倶楽部メモ(434)
平成20年 6月29日〜 7月 1日



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 6月29日(日)10時09分32秒
タイトル 17-18,7-8 レ
EF5848様
お説の通りです。取り違えて居りました済みません。
7-8レのオイテは京都‐下関間だったと思います。この列車は舞子駅を
7レがお昼頃通過、8レが夕方通過でしたので度々見ましたが、優等車
がもう一つでした。但し食堂車は「洋食」で呉線経由の海軍御用達列車
だった事が解ります。昭和16年の開戦直前(9月)に網干で延着で
停車中の114レに追突して、114レの「ロ」の乗客全員死亡の大事故
をやったのが8レです。1週間後に現場を広島行快速で通過してC53
が半分土中にめりこんだままを見て驚いた経験があります。帰途は何と
114レでしたが、事故で運用が変わっていて、オロ31ではなくオロ36
かオロ40でした。
17‐18レ1.2.等急行は「一番良い車」が使われていたみたいでした。
これも「洋食堂車」が連結されていました。父がよく利用しましたが私は
残念ながら乗車経験がありません。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年 6月29日(日)12時13分34秒
タイトル スニ20
休日朝から20系あさかぜの動画を見てましたら、
新製20系電源車の製作シーンの中でスニ2051と
車体に表記された画像が出てきました。
マニ20だと思いますが、エンジン乗せて量ってみたら
予想以上に重かったのでしょうか?

このシリーズ、他にも急行阿蘇の特ロ、並ロ車内や
つばめの車内等が見られます。
すでに過去ログで紹介済みでしたらすみません。



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月29日(日)13時37分55秒
タイトル C5343(流線)の運用
12列車「燕」で、神戸>名古屋
1列車「富士」で、名古屋>京都
17列車で、京都>神戸

1列車で神戸までとすればよいところを17列車牽引とはにくい演出ですね。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 6月29日(日)14時57分47秒
タイトル C5343の運用
昭和15-16年だったと記憶しますが、夏の夕方舞子駅で明石操車場回送の「燕」を
牽引していたのを見ています。11レの回送。(運用が狂っていた?)
午前中に見たのは17レの明石回送だったでしょう。これでも上りには明石操車場
で方向転換給水炭点検で12レ(神戸12.20)に何とか間に合ったでしょう。
1レだと姫路まで行かねばならず、京都で交換したのでしょう。(神戸だと交代の
C53を明石から灘まで持ってきて転車台で回し神戸の側線まで回送待機で、C5343は
明石操車場まで単機で回送になってしまいます)



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2008年 6月29日(日)17時41分37秒
タイトル Re:スニ20
ヒゲ無し雷鳥様

「20系あさかぜの動画」とは、先日CSのヒストリーチャンネル・鉄道映画名作集で放映された
「20系特急あさかぜ」ですね。
スニ20の件ですが、鉄道ピクトリアルの20系固定編成客車特集(No.763:2005年7月号)に
この件の解説が掲載されていまして、製造当初はスニ20形として製造されていたものの、
防音対策強化のため重量増となりマニ20形となったそうです。
元々が「ナ」級の20系客車なのでディーゼル機関(DMF31S-G)と交流発電機(PAG1形)を
各2台搭載しても「ス」級に収まる予定だったようですね。
それにしても幻の形式名「スニ20」が映像として残っている貴重な資料ですよね。
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 6月29日(日)18時02分19秒
タイトル 撮影の為の質問諸々
一縷の望みを託し、寝台特急のキャンセル待ちを入れるも、ひとまず空路を手配した
札幌遠征ですが、せめて撮影を充実するべく(札幌〜道内著名観光地の移動は時節柄、
臨時特急の予約状況から混雑気味と推定され、札幌周辺に特化した方が得策の様です)
被写体候補を「北斗星」「カシオペア」「トワイライト」「はまなす」と客車に絞り、
撮影候補地を選定する上で、以下の質問事項につき皆様の御教示を頂きたく存じます。

