倶楽部メモ(371)
平成19年 6月24日〜 7月19日



投稿者 吉江将哲  
投稿日 2007年 6月24日(日)11時42分24秒
タイトル 常磐線の50年以上前の思い出
今日は、Nゲージ初心者ですが、子供の頃から常磐線のすぐ近くで育ちました。
当時の遊びといったらあけてもくれても、魚釣りかザリガニ釣りでした。
土浦の新川には、霞ヶ浦に流れ込む小さな川があり、ガーター型の鉄橋がありました。
今にして思えば、危険も感じずにこちら側からあちら側えと夢中で行き来しながら、遊んでいたのですが、
ある日よその子が事故に遭いました。お母さんが死骸に取りすがって泣いていました。
それから何時の間にか、その場所えは釣りに行かなくなりました。今でもそのときのお母さんの声が耳に残っています。
私の母は三十数年前に亡くなり父親もそのすぐ後に他界しましたが、その事はいえませんでした。
叱られるのが恐かったのでは無いのですが。
あの頃は線路は剥き出しであったのですね。今は、殆んどが柵で仕切られていて線路内には入れないのが普通ですが。
時代の流れを感じると同時に、あの頃こうだったらと、今でも心が痛みます。
せめて鉄道模型では、事故を起こさないような環境のレイアウトをと考えて、柵だらけになっていますがね。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 6月30日(土)13時52分50秒
タイトル 安全対策
子供の頃、親類宅の近所にあった、常磐炭鉱専用線の踏切(警報機非設置)で遊んで、
親に厳しく叱られた事を思い出しました。その当時は、常磐線本線上にも踏切が多く、
現在に比べ、事故の危険性はかなり高かった様ですね。

水戸市内に通学していた頃は、学校脇を通過する水郡線の列車が、毎朝、信号待ちで
停車する度、車掌室から「下車」し通学時間を十数分「短縮」したり、常磐線に合流
直前の水郡線の踏切(貨物線が並行する「複線区間」でした)から、警手の目を盗み、
水戸駅ホームに「直行」するといった危険行為も時々見られ、いくら悪戯好きが多い
猛者揃いだったとは云え、これは幾ら何でも………という感じでした。

これが、茨城交通水浜線が健在だった当時は、更に危険行為が横行していた様ですが、
当時の生徒が重大な事故を招来した、という話は、幸いにも今の処、聞いていません。

> 事故を起こさないような環境のレイアウトをと考えて、柵だらけになっています

定番の撮影地にて、安全対策用の策が設置される事例が、最近増えており、私の様な
撮影派にすれば少々残念な話ですが、そうでもしなければ埒が開かないと思える様な
危険行為も間々見られ、致し方無い処ですね。



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 6月30日(土)14時47分38秒
タイトル 元鉄道小僧日記(みちのく番外編2)
>安全対策
雑魚様しばしのご無沙汰でございます。
今を思い出してみると私が高校に入学した昭和58年の奥羽本線の各駅停車といえば青・茶混在の47系客車が主役でしたが
徐々に50系に切り替えが始まった頃かと。
その理由とは本当か存じませんが、
聞くところによると無賃乗車の高校生達が無人駅のホームから飛び乗り行為が後を絶たなかったらしく・・・
幸いにして死亡などの重大事故も発生しないで、怪我をしたら悪いことをしている高校生の責任である
というのが当然みたいで、ある意味国鉄らしいといえばその一語に尽きるかと。
50系に切り替わってからは自動ドアになり車掌達も内心「ざまあみろ」と思っていたのではないかと勘繰りたくなります。
昭和59年になり両親が湯沢に転勤して自分は一人暮らしを始めると月に一度は湯沢に帰るのですが、
神町駅あたりの引込み線だったと思います。
大量の47系客車がまるで「兵共が夢の跡」状態でひっそりと停まっているのをつばさが疾走して行くのを記憶しております。
また踏み切りも遮断機の有無などで第一種・第二種などがありますが、
諸外国において踏み切りの手前で一時停止というのは日本を含めて少ないみたいです。
これは車がマニュアル車で停止するとかえって危ないという解釈から来るのだそうです。
時代柄、高架橋に架け替えたりビューポイントが少なくなってきているのは写真を撮らない愛好家にとっても
悲しい現実であったりしますね。




投稿者 雑魚
投稿日 2007年 6月30日(土)16時57分17秒
タイトル 長大橋梁
> 無賃乗車の高校生達が無人駅のホームから飛び乗り行為が後を絶たなかった

