倶楽部メモ(433)
平成20年 6月23日〜 6月28日



投稿者 R-14
投稿日 2008年 6月23日(月)19時16分36秒
タイトル トワイライト色 ステンレス帯のカニ
初めて書き込ませていただきます。

トワイライトエクスプレスが走り始めた当初の話と思うのですが、
飾り帯は銀帯のまま、ベース色を青→緑に変更したカニ24がいたという話を聞きました。
どなたか詳細(車番や時期等)ご存知の方いらっしゃいませんでしょうか?よろしくお願いします。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 6月24日(火)18時54分27秒
タイトル ちょっと堅いテーマですが・・
先達の皆様方、「ED76109」です。また、御邪魔いたします。
雑魚様
>鉄道用語の語法を巡り、コアな検定騒動………なぁんて事は無いでしょうね

 そういうことを仕事にできれば、趣味と実益があがってすばらしいことでしょうが・・。
残念ながら、「国語に係る教科書」のアドバイザーです。
本音を言うと、小生のポテンシャルの向上よりも「ブルートレイン」に乗れるのではという
「趣味」重視で引き受けた要素が強いです。
担当の方も「北海道からJRで(来たの?)・・。」と絶句されてしまいましたからねぇ。
(確かに、行きが「トワイライト」と「山陽新幹線」、帰りが「さくら・はやぶさ」と「東北新幹線」利用の
0泊3日の強行軍でしたが・・・。今の歳では無理ですねぇ。)
 そこで、今回は「教科書における鉄道風景(!?)」に係る戯言を述べさせていただきます。
いつものように先達の皆様方の話題にいていただけれは眼福の限りです。

1 平成7年に発表された「鉄道員」(浅田次郎作)。ご存知「高倉健」さん主演で映画化された有名作品です。
教科書では、廃線を間近にしたローカル線(北海道の元運炭路線)の駅長のもとに、
幼い頃亡くなった娘が少女の亡霊となって訪れる場面を描いた部分が掲載されていますが、
事務室の「タブレット」や「信号機」の記述もあり、中々「鉄」色の濃い内容。
 授業終了後生徒からは、「主人公の心理描写よりタブレットの説明の方が、熱心でしたよ・・。」の一言がありました。
(小生、思わず苦笑)

2 大正2年9月に発表された「出来事」(志賀直哉作)。
これは、大正時代の東京市内を走行する「路面電車」での作者の体験が、そのまま小説になっているものです。
夏の昼下がりの疲れた乗客等の描写が、あたかも自分が「路面電車」に乗っているように錯覚させられます。
さらに、電車に轢かれそうになった男の子が、運転手の機転で「電気ブレーキ」や「巻きブレーキ」によって助かる
という部分では、子どもが助かったという安堵感とともに、
当時の「東京市電」の運転システムの一端を垣間見ることができます。

3 大正8年4月発表の「蜜柑」(芥川龍之介作)。
これは、作者が利用した「スカ線」の二等車の出来事をそのまま小説にしたものです。
二等車に「赤切符」で乗り込んできた貧しい少女の姿や態度に作者は嫌悪感を感じるのですが、
トンネルを過ぎた踏切で少女を見送る兄弟達に持っていた「蜜柑」を涙ながらに投げ渡す場面で、
作者は心の中に暖かな感動を覚えるという秀逸の一品です。
ただ、「鉄」的には、主人公が乗った二等車のガラス窓が「下向き」に下りる仕組みになっており、
当時の車両に疎い小生にしてみれば一つ疑問となっています。
おそらくボギー客車の二等車だと思うのですが、大正時代の横須賀線の二等客車はどのような構造だったのか、
スハネ16のように下降する窓であったのか。
客車の構造等に詳しい先達の皆様方からの御教示があれば幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 また、投稿致します。
以上、可能であれば宮脇俊三さんや種村直樹さんのようになれればという淡い仮想を描いた「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雪だるま
投稿日 2008年 6月25日(水)00時33分43秒
タイトル SL常紋号
皆さんこんばんは
北海道のテレビのニュースによりますと、24、25日とSL常紋号の試運転が運転されます。
C11171,客車4両(14系),DE15重連の画像が見れました。
週末は天気は良さそうですが、オホーツク海側は寒いようです。撮影の方は寒さ対策も忘れずにして下さい。



