倶楽部メモ(425)
平成20年 5月22日〜 5月25日



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月22日(木)09時48分52秒
タイトル 新潟、韓国、土浦 etc
▼クモイ103様:
>「天下の台所」が有効時間帯から外された事に対する、気位の高い反発

さながら「ワシに一言の挨拶もせんと 過ぎんといてや」という感覚でしょうか(^^)
それなら「出雲」機能集約を兼ね山陰線経由で………という他愛も無い話はさて置き、
こちらはこちらで、深夜通過となる京都で葛藤が無かったのか、とも感じます。

同様の事例がありそうな地勢として、日本海縦貫線における新潟はどうか、と思うも、
こちらは元々「新津から分岐する支線の終点」であり、阿賀野川の渡河前後の湿地の
克服がよほど困難だったのか、白新線の開業も1956年と割と新しく、大阪とは事情が
大きく異なりますね。

ちなみに、青森直通時代の「きたぐに」は、新潟以北が事実上の「昼行枠」だった為、
1982年の上越新幹線開業時、新潟始発に再編された「いなほ」に集約されたのですね。
新潟を度外視して上野に直通していた「いなほ」のスジは、一日一往復の「鳥海」に
継承されましたが、新幹線開業後も、需要は高かった様です。

> どう見ても「日本の電車」でした。

あの表紙写真は強烈でしたね。塗装柄、私は「東武鉄道風」を強く感じました。隣を
並走していたのは「セマウル」だった様に思いますが、KTX開業以前は、最新型も、
端部の動力車が中間の非動力車を牽引する「客レ」仕様だったそうですね。

あの時刻表、確か韓国の駅名は、漢字と英文字の併用表記でしたね。韓国では永らく、
自国語の公式表記における漢字使用の是非が大きな論点になっていますが、鉄道では、
金大中政権下、1998年の「漢字復活宣言」以前から一貫して漢字が併記がされており、
日本や中国からの旅行者にとっては、大きな一助となった事でしょう。

> 大阪で上り「サンライズ」に実施できたら…なんちて(爆)

営業列車における同趣のサービスとして、1985年の筑波科学博の際、土浦の電留線に
留置した 20系・583系を宿泊施設に充当する「エキスポ・ドリーム」がありましたね。
行列待ちが苦手というだけの理由で、茨城県民の癖に、科学博は行かず終いでしたが、
これだけは試して見たい処でした(^^)

ちなみに、当時の常磐線における輸送状況を見ると、取手以南のH電に接続する形で、
我孫子・取手〜土浦に設定される臨時便が目立ちました。どうせなら上野直通の方が
便利だろうに、などと感じましたが、H電区間でのダイヤ確保や、交直流両用編成の
絶対数の不足が、隘路になったのでしょうね。

水戸界隈では、開幕時のダイヤ改正で廃止された水郡線直通急行「奥久慈」のスジが、
科学博対策の臨時快速として 辛うじて残ったのが印象的でした(確か佐貫折返し?)



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2008年 5月22日(木)15時55分11秒
タイトル 15年振りに・・・
管理人様並びに皆様、大変ご無沙汰しております、岩崎安房にございます。
 2月末から突然振ってきた15年振りの蒸機がらみの企画に、殆ど毎日振り回されております。
 今回も客車不足を痛い程実感・・・の前に、「電車天国」となった首都圏の鉄道システムに四苦八苦しております。
 その一方でまたまた全国で蒸気機関車や客車の解体が進行しており、何かトータル的なコーディネーションなり
 ガバナンスなりするシステムが必要なのだなぁと痛感しております。
 とにかく、日常の定期列車で精一杯、そんな現場の愚痴が悲痛な叫びに聞こえて参りまして、
 考えて見ますと国鉄時代に比べて客車以上に現場人の数が減っているのですね。
 そんな合理化、全然合理的じゃ無いでしょ・・・とふと口にすると、
 いやいや最近の若い衆は現場嫌うんだよね、辞めちゃうのよ。と・・・
 そう言えば今日団臨でさえ乗務員確保が最大の難関なのだとか、
 山手線ワンマン化なんて話もそんな一面からついつい出たそうです。
 殊に夜行列車は変則勤務の変則勤務で、若い車掌の中には明確に嫌と言うのだとか。
 現場に「誇り」が「責任」が、それを伝える人間力を持った人間が居ないのでしょうね。
 汽車屋は転がして何ぼ。
 来週はその人達を相手に喧嘩屋安房に、やはり15年振りに戻っている筈の安房でございました。
投稿者のホームページ



