倶楽部メモ(455)
        
          
            | 平成20年 9月20日〜 9月23日 | 
           
        
       
      
       
      
       
       
      
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            ED76109 | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月20日(土)00時34分51秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            甦れ! 
旧客鈍行達よ・・・ | 
           
          
             | 
           
          
             失礼致します。「ED76109」であります。 
             ものずきヲヤヂ様 
             >正しくは「824レ」のことですよね。 
              その通りです。失礼しました。歳ですかねぇ・・。 
            「山陰本線」は高校・大学時代に四回ほど訪れ、そのたびに「大阪発出雲市行」や「824レ」、 
            「豊岡発門司行」などの長距離鈍行を楽しみ、締めは「出雲市」からの「下関行」に決めていました。 
            ひょっとすると、先達の皆様がお乗りになった「鈍行」に小生も同乗していたかもしれませんね。 
              以下に、小生の鈍行紀行をさらに「戯言」として記してみます。 
            多くの先達の皆様方の話題にしていただければ、幸甚の限りであります。 
             
             1 「山線(函館本線)」の旧客鈍行が廃止されたのは、昭和61年の9月。 
            最後まで「札幌・函館」を結ぶ3往復が残っており、内1往復は以前、早朝に「旭川」を発車して 
            20時前に「函館」に着く「124レ(122レ?)」でした。 
            そのルートの中にあった「上目名」は、「倶知安・長万部」間のほぼ中間に位置していた峠駅。 
            「C62」が「ニセコ」を牽引していたころは、まさに「SL撮影のメッカ」で、 
            駅待合室は鉄ちゃんたちの「フォトギャラリー」。様々な「作品」が所狭しと飾られておりました。 
            昭和59年春に廃止されてしまいましたが、豊かな四季の自然にとけ込むが如くに、 
            山間に響く汽笛が旅心を擽られる魅力的な「小駅」でした。 
             
             2 往年の「山陰本線」と同様に、旧客の独壇場であった東北の鉄路。 
            小生は、「福島」から「米沢」・「秋田」で車番を変更して「青森」まで「奥羽本線」を完走する旧客鈍行と、 
            一日がかりで「新津」から日本海沿いに「青森」まで辿る旧客鈍行が、それぞれ印象に残ります。 
            両者ともEL牽引の長距離鈍行で、「峠越え」や「広がる田園風景」などの憂いに満ちた東北の風景が堪能でき、 
            潮風薫る夜の「青森」がゴールの「乗り鉄珠玉」の鈍行列車。 
            東北の旧客鈍行には、「赤い電気機関車」が似合うと小生は考えていますが、先達の皆様方はいかがお考えでしょうか。 
             
             3 四国と本州が「本四連絡橋」で結ばれてから、今年で20周年。 
            昭和57年の初秋、「青春18キップ」で四国・山陰を旧客鈍行で回りました。 
            小生が早暁の「高松」から乗車したのは、「高知行」の旧客鈍行。 
            寝不足がたたって記憶が曖昧なのですが、ハッキリと憶えているのは「坪尻」のスイッチバック。 
            深緑の風の中、待避線で上り「南風」の「ゴー」というエンジン音が、耳の奥に残っています。 
            残暑が厳しい抜けるような快晴の日でしたね・・・。 
             
             国鉄末期のころの「汽車旅」の想い出です。 
            とにかく、時刻表で長距離鈍行を探し出しては、「全区間制覇」を目指していました。 
            長々と失礼しました。また、投稿致します。 
             以上、体育祭で日焼けした「中年客車鉄ちゃん」でした。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            雪だるま | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月20日(土)02時16分33秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            122レ | 
           
          
             | 
           
          
            久し振りにお邪魔させていただきます。 
            ED76 
109さまの122レで反応してしまいました。 
            この列車オユ、マニと函ハコの客車3両で計7両くらいで運転していたと思いますが、 
            岩見沢〜小樽間は札イワの4両を増結していました。 
            しかし末期には札ムロの4両を増結していました。 
            高校時代は札ムロの客車で通学していたので札幌で懐かしい車番を見れて嬉しく思ってました。 
             
