倶楽部メモ(415)
平成20年 4月13日〜 4月18日



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 4月13日(日)17時25分32秒
タイトル 宇高連絡船
瀬戸大橋は、基本的に宇高連絡船を継承したものですが、徳島県出身の知人によると、
本州の畿内以東を志向する徳島県内の旅客需要において、土讃線が通る現・三好市の
界隈を除けば、瀬戸大橋は昔も今も「蚊帳の外」らしく、和歌山〜小松島が事実上の
鉄道連絡船として機能していた、との事でした。

1910年に運行開始した宇高連絡船の構想は、山陽鉄道の讃岐鉄道買収を契機とする為、
徳島県にとって、やや不便な経路に落ち着いたのは、仕方無い事なのでしょう。一方、
南海フェリーの前身が、和歌山〜小松島の航路を開設したのは戦後の事で、本州側の
連絡鉄道が国鉄線だったら、高松は「瀬戸内縦貫路線」の一中間点に留まり、四国の
玄関口として、国税局も擁する程の発展は無かったかも知れないと、反実仮想します。

さて「ウィキペディア」によると宇高連絡船では、1950年から、大阪〜松山・須崎の
準急編成を、乗客を乗せた状態で航送していたそうです。もし、車両外との出入りが
禁止されていたなら、折角の船旅にあって、無粋な事ですね。

同措置は、1955年「紫雲丸事故」で中止。修学旅行の児童が多数犠牲になった教訓が、
瀬戸大橋架設の大きな動機になった訳ですが「紫雲丸」はそれ以前に、四度の事故を
起こしており、1950年の第一回目では沈没、引き揚げの後、運用に復帰したそうです。
上記「乗客ごと列車航送」措置が同年の開始ですが、当時は安全対策以上に、戦後の
混乱期における輸送力の確保が切実な課題だった、という事でしょうか。

▼bell様:
> 四国の50系客車列車探訪のアプローチ

以前にも申し上げたと記憶しますが、四国での50系と言えば、80年代の後半に高松→
高知で利用した夜行便(下りのみ)が思い出されます。元々は高知で接続する中村行
気動車編成(折り返し急行運用)が高松始発で、急行の指定席に充当される元G車を、
特別料金不要で利用できるのが大きな魅力でした。その一方、50系では空いていれば、
ロング・シートが「C寝台」「D寝台」として利用できたものです(^^)

そう言えば、人気を博した 初代「アイランド Exp.」も、50系改造でしたね。色調を
揃えたDLも相まって、一度試して見たい内容でしたが、気がつけば、気動車仕様の
二代目に化けていました。



投稿者 bell
投稿日 2008年 4月13日(日)21時58分0秒
タイトル Re:宇高連絡船
雑魚様 こんばんは。
50系夜行といえば221レですね。私もC寝台(ロングシート)を利用した一人です。
高松発は午前1時前、高知到着は午前5時頃と記憶していますが、いつの間にかバスに変わってしまいましたね。
JR発足直後の四国には予讃・土讃・高徳・徳島の各線で50系による客車列車が残っており、
高松に100両程度配置されていたと思います。
その中に昭和53年に50系の第一陣として仙台に配置された車両(オハ50 2028ほか)がいたことを知って
四国探訪を試みたのでした。

これらの50系は仙台運転所の中で目立つ存在でしたが、
朝はいないのに午前中いつの間にか車両基地に現れる不思議な車両という印象が強く残っています。

昭和62年2月28日の編成記録
221レ 高松0:53⇒阿波池田2:41
 DE10 1008 高
5 オハフ 50 187 四カマ
6 オハ  50 2028 四カマ
7 オハフ 50  268 四カマ



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 4月13日(日)22時03分57秒
タイトル Re:宇高連絡船
>雑魚様
 宇高連絡船の客車航送については、下総守こみやさん(^^)様のご質問から始まって、ちょこっと話題になっていますよ。
「倶楽部メモ(290)」をご参照下さい。

