▼クモイ103様:
>「天下の台所」が有効時間帯から外された事に対する、気位の高い反発
さながら「ワシに一言の挨拶もせんと
過ぎんといてや」という感覚でしょうか(^^)
それなら「出雲」機能集約を兼ね山陰線経由で………という他愛も無い話はさて置き、
こちらはこちらで、深夜通過となる京都で葛藤が無かったのか、とも感じます。
同様の事例がありそうな地勢として、日本海縦貫線における新潟はどうか、と思うも、
こちらは元々「新津から分岐する支線の終点」であり、阿賀野川の渡河前後の湿地の
克服がよほど困難だったのか、白新線の開業も1956年と割と新しく、大阪とは事情が
大きく異なりますね。
ちなみに、青森直通時代の「きたぐに」は、新潟以北が事実上の「昼行枠」だった為、
1982年の上越新幹線開業時、新潟始発に再編された「いなほ」に集約されたのですね。
新潟を度外視して上野に直通していた「いなほ」のスジは、一日一往復の「鳥海」に
継承されましたが、新幹線開業後も、需要は高かった様です。
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どう見ても「日本の電車」でした。
あの表紙写真は強烈でしたね。塗装柄、私は「東武鉄道風」を強く感じました。隣を
並走していたのは「セマウル」だった様に思いますが、KTX開業以前は、最新型も、
端部の動力車が中間の非動力車を牽引する「客レ」仕様だったそうですね。
あの時刻表、確か韓国の駅名は、漢字と英文字の併用表記でしたね。韓国では永らく、
自国語の公式表記における漢字使用の是非が大きな論点になっていますが、鉄道では、
金大中政権下、1998年の「漢字復活宣言」以前から一貫して漢字が併記がされており、
日本や中国からの旅行者にとっては、大きな一助となった事でしょう。
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大阪で上り「サンライズ」に実施できたら…なんちて(爆)
営業列車における同趣のサービスとして、1985年の筑波科学博の際、土浦の電留線に
留置した
20系・583系を宿泊施設に充当する「エキスポ・ドリーム」がありましたね。
行列待ちが苦手というだけの理由で、茨城県民の癖に、科学博は行かず終いでしたが、
これだけは試して見たい処でした(^^)
ちなみに、当時の常磐線における輸送状況を見ると、取手以南のH電に接続する形で、
我孫子・取手〜土浦に設定される臨時便が目立ちました。どうせなら上野直通の方が
便利だろうに、などと感じましたが、H電区間でのダイヤ確保や、交直流両用編成の
絶対数の不足が、隘路になったのでしょうね。
水戸界隈では、開幕時のダイヤ改正で廃止された水郡線直通急行「奥久慈」のスジが、
科学博対策の臨時快速として 辛うじて残ったのが印象的でした(確か佐貫折返し?) |