            122レ121レもちろん乗りました。乗っていたのはオユ10の中でしたが。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            らん丸 | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月20日(土)12時03分23秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            総武本線の旧客鈍行 | 
           
          
             | 
           
          
            日本中結構あった頃には、実はあまり乗っていなかったのです。 
             
            自分がはっきり覚えているのが新宿発松本行きのEF64牽引の中央線の列車。 
            親の話だと父親と犬吠埼に行った時に総武本線の旧客列車に乗ったこと、 
            当時、雀宮に住んでいた親戚宅に行く時に東北本線の旧客列車に乗ったことがあるらしい。 
             
            電化前の総武本線はうろ覚えながら(当時4〜5歳なので)、 
            キロ25格下げのキハ26を組み込んだ気動車急行(犬吠)に乗ったこと、 
            銚子から間違えて成田線の72系電車に乗ったので(当時、既に成田線は電化されていた) 
            次の松岸で降りて八日市場まで「何か(これが客車列車だと後に聞きました)」に乗って 
            八日市場から錦糸町まで「犬吠」に乗ったという事を覚えています。 
             
            後に入手した鉄道ファン誌によると客車は佐倉区所属のスハ32かオハ61らしい。牽引はDD51。 
            千葉管内に残った最後の客車列車は総武本線の千葉−銚子間で、電化と供に72系電車に置き換えられて消えたそうです。 
             
            現在、E217系の成田空港行き快速、成田エクスプレスが走り、東京の通勤区間になってしまった佐倉界隈に 
            わずか35年前までDD51牽引の客車鈍行が走っていたことが嘘みたいに思えますね。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            ED76109 | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月21日(日)07時09分51秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            「からまつ」に乗りたかったです・・・ | 
           
          
             | 
           
          
             何度も失礼いたします。「ED76109」であります。 
             雪だるま様 
             >札ムロの客車で通学していたので札幌で懐かしい車番を見れて嬉しく思ってました 
              羨ましいですね。旧客で通学なんて・・。 
             でも、小生なら「今日は○○の授業があるから、学校やめるべし!」とか言って、 
             年柄年中「函館」まで行ってしまったりして・・・。 
             >乗っていたのはオユ10の中でしたが 
              ひょっとすると、雪だるま様が勤務されていた「122レ」の最後尾に、小生が乗っていたかもしれませんね・・。 
             
             昭和50年代は、「山線鈍行」以外にも「831レ(札幌・網走)」や「321レ(旭川・稚内)」などの 
            「強者」が揃っていました。 
             特に「423レ」は、「からまつ」の愛称で小樽と釧路の間を夜行で結んでおりましたが、 
            小生には乗車経験がなく、今にして思えば乗っておけば・・と悔やむことしきりであります。 
             
             以上、「道民球団」の「終戦」に溜息のみの「中年客車鉄ちゃん」でした。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            雪だるま | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月21日(日)19時02分32秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            からまつ | 
           
          
             | 
           
          
            ED76109さま 
             
            からまつには自宅に帰るために乗ったくらいで旅行には使いませんでした。 
            寝過ごすとどこまで連行されるか判らないので緊張して乗ってましたね。 
            最終日はしっかり見送りました。 
            からまつはED76500がひいていました。 
            この時隣りのホームに臨時のすずらんが到着してましたが14系だったと思います。 
            長々と失礼しました。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            キハウニ | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月22日(月)02時42分6秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            写真から見る客車のみわけかた | 
           
          
             | 
           
          
            こんにちは。 
            写真から客車の形式を見分けたく、2点、皆様のお知恵をお貸しいただけないでしょうか。 
             
            (1) 
            1985年ごろに撮影された、オハ35(戦後後期)とオハ47のどちらかと思われる 
            車両の写真があります。その写真から見分けをつけたく、見分けるポイントが 
            ありましたら教えて頂けないでしょうか。 
            編成写真なので足回りや屋根、妻面などがよくみえず、 
            自分で撮ったものではないのでアップできず、文字だけで申し訳ありません。 
             