 さて、ちょっと長いですが、気になる文献をご紹介します。
出典:「日本国有鉄道百年史」第11巻/第6節 船舶/第10 仁方・堀江間航路
◆引用◆
 昭和7年満州事変の勃発を契機として増大した宇野・高松間の客貨輸送量に対して,
昭和12年ごろから,この航路と並行に本州と四国を結ぶ国鉄連絡船開設の要望が台頭していた。
すなわち,広鉄局において旅客輸送のほかに貨車航送があわせて計画され,
この連絡航路として候補にあがったのは,仁方・伊予北条間であった。
 その後,昭和16年わが国は太平洋戦争に突入し,宇野・高松間航路は輸送のネックとなり,
輸送会議開催のたびごとにこの打開策が取り上げられた。
したがって,宇高航路にはこの応急策として関門トンネル開通のため不要となった関門丸形船5隻の転属による
貨車航送の強化がはかられ,同時に新航路として計画された仁方・北条間,いわゆる中四航路は一時中断された形となった。
 一方,本州・四国間の貨車航送区間としては,別の新輸送ルートが議題に上り,この調査が開始された。
すなわち,徳島県小松島港と和歌山もしくは大阪北港を結ぶ航路の構想であって,
この使用船には青函連絡船の新ダイヤに速力の点で適さなくなった第一・第二青函丸が充当されることとなった。
 この計画に対しては近畿の行政協議会・徳島県輸送課等と幾度も現地調査が行なわれ,
特に徳島県側は,高知県産の木炭等が小松島港に停滞している現状から,積極的な協力を惜しまなかった。
しかし終戦直前の大空襲に伴う青函連絡船の全滅により,この計画は実現に至らなかった。(後略)
◆引用終わり◆

 その後、戦後の輸送難に直面して仁方・北条間航路の計画が再浮上します。
そして四国側のターミナルを潮流の関係で堀江港に変更の上、昭和21年5月1日、国鉄仁堀航路が誕生したのでした。
 一方、国鉄航路の計画が幻と消えた小松島港ですが、
のちにここをターミナルとして発展した南海フェリーは、南海電鉄の特急列車と接続ダイヤを組み、
難波−小松島港間を一枚の切符で連絡運輸していましたから、立派な鉄道連絡船です。歴史の妙味ですね(^^)。

 それにしても、小松島港で貨車を積み卸しする第一青函丸…ああっ、妄想が…(爆)



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2008年 4月13日(日)23時23分16秒
タイトル 瀬戸の思い出
会社の同僚が四国出身。飛行機で行けと言ったのに大橋渡りは先を越されました。
お約束のチキン弁当にシウマイをつまみで一杯(^^)相模湾の漁火を眺めつつ瀬戸は西下して行きます。
さあいよいよハイライトの瀬戸大橋。朝焼けに写る島々がなんともいえない。
瀬戸は快走してたちまち四国へ上陸しつかの間の絵画でした。
高松に到着し駅でうどんを。いや〜讃岐うどんっておいしいですね(水野晴郎口調)



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 4月14日(月)13時19分19秒
タイトル 仙台の 50系
▼bell様:
> 昭和53年に50系の第一陣として仙台に配置された車両(中略)がいたこと

1984年刊 保育社「国鉄の車両/東北線 1」に、自治体人口 66.7万人、合併前の泉市・
宮城町・秋保町を含む周辺自治体込みで 116万人の一大都市圏が形成されつつあった
当時の仙台近郊における、東北・常磐・仙山各線の通勤輸送事情への言及があります。

当該記事「仙台付近の通勤輸送」によると、新旧の電車・気動車・客車が、総動員で
発着する様子は壮観なるも、客扱い時間と定時ダイヤ確保の整合性において然るべき
仕様が講じられているのは、50系客車・417系電車くらいで、713系の早期大量投入が
望まれると結論付けられています。

当時、仙台地区の交流区間における「通勤電車」といえば、常磐線の「赤電」塗装が
施された 417系が挙げられるも、当時の時刻表を見ると、急行型の充当便を含めても、
電車便の設定自体が朝夕の一部便に限られ、快速「くりこま」を除けば、岩切以北は
全て利府支線で折り返すなど、絶対編成数はかなり少数だった様ですね。

かかる状況下、両端扉仕様ながら、セミ・クロスシート仕様で投入された50系客車の
設計思想は、正に仙台を重点対象地区の一つと見る事にあったのですね。その翌年に
東北線を利用した時は、普通電車(含「月光型」改造車)の運用域が一ノ関まで及び、
そこから盛岡まで 50系、以北は「帯無し」12系という図式で、保育社の主張が 刊行
早々に実現した形になりました。

