倶楽部メモ(454)
平成20年 9月17日〜 9月18日



投稿者 ぷーさん
投稿日 2008年 9月17日(水)00時21分29秒
タイトル 昭和50年台の
高崎線上りで、113系ではなく客車が運行されていたのですが、詳しく知っている方居ますか?
たしか日曜日の21時台に桶川辺りを走っていた気がしますが。



投稿者 523レ
投稿日 2008年 9月17日(水)10時05分52秒
タイトル 都内最後の国鉄普通客レなど
管理人様 いつも楽しく拝見させていただいています。

ぷーさんへ

14日のらん丸さんの書き込みにもありますが、高崎線の普通客車列車は昭和57年11月改正まで一往復残っていました。
基本編成(北オク5両)は列車番号を変えながら長野経由で新潟まで運用されていました
(時刻表では一本の列車で表示されず 下りは2321レ〜321レ〜1321レだったか)。
朝6時過ぎに上野発深夜新潟着、上りはやはり朝新潟を出て、上野に22時頃に到着していたと思います。
ただし、長野での時間が長いので乗客は通しでは乗れなかったと記憶しています。
上野ー高崎間には高タカの6両が付いていました。プラス荷物が2両。
高崎線内の列番は2321レ、2326レで牽引は高崎のEF62ではなく58だったと思います。

 上野口の普通客車列車のうち東北線のものは53年の改正でひと足早くなくなりましたが、
上記の高崎線のほか、常磐線の三往復も57年11月改正まで残っていました。
もちろん、上野口というだけでなく都内で最後まで見られた普通客レということになります。

 ちなみに、当方のハンドルネームは米原発長岡行の列番を使わせていただいています。
大学受験の際、行きは米原から東海道線の鈍行乗り継ぎにて、
帰りは上野から長岡行733M、宮内で米原行522レに乗り換え滋賀県内の某駅まで乗車しました。
522レの写真を添付します(長浜ー虎姫間)。




投稿者 雑魚
投稿日 2008年 9月17日(水)16時10分11秒
タイトル 宮城野
▼bell様:
> この秋、JR東日本では宮城と長野で臨時客車列車が設定されています。

前者は 昨年運転の「東北線開業 120周年記念号」の焼き直し感覚ですが(画像参照)
蒸機+客車を基本に、片道のみ電機が「後ろ向きのSLごと」編成を牽引する陣容が
斬新に感じられます。

仙台〜小牛田の運転となると、個人的には、品井沼〜鹿島台、または、松山町前後の
田圃の直線区間を狙いたい処ですね。時期的に先ず無理ですが、稲刈前なら、本当に
絵になる処でした。意表を突いて仙石線に設定し、陸前大塚の前後や成瀬川橋梁にて
狙うのも一興ですが、それでは、ED75を運用できませんね(^^)

仙石線が元私鉄だから、と言えばそれまでなのですが、松島湾岸で接続駅を持たぬ侭
並行する東北線と仙石線を見ていると、東松島・石巻界隈から仙台を志向する需要の
利便性向上の為、快速など「長距離便」に交直流両用車を充当して、並行区間以南で
東北線に「逃がす」か、それが無理なら東北線にも松島海岸駅を設置する様な措置が
あっても良さそうに感じています。

ちなみに、長野での運転とは、具体的に、どの様な内容でしょうか。




投稿者 雑魚
投稿日 2008年 9月17日(水)17時59分50秒
タイトル 北陸線
▼523レ様:
> 常磐線の三往復も57年11月改正まで残っていました。

毎日の様に、水戸駅ないし通学先から眺めておりました。当時、常磐線の普通電車は、
朝夕の仙台近郊便や急行崩れを除き、大半が平(現いわき)遠くても四ツ倉折返しで、
仙台に直通する普通列車は、客車便のみでしたから、独特の風格が感じられましたね。

15時頃に水戸を発つ仙台行は、下校ラッシュ前、比較的静かな時間帯という事もあり、
牽引機の汽笛と共に、連結器の衝撃音が次々と後部に伝播する様子が、実に感慨深く、
その度に、かの名曲「遠くへ行きたい」が脳内再生されるのでした。

