倶楽部メモ(440)
平成20年 7月19日〜 7月22日



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2008年 7月19日(土)11時32分18秒
タイトル Re:”かいもん”のスハフの向き
みずきばる様
客車列車の編成記録はそこそこ存在するのですが、各客車の向きとなると記録がほとんど無いのが
現状ですよね。
特に「かいもん」等の12系と20系の併結列車の場合の緩急車の連結向きは模型化などの際に重要な
項目ですが、専門誌を見ても残念ながらほとんど掲載されておりません。
そこでお勧めなのが、当サイトのリンク集にも掲載させていただいている「70年代後半の客車編成」
というサイトで、各列車の編成はもちろん、各客車の番号や車体色までも記録されていて、とても
参考になるサイトです。
このサイトの編成記録の中の「20系急行」に「12系併結」というページがありまして、「かいもん」
「ちくま」等の編成記録が掲載されていまして、12系緩急車の向きも矢印にて記載されています。
それによりますと「ちくま」は車掌室側が20系との連結側だったようですが、九州の「かいもん」
「日南」は「さんべ」と同様にトイレ側(非車掌室側)が20系側であったようです。
もちろん車両番号等も記載されていますので、ぜひ訪れてみてください。
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投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 2008年 7月19日(土)13時08分27秒
タイトル Re:「かいもん」のスハフの向き
みずきばる様
スハフ12の向きは仙コリ@管理人様の書込みにある通りですね。
車掌室側からも電源の供給が出来るので向きについては物理的な制約はなかったはずです。

しかし、「かいもん」「日南」とも鹿児島運転所持ちですが、門司で同じ向きになるのが不思議です。
かいもん→日南→日南→かいもんのような循環運用だったのでしょうね。

昭和53年3月27日 門司 102レ「かいもん4号」 スハフ12 50

投稿者のホームページ



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 7月19日(土)15時05分9秒
タイトル 私は「物好き」です。
「ED76109」でございます。
 雑魚様
 >複数区間での需要を一本に集約した特急についても、同様の「物好き」の存在が気になりますね
  小生、昭和56年の春に、「銀河51号」から「まつかぜ」のルートで東京から小倉まで「乗り鉄」し、
  翌日「門司発福知山行」の旧客鈍行で一日を過ごす(?!)という、旅(本当にただの「物好き」?)の経験者です。
  その結果、旅の最後に利用した「みずほ」のB寝台で、下関から東京まで本当に「寝っぱなし」の経験をする
  羽目となりました。
 以上、若かりし頃の武勇伝(?)を披露した「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 7月19日(土)17時23分5秒
タイトル 山陰線憧憬
▼ED76 109様:
> 昭和56年の春に「銀河51号」から「まつかぜ」のルートで東京から小倉まで

当時の「まつかぜ」といえば、キシ組込みの堂々たる編成を思い出しますが、急行が
大幅に淘汰された1985年春の大改正で米子を境に系統分割され、以東区間を継承した
本家「まつかぜ」は翌年、あっさり廃止。以西区間を継承した「いそかぜ」にしても、
当初の米子〜博多が、米子〜小倉、益田〜小倉、廃止と、段階的に縮小される経緯が、
旧型車両の処遇を象徴するかの如きでしたね。益田以西の主要導線が「支線」経由で
小郡発着に集約された主要動機であろう新幹線接続については「おき」から上りへの
乗継需要自体「やくも」「いさりび」の手前、高が知れている様にも感じるのですが。

十年ほど前の鳥取出張の際、ED76 109様には及びませんが、寝台特急で下関に出て、
駅周辺の臨港線を「探検」した後(^^)新型置換前の「おき 2号」に乗換える一幕が
ありました。当時の「おき」は 2号のみが下関発着で、これに対応して小郡→下関に、
キハ80系の快速が設定されており、こうした希少性に、琴線を擽られての選択でした。

当時の山陰線の名物と言えば、12系客車+急行型気動車など、バリエーション豊かな
後藤工場の入出場回送編成ですね。また「まつかぜ」については、旧客列車と併せて、
御座敷「みやび」の強風転落事故で防護柵が強化される前の余部橋梁で撮影した事が
あります。同行の友人と「次、何来んだべ?」「確か『あさしお』と違うか」「ほな、
タイフォン代りに『ドスコイ、ドスコイ』言うたりしてな」などと、与太話(現在の
高砂親方は当時、大関「朝潮」として大活躍中)に興じた事を思い出しますね(^^)

> 翌日「門司発福知山行」の旧客鈍行で一日を過ごす(?!)