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月22日(木)22時29分20秒
タイトル 大阪飛ばし、京都飛ばし
>EF58 29様
 たいへんご無沙汰しています。お元気でしたか。その本、持ってません(泣)。図書館で探すかな。

>雑魚様
> 深夜通過となる京都で葛藤が無かったのか、とも感じます。
 「あさかぜ」が物議を醸した昭和31年当時、「出雲」は大阪・福知山線経由で、
 [東京−大阪間夜行]+[大阪−大社・浜田間昼行]という時間帯設定でしたから、何も問題はなかったと思われます。
 もともと大阪−山陰間の昼行列車だった「いずも」が、編成の一部を大阪から「せと」に併結して
 東京へ乗り入れていたものを、31-11改正で独立の一列車にしたものでした。
 大阪を通らず京都から山陰線に入る運転経路となったのは、昭和36年10月改正からです。
 それでも当初は下り京都着5:02、上り京都発23:45と、目くじら立てるような時間帯ではありませんでした。
 京都が深夜通過となったのは、昭和47年3月改正の特急格上げ後ではなかったでしょうか。
 余談ですが、36-10改正以前の「出雲」の昼行区間のスジは、同改正で新設された別列車「三瓶」が引き継ぎ、
 43-10改正の愛称名統合で「だいせん1−2号」、のち「だいせん1−1号」となってその後も長く続きました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 5月23日(金)09時02分27秒
タイトル 大社急行=いずも
戦前から戦時中までの有名な「ローカル急行ピカ一」大社急行401−402レが前
身でしたね。
停車駅が少なくて大阪−三田−福知山−和田山−豊岡−城崎−鳥取−上井−
米子-松江−出雲今市−大社(402レだけ401レと交換で「荒島」停車)
客車も宮原のオール円屋根、優等車はスロ34、機関車はC55流線型でした
(昭和17年8月初め)



投稿者 廣瀬 正幸
投稿日 2008年 5月23日(金)17時29分12秒
タイトル 修学旅行の引率
 また、飽きずに失礼致します。
「あさかぜ」の誕生秘話における「大阪深夜通過」の一件は、様々な文献にも記載されるなど興味があったのですが、
細かな解説や分析等大変参考になりました。
 ところで、北海道と関西、関東を結ぶブルトレに係り、
衰退に拍車がかかる(いやだなぁ)事象について、記させて頂きます。
先達の皆様はもうご理解されていると思われますが、
本道の高等学校の見学旅行(修学旅行のことですが)におけるJRの利用率は、ほとんど0%に限りない状況です。
 つまり、ほとんどの学校が、東京若しくは京都、大阪への移動に「航空機」を利用しており、
「日本海」や「エルム(団体枠での利用)」は皆無に等しい状況であります。
出発日当日に「清水寺」や「TDL」を見学でき、しかも「疲れず」に「生徒の指導の手間が省け」るとあっては、
青函トンネルの新幹線工事に係る夜行列車の減便と相まって、
「たとえ安くなっても、JRはやめるべし。(北海道弁です!)」
となっているのが現状です。(本州・北海道間の輸送比率から見れば当然ですが・・)
 14、5年前は、往路か復路どちらかにJRを利用するのが定番でした。
「エルム」や「はくつる81号」スジの団体列車で、
「ハイケンス」や「青森運転所583系特別バージョンのクラシックオルゴール」を鳴らして
生徒への案内や指導に関する車内放送をさせてもらったことが良い思い出になっています。
 宮脇俊三さんの著作ではありませんが、
「津軽海峡上空に高射砲でもぶっ放し」たい(不謹慎な発言をお許し下さい)ような心境です。
(実際にはできるわけなどありませんが・・。)
 また、投稿させていただきます。
 以上、幼ない頃に利用した「はやぶさ」の思い出に浸りつつも、
さよなら乗車の費用は自分で用意するように妻に言明されてしまい、
「オークス」「ダービー」「宝塚記念」に費用捻出の夢をかける「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月23日(金)18時26分45秒
タイトル 北海道憧憬
▼廣瀬正幸様:
> 札幌市内の某高校に勤務している「中年の客車鉄ちゃん」です。