水戸線も同じ82年11月まで、水郡線は翌年06月まで、客車便の運用が残っていますが、
三路線の客車が一堂に会する場面が、朝夕一度ずつあった様に記憶します。日常的に
各路線沿線から通学する級友との登校合流、下校解散も絡み、思い出深い限りですね。

御掲出の画像は、良い雰囲気ですね。風景の様子から、滋賀県の湖北地方でしょうか。
最近、長浜出身の方と仕事で御一緒させて頂きましたが、かなり「鉄分」の濃い方で、
仕事明け「ちょいと一杯の積もり」が、米原〜田村のSL・DL接続の四方山話等で
大いに盛り上がり「何時の間にやらハシゴ酒」状態でした。嗚呼、判っちゃいるけど
止められない(^^)

北陸線といえば、富山〜直江津の電車置換も比較的後発でしたね。商用電源周波数の
境界線(静岡・糸魚川構造線と妙に符合していますね)の関係上、糸魚川駅の東側に
交直流の接続点が設けられた事情によりますが、もし、設置箇所が糸魚川駅以西なら、
大糸線の全区間電化や、糸魚川で折返す直流電車便の設置に伴い、同じ新潟県である
上越市への帰属性の強化があり得たかと仮想しています。当該直流区間では、過去に、
115系・165系による海水浴臨の運転実績がある様ですね。



投稿者 bell
投稿日 2008年 9月17日(水)20時35分36秒
タイトル 続 臨時客車列車
雑魚様、こんばんは。
長野の臨時客車列車は善光寺平の雄大な風景を楽しむ列車のようです。組み合わせはEF64と旧型客車でしょうか。
さて、常磐線上野口の客車列車といえば、昭和57年4月に上野から仙台まで223レに乗車しました。
平以北は日が暮れてしまい仙台まで長く感じました。
当時は長距離鈍行がまだまだ残っており、青春18切符で客車長距離鈍行の全区間乗車を楽しんでおりました。



投稿者 急行越前
投稿日 2008年 9月17日(水)22時15分2秒
タイトル Re:旧型客車終末期の頃の暖房
遅レス失礼いたします。

>アーノルドカプラー様

「きたぐに」の件、フォローいただきましてありがとうございます。米原まわりだったことをすっかり失念しておりました。
東海道線は荷物列車のEF62置き換え(1984年2月)までSGでした。

らん丸様

>57.11の改正の頃の鉄道ジャーナルの「列車追跡・津軽 オハネフ13との別れ」で、
ダイヤ改正のちょっと前から上野−黒磯を牽引していたEF58がEF65に置き換えられ、
それにともない10系寝台車の電気暖房を自車の発電機(元来は冷房電源用)で賄える様にしたという記事を覚えていますが、

この記事の表題は確かに記憶しておりますが、暖房の件は覚えていません。
しかし、「津軽」20系化の1982年11月の段階では宇都宮にまだ多く電気暖房装備のEF58が在籍していたので、
基本的にはEF65が牽くことはなかったはずですので改造云々の話は疑わしいです。

>他の列車(電気暖房付きのEF62が牽引していた「越前」「妙高」以外の通常はEF58牽引だった「能登」「鳥海」、
そして「きたぐに」)についてもこの様な「暫定的な改造」を行ったのでしょうか?

「能登」「鳥海」は最後はEF641000に置き換えられましたから、通常の電気暖房でした。
「きたぐに」は前述のとおり、米原まではEF58でSG、米原からはEF81(EF70?)で電気暖房です。

>高崎線の客車普通列車(早朝にあった高崎から長野行き、長野から新潟行きに変わる列車)に運用されていた
ナハ11にも電暖用発電機があったみたいです。

原番号+2000の番号がついた客車は、客席の下にヒーターと
床下には機関車からの電源を変圧するトランスがついていました。
赤まんと様はこのことをおしゃられているのでしょうか?だとしたら、上野口の旧型客車はすべてついていたはずです。

もしかしたら、最晩年に品川〜大宮工場間の配給列車の控車として使われたナハフ11に
気動車についていた温気暖房機が車掌用についていましたからこちらのことをおっしゃっているのかも知れません。

画像は1983年12月に品川で撮影したナハフ112022です。
わかりにくいですが、デッキに箱のようなものが見えると思いますが、
客室の床上に設置した暖房機から車掌室にダクトが伸びているのではないかと思われます。
この暖房機は石油が燃料だったのでしょうか?