            自分で気づいたポイントとしてはその車両はブルーで窓が 
            非アルミサッシなのでオハ35かと思いましたが、そこはポイントにならないでしょうか。。。 
             
             
            (2) 
            2点目は添付の写真のなのですが・・・ 
            機関車の次はオハユニ61ということはわかっていますが 
            次に続く3両目〜5両目の形式が写真からではわかりませんでして。。。 
            当時の配置表からの候補としては 
            ナハ10,オハ34,35,61 
            オハフ33,42,61 
            があります。小窓の3,4両目はオハ34かとは思っていますが、実物を見たことが無いので 
            あまり自信がなく・・・オハ34というよりスハ32なのではないかと思います。 
            もしくは片方がオハ34でもう片方がスハ32とか・・・ 
            でもスハ32は配置されていないようでしたし、というところで迷っています。 
             
            5両目の大窓はオハ61かと思っています。 
             
            すみませんが、よろしくお願いいたします。 
             
             ※管理者注:添付画像は投稿者様の要望により非掲載とさせていただきます。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            さとる | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月22日(月)10時30分41秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            山陰線京都口 | 
           
          
             | 
           
          
            こんにちは初めて投稿いたします。 
            さて私昭和44年生まれで、自分が生まれた頃の様子を知りたいと思っています。 
            そこで昭和44年頃の山陰線京都口を走っていた客車はどのようなものがあったのでしょうか、 
            どなたかご存知でしたら緒教示下さい。 
            お彼岸の墓参りをかねて、20年振りに梅小路に行ってきました。 
            あいにくの雨でしたが楽しめました。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            マロネロ38 | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月22日(月)11時01分12秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            氷見線 | 
           
          
             | 
           
          
            2-3両目はオハ34ですねそれも戦前の特急「富士」のオリジナル(341-3412)では 
            無いですか?昭和30年代に高岡駅に留置してあった「金トヤ」のを写しています。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            雑魚 | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月22日(月)12時33分29秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            中央線 | 
           
          
             | 
           
          
            ▼ED76 
109様: 
            >「舞台装置」も天下一品。本当に旧客の「パラダイス」でした。 
             
            私が余部橋梁で旧客列車を撮った1986年は、既に旧客自体が稀少化しつつあった頃で、 
            海の眺めに恵まれた出雲市以西の区間では、やたら、50系を見掛けた記憶があります。 
             
            >「平」以北は単線区間も多く、 
             
            以前にも言及しましたが、私が常磐線を乗り潰したのは、1972年夏、仙台七夕祭りに 
            旧客仕様の臨時「十和田」で赴いた時でした。この時、茨城県域では一大幹線である 
            常磐線に単線区間がある事を知り、少なからず衝撃でした。空調が無い盛夏の車内は 
            交換待ちの度に蒸し風呂状態で、良くも悪くも思い出深い旅行となりました(^^) 
             
            >「中央東線」の鈍行の塒であった「飯田町客貨車区」。 
             
            飯田町駅に旅客便の基地機能があるとは存じませんでした。永らく、貨物駅としての 
            印象が強かったのですが、旅客営業は、戦前の1933年に既に廃止されているのですね。 
             
            >「高尾」から「大月」にかけての風景は、あたかも「登山鉄道」の如く 
             
            この区間は桂川の渓谷区間で、近年は、上野原の市制施行など、首都通勤圏としての 
            沿線人口増も著しく、この辺りに登山鉄道たる趣向を求めるなら、笹子隧道を挟んだ 
            初狩〜塩山、特に勝沼ぶどう郷駅付近から俯瞰する甲府盆地が挙げられます。初狩駅 
            スイッチ・バック施設は現在、工事列車が細々と使用する程度だそうです。 
             