かかる不心得者への対策も一部あったかも知れませんが、常磐線でも発生したと聞く
走行中の転落事故が、最も大きな理由ではないかと思われます。また、通学に旧客を
利用していた当時、駅に停車する度に「見切り下車」を牽制する車内放送が繰り返し
流された事を思い出しますが、より高度な安全対策が求められる程、旧客では責任が
持てない、という事なのでしょうね。

> 大量の47系客車がまるで「兵共が夢の跡」状態でひっそりと停まっている

こうした「旧客の墓場」は、学生時代、全国各地で見掛けましたが、特に鹿児島線の
原田駅は印象に残っていますね。地元・水戸駅も、一時期結構な「溜り場」でしたが、
今や再開発事業の影響で、側線自体、かなり淘汰されています。

> これは車がマニュアル車で停止するとかえって危ないという解釈から来る

一昔前は一般的だった「踏切内でのギア・チェンジは絶対に止めよう」という標語も
今となっては懐かしい代物ですね。私は今でも日常的にMT仕様のトラック(しかも
ハンドル・ギア仕様)を転がしており、踏切を通過する度、相応に気を配っています。

> 高架橋に架け替えたりビューポイントが少なくなってきている

今時の高架橋は、列車の足回りが殆ど見えないので、撮る側としても少々興覚めです。
その意味では、あれだけ長大なのに足回りがクリアーな鹿島線の北浦橋梁は、貴重な
存在と言えそうです。

水郡線沿線から、12系あらため14系で「成田臨」が仕立てられていた頃、利用団体の
幹部が「たまには気分さ変えで大洗鹿島線さ通っぺよ」などと、JRに提言した事が
あるそうです。ホームの有効長や信号管制等の制約を考えれば、到底無理な話ですが、
もし実現していたら、日豊線の小丸川や大淀川の橋梁における「富士」「彗星」等を
上回る「良景」となっていた事と思われます(^^)




投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 7月 4日(水)10時37分55秒
タイトル 元鉄道小僧日記(みちのく番外編3)
長大橋梁>と言えば自分の場合真っ先に思い浮かぶのは五能線の米代川鉄橋です。橋間は300m強程度でしょうか?
でも足回りは見えるのですが、半分ぐらい鉄格子(?)がかかっているので
「北浦橋梁」のように全くクリアというわけではありません。
ここは河口から2km上流で川巾も300mあり、いかにも河口付近の大河にみえますが、
日本海に注ぐ本当の河口は向能代側の砂浜が押し寄せる地形で巾が50mぐらいしかなく、
いささか物足りない印象もあります。

12系あらため14系>現在、12・14系座席車両はほとんど団体臨時用となっているようですが、
自分の場合はリクライニングシートが無くても12系車両の方が窓が開いたり、ボックスシートの分、
旅情を誘うような気がして好きです。
今となっては夜行ではさすがにキツいですが、学生時代は愛用していたものです。
どこでも寝られる自信はあったのですが、ディーゼル発電機の真上・真横(?)の座席だった時は
さすがにエンジン音がうるさくて寝られなかった思い出もあります。
今では赤羽駅脇の本社勤務で、定時後飲んで遅くなった時など、
4番線の一番上野側で酔いを覚ましながらあけぼのを見たり北陸を見たりしています。
24系が集中電源方式でも電源車はディーゼルエンジン音を轟かせながら通過しているの見ながら
「翌朝は秋田や青森を走っているんだろうな」と他の通勤客が考えないような想像をしています。




投稿者 雑魚
投稿日 2007年 7月 4日(水)18時22分40秒
タイトル 鉄橋憧憬
> 長大橋梁と言えば自分の場合真っ先に思い浮かぶのは五能線の米代川鉄橋です。

米代川といえば、秋田杉に代表される木材集散の象徴的存在ですね。私は現役時代を
知りませんが、当時は奥羽線の至る駅から森林鉄道が分岐していた様ですね。手元の
保育社「カラーブックス/軽便鉄道」では、秋田中央交通廃止後の1970年に撮られた
五城目界隈で稼動する杉沢森林鉄道の写真が収録されており、このテの軌道と言えば、
千葉県の「成田ゆめ牧場」まきば線が精々という私にとっては、憧憬著しい代物です。

