倶楽部メモ(439)
平成20年 7月17日〜 7月19日



投稿者 キハウニ
投稿日 2008年 7月17日(木)00時03分47秒
タイトル 車両配置の件
レスありがとうございます。
図書館で、偶然昭和7年の鉄道局の便覧をみつけそこで目当ての地域の
当時の配置車両を知ることができました。
ホハ12000やそれより古い時期のが配置されていたようで普段模型であまりみない
時期のものだったので、その上で仙コリ様にご紹介頂いた
「写真で見る客車の90年」「国鉄80年記念写真集・車両の80年」とあわせみて
どういう形であったかを知ることができ、とても有意義で幸せな時間でした・・・ありがとうございました。
マロネロ38様の「車両台帳 客車篇-1」は残念ながらみつけられることはできませんでした・・・
買収雑型もいずれ調べなければならない領域なので
いつかはみつけたいと思います。
いろいろ勉強しなければならないことが多く楽しみです^^

蒸気機関車関連は、地元の県立図書館などでもある程度調べられるのですが
客車はあまり資料がないようで、こちらのサイトはたいへん勉強になります。
ありがとうございます。

どちらにしろ最終的なところは鉄道公報からたどっていかないといけないような気がしております・・・
長レスになってしまい申し訳ありませんでした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 7月17日(木)14時53分4秒
タイトル トイレの話
▼ED76 109様:
> 旧客鈍行の「トイレ」が凍結防止で「使用禁止」になっていたこと

1970年代前半のトイレというと、我が地元では、動力車を含め「ストレートに大地の
糧になる」方式が主流と記憶しますが(^^)北海道の冬は、それすらも覚束ない程の
極限状態だったという事でしょうか。

かかる仕様の結果(相も変らぬ構図で恐縮ですが)画像河川敷のキャンプ場を訪れた
友人が、鉄橋下で弁当を広げていた処、頭上の通過列車から………という「悲劇」に
襲われましたっけ。画像の列車は昨秋運転の「奥久慈レトロ」ですが、トイレは勿論、
然るべく改造されている………のでしょうね(^^)

当時はまだ、東北線などの上り長距離列車でも、首都圏の市街区間に入ると、トイレ
使用を控える旨の車内放送があった様に記憶します。道内出身の有名漫画家(或いは
ED76 109様の元御勤務先の卒業生?)が、1970年頃に上京した際、件の車内放送を
聞いて「凄い所に来てしまった」と慄く場面を描いた自伝漫画の一節を思い出します。




投稿者 ED76109
投稿日 2008年 7月17日(木)17時10分15秒
タイトル 汚い話で恐縮です。
「ED76109」でございます。
雑魚様
>北海道の冬は、それすらも覚束ない程の極限状態だったという事でしょうか。
おそらく「水を流す」タンクが凍結してしまって、機能を果たさなくなる対策ではないかと思います。
全く別の話ですが、平成8年の新春に乗車した「トワイライト」のスシ24の「水タンク」が、
最高気温「−5℃」の道内走行中は何も問題がなかったにもかかわらず、内地に入った途端に漏水が始まり、
早暁の「直江津」で水補給のために20分間停車して遅延した経験があります。
しかし、それでも水が不足したのか、ウエイターの方々がBコンパートの飲料水器の水を汗びっしょりになって
「ズンドウ鍋」に汲んでいましたねぇ。
可能であれば、「雪だるま」様に補足いただければと思いますが、今年の冬に旭川で凍結した水道管を
「プロパンガス」のバーナーで解凍していた折、ガスが漏れて爆発したという事故がありました。
とにかく、当地の冬は「厳冬」の一言です。

>道内出身の有名漫画家(或いはED76 109様の元御勤務先の卒業生?)
オホーツクの要衝機関区のあった「遠軽」の「遠高」のOBに
有名漫画家がいるという話しは聞いたことがあるのですが・・・。
詳細は知りません。

また、投稿いたします。
以上、「鉄研」がない高校に勤務する「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 かんもん
投稿日 2008年 7月17日(木)19時02分13秒
タイトル 昭和34年の日記
恩師の日記に昭和34年4月19日「厚狭駅から急行に乗って東京に行く。
熱海で長く停車した。向い側に新宿行きの列車が止まっていたので乗った。
新宿に昼過ぎ着いた」とあるのですが、急行とは西海号のことでしょうか。
新宿には何時についたのでしょうか。
資料がなく皆様のお知恵をお借りしたいのですがお願いします。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 7月18日(金)10時59分58秒
タイトル あじあ号
>「遠高」のOBに有名漫画家がいるという話しは聞いたことがあるのですが…

