倶楽部メモ(456)
平成20年 9月23日〜 9月25日



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 9月23日(火)19時40分0秒
タイトル 氷見線オハ34
相当長い玉で写しているので解り難いですが駅弁の包紙なら発売元もPRして
もらっているので問題にしないでしょう。但し学校の副読本だったら、発行元
の教育委員会に許可を取る必要があるでしょう。
以前中越鉄道の列車の写真が高岡市教育委員会発行の中学校用副読本にあったので
使用するのに許可を申請し、えらくブツクサ言われましたが許可をもらいました。
出自は書いておくほうが後でモメないで済むでしょうね。



投稿者 523レ
投稿日 2008年 9月23日(火)21時36分8秒
タイトル 北陸線等
雑魚様
 遅いレスになってしまいました。雑魚様は水戸育ちですか。
水戸線の客車も常磐線同様に編成が長く、ハチマルの牽引でしたね。何度か乗車したことがあります。
また、晩年には内郷のハチマルが田端に転属してきて、水切りのないカマが上野に出入りし、
ゆうづる、十和田、雑客などの先頭にたったのも新鮮な感じがしました。
当方昭和55年春に上京し学生時代を尾久に下宿しました。
 それにしても奇縁ですね。長浜出身の鉄分の濃い方と仕事で御一緒されましたか。当方も同じく長浜生れです
。高校を卒業するまで長浜に住んでおり、通学は自転車でしたが、
毎日写真の長浜ー虎姫間を列車を眺めつつ走り、かつ時々撮影もいたしました。
522レは(長浜17時29分)学校帰りによく見かけたものです。
EF70の次位にあった新ナカのマニ37は旧客の荷物車ながら青塗装(スロ50改造なんだそうですね)で
珍しく感じたものです。
522レの長岡発は朝の4時40分で、当時の私にとっては起床前に始発駅を出た列車が
学校を終える頃にようやくやってくるわけですから、それがまた大変な魅力でした。
この列車は、かつては青森発大阪行鈍行の夜行部分を廃止した残党(それでも十分長い運転区間ですが)でしたね。
オハ35,オハフ33を中心とした名マイの6連は523レの運用で0時近くに長岡に着くと、
翌朝522レとなるまで、長岡のホームに停泊したまま。知人でその中で一夜を過ごしたという人もいました。

 急行越前様
昭和50年代、旧客末期の思い出は本当に尽きません。余計なことながら御参考までに
 長岡運転所受け持ちの北陸と能登は昭和55年10月改正でEF641000番台(北陸は一時期一般型も充当)
に置き換えられましたが、高崎第二機関区受け持ちの鳥海と天の川は57年の廃止までゴハチでした。
きたぐには、昭和58年4月に完全にEF81化されるまではEF70でしたね。
御指摘のとおり北陸線電機はEG、ゴハチはSG、
また、津軽は20系化された57.11以降も宇都宮のゴハチが牽引していました。

 日暮里付近で撮影した常磐線旧客列車をアップさせていただきます。仙台行221レ 昭和55年7月20日。




投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 9月23日(火)22時20分58秒
タイトル 客車の見わけ方
キハウニ様

オハ35(戦後後期)とオハ47の見分け方は、既に皆様がお書きのように妻面の構造が決定的な違いです。
で、編成中に組み込まれて妻面が見えなくとも、斜め方向(できるだけレール方向に近い角度が良い)の写真ならば判ります。
「妻面の幅が車体幅一杯で側面とツライチに見えていればオハ47、妻面の幅が狭く一段引っ込んでいればオハ35」です。

ちょうどキハウニ様の元発言の添付写真が良い例です。
オハユニは完全切妻でオハ47と同じ、次のオハ34(?)は妻板の幅が狭くオハ35と同じですから、
この写真での妻板の見え方をご参考にされれば、判るかもしれません。



投稿者 急行越前
投稿日 2008年 9月23日(火)23時31分6秒
タイトル Re;急行鳥海
523レさま、はじめまして。
急行鳥海のフォローありがとうございます。

その頃はゴハチフィーバーでしたね。
私は、客車好きでしたので、ゴハチが牽こうが64が牽こうが構わないとうそぶいていて、
上越線経由は64に替わっていたとばかり思い込んでいました...