札幌ですか。前回訪れたのが、伊達紋別駅付近の「北斗」車窓から、噴煙モクモクの
有珠山が見えた時ですから、かれこれ八年の御無沙汰です。確かその頃、南高出身の
知人が「高校生クイズ選手権」優勝や夏の甲子園出場で、盛り上がっていましたっけ。
今夏、週末絡みの所用で 久々の札幌行となりそうなので、家族を伴い「カシオペア」
初体験ツアーを画策中です。

しかし所用後一日だけ確保できそうなオフを巡り、小樽ないし富良野を希望する私と、
旭山動物公園を希望する妻子の間で、議論は平行線を辿り混迷気味。事態を憂慮した
国連安保理では、緊急部会を招集し、平和維持軍派遣を検討中とか(^^)

………これが単身行でしたら、千歳か苫小牧に投宿し、千歳線内で「青いDLが牽く
青い客車」編成を撮りたい処でした。学生時代、植苗駅から徒歩圏となる、室蘭線と
千歳線の分岐点付近で、ウトナイ湖を背景に千歳線下り列車を撮った事がありますが、
今思い出しても、実に美味しい構図でしたね。

当時の鉄道誌では、北広島〜上野幌の高架橋も格好の撮影地として紹介されましたが、
札幌の都市圏拡大に伴い、宅地化が進捗したであろう千歳以北にあって、現在定番の
構図とは、どの辺りでしょうか。

当時は「山線」でも、キハ80系「北海」や14系「ニセコ」など格好の被写体が見られ、
あの「坊主岩」付近の石狩湾岸に赴く仲間もいました。彼らの下車駅が銭函と張碓の
何れかは存じませんが、現地到達だけでやたら消耗したそうです。

その頃、札幌〜銭函の間にある駅といえば、桑園・琴似・手稲のみ。道内の国鉄では
最も早く電化された区間ながら、札幌都市圏のベッド・タウンという視点では意外に
後発気味との印象です。先に言及した仙台もそうですが、温暖化が顕在化する以前の
寒冷地の主要都市では、往々にして、郊外展開が緩慢気味だった様ですね。

小樽といえば、旨くてボリュームがあるのに値段が極めて安価と評判だった、函館線
ガード下の「一心太助」で、頭上を列車が通過する際の震動を「おかず」に海産丼を
食べるのが御約束でしたが、検索によると、廃業された様ですね。残念………

以上「北斗星」食堂車のパブタイム・メニューに、連絡船の定番「海峡ラーメン」を
復活して欲しいと、切に感じる雑魚でした(^^)



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月23日(金)19時12分51秒
タイトル 修学旅行
▼廣瀬正幸様:
> 出発日当日に「清水寺」や「TDL」を見学でき、

以前「福岡から最も近いスキー場は何処か」との問に対し、正答は「トマム」という
クイズを仄聞しました。石勝線開業の前年に千歳空港駅が整備された時点で、道内の
鉄道体系は、連絡船を介した本州との連携より、空港接続を重視した体系に移行した
印象が強いですね。