あの辺で河口近くの長大橋梁というと、趣は多少異なりますが、男鹿線天王〜船越も
連想しますね。米の増産を目的とした一大干拓の結果、八郎潟は南側の調整池を残し
粗方、消失しましたが、その後の減反政策における葛藤を考えた時、湖が手付かずで
残っていたら、奥羽線撮影の足場確保を含め、一大観光名所になっていたのかな、と
虚しい反実仮想に浸るのでした。

こうした橋梁で私が先ず連想するのは、北近畿タンゴ鉄道の由良川橋梁です。ここは、
並行する道路橋も無く(最も近い八雲橋は上流側に約5Km 離れています)実に壮大な
雰囲気です。私がここを通過したのは、京都発 西舞鶴経由 城崎行の「あさしお」で
移動中の事でした。この様に、旧宮津線を移動中、後続の福知山経由「あさしお」に
先を譲るという、何とも大らかな陣容でしたね。

この時は、山陰ワイド周遊券を使っての貧乏旅行で、20系時代の夜行「だいせん」も
利用しました。あの妙に天井が高い独特の雰囲気は、神話の国にこれから赴くという
高揚感を演出するには十分でしたね。

掲出画像は「成田ゆめ牧場」まきば線です。これも立派な「客レ」ですが、雨天時の
運行の是非については、判断が難しそうですね(^^)




投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 7月10日(火)23時21分34秒
タイトル 長大鉄橋
武蔵野線の荒川橋梁もなかなかです。
雄大なトラス橋もよいのですがそうでないのも魅力であります(^^)でも走るのは通勤電車ばっか。
しかもほとんどの乗客たちは日本屈指の長さであることは知らないでしょう(^^;A
いつの日か客車列車で渡ってみたいものです。そうしたらカメラマンが集中するだろうな(^^)



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 7月11日(水)05時14分29秒
タイトル DE+客車
管理人様、皆様、ご無沙汰しております、安房守義将でございます。
 雑魚様、DE+12系、琴線に触れる画です!はぁ〜ドキドキ感を感じるものですね・・・
 これが在来型一般車なら尚、興奮もするのでしょうけれど、沿線は更に危険になるのでしょうねぇ・・
 弊連盟でも以前は定期的に在来型列車に乗ってボランティア警備の講習をやったりとしたものですが、
もう「需要」も無いもので絶えて久しいです。
 水戸は首都圏からも近く、水郡線は見所一杯で(特に常陸大子から北)
折角なら夏休みに水戸〜郡山間一山ダイヤでレトロ列車なんかあれば動態変化が作られるのにと思ってみたりしますが、
最近は足許が危ういので口も手も出ません(笑)
 蒸気機関車は確かに魅力的ですが、在来型一般車の持つ「力」にもそろそろ各社注目して頂いても宜しい時期では・・・
と思いつつ、まとまった数があるのは北海道・東日本くらいなのですね。
 客車列車自体が稀少価値、とにかく無事故!無事故を願うばかりの非力な安房守でございました。
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 7月11日(水)18時06分11秒
タイトル 水郡線事情
> 武蔵野線の荒川橋梁もなかなかです。

荒川の橋梁と言えば、武蔵野線ほど高規格化されていない川越線のそれも、ある意味
なかなかの迫力ですね。指扇が始発・終着となる区間便の車両基地回送も、同鉄橋に
集約される事を初めて知った時は、かなり意外に感じました。

このテの橋梁で最たるものは、やはり高千穂鉄道の雲海橋でしょうか。橋の袂にある
天岩戸駅では、橋梁関連の観光客の利用が多少はあったか と思えば、廃止(休止?)
直前の一日当たりの乗降客数は、僅か数人だったそうです。あれまぁ………

> DE+12系、琴線に触れる画です! はぁ〜ドキドキ感を感じるものですね

福島県の矢祭町民を対象とした団体列車との事ですが、高崎から客車を動員してでも
輸送力の大きな列車を仕立てる意義は大きいのでしょうね。急行料金相当を払っても
良いので、常磐線区間だけでも一両「一般開放」してくれませんかね(^^)

> 水戸は首都圏からも近く、水郡線は見所一杯で(特に常陸大子から北)

車窓風景という点では野上原〜東館でしょうね。関東でも有数の山紫水明の地である
奥久慈を縦走しているので、被写体次第では撮影地に事欠きません。私自身は、山村
育ちの反動か開けた構図を好む為、水郡線では、静〜常陸大宮を特に好感しています。