            > 
小淵沢付近からの「八ヶ岳」と「富士山」の勇姿を含めて「山越え」の面白さ 
             
            韮崎から、釜無川と鳩川とに挟まれた尾根の森を、八ヶ岳を望みつつ、延々と「右往 
            左往」する様子は味わい深いですね。1989年撮影の「列車通り/あずさ」の映像では、 
            長坂駅のスイッチ・バック施設の跡が「健在」でした。茅野まで続く山越えの頂点は 
            富士見駅。八ヶ岳の稜線に連なり、富士川と天竜川の水系を分かつ、標高 
955.2mの 
            分水嶺(中央線の最高地点)に街と駅が位置するという珍しい地勢で、件の映像でも、 
            ここを境に、登坂が一転、下り坂となる様子が、良く判ります。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            竹中@ノーブルジョーカー | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月22日(月)16時25分45秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            RE:写真から見る客車のみわけかた | 
           
          
             | 
           
          
            キハウニ様 
            1)オハ35(戦後製)とオハ47 
            区別をつけるのは妻の形状ですよね。あと、オハ47には鋼板屋根が存在しないので、これは決め手になりますね。 
            窓枠や塗色は、かなり絞り込んだ状態でないと条件には使えません。 
             
            2)オハ34とスハ32 
            特急用のオハ34は定員が80名なので客室窓が20個、スハ32は定員が88名なので22個です。 
            また、オハ61は定員が96名なので同じく窓は12個になります。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            雑魚 | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月22日(月)17時49分58秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            みちのく旅情 | 
           
          
             | 
           
          
            ▼ED76 
109様: 
            >「C62」が「ニセコ」を牽引していたころは、まさに「SL撮影のメッカ」で、 
             
            C62運用の廃止から、既に十年以上が経つのですね。最近、上越線で「デコイチ」の 
            力強い驀進を見て以来、現在のC11牽引便で「三脚組」が多数詰め掛けるだろうかと、 
            余計な心配をしてしまうのでした。 
             
            定期列車のみを見れば「山線」は本当に寂しくなりました。ダイヤ改正の度、廃止が 
            取り沙汰され、黒松内・蘭越・ニセコ・共和・仁木各町の総人口が四万程度となると、 
            札幌通勤圏から外れると思しき余市以南でのバス代替は、然程、無茶な話ではないと 
            思われました。しかし2000年の有珠山噴火の際、室蘭線の代替経路として存在意義を 
            示して以来、存廃の話題は殆ど聞かれなくなった様に感じます。 
             
            >「福島」から「米沢」「秋田」で車番を変更して「青森」まで「奥羽本線」を完走 
             
            板谷・雄勝・矢立と、県境の度に大きな峠を越えるという抑揚に、物語性を感じます。 
            部分的に広軌化された現在、かかる直通列車の設定自体、動力区分に関わらず感慨を 
            覚えます。それにしても、根室・室蘭・函館・奥羽・信越・紀勢・山陰・予讃・日豊・ 
            鹿児島線と「一体性が無い名目上の本線」が増えました。来春「富士/はやぶさ」が 
            廃止されれば、山陽線を走破する定期便も無くなりますね。 
             
            > 
一日がかりで「新津」から日本海沿いに「青森」まで辿る旧客鈍行 
             
            こちらは、庄内平野や羽後本荘の前後を除き、日本海の眺めを徹底的に楽しめるのが 
            魅力ですね。並行する国道七号線は、地形的な制約ゆえか、村上市北部では山間部を 
            迂回しますが、私は必ず、羽越線および海岸線に並行する 
国道345号線を経由します。 
            この国道、拡幅される以前の海水浴期間中は、渋滞緩和の為、北方向への壮大な一方 
            通行規制が行われていたそうです(驚) 
             
            > 
東北の旧客鈍行には、「赤い電気機関車」が似合うと小生は考えていますが、 
             
            御意。特に岩木山を絡めた津軽平野での撮影事例を見ると、地元名産のリンゴを連想 
            しますね。旧客に限らず「ブルトレ」や12・14系など、寒色系塗装の編成では、ワン・ 
            ポイントとして、50系では色調の統一手段として、赤い牽引機の意義は大きいですね。 
             