【 質問之壱/沼ノ端〜植苗 】

○千歳線(下り)と室蘭線の並走区間への立入の可否(地図には並行道路の表記無し)
○沼ノ端・植苗の両駅から、上記地点までの徒歩所要時間。
○千歳線(上り)と室蘭線の交差点付近からウトナイ湖を背景とした構図確保の可否。

【 質問之弐/南千歳前後 】

○南千歳駅から苫小牧方面を向いての駅撮りの是非(空港地下線の入口施設が隘路?)
○南千歳駅付近における撮影好適地の有無。

【 質問之参/北広島〜上野幌 】

○上野幌駅から苫小牧方面を向いての駅撮りの是非。
○当該区間の撮影名所である高架橋の正確な所在地と、最寄駅からの徒歩所用時間。

【 質問之四/新札幌〜琴似 】

○途中の各高架駅における駅撮り(なるべく後追いではない方が好ましい)の是非。

【 質問之五/発寒中央〜稲穂 】

○上記の客車便における、札幌〜札幌運転所(手稲)の回送便(上下とも)時刻次第。
○札幌運転所前後の陸橋・踏切からの運転所内部(特に客車留置部位)の視認の可否。
○途中の各跨線橋上からの「構図」確保の可否(歩道の有無を含む)

質問ばかりとなってしまいましたが、どうぞ宜しく御教示下さいませ。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年 6月29日(日)21時31分42秒
タイトル レスお礼
仙コリ(管理人)様
防音対策でしたか。有難うございました。
当該誌を探してみます。



投稿者 EF6113
投稿日 2008年 6月29日(日)23時04分8秒
タイトル 桜島高千穂の客車の向き
晩年の桜島、高千穂はともに下り方向から2両目にグリーン車があります。
2両のグリーン車は写真を見ると東海道では出入り口が下り方向にそろえてあります。
以前話題になりましたが、東海道線の場合神戸駅を基準にしてそれぞれの客車の向きを決める事が
少なくともグリーン車では守られていたようです。

西鹿児島に到着した桜島、高千穂のホームでのグリーン車の出入り口は東海道走行中と違い、
互いに反対の向きになるのでしょうか?
もし反対になるのであるなら、鹿児島客車区で客車の向きが
東海道、山陽線走行中に揃うことに注意されて運用されていたのでしょうか?

また、普通車の向きがバラバラ(トイレ、車掌室のある向きが個体によって違っている)のが顕著なのですが、
これは桜島、高千穂の特有の運用によるものなのでしょうか?

小生、西鹿児島駅、鹿児島客車区の線路配置がよくわからないこともあり質問させていただきました。
どなたか御教授していただければ幸いです。



投稿者 尼港線
投稿日 2008年 6月30日(月)00時31分25秒
タイトル 百間の鉄道好きは幼少時から
> ED76109様
> EF6113様
夏目漱石をめぐるお話の最中の横レス、大変に恐縮です。
小生、内田百間は高校生の頃から愛読しており、少々気になりました点がございましたので、
ひとこと申し上げさせていただきたく、出て参りました。

文中、夏目漱石の鉄道への興味が、内田百間の鉄道好きに影響したのでは、とのお話がございましたが。
百間自身は、郷里の岡山在住時代。
明治末に湯河原で療養中の漱石に初めて会う、遥か以前から鉄道に深い興味を持っていたことが、
岡山を描いた様々な随筆から窺えます。
代表的なものに「通過列車」という作品があり、百間が中学生の頃、
山陽本線の長岡駅(現・東岡山駅)まで通過する列車を見に、自転車をこいで日々通っていた様子が、
当時の駅の情景とともに活写されています。
宮脇俊三選、日本ペンクラブ編の「鉄道が好き」(集英社文庫)にも収められていますので、ご一読をお勧めします。