1983年のCTC化直前ですと、水郡「本線」の一往復半(夕方の下り二本を、翌朝の
上りで一括回送する要領)に加え、常陸太田支線でも朝方一往復の客レがありました。
どうせなら、これも再現して欲しいのですが、肝心の常陸太田駅が、一面一線構造に
簡便化された為、叶うべくもないですね。今、思い出すに、旅客ホームは現在と同じ
片側一面仕様ながら、貨物側線や引上線で比較的広大だった構内には、独特の風格が
感じられたものです。

この常陸太田駅、いわゆる「平成の大合併」以前から長らく、水郡線の途中区間では
唯一の市の代表駅だった面目躍如から、水戸・安積永盛・郡山を除く水郡線の駅では、
一日当りの乗降客数が 1,300名余と最多です。先月八日に書き込んだ拙稿「宗谷線&
稚泊航路」で言及した稚内駅では 180名程度ですから、実に七倍強ですね。

上記野上原にしても、駅自体は一面一線構造ながら、両隣駅の乗降実績や、県立高校
ないし住宅地の近接性から推すに、稚内を上回る可能性があり、名寄以北の区間では
突出した人口集積地での、かかる状況を考えると、それでなくとも少子高齢化傾向の
この御時世、旅情溢れる最果て路線の趨勢やいかに、と、余計な心配をするのでした。

> 夏休みに水戸〜郡山間一山ダイヤでレトロ列車なんかあれば

11月恒例「レトロ奥久慈」については、地形の制約もあり、復路便が終始「日陰」に
なってしまうのがもどかしい処です。運行時期を初秋にずらすか、郡山発着とするか、
何らかの「撮影対策」が欲しいのですけどね(^^)

> 客車列車自体が稀少価値、とにかく無事故!無事故を願うばかり

高崎の12系の八面六臂振りを見ても、もし、これが事故で廃車という事態に陥ったら
………想像するだけで恐ろしいですね。そもそも現在、波動運用に対応が可能な旧客
および原色の12・14系は、どの程度の編成数が残っているのでしょうね。




投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 7月14日(土)02時40分55秒
タイトル 台風の影響で鹿浜線は運休です
雑魚様
 溜息の漏れる画ですね!!!
 特にスハフ32がカマ直後、あの車掌室に「隠した」宝物は未だあるのかしら?
 構図的に未だ連なって見えるのが良いですね、ポゥ、とDEの笛も聞こえてきます。
 現在、現用として使える在来型一般車は北旅鉄5、東旅鉄5、西旅鉄1で12系は掌握しているのは6。
 つまり今後SL列車を定型新設しても本当に客車が無いのですね・・・
 海旅鉄が隠している3つと、西旅鉄宮原の2つは何処へ行くのか行ったのか、客車はとにかく屋根と台枠が課題になります。
 いやいや、文句や苦言を付けるつもりは無いのですが、
外装の美しさと現用復元に耐え得るかと言うお話は別のものでして、
台枠と車体枠が歪んだり腐っていてはどうにもならないのですね。
 今回の小倉の英断の様に、台枠(&バネ+シリンダ付近も)新製なんてウルトラQをやれれば何でもありなのですが、
実はJRの場合「復元=新造」と言っても過言では無く・・・ケーシング(外装)は消耗品なのだそうであります。
 本線走行を考えなければ幾らでも復元は出来ますが、要は本線で使えるものを・・・と言う事なので、
台枠と骨はしっかりとしたものが不可欠なのです。
 15年前の資料では復元可能なものが全国に22機材(JR所管以外)あったのですが、今日は2・3両しか無く、
第一その客車と呼称される処の車がございません。
 その昔「SLは治せても客車は難しいぞ、永くやるなら客車を真剣に考えろ」と国鉄の大先輩に言われましたが、
その通りでした。
 ハイブリッドディーゼルカーも結構ですが、そろそろ「日常だった文化財」を後世に遺産として残す事を考える時代
になったのかも知れません。

 私信ですが、下総守様、台風の影響でレールフェステは運休です、一応お知らせを・・・
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 7月14日(土)16時36分49秒
タイトル そろそろ 烏山の季節です
> ポゥ、とDEの笛も聞こえてきます。

実際には「パシャパシャパシャ………」の方が著しかったですけどね(^^)

> つまり今後SL列車を定型新設しても本当に客車が無いのですね…

いよいよ車両が無くなったら、ワムやトラで混合列車を演出しますか(^^)これなら、
運賃収入は減りますが「撮り鉄」モチベーションは圧倒的ですぞ(^^)