元々はアニメ業界で活躍した安彦良和さんという方で「ガンダム」第一世代の間では、
高名な存在です。十数年前「ノモンハン事件」当時の旧満州国を舞台とした「虹色の
トロツキー」なる漫画を連載し、独特の筆致で味わい深く描かれた、SL牽引列車も
度々登場します。

極めつけは第四巻の冒頭部分。1939年初頭、大連発、新京(長春)行「あじあ号」の
一等展望室にて、実在の要人数名が、訪欧使節の任を終えた甘粕正彦を囲み、ナチス・
ドイツの動向を巡り談義する場面ですね。途中の奉天(瀋陽)から、当時の満鉄総裁・
松岡洋右が乗り込み「我が満鉄が世界に誇る『あじあ』の一等を借切っての会議とは、
粋な事をなさる」と一言。牽引の「パシナ型」機関車は「No.976」とあり、1934年に
大連・新京機関区に配備された車番と符合するなど、考証に配慮した様子も窺えます。

当時「あじあ」は、最高 130km/h、表定 80km/h 超と、標準軌仕様を考慮してなお、
かなりの高性能と言えますが「ウィキペディア」によると、当時のドイツには、何と
最高 150km/h 超の気動車列車が営業運転を行っていたそうです。世界初のジェット
戦闘機を実用化させたドイツの技術力の一端を垣間見る思いです。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 7月18日(金)20時17分51秒
タイトル ドイツの気動車特急
多分"Fliegender Hamburger"(ドイツ語キーが無いので"位地が違うが)でしょう。
所謂DELで真似たのがキハ43000、現在のキハE200と同じ類です。
満鉄技師長だった、市原善積氏が「あじあ」車両製造のデーターを作る為に見学乗車
された記事が出版されています。Berlin-Hamburg間行きは瞬間時速156kmh,帰りは
150kmhだったと記述されています。兎に角「ウヤ」が多かったそうで矢張り初期故障
でしょうか?



投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 2008年 7月18日(金)23時11分38秒
タイトル Re:昭和34年の日記
>かんもん様
昭和35年8月の時刻表が手元にあるので、見てみました。
熱海から新宿行きは休日運転ですが熱海14:02発準急「あまぎ」がありました。
新宿着は16:00です。
熱海で新宿行きを見ることが出来る山陽本線からの列車は急行「西海」で
厚狭発は20:39、熱海着13:51、熱海発が13:53です。
1年違いますから、時刻は変更になっていたかもしれませんが、ご参考まで。
投稿者のホームページ



投稿者 らん丸
投稿日 2008年 7月18日(金)23時45分27秒
タイトル 日本版「Fliegender Hamburger」?
満鉄がドイツのFliegender Hamburgerの影響を受けて「ジテ」という編成式気動車を走らせていたのはご存知かと思いますが、
内地においても鉄道省キハ43000に続いて編成式気動車列車を走らせようとした会社がありました・・・南海電鉄です。

白浜までの南紀直通特急「黒潮」を阪和と南海が走らせていましたが、和歌山までの到達時間
(和歌山から先は軌道状態も悪く、急曲線が多く、8620牽引なのでスピードが出せないので
和歌山までの到達時間がキーになっていました)と和歌山市駅でのスイッチバックという「2つのハンデ」を克服すること、
さらにライバルの阪和電鉄が流線型のC57を投入して天王寺−白浜口を2時間(285系オーシャンアローと同じタイム!)
で走る計画への対抗ということで気動車を投入するはずだった(阪和のC57共々戦争の関係で頓挫した)。

「はつかり」より25年早く誕生するはずだった「気動車特急」は、「ガソリンカー」とも一部の資料には書かれていますが、
「世界初の冷房電車」を誕生させた南海ですから、「日本版Fliegender Hamburger」を作ったでしょう。



投稿者 仙コリ
投稿日 2008年 7月18日(金)23時53分6秒
タイトル Re2:昭和34年の日記
>かんもん様、竹中@ノーブルジョーカー様
「熱海で長く停車」という点と「新宿に昼過ぎ着いた」という点が少々合致しないようなので
書き込みに躊躇していたのですが、熱海から新宿行きの列車は準急「あまぎ」だけですので、
竹中@ノーブルジョーカー様の説であっているのではと思います。

ちなみに、より近い昭和34年7月号の時刻表によると

急行「西海」
 佐世保15:30発 厚狭20:37着20:38発 熱海13:51着13:53発 東京15:38着

準急「あまぎ」
 熱海14:10発 小田原14:33着14:34着 新宿16:00着

となっています。

何らかの理由で「西海」が熱海で足止めになったと考えれば…
16:00着を昼過ぎと表現するのは少々無理があるような気はするのですが…

ところでこの準急「あまぎ」ですが、現代の「湘南新宿ライン」などが運行されている品鶴線や
東海道貨物線を経由していたようで(小田原-新宿間通過)、とても興味深い列車だったようですね。
投稿者のホームページ