師の漱石の影響よりも、鉄道の要衝で生まれ育った男の子の一人として鉄道にひかれ
(当時、最先端の山陽鉄道が岡山まで開業したのは百間2歳の時)、
そのまま一生の楽しみが鉄道旅行になった、ということではないかと思います。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 6月30日(月)10時16分29秒
タイトル ありがとうございます。
 尼港線様
 「ED76109」と申します。御教示ありがとうございます。
 百間の鉄道好きは、小生の言葉足らずであったと反省しています。
 御指摘のとおり、山陽本線の難所「船坂峠」の麓に在していた百間は、
 幼い頃から汽車を眺めることから好きな少年であったわけであり、尼港線様が記入されていたとおりです。
 これからも、色々と発言した折、補足等よろしくお願い致します。

 雑魚様
 本日の夜に、いつもの「戯言」を記入致しますので、しばらくお待ちください。

  失礼致します。



投稿者 rapit
投稿日 2008年 6月30日(月)19時33分41秒
タイトル スハフ42−96
お尋ねいたします。
82年頃亀山区におりました、
旧型客車スハフ42−96ですが
この車両は色は茶色だったのかブルーだったのか、
ご存知の方教えて下さいませんでしょうか?
宜しくお願い致します。



投稿者 雪だるま
投稿日 2008年 6月30日(月)23時43分2秒
タイトル 札幌周辺の撮影可否について
雑魚さまこんばんは。
ご質問にお答え出来る範囲で書かせていただきます。お詳しい方がいらっしゃいましたら補足してください。

千歳線下りと室蘭線との並走区間は植苗側から轍のような保線用の通路はありますが夏は草が邪魔だと思います。
植苗駅から室蘭線のオーバークロスまで20分くらいでしょうか。
沼の端からは二つめの陸橋から撮った画像は見たことがありますが。私は分かりません。
南千歳はなかなか撮りづらいと思います。(外側より)
石勝線に入るとスッキリしますが徒歩は大変と思います。

上野幌から苫小牧方面は下りホームからは正面がちになります。現在は有人駅です。
高架橋へは上野幌からJRバスで西の里下車国道より徒歩になります。畑の中が撮影地になり農道からとなります。
高架駅では桑園が正面になりますが札幌方撮れます。
札サウは本線から見て外側に客車がいます。陸橋からは遠いです。
稲穂駅が札サウ間近なのですが検査でバラバラの車両しか見えません。
長々とすいませんでした。
またご質問がありましたら。



投稿者 仙コリ
投稿日 2008年 6月30日(月)23時45分52秒
タイトル Re:スハフ42−96
rapit様
スハフ42−96の色についての質問ですが、資料(ジェー・アール・アール発行の「国鉄客車編成表」)によると
廃車は昭和58年2月のようですが、晩年(資料のある昭和55年以降)はブルー(青15号)だったようです。
過去にも何度か紹介していますが、この「国鉄客車編成表」・「国鉄気動車客車編成表」の内、特に80〜83年版には
当時在籍した全車両の配置はもちろん、車体外部塗装色と体質改善工事施工車であるかどうかが記載されていまして
とても貴重で重宝する資料となっています。
すでに25年以上前の資料ですので入手は困難であると思いますが、80年版は平成16年に復刻されていますので、
比較的入手は容易なのではないかと思います。
投稿者のホームページ



投稿者 EF6113
投稿日 2008年 7月 1日(火)00時00分32秒
タイトル ご教示ありがとうございます
>尼港線さま

たしかにおっしゃるとおりだと思います。

ただし関心のあった鉄道を著作のテーマにしたきっかけは漱石の影響、
あるいは漱石が若干ニュアンスがちがうにしろ前例を作ってくれたからではないかと思います。

単なる輸送手段である鉄道を手段以外の価値や評価をする事は今ではあたりまえであり、乱暴な言い方ではありますが、
この掲示板も客車を人の輸送手段以外の価値を認めてる人がいらっしゃるからこそ成立しています。

しかし、明治の末期にはまだ鉄道に対してそのような見方はあまり前例がなかったのではないでしょうか?
漱石の存在が百けんが小さな頃から関心のあった「鉄道」を自らの著作のテーマにすることに
少なからず影響をあたえたのではと思います。

こんなふうに考えておりますが、いかがでしょうか?



 
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