倶楽部メモ(424)
平成20年 5月19日〜 5月22日



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 5月19日(月)15時35分43秒
タイトル 進駐軍番号
オロ2559は多分2359(オロ3610)の見間違いか転記間違いかも知れませんね。
5と3は似ていますから-----
ただ「ヒゲ無し雷鳥」さんが見られたのが、「広窓」だったらオロ3610でしょうし、
------
手前勝手ですが戦後24年頃三ノ宮駅 で下り列車線(外側)に停車中の軍臨を見て歩いて
いたら、ポリに「近寄るな」!と叱られましたが、MPが側に居て何とか言ったので
”I like train"(中学生にはやっと出来る程度の英語)と返事したら、”OK ゴーヘー”
(Go ahead)?と笑ってポンと肩をたたかれたので、そのまま最後尾まで見る事が出来ました。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月19日(月)15時48分53秒
タイトル 20系
▼bell様:
> 本の中でしか見たことのなかった20系寝台車、嬉しくてよく眠れなかったこと

私が20系を利用したのは、86年春の「だいせん」でした。貧乏旅行の哀しさで、山陰
ワイド周遊券による「往路タダ乗り」状態でしたが、寝台車に準じたナハ21の異様に
高い天井は、独特の雰囲気がありましたね。同年夏に訪れた九州では、20系寝台車+
12系座席車で編成された「かいもん」「日南」も「常連状態」でしたが(^^)やはり
周遊券利用の哀しさで(^^)私は専ら12系の利用でした。

これらの列車における20系運用は、宝塚〜福知山〜城崎の電化が大きな話題となった、
1986年秋の改正で消滅。イベント改造編成「ホリデー・パル」を含む不定期の運用も、
1997年に消滅しています。この時期、寝台車については「三段式→二段式」といった
居住性が主な関心事でしたが、気がつけば幼い頃からの憧憬の形式が消えていた訳で、
駅撮りで良いから、せめて写真記録を残して置くべきだったと、今も、悔やまれます。

> 21時55分から寝台利用ができるようになっておりました。

現行ダイヤを重ねると「新星」入線時刻の直前に仙台を発つ「やまびこ70号」が同夜、
午前様直前に東京に到着と、隔世の感ここに極まれりですね。兄弟分の「北星」共々、
東北新幹線の開業時に廃止されましたが、従前は「プラチナ・チケット」扱いだった
羽田〜花巻の航空券が「ブリキ板」に化けた、という比喩が、当時の報道で散見され、
何とも印象的でした。



投稿者 理左衛門(バロン)
投稿日 2008年 5月19日(月)20時22分7秒
タイトル 保存車の解体
私も目下保存機探訪を重ねていますが、築館のC58122と酒田の9633が解体されてしまいました。
特に前者はC58唯一の特急牽引機だったので無念です。
また船岡でED71とともに保存されているオハフ61もかなり危ない状況です。
2年前は綺麗だったのですが・・・。
また蒸気機関車では陸羽東線・奥羽本線沿線の機関車はどれも危機的で
特に新庄のC58308は台枠に亀裂があり、復旧は難しいと思います。
その一方で先日訪ねた湘南地区の保存機は皆美しいものでした。
投稿者のホームページ



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月19日(月)21時00分26秒
タイトル 仙台増結の寝台車
 東北随一の大都市ながら、上野−青森間のほぼ中間に位置し、
いずれのターミナルからもやや中途半端な距離にある仙台というところは、
夜行列車の時刻設定において、時に無理を強いられる宿命を背負っていました。
そのため、寝台急行「新星」で行われていたような、出発時刻の遅い寝台車を早めに据え付けて
利用者の便を図る措置は、意外に古くから行われていたようです。

 時刻表復刻版昭和29年10月号を見ると、青森発常磐線経由上野行きの2本の優等列車に、
仙台増結の2等寝台車(ロネ)が21時乗車開始との注記があります。
実際の仙台発車時刻は、準急210列車が23:28、急行1202列車に至っては
なんと3:11というとんでもない時間帯でした。
 翌昭和30年8月号では、1202列車の対となる下り1201列車(仙台着1:45)にも、
切り落としのロネ車が7時まで利用可との注記があります。
この急行1201-1202列車というのは元・連合軍専用列車ですから、
こうした措置はもしかしたら連合軍の指示で始められたのかもしれませんね。