投稿者 雑魚
投稿日 2008年 9月18日(木)08時41分58秒
タイトル 旧客回送
▼bell様:
> 長野の臨時客車列車は善光寺平の雄大な風景を楽しむ列車のようです。

御教示、有難うございました。以前も同趣の設定が何かしらありましたね。回送便は、
長岡・直江津経由でしょうから、時間帯によっては、そちらの方が気になる次第です。
個人的には、上越線の岩原スキー場前付近の大曲線や、信越線の関山付近の防雪林で
狙いたい処です。時節柄、紅葉が映える頃でしょうね。



投稿者 赤まんと
投稿日 2008年 9月18日(木)17時51分59秒
タイトル わざわざご丁寧に
急行越前さま初めまして。
私は6月末まで尾久に住んでおり、小学2年のときに57・11改正を迎えましたから、
10系+43系の急行「越前」「能登」といったあたりはリアルタイムで見ています。
また、この改正直前に旧客から12系に変わった客レも、推進回送シーンを目にしています。
ふだん見慣れない、オハ12 78などという車番を見て、びっくりたまげたものです。
道理で、高崎所属だったわけです。当時は知りませんでしたが。
ブルトレが大好きな一方で、10系客車にも大いに惹かれていて、
オハネフ13がなぜ、2600番台なのか、不思議でたまらなかったものです。
その11年後、大学で友達に「鉄道ジャーナル」1982年12月号を借りてから、ようやく謎が解けるわけですが。
そんなわけですから、ここ数日の投稿記事、興味深く拝見していました。
勉強になりました。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 9月18日(木)18時37分58秒
タイトル 鈍行バンサイ
 御邪魔致します。「ED76109」でございます。
「長距離の旧客鈍行」の話であれば、ご迷惑でも(!!)交ぜてください。
小生、色々と「鉄」の立場から言いたい放題ですが(恐縮です)、最も力が入ったものが「旧客鈍行の乗り鉄」です。
いつものように「戯言」を述べさせていただき、先達の皆様方の話題にしていただければ眼福の限りであります。

 1 往年の「山陰本線」はまさに旧客鈍行の宝庫でした。
昭和50年代は、京都、大阪(「福知山線経由」)から、「浜田」・「出雲市」・「米子」・「鳥取」等への
長距離鈍行が走っており、「オハ35」等の旧客の独壇場。
さらに「豊岡発門司行」や「出雲市発下関行」、そして日本最長距離を誇った「524レ(門司発福知山行)」と
300q以上の走行距離を持つ強者が、「DD51」に牽引されていましたね。
沿線には「風光明媚な日本海」と「遙かなる中国山地」が広がり、「赤土色」の瓦屋根の町並みが
独特の風情を醸し出すなど、「舞台装置」も天下一品。本当に旧客の「パラダイス」でした。

 2 昭和40年代から50年代にかけて、首都圏で比較的手頃かつ汽車旅の雰囲気を楽しめた「常磐線」。
bell様や雑魚様も書き込まれていますが、5時55分発の「仙台行」は「水戸」で「水郡線郡山行」、
「平」で「磐越東線郡山行(旧客鈍行)」そして「仙台」で「八戸行」に接続して様々な鈍行紀行が堪能できた便利な列車。
さらに、「仙台」を12時半ごろに出発する上り「平行」は、「平」で「上野行」に変身する鈍行でした。
「平」以北は単線区間も多く、高校・大学時代には幾度となく「鈍行紀行」を堪能しておりました。