▼クモイ103様:
>「倶楽部メモ (290)」をご参照下さい。

御教示、有難うございました。参考にさせて頂きます。



投稿者 ホエ7030
投稿日 2008年 4月17日(木)12時15分37秒
タイトル Re:仙台の50系
 ピク誌の50系特集によりますと、50系客車が登場して間もなく、
仙センにはオハ50×5、オハフ50×6が配置され、昭和53年6月から常磐線で運用開始とされています。
この11両の配置は、昭和59年度末期に50系が仙センから転出するまで変わらず、
手許の運用表を見ますと、常磐線の一往復の列車に限定運用されていたようで、
折角の新車なのに寝ている時間が多く、勿体無いような気がします。
 53.10.2改正では仙台〜原ノ町の246レ・237レ(仙21、8両編成)、
57.11.15改正では仙台〜平の238レ・225レ(仙21、9両編成)で、いずれも朝夕の列車でした。
我が常磐線の列車とは言え、初めは原ノ町以北の運用であり、後には平まで来ていても、
夜の21時半ごろ到着して早朝の4時半過ぎには下って行ってしまう列車だったため、
私は一度も見たことがありませんでした。
 磐越東線の客車列車晩年にも仙コリの50系が運用されていて、
私は60.2.11に、偶然にDD51608+50系3両の726レ、729レを撮ることが出来ましたが、
これが、真岡線以外で走行中の50系唯一の記録写真となりました。
この仙コリの50系も、59年度末期(60.3.14改正時)には仙フクに異動したようです。
 50系の形式写真は、福島、一ノ関、竜華などで撮りましたが、乗ったことは一度も無く、
私にとってはあまり縁の無い客車でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 4月17日(木)15時50分21秒
タイトル 50系の運用域
▼ホエ7030様:

常磐線や磐越東線でのこうした運用は、存じませんでした。東北地方で、普通客レが
大幅に淘汰された1993年暮れの改正当時、直前に発行されたRJ誌別冊「JR・民鉄
客車列車大追跡」によると 701系への全面置換を控えていた東北線(盛岡〜青森にも
50系運用あり)奥羽線(山形以南は広軌化。秋田〜青森の一部に12系を充当)を除く
50系運用は、以下の通りです。

○ 函館本線) 小樽〜岩見沢          (二往復)
○ 男 鹿 線) 秋田〜男鹿           (二往復)
○ 八 戸 線) 一戸・八戸〜鮫         (一往復)
○ 磐越西線) 郡山〜会津若松         (二往復)
       会津若松〜新津         (一往復)
○ 筑豊本線) 門司港・門司・若松〜直方・飯塚 (六往復)
       直方・飯塚〜原田        (四往復)
○ 日豊本線) 門司港〜中津・柳ヶ浦・宇佐   (二往復)

大都市圏での通勤輸送対策として、50系の第一陣が投入された主要線区の一つである
芸備線では、この時すでに気動車置換が進み、客レは広島〜三次の二往復のみでした。
なお、奥羽線同様に50系運用が主流だった羽越線では、このとき既に客レ運用が無く、
一足先に 701系化されたのでしたっけ?

その後、一般仕様は 2000年の筑豊線を最後に、快速「海峡」運用は 2002年を最後に、
それぞれ淘汰されました。前者については、同年、筑豊電軌へ移行した区間を除いて
全廃された西鉄北九州線に記念乗車した際、始発駅の直方から、門司港行に乗車する
機会がありました。しかし、平日朝のラッシュは凄まじく、終に黒崎駅で白旗を振り、
後続の「にちりん」に乗り換えてしまった、根性無しの雑魚でした(^^)



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 4月17日(木)20時00分50秒
タイトル ナハ10083
鉄道ファン見習時代?の昭和29年12月に吹田で写したのですが、所属は大カコで明ら
かに「官鉄型」?です。これの前身を知りたいのですがご存知の方お願いします。
17mWルーフ木造でTR11系台車水雷型ベンチレーターです。窓配置が下記の如しです。
d+2+2+1(WC)+2+2+2+2+2+d(窓が800mmみたいです)明らかに元は優等車ですが、
ナイロ??だったのか?台車は履き替えているのかも知れませんが、山陽、関西、
阪鶴系ではないみたいですし-----



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 4月17日(木)20時39分46秒
タイトル 宇高連絡船の客車航送他
松山編成がスロハ31(W)で須崎がスロハ32だったのを大阪駅で見ています。
広島行準急に3+3の併結でした。なぜか優等車は後年でも土讃線の方が良かった
ですね。松山編成のハニが、スハ二32か31か?は記憶にありません。
徳島県が和歌山との航路希望は戦前の阿波国共同汽船の航路が、小松島―和歌の浦
―神戸(兵庫)-大阪だった事が証明しています。建造中に関西汽船に買収された
「おとわ丸」など、大阪、徳島、和歌山の頭文字を使用していました。修学旅行船
「ふたば丸」に改造されて一生を終わりましたが---「おとわ丸」時代に乗船した
らハウス部分出入り口の敷居が高くて矢張り紀淡海峡の荒波対策がしてありました。
「南海丸」もこれを見習っていたら沈没全員死亡の悲劇にならなかったのでは?
と想います。