 時代は下って昭和40〜50年代、東北本線経由上野−青森間急行「八甲田」で、
仙台−青森間連結のハネ車においても、同様の措置があったと記憶しています。
当時の「八甲田」は仙台−青森間が夜行となる時間帯に運転され、同区間のみの増結車がありました。
下りの仙台発はたしか夜半頃でしたが、増結のハネ車はやはり21時台から利用可能という注記が、
時刻表の東北本線のページにおいて長らくお馴染みの記載事項でした。

 雑魚様が言われるように、その時刻に新幹線に飛び乗れば東京へ日着する時代となり、
仙台駅の良き伝統も、歴史の波間に忘れ去られようとしています。



投稿者 スイロフ
投稿日 2008年 5月19日(月)21時42分15秒
タイトル Re: 仙台増結の寝台車
昭和50年代の八甲田では仙台−青森でBネとハザを1両ずつ増結していたと思います。
当時、下り八甲田に乗っていると、仙台到着時に「寝台車と座席車を増結します」
というアナウンスが流れていたような記憶がありますが、あまり定かでありません(すみません)。
それはさておき、寝台利用の人で早くから寝ていた人は、連結の衝撃で起こされたりしなかったのでしょうかね?(^^;;)



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年 5月19日(月)22時59分9秒
タイトル 仙台と寝台車
仙台から20系新星に乗車したことがありますが
22時ころにハネ下段に潜り込み爆睡、目が覚めたら
上野に停車中で走行中の記憶はなく列車ホテル状態でした。
ところで仙台を軸とした寝台車というと上野、青森行きが一般的ですが
秋田発仙台行というのが北上線経由でありましたね。
秋田横手間は上野行おがとの併結でしたが、
仙台編成はおがと名乗ってなかったようです。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月20日(火)14時50分8秒
タイトル 仙台 ・大阪 ・韓国の事情
▼クモイ103様:
> 夜行列車の時刻設定において、時に無理を強いられる宿命を背負っていました。

仙台における御指摘の様な措置は初めて聞きました。遠距離移動で、鉄道が圧倒的な
優位にあった時代の、多様な旅客需要を反映した印象ですね。もっとも、その当時の
仙台といえば、仙山線が大都市近郊の通勤路線として殆ど機能していなかった(元々、
仙台〜山形の都市間連絡が第一義で、客車主流だった1980年代中期まで、愛子以東の
途中駅は、北仙台・陸前落合のみ)事もあり、都市圏としての展開は、現在に比べて
かなり小規模なものだった様に感じます。

同様の視点で、東京〜九州の中間たる大阪での発着事情を見ると、1942年の関門隧道
開通(工期が一年遅れれば、戦局の悪化で開通は戦後かなり後回しになった可能性を
感じます)の直後、1945年まで東京〜鹿児島に急行が設定された以外は、東京〜九州、
大阪〜九州ともに、1950年代半ばの設定となった様で、さすがに仙台基準に比べると、
かなり融通が効いた内容だった様ですね。

なお、20系化前の「あさかぜ」は、1956年の登場当時、深夜帯となる大阪を通過して、
かなりの物議を醸したと聞きます。これは、丑満時ないしは、その前後の時間帯でも、
大阪駅で一定の乗降需要があった事を示している様に感じます。

> 東北随一の大都市ながら、上野−青森間のほぼ中間に位置し、

上野〜仙台の距離は、近隣国で見るとソウル〜釜山と概ね同じですね。京釜高速線の
開業による並行在来線化で、現在の東北線と同様の状況になっているのかと思いきや、
特急格の「セマウル」や急行格の「ムグンファ/無窮花=ムクゲ」はまだまだ健在で、
後者では、夜行を含む客車運用も残っているとの事。