私の周囲でも経験者が散見されます。汽車旅を極めんとする者にとって必要不可欠な、
ある種「通過儀礼」の趣すらあります。私自身は、高校時代の通学で旧客を日常的に
利用していましたから、撮るのはともかく、乗るのは快適な新型に、という日和見な
スタンスでしたので、こうした「耐久レース」には あまり参加しませんでした(^^)
夜行列車以外で連続乗車時間が最も長いのは「白鳥」の青森→大阪。各駅停車ですと、
飯田線の辰野→豊橋かな。距離は 200q程度ですが、何しろ停車駅数が多いですから。

> 最後に利用した「みずほ」のB寝台で、下関から東京まで本当に「寝っぱなし」

ワイド周遊券による北海道旅行の定番だった「八甲田」や「津軽」の自由席を快適に
過ごす為の工夫として、発車前に酒を痛飲し、終着駅近くで爽やかな目覚めを迎える
大技を実践していた知人がおりましたが、ある時、二日酔い気味で到着した青森から
接続した連絡船は、時化気味の津軽海峡に翻弄され………おえっぷ(^^)

当時の道内では「おおとり」の食堂車も利用しました。函館〜網走という走行区間は、
道内の鉄道体系が既に千歳空港中心となっていた中、昔日の名残という印象でしたが、
それ以上に、札幌〜千歳空港(南千歳)を一運用で単純往復した「おおぞら」の函館
直通便は更に大技でしたね(^^)夏の繁忙期、札幌→函館の着席確保の為、周遊券の
特性を活かし、当該列車には千歳空港の「第一回停車時」に乗り込み、札幌到着時の
ドサクサに、グループ用に「ボックス」確保という事もありました(^^)



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 7月19日(土)22時33分33秒
タイトル Re3:”かいもん”のスハフの向き
横レス失礼しますm(_ _)m。

>竹中@ノーブルジョーカー様
> かいもん→日南→日南→かいもんのような循環運用だったのでしょうね。

12+20系になってからの情報を持っていませんが、少なくとも旧客時代にはお説の通りの循環運用だったようです。
さらに昭和50年3月改正前は「桜島」(←「霧島」)も絡んでいました。

【昭和47年3月改正 門鉄局客車運用表より】
運用番号:鹿1
行路:西鹿児島(1102)東京(回1102)品川(回1101)東京(1101)西鹿児島(102)門司港(501)宮崎(1521)西鹿児島
       (1522)宮崎(502)門司港(101)西鹿児島
編成:7ナハフ+6ナハ+5ナハ+4ナハ(現車4)
組数:7

列番1101・1102は「桜島」、101・102は「かいもん」、501・502は「日南」です。
これに「桜島」ではナハ+オロ+ナハフが、また「かいもん」「日南」ではハネ車とオロの付属編成に
郵便荷物車がつくのですが、基本編成の4両はなんと7組という壮大な運用だったのですね。



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2008年 7月19日(土)23時05分3秒
タイトル 飯田線
雑魚様
豊橋までちゃんと起きていたのかな(^^)

飯田線に旧型国電復活をと地元が要望したみたいなのですが無理!!
車が無いのは電車も客車も。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 7月20日(日)16時41分34秒
タイトル 飯田線
▼下総守こみやさん:
> 豊橋までちゃんと起きていたのかな(^^)

一応、起きていましたよ(^^)当時の中央線は 165系による定期夜行「アルプス」が、
一晩あたり二往復設定されており、辰野経由の一往復に接続する 119系下り便(全線
直通)を利用しました。飯田以南では「一本差」で先行する 165系快速の設定があり、
正直、こちらを利用したかった処です。

> 飯田線に旧型国電復活をと地元が要望したみたいなのですが無理!!

