してあったオハ31のモケットカラーは三等座席車の濃緑では無く
青であったのが残念です。
リクライニングシート正面向かって左側の頭部の当たる部分の左右は損傷が少なく、ここのモケットは無地の濃赤で、
座席本体鉄部は濁ったうす緑色、肘掛けの下の部分には四角の穴が空いており、
その下側側面に1/80で幅1mm程度の同色のモケットが張り付けてありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 9月29日(月)11時05分14秒
タイトル スポーツの秋ですねぇ・・・
 先達の皆様方、おはようございます。「ED76109」でごさいます。
 「モケットの色」は、「鉄」勉強になりました。
 小生にしてみれば、最近は「はやぶさ・富士のモケット」が星空パターンになった程度(もう、数年も前からですよね)
しか意識しておりませんでしたので・・。
 しかし、あの独特の「ビロード」の香りは、小生に旧客のイメージを醸し出してくれます。
 さて、今回はスポーツに絡む「鉄」の「戯言」を並べさせていただきます。
いつものように、先達の皆様方の話題としていただければ、幸甚の限りであります。

 1 昭和48年4月1日、当時の首都圏の貨物列車のバイパス路線として開通した「武蔵野線」。
 重要な首都圏の外環状線ですが、当時「武蔵野線」開通の影で鬼籍入りした「下河原線(中央支線)」がありました。
 この「下河原線」の終着駅が「東京競馬場前」です。平日は「クモハ12」が単行でのんびりと走る路線でしたが、
 週末となれば「東京」からの臨時快速が「101系」に競馬ファンを満載して直通運転。
 小学生の頃、よく「鉄」親父に連れられて「天皇賞」などのレース見物に行ったものでした。
 さらに、当時は「日本一長い駅名(18文字)」の駅だったこともあり、小生の想い出に残る駅の一つです。

 2 プロ野球の選手たちの移動で利用される交通機関の一つに「新幹線」がありますが、
 昭和20〜30年代は「夜行列車」が大活躍。
 昭和37年の日本シリーズを制した「東映フライヤーズ」は、対戦相手の「阪神タイガース」の本拠地大阪への移動に、
 当時の国鉄の協力のもと、夜行急行「金星」にプルマン式の「マロネ40」2両を増結させて敵地に乗り込み、
 見事に日本一に輝きました。
 優勝を決めた夜、帰京する「マロネ40」では選手達の祝勝会が開かれ、勝利を満喫。
 しかし、移動の際に選手達が飲んだ酒は半端な量ではなく、宮原・品川の両客車区では半日かけて
 一升瓶とビール瓶の片づけに大わらわだったという「トカホセ夜行黄金時代」の逸話が残っています。

 3 小生が小学生の頃、野球見物でよく使ったのが総武線の「水道橋」。
 友人達と「巨人」や「日本ハム」の試合をよく見に行き、
 今でも「水道橋」は、東京ドーム最寄り駅として賑わっています。
 現在、「水道橋」の発車チャイムは「ジャイアンツの応援歌」である「闘魂込めて」。
 一方、パ・リーグの人気チーム「千葉ロッテ」の本拠地、「千葉マリンスタジアム」の最寄り駅
 「海浜幕張」の発車チャイムは、「マリーンズの応援歌」である「We Love Marines」。
 御贔屓チームを応援する粋な計らいてすね。
 (すると、「阪神電気鉄道の甲子園」や「トカホセの甲子園口」の発車チャイムは「六甲颪」ですかねぇ・・)

 長々と失礼しました。また、投稿致します。
 以上、札幌市営地下鉄東豊線「福住」の発車チャイムは、「道民球団の応援歌」であるべきだと
「戯言」する「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 9月29日(月)20時10分28秒
タイトル Re: キーワードがありますネ
赤まんと様
 私より一回り以上お若い方と、この様な話題で同調することが出来て、大変嬉しく思います。
 私も、物心ついた時には東海道新幹線が走っていましたから、昭和30年代はほぼ「想像の時代」に属するのですが、
何よりも戦前生まれの両親や明治生まれの祖父母から聞いたナマの話が、私の世界を拡げてくれていると思います。
そのせいか(?)今では自分の生まれた昭和36年を中心に優等寝台車や食堂車などのことをあれこれ調べ、
模型を作っては悦に入っています。

 ところで、問題の(苦笑)記事の筆者中村光司氏が運営されるサイト「客車空気調和装置資料室」が、
本サイトのリンク集に入っています。
ついでに手前味噌の宣伝モードですが、同サイトのコンテンツに、私が書いた「イネ格下げロネ 配置と運用の変遷」を
掲載して頂いておりますので、何かご参考になれば幸いです。
「客車関係資料室」→「吉岡真一氏」とお進み下さい。(既にご存知でしたらご容赦を。)