投稿者 Yokoyama
投稿日 2008年 4月17日(木)22時16分26秒
タイトル ナハ10083の疑問
>マロネロ38さま
まずナハ10083のルーツは大正8年日車製22300形ホロハ22316だと思います。
昭和3年の大改正で11600形ナロハ11615へ改番され、戦時下において定員増
を伴う格下げ改造を受けて10000形ナハ10083になっているようです。改造は
釧路工場で施工され、定員は座席72名、立席20名の計92名となったようです。

しかしここからが疑問です。この車はその後昭和27年旭川工場において鋼体
化改造を受けオハ62 48となったとされています。マロネロさまが撮影された
のは昭和29年末の吹田であり、これはいったい???
投稿者のホームページ



投稿者 bell
投稿日 2008年 4月17日(木)23時13分39秒
タイトル Re.50系の運用域
雑魚様 こんばんは。
仙台への50系客車投入背景に関するご投稿興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。
話題変わりますが、筑豊本線の50系について平成12年3月にお別れ乗車を果たしました。
廃止直前にはトイレ対策として12系が一部連結されたようですが、私が乗車した時点では50系だけの編成でした。
雑魚様が体験されたように、朝の直方発門司港行は北九州への通勤列車ということで、
客車列車には似合わない桁外れの混雑でした。
午後は若松発飯塚行に乗車しましたが、のんびりとした汽車旅の雰囲気を味わうことができました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 4月18日(金)08時19分48秒
タイトル ナハ10063でした。
YOKOHAMA様
すみません拡大鏡で見たら10063でした。吹田操車場で写したには間違いありません。
昭和29年でした。
加古川区所属は間違いありません大カコです。当時加古川線は雑型客車の展覧会で
「雑型見るなら加古川線」と言われていた時代でした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 4月18日(金)10時23分43秒
タイトル ナハ10063-(2)
Yokohama様-(2)
ナイロフ20500型の車掌室を客室改造して窓を増設したら、「窓配置」が一致するの
ですが、こんな改造が行われていたでしょうか?但しベンチレーターが水雷型では
10063の方が古そうですし------
当時の加古川線はナハニ15813、ナハフ14070(播丹鉄道ナハフ500)、オハユニ716
等々旧客ファンにはたまらない?珍車の宝庫でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 4月18日(金)12時48分46秒
タイトル 九州での 50系の思い出
▼bell様:
> 午後は若松発飯塚行に乗車しましたが、のんびりとした汽車旅の雰囲気

件の「根性無し事件」の十数年前、筑豊線で50系をまったりと味わった事があります。
当時は専ら「乗り鉄」で、未乗各線を乗り潰すべく「あかつき」ハザ明けで九州入り。
折尾は通過だった為、黒崎下車で一駅「ホーム・ライナー」で繋ぎ(何という贅沢!!)
やって来た気動車で、まず若松へ。

これがそのまま折り返すかと思いきや、若松では50系が待機しており、確か原田まで
直通した様に思います。ガラガラの車中で日の出を迎え、遠くにボタ山らしきを望む
晩秋の朝の風景は良い雰囲気でしたが、原田駅に集結していた廃回待ちの旧型客車の
一団は、より強烈な印象でした。なおこの日は、投宿地に辿り着くまでに、20回近い
乗換えを経て、全く未踏の地だった筑豊地方のJR線を全て消化したのでした。

その前年にも九州を訪れていますが、この時は、友人とB寝台個室「カルテット」を
堪能した「みずほ」を鳥栖で降り、大分に向う久大線で50系を利用。当時の久大線は
確か鳥栖始発が主流で、日田または豊後森(詳細失念)で乗り継いだ大分行も、50系。

しかし当時、同好の仲間内では、自動扉で横掛席もある50系は「電車客車」と呼ばれ、
今ひとつ不人気で、私自身、時間が合えば、急行「由布」での移動を考えた程でした。
大分到着後は、街を見るでもなく、すぐに豊肥線急行「火の山」に繋ぎ、熊本に移動。
当時の四国の急行と同様、G格下げ車を期待しての指定席利用でしたが、キハにG車
座席を転用した代物で、窓割りと座席の間隔がずれ、せっかくの車窓風景も今ひとつ。

当時の「火の山」は、急行または普通扱いで三角まで直通、島原外港へのフェリーに
接続する事で、別府〜大分〜阿蘇〜熊本〜雲仙〜長崎と、国道57号線よろしく、一大
東西軸の一部を形成し、観光地間の連絡に大きく資していました。しかし、三角島原
フェリーは、業績悪化から一昨年に廃止。先日の島原鉄道の部分廃止と併せ、往時を
知る者としては、寂しい限りです。

ちなみに、この日に利用した熊本市内のビジネス・ホテルは、補修の為か仮設建物に
案内されましたが、仕様が劣る事に対するバーターか、客室内の「殿方向け放送」が
無料でしたっけ(^^)



 
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