投稿者 ど素人
投稿日 2008年 6月25日(水)10時25分20秒
タイトル 窓はどう開くか
ED76109さま、
私はまさしく「ど素人」であり、碩学揃いのこの板ではぬるい発言を
くりかえすばかりです。
2005年の「鉄道ファン」1月号より、
川崎重工兵庫工場秘蔵アルバムから客車形式写真帳 というのが
連載されましたが、窓の開いた状態の写真などから判断できそう
です。
いえ、大正時代の横須賀線の3等車というところまで追い詰めて
行けないのですが、窓は上から下へと落とし込む方式だったと、
私は思います。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 6月25日(水)16時36分21秒
タイトル 遠のいた札幌
▼ED76 109様:
> 事務室の「タブレット」や「信号機」の記述もあり、中々「鉄」色の濃い内容。

ながやす巧さんによる漫画版も、中々の描写内容でした。併載「ラブ・レター」では、
千倉往復で「ビューさざなみ」も登場しました。子供の頃、親に内緒で「愛と誠」を
愛読した手前、かかる緻密な「鉄描写」も持ち味だったかと、妙に嬉しくなりました。

> 主人公の心理描写よりタブレットの説明の方が、熱心でしたよ

伯備線敷設の受け入れ可否を巡り明暗を分けた、岡山県高梁と隣町を巡る小説ないし
ドキュメンタリーを、現代国語の時間に齧った際、担当教師が当時の伯備線における
蒸機の形式解説に走った事がありましたなぁ(^^)

> 少女を見送る兄弟達に持っていた「蜜柑」を涙ながらに投げ渡す場面

通学先近くの水郡線の踏切付近で、下校で乗車した旧客のデッキ扉を空け、線路脇の
小路を歩く同級生に「ごきげんやう」とハンカチならぬ手拭を振る輩がいましたっけ。
当時、走行中の扉開放は、車掌から注意されましたけどね。

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先日「北陸」関連内容を書き込ませて頂きましたが、RJ最新号「北陸」同乗記から、
下り便の長岡でのエンド交換の際に、隣を上り「日本海」が通過する構図である事を
初めて知りました。さすがに時間帯が時間帯ゆえ、夏至の頃を以てしても、綺麗には
撮れなさそうですが、それ以前に入場不可?(あるいは「ムーン ライト えちご」に
関連して、何とかなるでしょうか)途中駅で寝台特急が、擦れ違いでなく並ぶ光景は、
かつて「ゆうづる」全盛時代の常磐線旧平駅でも見られましたね。

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来月の札幌遠征で、久々に寝台特急の旅を、と考えていたのですが、窓口に行ったら
無情にも「見事に全滅」との宣告。それほど混むなら臨時「北斗星」か「エルム」を
設定しても良さそうですが、これで渡道の意欲が 約85%減衰してしまいました(^^)

やはり私には「カシオペア」や「北斗星」で贅を尽くすより、自宅から車で一時間の
烏山線で「山あげ祭り」12系を追い駆けた方が相応しいという、神の啓示でしょうか。
あまりにも悔しいので、今宵、夢の中で尾久に乗り込み「北斗神拳」ならぬ「北斗星
指定拳」究極奥義を余す所無く披露してくれようぞ………(^^)

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画像は題して「その後の田町駅リベンジ」です(^^)




投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2008年 6月25日(水)20時56分51秒
タイトル 大正時代の横須賀線客車の構造
ED76109様
大正時代の横須賀線における二等客車の窓の構造についてですが、私も詳しくはわからないのですが…
横須賀線への電車の投入は昭和に入ってからですので、大正時代は当然客車列車であり、大正8年4月発表の「蜜柑」
との事ですので、ナハ22000等の木製大形客車の登場(大正9年)以前であり、使用されていた客車はホハ12000等の
木製中形客車であったと思われます。
そこで木製中形客車の窓の構造がどうであったかですが、明確な資料は持ち合わせていないのですが、資料写真
(日本の客車)によると下降窓であったようです。
木製大形客車以降は上昇窓になったようですが、木製中形客車の場合は写真から見ても窓上部(窓上から屋根まで)
に窓が全開収納できる空間が存在せず、必然的に下降窓であったと思われます。
木製客車については詳しい資料等を持ち合わせていませんので、詳しい方がいらっしゃいましたらフォローして
いただけると助かります。
投稿者のホームページ