 3 今はなき「西イイ」と言えば、「中央東線」の鈍行の塒であった「飯田町客貨車区」。
「新宿」から「EF64」(古くはEF15でしょうか)に牽引されて、
急勾配の隘路を「長野」・「松本」へと旧客が脚を伸ばしておりました。
昭和49年の春休み、早起きして朝一番の「長野行」に乗車。
「高尾」から「大月」にかけての風景は、あたかも「登山鉄道」の如く(多少大げさかも知れませんが・・)に感じられ、
子ども心に「坂を登っている」ことを体感。
小淵沢付近からの「八ヶ岳」と「富士山」の勇姿を含めて、「山越え」の面白さを実感できる鈍行紀行でした。

 長々と失礼しました。また、投稿致します。以上、「鉄」に永遠の夢と浪漫を感じる「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 ものずきヲヤヂ
投稿日 2008年 9月18日(木)21時48分11秒
タイトル 824列車
↑でED76109さまが「524レ(門司発福知山行)」と記載されていますが、
正しくは「824レ」のことですよね。
当時は日本最長距離列車として様々なテツ雑誌・テツ書籍で紹介されていましたので
昭和50年代にはその筋では有名な列車でしたね。
私は幸いにも昭和56年8月にその全区間を通しで乗車する機会に恵まれました。
と言うよりわざわざ全区間完乗しました。
前夜に門司駅の待合室で駅ネの後、丸一日を824レと過ごしたわけですが、
あらかじめ長時間乗車の覚悟でしたのでオハ35やオハフ33等の直角背ズリは避けて
スハ43かオハ46あたりの「急行仕様」のハコに乗車したおかげで
18時間あまりもの座りっぱなしであったにもかかわらず、
きつかったという記憶はほとんどありません。
真夏にもかかわらず当時は鈍行と言えば非冷房は半ば当たり前だったので
暑くてかなわんという記憶も特に無く、
むしろ大好きな旧客に揺られながらの日本海の眺めは至福の一日でした。
ちなみに終点福知山に到着後は深夜で接続列車もありませんので
そのまま「山陰」の座席車(ナハ11?)で米子まで折り返しました。
ほんの四半世紀ちょっとほどの昔話ではありますが、
時に意識せずともこれだけ旧客三昧な汽車旅にふれあえた時代って
やっぱり無性に懐かしいですね。



投稿者 ぷーさん
投稿日 2008年 9月18日(木)22時02分34秒
タイトル (無題)
523レさん、有難うございます。
当時、親戚の家に遊びに行った帰りに乗車しました。
桶川から大宮までの間でしたが、子供心に青い車体の客車は新鮮に感じました。
手動扉から停車前にホームに飛び降りたりしてとても印象に残った列車でした。
まさか知っている方がいるとは思わなかったので、本当に嬉しかったです。



投稿者 急行越前
投稿日 2008年 9月18日(木)23時06分20秒
タイトル Re:オハネフ13
赤まんと様、はじめまして。
このたびは申し訳ございませんでした。

尾久にお住まいだったとは羨ましい限りです。
私はグリーンマックスの旧型客車キットの組み立てのための資料として
1971年版の「客車貨車ガイドブック」を手に入れてからますます旧型客車にハマってしまった人間です。
みんなが東京駅でブルートレインを撮っているころ、
私は上野駅で夜行急行の到着に合わせ高架ホーム〜地上ホームへと走り回っていました。

オハネフ13の話が出ましたので、「越前」で上野に着いた福井車(2607)の写真を添付します。
「越前」が着く17番線はこのようにきれいに写真が撮れました。

1981年12月24日上野




投稿者 スイロフ
投稿日 2008年 9月18日(木)23時56分22秒
タイトル Re: 824列車
皆様こんばんは。
824列車、懐かしいです。私は長門市から乗り通したことがあります。
やはり全然疲れませんでしたね。若かったというのが大きかったのでしょうけれど(笑)。
当時は山陰を客レで行ったり来たりして、夜になると824列車に乗り、
福知山で「山陰」で折り返して夜を明かすというのを良くやりました。
その他にも江原で上り〜下り「山陰」折り返し、長門市で下り「長門」から上り「さんべ3号」折り返し、
なんてのもやりました。昭和51年頃のことです(遠い目)。



 
 
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