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 7月19日(土)09時24分27秒
タイトル 思ひ出話 2
 度々御邪魔しております。「ED76109」でございます。
小生の海水浴臨時列車の思い出が、アニメ業界で活躍された著名な漫画家の方や
DBの「Fliegender Hamburger」につながるとは・・。
この掲示板にかかわる先達の方々の力を結集すれば、何か大きなことができるのではないでしょうか・・。
 さて、今回は「鬼籍入りしたB級グルメ的列車(?)」の思い出について、「戯言」を述べさせていただきます。
いつものように、先達の皆様に話題の一つとしてとりあげていただければ眼福の極みであります。

 1 昭和40年代の九州で異彩を放っていた「フェニックス」は、西鹿児島・宮崎間を
  小倉経由で約16時間かけて結んでいた、都市間連絡のディーゼル急行です。
  親類宅のある「出水」から、肥薩線の「C57」や「大畑ループ線のD51」、
  阿蘇山麓を巡る豊肥本線の「立野スイッチバック」を訪れた際に利用しました。
  おそらく8両編成で、大きな駅では乗客の3分の1が入れ替わっていたように記憶。
  「鉄」親父が「終点まで乗るお客はいますかね?」とカレチさんに尋ねたところ、
  「小倉で交代しますが、そげんな物好きはおりまっせんなぁ。」と大笑いされました。

 2 今春に廃止された寝台急行「銀河」の補完的な役割に徹していた臨時夜行急行「銀河51号」は、
  長年にわたっての「トカホセ」の夜の名脇役。
  前述しましたが、暖房が熱すぎて大汗をかいた「スハフ42」や
  Tシャツ一枚で冷房に震えた「スハフ14」など思い出がいっぱいです。
  どういう訳か、新垂井の「下り専用線」で目が覚めることが多くて、早暁の伊吹山の勇姿にいつも感動しておりました。

 3 青森・上野間を奥羽・羽越・上越線経由で結んでいた「昼行電車特急」。
  初めての北海道の帰路に利用した昭和48年3月は「いなほ2号」、
  道教委に就職関係の文書を提出した帰路に利用した昭和60年1月は「鳥海」でした。
  愁いある味わいの東北と日本海の風景や上越ループ線など、「乗り鉄」には魅力的な列車でした。
  特に、羽越線の「村上」で交直流のデットセクションを通過する時の、乗客達の怪訝な表情は印象深いものがあります。
  (沿線の方であれば当然至極なことですが・・)

  また、投稿致します。夏の汽車旅に憧れる「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 7月19日(土)09時33分1秒
タイトル 阪和線
▼マロネロ38様:
> 多分 "Fliegender Hamburger" でしょう。所謂DELで真似たのがキハ43000、

御教示、有難うございます。画像検索した処、確かに意匠上の類似性が感じられます。

▼らん丸様:
> 鉄道省キハ43000に続いて編成式気動車列車を走らせようとした会社がありました

阪和電鉄は1940年に南海に合流「山手線」と名乗りましたから、それ以前の話ですね。
現在でこそ 沿線がほぼ市街化された阪和線ですが「東岸和田」「東貝塚」「東佐野」
そして旧「東和歌山」の駅名から窺える様に、当時の沿線は専ら「街外れ」と思われ、
南海高野線と接続する三国ヶ丘にしても、停留場としての設置は、南海時代の1942年。

かかる状況下、古くからの市街を貫く南海本線との「差別化戦略」に基づく阪和間の
都市連絡を重視してか、1936年に天王寺〜東和歌山で所要45分(無停車)の電車便を
設定したのも、然もありなんですね。この モヨ100、外観からアコモも「通勤型」と
見受けられますが、当時の台車技術にあって、この速達便の「乗り心地」はどの様な
ものだったのやら?