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 6月26日(木)14時06分11秒
タイトル 横須賀線
参考になるかどうか?
内田百けん著の随筆「非常汽笛」に"本線の長距離用新造車試運転がらみで使用とか
1等格下げ2等とか(コンパートメント付き)とかロングシートの2等”とかに
百鬼園大先生が海軍機関学校教授時代に乗車していた記述があります。
木造でも相当程度が良い客車が使用されていたみたいです。沿線に軍港や鎮守府
がある海軍路線だったからでしょうか?
後年東京‐下関の呉線経由急行17‐18レが1,2,3等で「洋食堂車」つきだった
のも海軍急行だったのと同様でしょう。



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月26日(木)18時42分26秒
タイトル 17‐18レ
マロネロ38  様

「17‐18レ」は、東京ー神戸間ではなかったでしょうか?
「7‐8レ」は、東京‐下関の呉線経由急行で、
昼行の山陽線区間にオイテ2700が連結されていたのではないでしょうか?



投稿者 理左衛門(バロン)
投稿日 2008年 6月26日(木)23時06分56秒
タイトル 無念
今年は臨時北斗星ありませんね・・・。
投稿者のホームページ



投稿者 EF6113
投稿日 2008年 6月27日(金)01時09分11秒
タイトル 百けんと龍之介
どちらも、海軍機関学校の教官をやってました。ともに夏目漱石の門下生です。
英語の教官をしていた龍之介が欠員の出た独逸語教官に百けんを誘ったか、
推薦したかで百けんも機関学校へ通う事になったようです。
両者の作品に電車化前の横須賀線がテーマになったものがあるのはこういう経緯があったからです。

後に、百けんは法政大学の教授になり、航空部の顧問となります。
確か羽田空港開港時の一番機は法政大学所属の飛行機です。
戦後は一度も飛行機旅はしなかった百けん先生ですが、実をいうと飛行機の世界でも足跡を残しています。

百けんの親友だった琴の巨匠、宮城道雄が刈谷駅付近で急行「銀河」から転落死したという事件があり、
百けんはこの経緯を「東海道刈谷駅」という作品に書いています。
宮城(視覚障害者でした)がトイレのドアと出入り口のドアを間違えたのだろうと推定しています。

マイネ(マロネ)40の形式図を見ると、なるほどそういうことがありうると納得します。
さすがは百けん先生、阿房列車で何度もマイネに乗っただけのことはあります。

20系になって走行中出入り口にロックがかかるようになったのは、宮城の転落を教訓にしたと何かで読みました。

以前読んだことを思い出しながらカキコしてます。間違いがあればご指摘下さい。



投稿者 「ED76109」
投稿日 2008年 6月27日(金)22時58分55秒
タイトル ありがとうございました
 ど素人様、仙コリ様及びマロネロ38様
 「ED76109」です。様々なご教示ありがとうございます。
   先達の皆様方のお陰で、「蜜柑」における大正時代の横須賀線二等車の状況がつかめてきました。
実は、小説の中で少女が客車の窓を「下ろした」途端、隣に座っていた作者の龍之介が「煤煙と風」で
噎んでしまうシーンがあり、「ロングシート」の構造であれば、合点がいく場面であったことから、
マロネロ38様の「ロングシートの2等」という分析で小生納得できました。
昭和47年、九州の親族宅(鹿児島県出水市)を訪問した際、
阿久根から西出水まで乗車した旧客鈍行が「ロングシート」であった記憶があり、
「蜜柑」の二等車もこの客車とほぼ同じような構造であったのではないかと推察しています。
ありがとうございました。
小生、「乗り鉄」専門であり、車両構造等については疎いところがあります。
これからも色々とご教示下されば幸いです。これからもよろしくお願い致します。