>「エルム」や「はくつる81号」スジの団体列車で

前者は十数年前まで、6〜9月のほぼ毎日、運転されていましたね。私も宇都宮以北の
東北線に撮りに赴いたものです。その後も散発的な運転があり、数年前、本掲示板で
話題になった、下り便のみ常磐線を経由する「短編成」を、同日運転の水郡線直通の
高崎12系団臨ともども、水戸近郊で撮り「ゆうづる」再来と、感慨に耽ったのでした。

なお、水戸にある私の出身高校では、北国に対する憧憬か、はたまた名門「鉄研」が
御目当てか(^^)毎年、札幌への進学事例があります。我が大学時代は、青函隧道が
未開業で、彼らの帰省は ほぼ100%、航空利用だった様子ですが、海峡線の開通後は、
一部なりとも「北斗星」利用事例(仙台で「スーパーひたち」に接続)があるか否か、
気になる処ですね。

>「ハイケンス」(中略)を鳴らして生徒への案内や指導に関する車内放送

おお、これは憧れますねぇ。あの旋律を聴くと、反射的に「皆様、お早うございます。
昨夜は良く御休みになれましたでしょうか。列車は只今、定刻にて運転しております」
………といった台詞を諳んじてしまいます(^^)このテの放送は、チャイムと台詞に
少し間を置いて、線路のジョイント音が放送を通しても聞こえる状況が「通」ですね。

以上、戦前の血気盛んな先輩方の御蔭で、出身高校の修学旅行は未だ「中止」状態の
雑魚でした(大学で一緒だった都内有名私立出身の友人は「え、高校の修学旅行って、
普通、海外じゃないの?」………ええい、白々しい………)



投稿者 雪だるま
投稿日 2008年 5月23日(金)21時02分41秒
タイトル 張碓について
雑魚さま
失礼致します。雪だるまともうします。

ご存じかと思いますが、張碓駅は数年前に廃止されました。
昭和40年代までは海水浴場として賑わっていましたが、岩場なので年々人気がなくなり晩年は夏期でも通過扱いでした。
南シナや大ミハ、大ヒメなどの本州からの貸出車で運転された海水浴臨時列車や臨時急行が懐かしく思います。
札幌周辺なら苗穂〜白石のほうが撮りやすいかもしれませんね。

家族を旭山動物園においてレンタカーで富良野に行くのはだめですか?
長々と失礼しました。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月24日(土)08時11分9秒
タイトル 張碓
▼雪だるま様:
> ご存じかと思いますが、張碓駅は数年前に廃止されました。

改めて調べると通年休止から既に十年になるのですね。一応、近隣集落と往来可能な
人道も、現在は完全に「自然に還った状態」の様ですから、正に海水浴場の為だけの
存在だったのでしょうけれど、その海水浴場自体、多発する列車事故を理由に遊泳が
禁止されたとあり、鉄道が「自ら首を絞めた」格好ですね。

> 本州からの貸出車で運転された海水浴臨時列車や臨時急行が懐かしく思います。

札幌界隈の海水浴列車といえば、50系による「らんしま号」もありましたね。律儀に
小樽で電機とDLを付け替える運用が印象的でした。私の記憶違いでなければ「青い
DL」との組み合わせも存在した様に思いますが 実態や如何に? ちなみに、当時の
蘭島駅前のコンビニは、海水浴期間中、日本一の売上を記録し続けたそうな(驚)

> 札幌周辺なら苗穂〜白石のほうが撮りやすいかもしれませんね。

検索して見ると、かなりの有名撮影地の様ですね。類似の趣向としては、新札幌での
駅撮りも挙げられます。一方、天邪鬼な私はあくまで「北海道らしい雄大な風景」に
こだわるのでした………やはり室蘭線区間でないと無理ですかねぇ………

> 家族を旭山動物園においてレンタカーで富良野に行くのはだめですか?

