瀬戸大橋は、基本的に宇高連絡船を継承したものですが、徳島県出身の知人によると、
本州の畿内以東を志向する徳島県内の旅客需要において、土讃線が通る現・三好市の
界隈を除けば、瀬戸大橋は昔も今も「蚊帳の外」らしく、和歌山〜小松島が事実上の
鉄道連絡船として機能していた、との事でした。
1910年に運行開始した宇高連絡船の構想は、山陽鉄道の讃岐鉄道買収を契機とする為、
徳島県にとって、やや不便な経路に落ち着いたのは、仕方無い事なのでしょう。一方、
南海フェリーの前身が、和歌山〜小松島の航路を開設したのは戦後の事で、本州側の
連絡鉄道が国鉄線だったら、高松は「瀬戸内縦貫路線」の一中間点に留まり、四国の
玄関口として、国税局も擁する程の発展は無かったかも知れないと、反実仮想します。
さて「ウィキペディア」によると宇高連絡船では、1950年から、大阪〜松山・須崎の
準急編成を、乗客を乗せた状態で航送していたそうです。もし、車両外との出入りが
禁止されていたなら、折角の船旅にあって、無粋な事ですね。
同措置は、1955年「紫雲丸事故」で中止。修学旅行の児童が多数犠牲になった教訓が、
瀬戸大橋架設の大きな動機になった訳ですが「紫雲丸」はそれ以前に、四度の事故を
起こしており、1950年の第一回目では沈没、引き揚げの後、運用に復帰したそうです。
上記「乗客ごと列車航送」措置が同年の開始ですが、当時は安全対策以上に、戦後の
混乱期における輸送力の確保が切実な課題だった、という事でしょうか。
▼bell様:
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四国の50系客車列車探訪のアプローチ
以前にも申し上げたと記憶しますが、四国での50系と言えば、80年代の後半に高松→
高知で利用した夜行便(下りのみ)が思い出されます。元々は高知で接続する中村行
気動車編成(折り返し急行運用)が高松始発で、急行の指定席に充当される元G車を、
特別料金不要で利用できるのが大きな魅力でした。その一方、50系では空いていれば、
ロング・シートが「C寝台」「D寝台」として利用できたものです(^^)
そう言えば、人気を博した
初代「アイランド
Exp.」も、50系改造でしたね。色調を
揃えたDLも相まって、一度試して見たい内容でしたが、気がつけば、気動車仕様の
二代目に化けていました。 |