同じ「湘南面」のよしみで(^^)鹿島鉄道の旧鉾田駅に残る キハ431(画像参照)を、
飯田線仕様の 80系風に塗り替えて「第三の人生」を歩ませたい気も致しますね(^^)

先日、房総方面ネタを巡り、両国駅について言及しましたが、RF誌最新号で同駅が
詳しく特集されており「してやったり」という印象です。また、時刻表を改めますと、
12系高崎車は今夏、高崎・上越線方面での地元運用が結構充実しており、烏山線での
内職的運用までは手が回らない、といった様子です。とりあえずの健在振りに一安心。




投稿者 きむたお
投稿日 2008年 7月21日(月)07時52分28秒
タイトル 富山にて昨晩の夜行列車
こんにちは。
昨日の朝、北陸線を上る夜行列車を撮影に行ったわけですが、
悪天候のため、走行中にはろくに車番のメモも出来なかったので
折り返しになる下りをチェックしに行ってきましたので、編成を上げておきます。

'08/7/20富山にて 4001レ 特急「日本海」 青森行き
EF81 106↑
カニ24 511(金帯)
オロネ24 5
オハネフ24 25
オハネ25 152(金帯)
オハネ25 210(金帯)
オハネフ24 2(白文字)
オハネ25 220(金帯・ステッカー文字)
オハネ24 51
オハネフ25 125(金帯・白文字)


#EF81の「↑」は屋上抵抗器カバーのある向き。
#客車は特記以外白帯および切り抜き文字。

編成が青森持ちになったため、朝の編成チェックの再確認を夜にできるようになりましたが、
この外観が考慮されていない(帯色や丸妻側外付け縦樋など・・・)のが未だにしっくりこない私です。
なお、当日の上り(4002レ)は同じ編成をEF81 102が牽引しております。


'08/7/20富山にて 3002レ 特急「北陸」 上野行き
EF81 149↓
・スハネフ14 29
・オハネ14 82
・スハネ14 752
・スハネフ14 28
・スハネ14 758
・オロネ14 702
・スハネ14 702
・スハネフ14 32


#EF81の「↓」は屋上抵抗器カバーのある向き。
#客車は700番台は金帯、他は白帯。

久々にGマークが全車についている編成を確認しました(^^)
また、3連休のためか、夏休みに入ったからか、多くの家族連れが乗り込んで行ったのが印象的でした。


ちなみに、客車ではないのですが、同日の急行「能登」は
上下共に金サワHO2編成で運転されていたことを付け加えておきます。


↓は本来マニア活動には使わない予定(苦笑)で購入した一眼デジタル"南風10号"(何)で撮影した
3002レと普通460Mのクハ412-9ほかです。
撮影に関して、個人的にはリバーサルフィルムの発色のほうが美しいと思い、そちらを未だに常用しておりますが、
資料としての夜間撮影についてはデジタルの方が優れていると思います(^^;)



写真は同じく4001レ。



投稿者 「ED76109」
投稿日 2008年 7月21日(月)08時37分19秒
タイトル 乗って残そうB.T !
  何度もしつこくお邪魔しております。「ED76109」でございます。
  昨日家族サービスで外出した折、書店で「夜行列車」の特集記事が掲載された雑誌を楽しんだのですが、
すべて(3冊)「はやぶさ・富士」の平成21年春の廃止を前提とした内容でした。
 ほぼ決定(!)されているとは言え、明確に「廃止」の文字を見ると・・。
 今回は、小生の九州B.Tの思い出を「戯言」として記してみます。
 いつものように先達の皆様の話題にしていただければ、ありがたい限りです。

1 小生が初めて乗車した九州B.Tは、親族の婚礼で「出水」を訪問するために乗車した、昭和42年の「はやぶさ」。
 「鉄」親父によると、最寄りの「目黒」や「五反田」の窓口で「『はやぶさ』の寝台・・」と言いかけた途端、
 「ありませんよ。」と断られて、まともに売ってくれたことは一度もなかったとのこと。
 仕事先が近い「田町」の窓口でほぼ徹夜で並んで、やっと購入することができたと話していました。
 しかし、小生には乗車の記憶は皆無であり、通路の折り畳み式の椅子で景色を見てずっと座っていた姿が印象的だったと、
 5年前亡くなった叔父がいつも酒宴の席で話してくれました。