 EF6113様
 「ED76109」です。様々なご教示ありがとうございます。
龍之介らが「木曜会」の繋がりで横須賀の海軍機関学校の英語指導教官を引き受けたのは、ご指摘のとおりです。
「蜜柑」はその帰路に車内で体験した光景を短編にまとめたものと記憶しています。
(実は小生の卒論テーマが「漱石論」でして・・)
また、龍之介は急行列車の食堂車で出会った「西郷隆盛」と酷似した人物を巡り、
「西南戦争」で戦死した西郷は「替え玉」であったという話を連れの人物に披露する「西郷隆盛」という短編を
大正末期(だったと思うのですが)に発表しており、かなり「鉄」分のある近代文学者というイメージを持っています。
「文学と鉄道」に係るテーマ(例えば、国内ミステリー等)でまたお話ができればと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

 なお、「雪だるま様」の後追いになりますが、
明日及び明後日に運転予定の「SL常紋号」に係り、沿線のオホーツク地方は「低温注意報」が発令されております。
晴天が期待できますが、最高気温は「16℃前後」と肌寒さが予想されますので、どうぞ温かい服装でご来道ください。

 また、投稿致します。
以上、いよいよ「はやぶさ」乗車の資金が獲得できるか、
「宝塚記念」命のJRならぬ「JRA」フリークの「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 6月28日(土)10時11分56秒
タイトル 東京市場駅
▼理左衛門(バロン)様:
> 今年は臨時北斗星ありませんね…。

せっかくの渡道の機会に「カシオペア」「北斗星」の双方から見放された私としては、
もどかしい限りですね。こうした繁忙期に臨時便が設定されないという事は、尾久に
留置されている寝台客車も、漸次、淘汰されているという事でしょうか。

▼ED76 109様:
> 阿久根から西出水まで乗車した旧客鈍行が「ロングシート」であった記憶があり、

以前にも申し上げた記憶がありますが、1984年、電化前の予讃線(多度津→高松)で
利用した旧客列車(形式失念)が、両端デッキ構造のロング・シート仕様でしたっけ。
もっともこれは、同行の友人によると、元特急車を無理やり改造した産物だそうです。

旧客の横掛けというと、変則的なアコモながら、1990年以前の山陽線・和田岬支線を
連想します。この路線、神戸市営地下鉄海岸線が開業して数年が経つ今日なお健在で、
どの様な「棲み分け」のゆえか、興味深い現象ですね。

> 龍之介らが(中略)横須賀の海軍機関学校の英語指導教官を引き受けた

舞鶴所在と思いきや、関東大震災以前は横須賀に位置したのですね。ここや、広島県
江田島の「兵学校」と共に旧海軍の将校を養成したのが、東京築地の「経理学校」で、
後方支援業務の性質上、前線勤務を忌避した難関大学の出身者が多数集った様ですね。

件の震災で壊滅的な被害を受けた日本橋界隈の魚河岸が移転したのが、上記学校との
関連も見受けられる、築地の旧海軍省所有地でした。画像は、その築地市場を北側の
聖路加タワーから俯瞰したものです。雑魚、もとい鮮魚の高速輸送便「とびうお」も
出入りした旧東京市場駅(1984年廃止)を反映した建物の湾曲振りが良く判りますね。

なおこの展望室からの眺望は絶品ですが、無料開放の為か、床面積は小規模気味な為、
ディープなカップルが一組いると、かなり「息苦しく」なるので、御注意あれ(^^)

> 明日及び明後日に運転予定の「SL常紋号」

運転内容を改めると、エンド交換となる遠軽で往復とも一時間超の長時間停車があり、
この間、臨時便を含む複数の特急と交換するのですね。まあ、二面三線+中線一本と
構内は余裕がありそうですから、然したる問題も無いのでしょう。

>「宝塚記念」命のJRならぬ「JRA」フリークの「中年客車鉄ちゃん」でした。

いよいよ明日開催ですね「御武運」を祈念申し上げます。以上「宝塚記念」を「ヅカ
ジェンヌ」のイベントと勘違いして久しい雑魚でした(^^)