            > 
深緑の風の中、待避線で上り「南風」の「ゴー」というエンジン音 
             
            私も瀬戸大橋開業の数年前、坪尻・新改の両スイッチ・バック駅で下車、暫く三脚を 
            構えた事がありますが、共に分水嶺越えの途上という地勢柄、列車が来ないと本当に 
            静かな雰囲気でした。特に後者ではホームが本線から離れている為、深山幽谷の趣が 
            ありました。一面一線という簡便な構造は、従来、磐越西線の旧中山宿駅をスイッチ・ 
            バックの標準構造と捉えていた私にとって、新鮮な印象でした。 
             
            ワンマン運転の列車が、これらの駅に発着する場合、運転手自身が「エンド交換」を 
            一々行うのか、あるいは、何らかの「後方確認手段」があるのか、気になる処ですね。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            クモイ103 | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月23日(火)07時47分12秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            Re2:旧型客車終末期の頃の暖房 | 
           
          
             | 
           
          
            >らん丸様 
             
             大幅遅レスで恐縮ですm(_ 
_)m。 
             元文献を当たってからと思い、ぐずぐずしているうちに元発言が過去帳(倶楽部メモSP 主な話題)入りして 
            しまいましたので、慌てて手元の資料だけでレスさせていただきます。 
             
            9/14のらん丸様の発言で、 
             
            > 57.11の改正の頃の鉄道ジャーナルの「列車追跡・津軽 オハネフ13との別れ」で、 
            ダイヤ改正のちょっと前から上野−黒磯を牽引していたEF58がEF65に置き換えられ、 
            それにともない10系寝台車の電気暖房を自車の発電機(元来は冷房電源用)で賄える様にしたという記事を覚えていますが、 
             
             …すでに急行越前様もレスされていますが、その様な改造があったという話は、私も聞いたことがありません。 
             ご指摘の鉄道ジャーナルの記事ですが、1982年12月号に掲載され、その後「別冊No.27 JR・民鉄 客車列車大追跡」に、 
            「オハネフ13の別れの朝」として再録されています。 
            初出の号は持っていません(これを探しに神保町へ行こうとして行きそびれた(^^;)が、再録の別冊がありますので、 
            隅から隅まで読み返しましたが、らん丸様がお書きになった電気暖房に関する改造の話は載っていませんでした。 
             初出の号には載っていたのでしょうか? 
             
             また、 
             
            > 高崎線の客車普通列車(早朝にあった高崎から長野行き、長野から新潟行きに変わる列車)に運用されていたナハ11にも 
            電暖用発電機があったみたいです。 
             
             …とのお話しも、今までいろいろ文献に接してきましたが心当たりがありません。 
            これまた急行越前様が指摘されているように、 
             
            > 最晩年に品川〜大宮工場間の配給列車の控車として使われたナハフ11に気動車についていた温気暖房機が 
            車掌用についていましたからこちらのことをおっしゃっているのかも知れません。 
             
             …と私も思ったのですが、らん丸様の情報源をご教示頂けませんか? | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            仙コリ(管理人) | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月23日(火)09時45分34秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            Re:写真から見る客車のみわけかた | 
           
          
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            キハウニ様 
             
            すでに皆様が書き込んでおられますが、編成写真で車体側面だけとなると形式の特定は困難な場合が 
            多いようです。 
             
            (1) 
            オハ35(戦後後期)とオハ47を見分ける方法ですが、やはり外観上では妻面が見えないと… 
            写真から妻面が少しでも見えていればの場合の判別方法ですが(承知の事とは思いますが) 
            オハ35(戦後後期)であれば折妻(キノコ折妻か絞り折妻)で雨どいが丸管 
            オハ47は完全な切り妻で雨どいが四角(長方形)となっていますので、オリジナルであれば雨どいの 
            形状(丸く見えるか平に見えるか)が、このような場合の一番の判別法ではないかと思います。 
             