12系について調べたところ、原色編成で残っているのは、高崎と京都に一編成ずつと、
いつの間にか希少価値も甚だしいのですね。それが、我が家から一時間圏内の水郡線・
烏山線で 年に 2〜3回の運用、そして「奥久慈レトロ」も定番化している訳ですから、
何とも有難い話で、間違っても、高崎方面に足を向けては寝られません(^^)

その「烏山山上げ祭り」運転も、いよいよ今月末ですね。昨年の経験から、軽車両で
フット・ワークの聞いた足場確保を念じておりますが、一方、肝心の祭りに関しては、
何かと注目される参院選が重なった事から、那須烏山市役所の祭り関係部署の職員は、
物凄い事になってしまった様です。

今年は、昨年の様な遅延が無い事を祈りつつ(^^)画像は「十八番」の小塙〜滝です。




投稿者 赤まんと
投稿日 2007年 7月16日(月)16時13分36秒
タイトル 初めまして
みなさまこんにちは。初めて投稿させていただきます。
尾久の地で育って30数年。
自宅前の通りを渡れば即、上野発着の列車を眺められる、客車ファン垂涎の環境に住む赤まんとと申します。
残念ながら写真はほとんど撮らず、近所の回送線の踏切や上野、東京に出かけ、
ただひたすら客車編成記録をとり続け11年半近く。3250本にもなりました。
学生時代の友人の影響で、客車以外にも国鉄黄金期の車両はほとんど好きです。
ほか、Nゲージも買っており、車番マニアなので、わざわざ客車を何両も買い込み、自身で記録した編成や、配置表、
「客車気動車編成記録」などを参考に、1両1両車番を変えて楽しむのが趣味です。
最近の鉄道誌の客車特集にかなりの物足りなさを感じていたため、このようなサイトに出会えたのは心強さを覚えます。
若輩者ですが今後ともよろしくお願いいたします。



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 7月18日(水)19時00分23秒
タイトル 元鉄道小僧日記(みちのく番外編4)
【中越沖地震】ちょくちょくのご無沙汰です。
世間では台風も過ぎた三連休最終日に新潟県を中心とする大地震が発生しました。
ニュースでご覧の方も多いと思われますが、
鉄道ファンとしましては目も覆いたくなるような惨劇の映像が次々と画面に映り、
ただ呆然と現実を目の当たりにするしかない無力さを痛感しています。
レールがいたるところで曲がりまくり、駅では気動車が横転し、
青海川駅では土砂崩れにより青い海が泥色に染まってしまい復旧の目処もたたないような状況です。
3年前の上越新幹線の脱線や、ダウンバーストが原因と思われるいなほの脱線など、
自然の驚異にさらされながら、それでも復旧していくJR保線区要員の頑張りに頭が下がる想いです。
一日も早い街の復興を祈りながらコンビニエンスストアで募金することしかできない元鉄道小僧でした。



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 7月19日(木)18時41分49秒
タイトル 500番台なら○、5000番台なら×
皆様、地震の影響はございませんでしたか?
 雑魚様、DD51機牽引・・・と言うだけで何か特別です(笑)
 DEも嫌いではないのですが、やはり迫力が違います。
無論各々風景があって、各々情景があって、甲乙付けるものではありませんが、やはり魅力的です。
 さて、図面を見ていて思ったのですが、上札間寝特用オシ、台車含めて殆どサシのままなのですね・・・
引通などもそのままぶら下げて、実は寸法が24純正品より少し短いので、車販準備室が単に物置になっていますが、
それはそれ、と考えれば「24系改造座席車+半室喫茶」なども決して悪く無い・・・
いやいや「窓の開閉」が出来ないとあれば、SLに乗った風情が・・・等々勝手に考えてしまいます。
 某簡易規格線でのプランで「牽引定数10.0」(100t)の制限から「客車2つに貨車1つ」と弾きましたら、
「200名は乗せないと採算が・・・」と言われて弱った事がありました。
 全部オ車にしても10.5となり牽引定数を超えてしまいます、「ナ車があれば・・・」と真剣に思いましたが、
実際には「ス車2つですよ、回せるの・・・」と内々に回答があり、
12・14の部材を極力取り払って「ナ車化」を練った事があります。
 そんな時、当時余りに余っていたオニ50をラウンジ+座席車化と考えた者が居り、取り敢えず模型に・・・
なんて独白しましたらハメ取り窓なので「一大工事」となる事が判明、断念しました(苦笑)
 9mmのお話ですが、某新宿区のメーカーさんの「500番台なら○、5000番台なら×」
お分かりになられる方は相当のゲージャーさんです(笑)
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