投稿者 EF6113
投稿日 2008年 6月28日(土)19時47分44秒
タイトル ターナーの汽車絵
>ED76 109様

これは関川夏央の汽車旅放浪記の受け売りも多分にありますが。

草枕を読むと漱石はかなり鉄道というものをネガティブにとらえてます。
個性を殺して、社会全体の効率のみ追求する近代西欧社会の象徴のようなことを書いています。
しかし鉄道への記述が彼の著作を見ると多いのはかなり彼が関心があったことが伺えます。

草枕にはターナの汽車絵に関する記述があります。汽車を題材にした絵に彼はかなり注目しています。
単なる鉄道を輸送の為のシステムととらえるのではなく、芸術の対象にしていることにかなり関心を寄せてるようです。
転じて、鉄道が視覚など人間の持つ感覚的な部分に強くアピールするものであり、
趣味や芸術の対象になりうるものだということを発見してたのかもしれません。
私自身あまり文学的なものを読まないので間違っているかもしれませんが、
漱石が日本で初めて、鉄道に芸術や趣味の対象になる力をもっていることを見出した人ではないかと思っています。
彼のロンドン留学時代のイギリスにはそういった鉄道に対するとらえ方がすでに確立していたのかもしれませんね。

内田百けんの著述の対象は漱石に関連したものが多いのですが、彼の叙述に鉄道が多いのもおそらく「木曜会」などで
鉄道に関する話題がよくでたのかも、思ってしまいます。

阿房列車で彼が繁茂に九州に行ったのは、漱石が熊本で一時期過ごしたことと関連が非常にあると思っています。

つまらない発言まことに申し訳ありません。



投稿者 「ED76109」
投稿日 2008年 6月28日(土)22時15分29秒
タイトル Re.ターナーの汽車絵
EF6113様
>漱石が日本で初めて、鉄道に芸術や趣味の対象になる力をもっていることを見出した人ではないか・・
 非常に「専門的」であり、できるだけ「客車倶楽部」に見合う形で私論を申し上げます。
漱石は、西洋と東洋の接点を日本の近代化の中でとらえようとしました。
しかし、結果として前近代的な(江戸的な)ものは近代化の中で壊されていきます。
例えば、前近代的な人間的結び付きを有していた「宿場町」は
、鉄道という「近代的な西洋」によって破壊されてしまいました。
そのような部分を指して「社会全体の効率のみ追求する近代西欧社会の象徴」として
「鉄道」をとらえていたのかも知れません。
ただ、EF6113様のご指摘のとおり、「三四郎」は熊本から東京までの列車による上京の描写でスタートしておりますし、
「こゝろ」は主人公の「私」が「先生からの遺書」を故郷新潟からの列車の中で読み始めるという設定になっています。
つまり、鉄道が小説の中で関わってくる点は、漱石は他の文学者と比較しても顕著なように思われます。
満鉄総裁であった「中村是公」の招待で満州と朝鮮半島を旅するなど、
旅好きであったことも鉄道に対する関心を高めた要因の一つであるとも考えられます。
漱石の弟子であった百間や龍之介もそのような影響を受けていたことが想像されます。
全くの私論ですので、ご笑覧くだされば幸いであります。
ところで、この書き込みをしていて、
前述の「こゝろ」の主人公「私」は、どのようなルートで新潟から東京へ向かったのかと考えました。
大正の初期(大正3年ごろ)、上越線はまだ開通していませんので、
「磐越西線・東北本線経由」か、「信越本線・高崎線経由」のどちらかでしょうが・・。
まあ、あれだけ長い「先生」の遺書を読みこなすには、どちらの路線を経由しても十分な時間があったでしょう。
おそらく主人公の「私」は、管理人(仙コリ)様ご指摘の「ホハ12000等の木製中形客車」のシートに身を委ねたのでしょうか。
師の身を案じた辛い旅であったろうと思います。
また、投稿致します。
以上、久しぶりに「文学研究者」もどきの「中年客車鉄ちゃん」でした。



 
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