2 前述した教科書アドバイザーの帰路、広島から「富士」に乗車したのは平成12年の春。
 「1号車3番下段」の寝台券を手に乗り込み、静かに廊下を歩いていたところ、誰一人乗っていないことに気づき、唖然。
 車内改札の広島車掌区のカレチさんは、「よくあることですよ。」と平然としていましたが、
 春休みの時期であったにもかかわらず、九州B.Tの現実を見せつけられたようでショックでした。
 翌朝、車販のバイト君に「おもいっきり、貸し切りですね。」と大笑いされましたが、小生、心からは笑えませんでした。

3 平成11年の夏、国語の研究会の帰路に下関から「さくら」に乗車。
 米原あたりから起き出して、「スハネフ14」の最後尾の窓から遠ざかる線路を眺めておりました。
 その時、通りかかった下関車掌区のカレチさんに、小生が
 「『はやぶさ・富士・さくら』の三列車の並結で運転したらどうですかねぇ。」とアイディアを話したところ、
 カレチさんは言下に「(B.Tが廃止されるまで)あと10年かな。」と即答。
 今にして思えば、あの頃に何か「手」は打てなかったのか、残念でなりません。

 とにかく、「はやぶさ・富士」の最期の日まで、一人でも多くの「鉄ちゃん」の方々が
B.Tの旅を思い出に刻まれんことを心から祈念致します。
 以上、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ・・・」という言葉を噛みしめる「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 EF6113
投稿日 2008年 7月21日(月)15時28分47秒
タイトル 桜島、かいもん
>クモイ103さま

いつも、しっかり1次資料に基づいた情報ありがとうございます。

501レは「日南」ではなく、「みやざき」ですよね。
(アラ探しのようで申し訳ありません。どうか気分を悪くされないで下さい)

桜島がかいもん、みやざきと共通運用だったとは知りませんでした。

高千穂と共通だったのかなあ、と漠然と思っておりましたので。

47年〜50年の高千穂の運用はどうだったのでしょうか。お分かりなるようなら御教授下さい。



投稿者 らん丸
投稿日 2008年 7月21日(月)22時09分45秒
タイトル 物理的に天王寺−白浜間をC57牽引で2時間は可能だろうか?
以前書きました「阪和電鉄の流線型のC57」ですが、そもそもが当時の紀勢西線の軌道状態
(通常は8620が列車を牽引。いわゆる「ローカル線規格」だったそうです)
に対応する軽量でなおかつ阪和電鉄線内をモヨ・モタと同じタイムで走破できるポテンシャルを持った機関車として
汽車会社からC57を推薦されたのがきっかけでした。
そのC57を基にしてアメリカの21世紀特急の牽引機に似せた流線型ボディにする計画だった。

ちなみにC57に客車4両(南海との対抗上冷房付になってると想定。
KM型冷房装置付きで実質「マ」級の客車)でKM型冷房装置をフル稼働させた状態で
停車駅は東和歌山・御坊・紀伊田辺・・・・・

阪和電鉄はある意味「アナーキーな会社」だった(オーシャンアローより速い阪和間38分運転をやったことがあるらしい)
ので相当無理をしてでも実現させたでしょう。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 7月21日(月)22時22分5秒
タイトル Re: 桜島、かいもん
 EF6113様、501レの件、ご指摘ありがとうございます。昭和50年3月改正以前は仰る通り「みやざき」でしたね。
アラ探しだなんてとんでもありません。私の誤りが放置されるのを防いで下さったことに感謝しますm(_ _)m。

 急行「高千穂」ですが、前出の資料によればこちらは単独の運用でした。
8〜14号車の7両がまとまって「鹿2」運用を組み、西鹿児島−東京−品川−東京−西鹿児島を4組で回していました。