みなさますみませんでした。

自分で撮った写真もありました。
82年7月18日南浦和にて「鳥海」。スニスニマニが目印でしたね。




投稿者 急行越前
投稿日 2008年 9月23日(火)23時38分15秒
タイトル 天の川のスユ16
連投失礼します。

20系「天の川」(回送)の写真もありました。
この写真で気がついたのですが、スユ16の暖房はこの1両のために電暖を機関車から供給していたのでしょうかね?
それこそ自車でまかなっていたとか...?

82年6月18日鶯谷にて




投稿者 さとる
投稿日 2008年 9月24日(水)14時58分28秒
タイトル 山陰線京都口
仙コリさま、有難うございます。
折りしも今月の鉄道雑誌の中でC55とC57を扱った某雑誌にはちょうどこの話題の客車郡が掲載されていて、
本屋さんでびっくりしました。偶然とは恐ろしいものですね。
最近はいろいろな写真が紹介されていて、資料には事欠かないのですが、
牽引されている客車の形式が写真からはなかなか判断できなく、
他の標題にもありますように窓配置や側面の形状から形式を当てられる知識には敬服いたします。



投稿者 キハウニ
投稿日 2008年 9月24日(水)23時09分40秒
タイトル オハ34等の見分け方
オハ34の件、みなさまのレスありがとうございます。
長年のモヤモヤが消えて、晴れ晴れしています・・・

>マロネロ38 さま
どうもありがとうございます。
やはり34ですか!富士のオリジナルが晩年配置されていたようです。
北陸本線に入っていたと思っていましたが支線にもはいっていたんですね。。。

>竹中@ノーブルジョーカーさま
窓枠がかなりのポイントと思っていましたが妻がポイントですね・・・
オハ34ですが、最初は二個窓セットの間部分も窓に見えて、それでスハ32かと
おもってまして配置表を眺めていましたがどうやら違うようでこちらで質問
させて頂きました。どうもありがとうございます。

>仙コリさま
(1)も(2)もとても参考になりました。ありがとうございます。
アップした写真ですが、4年ほど前に北陸旅行の際に買った氷見線90周年記念切符の台紙です。
たしかに、こういう販売物についての著作権はうかつでした。申し訳ございません。
こちらにご迷惑をおかけしないよう、画像は削除します。
(管理人権限がないとできなければお手数をおかけして申し訳ございませんが削除して頂けないでしょうか)

>マロネロ38さま
たしかにPRとしてとってもらえればありがたいですが、私が軽率でした。
ありがとうございます。中越鉄道の写真は川を渡る絵のでしょうか。
それなら私も見たことがあります。
親が富山県人なので「これは弁慶号だね」といっていたのが印象的でした。
マロネロ38様は以前のレスで砺波の保存機の件でコメントされておられましたが
なにか関係者の方なのでしょうか・・・(いえ、とくに深い意味はないので無視してくださって結構です^^)

川を渡る写真は以前明治客車を調べているときに見ました。
気になったのでいろいろ調べてましたがオリジナルの中越鉄道の客車は
鉄道省に買収された、という資料はありましたが形式はわからず(がっかり)、
一部、鉄道省からの編入組みと合造車のみしか詳しくは知ることはできませんでした。

>クモイ103様
ツライチの見分け方、すごいわかりやすいです!ありがとうございます。
陰になっている妻面でも屋根のあたりがみえれば分別できそうです。
この方法応用すればいろいろわかりそう・・・何気ない写真のも
だいたい判別がつけられるようになりました。たいへん勉強になりました!
ありがとうございます。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2008年 9月25日(木)00時32分9秒
タイトル Re:オハ34等の見分け方
キハウニ様