上記便と御指摘の「日本版 Fliegender Hamburger」構想の間に 因果関係があるなら、
当時の阪和間競争の過熱振りが窺えますね。近年、関空のアクセスを巡る「はるかvs
ラピート」の競合構図は その再来と感じますが、後者が速達枠「α」を縮小したのは、
東海道線に直通が効く「はるか」の面的展開性に圧倒された側面のゆえかと感じます。

それにしても、C57牽引で「オーシャン・アロー」級の速達構想とは、当時、相応の
技術的確証があったのか、あるいは物理的に克服が殆ど見込めない山岳部を貫いての
路線構想を有した地方鉄道の如く「想像力だけは逞しい」発想の産物なのか、色々と
勘繰ってしまいます。



投稿者 みずきばる
投稿日 2008年 7月19日(土)09時52分18秒
タイトル ”かいもん”のスハフの向き
こんにちは。みずきばる、と申します。
さて、S50年代の”かいもん”のスハフ12の連結方向についてお聞かせください。
当時の編成表を見つけたのですが、ナハネ20のとなりに12系の緩急車が2両続くのです。
”さんべ”の場合は車掌室が無い側が、20系と連結されていたと聞いています。
”かいもん(日南)”の場合、12系〜20系間の連結向はいかがでしたでしょうか?

給電の関係で何らかの決まりがあったのではとも想像しますが、”ちくま”と”さんべ”では違ったようですし、
列車ごとに個性的であったのかとも思います。
よろしくお願い申します。

オユ14+マニ50+スハフ12+オハ12+オハ12+オハフ13+スハフ12+ナハネ20+ナハネフ22(s55)



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 7月19日(土)10時30分59秒
タイトル 村上憧憬
▼ED76 109様:
> アニメ業界で活躍された著名な漫画家の方(中略)につながるとは…。

なお、安彦さんと在学期間を共有する湖川友謙さんも、アニメ業界ではかなり有名な
存在ですが、この方に関しては今の処「鉄ネタ」が見当たりません(^^)

>「小倉で交代しますが、そげんな物好きはおりまっせんなぁ。」と大笑い

上野〜直江津〜大阪の「信越白鳥」や、名古屋〜新宮〜天王寺の「くろしお」そして
新大阪〜米子〜博多の「まつかぜ」など、複数区間での需要を一本に集約した特急に
ついても、同様の「物好き」の存在が気になりますね(^^)

> 新垂井の「下り専用線」で目が覚めることが多くて、早暁の伊吹山の勇姿に

14系座席車による臨時「銀河」は、私も何度か使った事があり、大抵ガラガラなので、
向かい合わせにした座席四名分を占拠して、当該区間では、専ら鼾をかいていました。

この新垂井を通過する度 感じますが、8kmもの駅間距離を擁する大垣〜垂井にあって、
美濃赤坂支線の荒尾駅を南荒尾信号所に集約すれば、本線電車の停車も効き、相応の
利便性向上が見込まれる様に感じます。仮にそうなった場合、貨物の取扱量が減少の
一途にある美濃赤坂駅が、荒尾駅から 2km未満の距離にある為、美濃赤坂支線自体の
存在意義が問われる可能性もありそうです。

>「村上」で交直流のデットセクションを通過する時の、乗客達の怪訝な表情

701系の運用区間から考えても、村上の切替点は 駅構内の北側と思われますが、何度
訪ねても、常磐線取手〜藤代で見られる様な変電設備が沿線に見当たらず、謎ですね。
原油高の折、他線接続が無い事から、設定上の融通が効くであろう村上駅の構内にて、
黒磯駅での切替方式を導入すれば、酒田以南の普通列車も全て電車化出来ように、と
感じる昨今ですが、切替の為の工事費も、莫大な額なのでしょうね。

一方、村上以南の直流区間においても、平林駅北側の変電所から先の架線柱の形態は、
いかにも交流仕様らしい「ゴツい」仕様の碍子で構成され、どの様な仕組みが詳しく
存じませんが、当該区間を走行中の下り便で交直流切替「予行演習」が行われたとの
同乗記を、かなり以前、RJ誌でしたか、一読した記憶があり、この辺りも謎ですね。

新潟平野の北端に位置する村上は、市街北側を流れる三面川を境に地形が一転します。
この劇的な車窓の移り変わりも、羽越線の旅の魅力ですね。画像は三面川橋梁北側の
下り専用線で、右手奥に「日本海に沈む夕陽」が名物の瀬波温泉が見えます。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 7月19日(土)11時06分53秒
タイトル 満鉄の「ジテ」
流線型で「動力車」+ロハ+ハ+クハの4両編成。全部固定クロスの向かい合わせ座席。
動力車は手荷物4トン積載。
500HPデイゼル機関x1、発電機320KW直流差動複巻他励型x1、電動機150HP直流直巻
補極付自己通風型x4(合計600HPS),ゴ‐ルド式蒸気暖房缶250kg/h、重油竪型
(日本車輌内燃動車カタログから)
両端はFliegender Hamburgerに少し似た「オデコ下がり型屋根」の流線型です。
さすがに極寒の満洲だけに電暖は無理だったのでしょうね。尤もキハ43000も蒸気
暖房缶を備えていましたが。
試運転で「あじあ」より速かったとの伝説のDELです。


 
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