京釜線での昨年の夜行便の状況を見ると、一晩に数往復ほど運転されている様ですが、
釜山着が午前2〜3時台の便もあり(かつて夜間外出禁止令が出されていた当時の該当
時間帯ですね)有効利用時間帯との整合性や如何に、とも感じます。寝台車もあると
聞きますが、座席車で概ね事足りそうな雰囲気ですね。

一方、秋夕(旧盆)絡みの連休における帰省ラッシュは、首都への人口集中もあって、
日本の盆暮をも凌ぐ一点集中的な大渋滞・大混雑が慢性化しており、そうした時には、
上記列車群も「本領発揮」するのかも知れませんね。

韓国の鉄道における海外からの技術導入といえば、韓国版TGVこと、京釜高速線が
有名ですが、首都圏電鉄や釜山交通公社路線の架線柱の形態を見ると、JRの作風も
少なからずある様に感じます。



投稿者 廣瀬 正幸
投稿日 2008年 5月20日(火)15時13分44秒
タイトル ありがとうございました。
 雑魚様
 丁寧な解説を含めたご返答ありがとうございました。
 小生、札幌市内の某高校に勤務している「中年の客車鉄ちゃん」です。
 また、私の戯言に雑魚様から解説があれば幸いです。
 先達の皆様方、これからもよろしくお願いいたします。
   失礼いたします。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月20日(火)19時34分55秒
タイトル Re:仙台 ・大阪 ・韓国の事情
>雑魚様
 東京−大阪間は上野−仙台間と違って夜行急行の運転におあつらえ向きの距離ですし、
何よりも「天下の台所」たる大阪を丑三つ時に通り抜けようという度胸のある旅客列車は、
歴史上長いこと存在しませんでした。
そこに現れた稀代の歌舞伎モノ(笑)が、昭和31年11月19日ダイヤ改正で新設された特急「あさかぜ」だったわけですが、
深夜帯ながらも京都・大阪・神戸にちゃんと停車していました。
文献によっては「深夜に通る」ことを「通過」と表現した文章がありますので、勘違いし易いですね。
下り…京都1:19着/1:24発、大阪2:00着/2:01発、神戸2:29着/2:30発
上り…神戸1:58着/1:59発、大阪2:28着/2:29発、京都3:05着/3:10発
(時刻表復刻版1956年12月号より)
 物議を醸したのは、「天下の台所」が有効時間帯から外された事に対する、気位の高い反発だったと聞き及んでいます。

 実際、東京−九州間の急行列車は、京阪神地区を有効時間帯に入れるため、
「東海道昼行・山陽夜行」または「東海道夜行・山陽昼行」のいずれかのパターンをとることが必然であり、
それは昭和50年3月改正で廃止された最後の1往復「桜島・高千穂」(前者のパターン)に至るまで、
律儀に守り通された鉄則でした。
 それに対し特急「あさかぜ」は、「禁」を破って京阪神を丑三つ時に走り抜ける快挙(大阪の人にとっては暴挙(^^;)
を成しました。
またその結果、急行では3組の客車編成を要する東京−博多間において、
初めて2組運用を実現するという効率化も達成したのでした。
その後次々に登場した東京−九州間特急群はみな、目的地への到着時刻を優先させて京阪神無視の時間帯設定をとり、
それが当たり前になりましたが、先鞭を付けた「あさかぜ」の功績は、日本の鉄道史に特記されてしかるべきでしょう。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月20日(火)20時03分55秒
タイトル Re:仙台 ・大阪 ・韓国の事情(2)
> 韓国の鉄道における海外からの技術導入といえば、韓国版TGVこと、京釜高速線が有名ですが、
首都圏電鉄や釜山交通公社路線の架線柱の形態を見ると、JRの作風も少なからずある様に感じます。

 1988年のソウル五輪に際し、韓国の複々線区間を行き交う長距離列車と通勤電車が、
日本のJTB時刻表の表紙を飾りました。
あの通勤電車、前面は国鉄301系もどき、屋上にはグローブ型ベンチレーターが並び、どう見ても「日本の電車」でした。