………そのテがあったか………本気で検討させて頂きます(^^)

以上、冬季に張碓付近を通過する度「越冬つばめ」が脳内BGMに流れる雑魚でした。



投稿者 雪だるま
投稿日 2008年 5月24日(土)16時46分58秒
タイトル 張碓
雑魚さま
お返事頂いてありがとうございます。
張碓駅廃止に際してJRバスが張碓行を設定して札幌市内との間を運転しています。

〉海水浴臨時のらんしま号ですが、通勤に使ったらんしま号は小樽方にDD51+51形+岩見沢方にED76のプッシュプルでした。
小樽でED76を解放したのでしょう。
雑魚さまご家族で北海道を満喫くださいませ。小樽もいいですよね、マニ30も保存されてますから。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月24日(土)20時45分49秒
タイトル Re:大社急行=いずも
>マロネロ38様
> 戦前から戦時中までの有名な「ローカル急行ピカ一」大社急行401−402レ
…九州で使用されていたマイシ37900を格下げしたマロシ37900が運用されたという列車でしょうか?
 格下げとはいえ、座席は1等(イ)時代の1+2列のままだったようで、確かに「ピカ一」だったでしょうね。
 昭和17年8月初めにオール丸屋根になっていたという事は、マロシ37900は外されたのですね。
 C55流線型は、大社まで牽引したのでしょうか?



投稿者 廣瀬正幸(「ED76109」)
投稿日 2008年 5月24日(土)22時38分24秒
タイトル Re.修学旅行
雑魚様
早々にお返事ありがとうございます。
さて、旭山動物園は観光シーズン中、人気の動物の前は長蛇の列であり、2時間待ちもざらです。
ご入園は午前中のお早い時間がよいようですよ。(北海道は列を作って並ぶことが苦手な方々が多いもので・・)
なお、札幌・旭川間に臨時特急「旭山動物園号」が運転されます。
座席に「動物の着ぐるみシート」や外装が「ペンギンのイラスト」などの183系特別仕様5両編成です。
週末の運転が予定されておりますので、ご家族との思い出づくりにご利用下さい。(客車ネタでなく申し訳ありません)

雪だるま様
はじめまして、廣瀬(「ED76109」)と申します。
小生、産は東京なのですが、24年前に縁あって高校の教員として「北の大地」に参りました。
親類が鹿児島県出水におりまして、幼い頃から「はやぶさ」「桜島」に親しむことが出来た結果、
学生時代は「北海道」と「山陰」を年柄年中、旧客鈍行紀行三昧しておりました。
また、色々と雪だるま様はじめ、先達の皆様の話題を楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。



投稿者 雪だるま
投稿日 2008年 5月24日(土)23時49分44秒
タイトル 修学旅行
廣瀬さま
初めまして札幌近郊の雪だるまと申します。私も並ぶのは苦手な道民です(笑)
九州方面がお好きなんでED76100番台なんですね。
私の修学旅行はキハ56の団臨〜連絡船〜20系から変ったばかりの24系ゆうづるでした。

今後もよろしくお願いします。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 5月25日(日)14時12分45秒
タイトル 大社急行
私が乗車したのは下りが和田山ー上井、上りが大社−和田山でした。食堂車は
往復利用しましたが確かに「円屋根」でした。「ロ」は洗面所が2ケ所あったの
でたぶんスロ34だったのでしょう。
機関車は和田山で乗車した時はC55流線型でしたが、帰りの大社
からは標準型だったか?確かな記憶がありません。
客車が良かったのは「大ミハソ」で大阪始発の東海道、山陽本線急行と予備車
共通だったからか?と想像します。時刻表を見ても戦後の特急「まつかぜ」よりも
少なかったのですから大した急行列車でした。
(蛇足ですが播但線の「ロハ」が木造で「ロ」がロングシートの旧型でしたから
ホロハかナロハだったのでしょう)帰途交換待ちの「長谷」駅の井戸水が冷たくて
美味しかった(カルキ無し)のを覚えています)



 
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