            (2) 
            オハ34とスハ32を見分ける方法ですが、竹中@ノーブルジョーカー様から窓数の違いがあげられて 
            いますが、窓配置自体も異なっています。 
            スハ32は一般的な均等配置ですが、オハ34は座席間隔が広いため吹寄幅(座席の背の部分の外側)と 
            間柱(向い合せ座席の中央部分の外側)の幅が異なっています。 
            具体的にデフォルメして記載してみますと。 
            スハ32は ロロロロロロロロロロロロ 
            オハ34は ロロ 
ロロ ロロ ロロ 
ロロ 
            といった感じの窓配置となっています。 
            掲出された画像をよく見てみますと、問題の小窓の3,4両目は後者の窓配置となっているようですので、 
            オハ34かスハ32であることが間違いない状況であれば、スハ32ではなくオハ34であるといえます。 
             
            以上参考になりますかどうか? 
             
            ところで、1点目の写真をアップできないとおっしゃっているので、いらぬ心配だとは思いますが、 
            ご掲出の画像もチラシかなにかのように見えるのですが著作権の問題はないですよね? 
            といっても、チラシやパンフレット・駅弁の包み紙といったような物の場合、著作権が発生するか 
            どうかはケースバイケースだと思われますので難しい問題ですが… | 
           
        
       
       
       
       
      
      
        
          
            | 投稿者 | 
            仙コリ(管理人) | 
           
          
            | 投稿日 | 
            2008年 9月23日(火)10時49分36秒 | 
           
          
            | タイトル | 
            Re:山陰線京都口 | 
           
          
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            さとる様、はじめまして。 
             
            昭和44年頃の山陰線京都口を走っていた客車はどのようなものがあったのかというご質問ですが、 
            詳しいことはわからなく編成表等も見つからなかったため、車両配置面から推測してみます。 
             
            昭和50年代の山陰線京都口の車両は福知山客貨車区配置の車両が使用されていたので、 
            昭和40年代も同様であったと推測すると(これが違っていると元も子もないのですが) 
             
            昭和44年及び45年の福知山客貨車区の配置車両を調べると、以下のとおりとなっていました 
             
            オハ35 26・52・95・109・120・190・193・256・317・338・445・446・448・454・455・456 
                457・458・607・609・631・708・712・747・749・919・921・1033・1112 
             
            オハ36 32・33・35・95 
             
            オハ61 18・148・149・150・151・152・153・154・155・156・157・365・366・367・368・370 
                371・476・477・478・479・480・481・482・539・540・541・654・655・656・657 
                659・757・758・759・762・763・764・765・766・767・881・882・963・967・968 
                969・970・971・972・981・982・983・985・1047・1052 
             
            オハニ61 66・166・239・320 
             
            オハフ33 33・36・121・161・299・306・383・384・386・387・1515 
             
            オハフ61 25・31・32・33・34・35・52・53・54・55・61・62・99・231・276・283・317・318 
                 319・320・323・429・430・470・471・481・482・494・495・502・503・504・538 
                 581・583・584・631・637・638・639・640・641・697・723・724・725・755・1056 
                 1057・1069・1070・1071 
             
            スハフ42 275 
             
            マニ60 233・378・446・451・526・599・704・705・706・707 
             
            このうち、オハ61等は昭和44年頃までの配置、オハ35等は昭和45年頃からの配置の車両が多く、 
            翌昭和46年からはスハ42・スハ43等が配置されていますので、ちょうど車両の入れ替わり時期で 
            あったようです。 
             
            ちなみに、以前この客車倶楽部で昭和30年代の京都駅についての話題になった事があり、 
            当時の京都駅の様子について、懐古知新様の詳しい書き込みがありまして、倶楽部メモ 
            (当「客車倶楽部」の過去ログ)383〜386に掲載していますので、ぜひご覧ください。 | 
           
        
       
       
       
       
      
      
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