 話が戻りますが、仙台で行われていた増結寝台車の「早寝」扱い、急行「銀河」が廃止された現在、
大阪で上り「サンライズ」に実施できたら…なんちて(爆)

 連投失礼しましたm(_ _)m



投稿者 壁線
投稿日 2008年 5月20日(火)21時04分18秒
タイトル 「あさかぜ」の不採用ダイヤ
ちょっと気になった部分があったので横レス失礼いたします。
>クモイ103様
それに対し特急「あさかぜ」は、「禁」を破って京阪神を丑三つ時に走り抜ける快挙(大阪の人にとっては暴挙(^^;)
を成しました。
またその結果、急行では3組の客車編成を要する東京−博多間において、初めて2組運用を実現するという効率化も
達成したのでした。

何かの本で「あさかぜ」のダイヤ案が決定するまでの経緯を読んだことがあります。
東京を昼下がりに出て、大阪に22〜23時台に到着、博多には7,8時台に着くという案
(具体的でなくてすみません)が出ましたが、合計3編成必要になるので不採用になったようです。
もしこの案だと途中で2回すれ違ったのでしょうか。
あるいは「安芸」のように折返し時間が足らなかったのでしょうか。
読んだ本のタイトルが思い出せず、分からないでいます。
ご教示の程よろしくお願いします。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月20日(火)23時54分0秒
タイトル Re:「あさかぜ」の不採用ダイヤ
>壁線様
> 合計3編成必要になるので不採用になった
…そうですか、そっちが主な理由だったのでしょうか。

 夜行列車のダイヤ設定における一般論として、上下の列車が午前3時にすれ違う、
つまりダイヤグラム上で3時を軸にした対称形とするのが理想と言われます。
これは、0時〜6時が「非有効時間帯」、6時〜24時が「有効時間帯」と認識されており、
上下で同じ使命を持ち対となる列車は、同じ区間を「有効時間帯」に入れることが求められるからです。

 登場当初の「あさかぜ」のダイヤは、下り東京18:30発→博多11:55着、上り博多16:35発→東京10:00着でした。
上下のすれ違いは、前書き込みで示した様に大阪−神戸間のほぼ中間地点で2:15頃と推定されますから、
まあまあセオリー通りだったと言えましょう。
 壁線様ご紹介の「不採用ダイヤ」を、仮に実際の時刻より4時間早いとすれば、
東京14:30発→大阪22:00着/22:01発→博多7:55着となります。
これに対応する上りの時刻は、逆に実際より4時間遅らせることになり、
博多20:35発→大阪6:28着/6:29発→東京14:00着と、
明らかに東京側(品川客車区)での当日折り返しは不可能ですね。
仮定の時刻を多少いじってみても、大阪を有効時間帯に入れようとする限り、
品川での整備時間が苦しくなるのは避けられません。

 特急でもこうですから、同じ事を急行でやろうとすれば、
もはや下り東京発よりも上り東京着の方が遅くなってしまい、すれ違いが発生します。
かといって東京側の折り返し間合いを確保するため思い切って東海道区間を夜行にすれば、
今度は博多側で当日折り返しが出来ません(「筑紫」がこのパターンでした)。
これが、急行だと3組運用が避けられなかった事情です。



投稿者 EF58 29
投稿日 2008年 5月21日(水)09時47分52秒
タイトル あさかぜの大阪飛ばしの出典
お久しぶりです。
 壁線さまのご質問ですが
>読んだ本のタイトルが思い出せず、分からないでいます。

 阪田貞之著「列車ダイヤの話」(中公新書 昭和39年)
と思われます。それにしても20系あさかぜの登場から50年、
現在の夜行列車の衰退ぶりを誰が予想できたでしょうか。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 5月22日(木)09時44分42秒
タイトル あさかぜ
EF5829さんの「列車ダイヤの話」がそうだと想います。
この本奇跡的にまだ本棚に残っているので出してみて「e」案採用の事を
読みました。


 
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