 「桜島」と「かいもん」の共通運用は、昭和36年10月改正まで遡ります。
それぞれの前身である「霧島」(当時は東京−鹿児島)と「さつま」(当時は名古屋−鹿児島)が、
基本編成を共通運用として鹿児島側での折り返しの効率化を図ったものでした。

 昭和36年10月改正時の運転時刻は、
 ・「霧島」東京11:00→鹿児島13:33(翌日)、鹿児島15:55→東京18:20(翌日)
 ・「さつま」名古屋8:05→鹿児島5:55、鹿児島23:00→名古屋21:10
 鹿児島での「霧島」の間合いは短すぎて当日折り返しは出来ず、1日以上の勿体ない滞留となって、4組の編成を要します。
一方「さつま」は3組で楽々回せますが、これまた鹿児島での間合い時間が過剰です。
これを「霧島」→「さつま」、「さつま」→「霧島」と折り返せば丁度良い滞留時間となり、
編成数も6組となって1組節約できます。
 「高千穂」は、鹿児島側での間合いが「霧島」よりは効率的なため、運用抱き合わせの対象にならなかったのでしょう。
 ・「高千穂」東京14:35→西鹿児島19:46(翌日)、西鹿児島12:00→東京16:50(翌日)

 さて「さつま」はその後昭和40年10月改正で、名古屋−博多間昼行電車急行「はやとも」と、
門司港−鹿児島間夜行客車急行「はやと」に分離されますが、「はやと」は引き続き「霧島」と共通運用され、
昭和43年10月改正の愛称名統合で「かいもん3−2号」となります。
 鉄ピク連載記事「国鉄急行列車愛称変遷史」では、この時「霧島」と運用が分離されたように書かれています。
しかし「全国版 優等列車編成順序表 昭和43年10月国鉄白紙ダイヤ改正」(2007年1月31日 ネコ・パブリッシング刊)では、
しっかり1・2・5〜7号車が共通運用であることがわかります。
このネコの本の内容は、同改正時の「主要客車列車編成順序表」ほか国鉄内部の一次資料を丸コピーしたものですから、
“その筋”に興味のある方には必携の書かも?(たいへん高価ですが(^^;)


 余談ですが、急行「みやざき」は、昭和47年3月改正で普通列車から格上げされたのですね。
ところがその頃辛うじて時刻表を読み始めた小学生だった私は、迂闊にもその普通列車時代を認識しない(忘れた?)まま、
急行「みやざき」はずっと昔から存在していたように長い間思い込んでいました。
そのため前書き込みも、ついそんな錯覚のままで「桜島」(←「霧島」)なんて書いてしまいましたが、
「霧島」が「桜島」に改称したのは昭和45年10月改正時ですから、その頃急行「みやざき」はまだ存在しません。
普通列車時代はたぶん軽量客車ではなく、勿論共通運用ではなかったと思います。



投稿者 雪だるま
投稿日 2008年 7月22日(火)01時41分29秒
タイトル 旧客の冬のトイレ
ED76109さまこんばんは。
冬のトイレの水はまず水を流してから使うのが確かでした。
洗面台の水も出ないことがありました。
出ても熱いお湯です。水タンクよりも配管の暖房がだめだったのかと思っていましたよ。
客車に限らず茶色い水が出てくることはよくありました。

札イワのスハフ32に車掌室の仕切がないのがありました(通路との仕切なし)。放送用アンプは未装備でしたが。
客室に化粧板を貼ったスハ32もいたしたね。
海水浴臨時列車で銭函で乗車しきれないため最後部のマニを解放して収容したのを見ました。
今じゃそんなに乗客もいませんね。



投稿者 みずぎはる
投稿日 2008年 7月22日(火)02時15分12秒
タイトル かいもんスハフ(感謝)
みずぎはるより、みなさま有難うございました。

>>仙コリ 様
サイトのご紹介ありがとうございます。この矢印は助かります。
12系急行西日本編の”かいもん”には矢印がなく、こちらには有ることが判りました。
黄緑色の反転はきっと”指定席”ですね。

>>竹中@ノーブルジョーカー 様
お写真をありがとうございます。連結方向を確認できました。

>>クモイ103  様
循環運用のご紹介ありがとうございます。



 
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