投稿者 ど素人
投稿日 2008年 9月29日(月)22時05分38秒
タイトル モケット「星空パターン」
ED76109様、
久々にブルートレインに乗ったある日(90年代の「あさかぜ」だったかな)、
ゴールデンイエローのモケットでびっくりしたものでした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 9月29日(月)22時43分54秒
タイトル 庶民の旅行
ED76109 様
 ご祖母様とご尊父様のお話、興味深く拝読しました。
 私の幼少時も、急行列車に乗ることはあっても夜行のハザが当たり前、1等車(ロ)は無縁の別世界でした。
私が初めて「ロ」に乗ったのは中学生の時で(それも東海道線の普通列車)、もう「グリーン車」でしたから、
結局私は「1等車」に乗ったことはありません。今思えばちょっと残念(笑)。

> 「前近代的な分相応」という考え方が理解されるか否かが、今回の「イネ」「ロネ」の話の出発点ではないかと、

…私の感覚ではこれは正しく「近代」ですので、「前近代的」という言葉に含まれる否定的なニュアンスには
やや違和感もありますが、文脈としては正にその通りと思います。
なればこそ、単にお金が払えるか否かの問題ではないことを強調したく、長文の書き込みに及んでしまいました(^^;。
 植木等の演じるスチャラカ社員が、谷啓の扮するちょっと気の弱そうな部長をあしらうシーンは、
「分相応」をわきまえている人が見るからこそ、爆笑モノなんですね。


小荷物係1年生 様
 具体的かつ明快な解説ありがとうございます。
とりわけ交通公社に関する件はこれまで認識が無く、勉強になりました。

> これから「昭和」の時代を懐かしむドラマなどがどんどん出てくるとは思いますが、
鉄道でいうのならば、車両の時代考証だけでなく、営業スタイルというか、切符の手配の仕方、買い方、
ボーイとの付き合い方なども重要になるでしょう。

…言われてみれば全くその通りですね。
 私も「上級車両の世界とは無縁の小僧」でしたが、ふと母の話を思い出しました。
幼稚園に入る前の私と2歳下の妹を連れ、大きなバッグを3つも抱えて、父の滞在先である広島から
北浦和の自宅まで帰ってきたことがあったけど、どうやったのか自分でも覚えていない(爆)と…
 案外チッキや赤帽のお世話になっているかもしれません。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 9月30日(火)09時47分49秒
タイトル スロ60
リクライニングシートは小糸製作所の「RS-1]では無かったでしょうか?
スロ50,51もRS-1でした。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 9月30日(火)11時42分40秒
タイトル 「鉄道ゼミナール選手権」開催!!
 度々御邪魔しております。「ED76109」でございます。
 ど素人様
 >ゴールデンイエローのモケットでびっくりしたものでした
  そういえば、そうでしたねぇ・・・。平成6、7年以降のブルトレのB寝台で見ました。(小生の記憶ではですが・・)
 「暖かみが感じられる」色(!?)でしょうが、やはりモケットは「青系統の色」でないとしっくりきませんね。

  クモイ103様
  「前近代的」ではなく、「前現代的(!?)」の方が文脈的には正確かもしれません。御指摘ありがとうございます。
  前述しましたが、「みどりの窓口」に徹夜で並んだにもかかわらず「富士」に乗り損ねた話の折、
 小生は「寝台券が取れれば個室A寝台でも買うぞ」と考えていたのですが、
 「鉄」親父の「高校生がA寝台?」の一言で、「B寝台」を買うはめになりましたね
 (結局、買えずじまいでした・・・。ちょうど今から30年前の話です)。


  さて、本日の「道新(北海道新聞)」に「鉄道ゼミナール選手権」の記事がありました。
 来月11日の「苗穂工場」での「鉄道の日記念イベント」での一環として「予選」が行われ、
 10月18日に「岩見沢レールセンター」で「ニンテンドーDSソフト 鉄道ゼミナール」を用いた
 「本選」が行われる予定だとか・・。優勝者には、「北海道フリーパス」等の賞品が贈呈されます。
 秋の連休に「北の大地」で「鉄」試しはいかかでしょうか・・・。
 (なお、詳細は「JR北海道のWebページ」に掲載されております。)
 以上、「戯言」情報でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 9月30日(火)16時13分5秒
タイトル 津山鉄道部
一等寝台における「階級制」の話題、興味深く拝見しました。階級制の名残を感じる
農村に生まれ育った者としては「倹約の余裕すら無い庶民が多数存在した、一等寝台
廃止以前の社会状況」を示されたマロネ29様や、クモイ103様の「規定外の一般常識」
あるいは小荷物係1年生様の「分相応の振る舞い」など「暗黙の不文律」の考え方が、
全てを物語っている様に感じます。

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合衆国での金融安定化法案の否決に伴う株価の急落が報じられた、本日正午のNHK
ニュースに続き放映された「生中継・ふるさと一番」では、梅小路に次ぐ規模を誇る
津山の扇形庫が紹介され、国鉄色のキハ58一両を移動し、転車台で回転させるという
演出があり、一緒に食事していた「鉄分多目」な上司と 暫く見入っていました(^^)

正に要衝の風格ですが、優等列車は、車両・ダイヤの両面で、快速「ことぶき」との
差別化が窺えない急行「つやま」が一日一往復発着するだけと、寂しくなりましたね。
今や、昼の定期便としては全国唯一の急行ですが、いつまで急行として残るものやら。



 
 
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