長年のモヤモヤが消えたとのことで、この「客車倶楽部」がお役に立てたようで幸いです。
添付写真の件ですが、記念切符の台紙という事で著作権的には大丈夫なような気もしますが、
NGの可能性も多少ありますし、削除したいとの事、了解いたしました。

なお補足ですが、クモイ103様の見分け方について「陰になっている妻面でも屋根のあたりが
みえれば分別できそうです。」と書かれておりますが、クモイ103様が書かれているのは妻面
全体の事であり、屋根や雨どい近辺だけを見てしまうとオハ35系列のキノコ折妻もツライチに
見えると思いますので、お気をつけ下さい。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 9月25日(木)00時42分50秒
タイトル Re2:オハ34等の見分け方
キハウニ様

> 陰になっている妻面でも屋根のあたりがみえれば

仙コリ(管理人)様もお書きになりました通り、屋根そのものは判別の基準にはなりませんよ。
オハ35の戦後後期車は、いわゆる「キノコ折妻」と呼ばれる妻面形状をしており、
屋根だけ見るとオハ47の完全切妻とよく似ています。
「ツライチでなく引っ込んでいる」判別が出来るのは、屋根より下の車体側面部分だけですから、その点ご注意下さいね。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 9月25日(木)08時38分55秒
タイトル 中越鉄道甲1型3号機関車
キハウニ様
実はあれの保存の「言い出し兵衛」は私でした。もう故人の富山県の鉄道友の会
会員M氏が走り回って呉れて実現。(私も会員)
中越の機関車については臼井茂信さんの「日本の蒸気機関車」に出ていますが客車
は殆ど資料がありません。
中学校副読本は「私達の高岡」で、1-3のいずれかが単車の編成を牽いて多分千保川
鉄橋を渡る写真で男性が一人列車を見ている写真です。
「中越弁慶号」は礪波市が3号機に命名した物で私には違和感があります。
メーカーの英国の"Nasmyth Wilson"社は日本に多くのタンク機関車を納入した会社
ですが、創立100周年に「店じまい」したのでも有名です。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 9月25日(木)11時34分30秒
タイトル 常磐線観察
▼523レ様:
> 水戸線の客車も常磐線同様に編成が長く、

その分、本数が少ない印象がありましたが、現在と違い、殆どの便が水戸・勝田まで
直通していました。かかる利便性ゆえか、栃木県立も受験可能な下館や結城から遥々
通学した友人もいました。

> 晩年には内郷のハチマルが田端に転属してきて、水切りのないカマが上野に出入り

当事の上野における常磐線は、交直流機と云い、401・415系と云い「紅一点」という
雰囲気すらありました(^^)それだけに上京の度、取手を過ぎ「緑色の山手線」など
寒色系の直流車両が擦れ違う様になると「やっと、東京さ来たっぺがね」と、感慨に
耽るのでした(^^)

> 通学は自転車でしたが、毎日写真の長浜−虎姫間を列車を眺めつつ走り、

虎姫高の御出身ですか。湖北随一の老舗名門校が、長浜の街でなく郊外の田園地帯の
立地であるのは珍しく感じます。地図を見ると、長浜市街と姉川の間は広大な田圃が
広がる風情と見受けられ、通学経路上、北陸線の観察には事欠かない地勢でしょうね。
当事の普通列車は旧客主体と思いますが、急行型による電車便はあったのでしょうか。

私の場合、通学先が常磐線・水郡線・貨物線二系統(卒業後に廃止)茨交水浜線跡に
囲まれた「模範的」立地が矜持で(^^)数年前、映画の元ネタにもなった名物行事の
関係上、体育の授業では、年間の約半分が、水戸駅付近〜那珂川橋梁の常磐線沿いの
遊歩道で体力強化に充てられ、マラソンに喘ぎつつ、傍らを通過する常磐線の列車を
一々観察するのが、苦しい中での楽しみでした(^^)

ただし、当時の水戸界隈における旧客便は、一日に数往復程度と、既に少数派でした。



 
 
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