倶楽部メモ(369)
平成19年 6月 2日〜 6月 9日



投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 6月 2日(土)12時33分42秒
タイトル 38.1豪雪・他
>クモイ103 様

 先日ご紹介したバラバラな所属区の客車による編成の出現要因に関するご推測、「なるほど」と思いました。
荷物列車や季節臨などでは良くあることですが、定期の急行であのように著しい例は本当に珍しいと思い、
興味を持っていました。
38.1豪雪の後の38.2.12に尾久客車区を訪れた際には、豪雪の救援列車に使用された客車群が留置されていて、
その中にスハ3325(函ハコ)とオハ6247(函ハコ)を発見して外観と室内を撮影しましたが、
スハ3325の中央部の窓には「豪雪救援作業列車」の張り紙がありました。
 「編成記録の紹介を」とのことですが、調査されたY.S.様の了解をいただいておりませんし、
調査時点の2カ月前のS37.10.1現在の所属と異なっているものが数両含まれており、
この2カ月間の移動の調査も行なっておりませんので、詳細の紹介はご容赦ください。
 同氏が調査された気動車列車の中にも所属がバラバラのものが多数あり、
最高にすごいと思われるものは、S39.3.19の403D「第1蔵王」で、
10両編成の所属は、鹿カコ×2、分オイ、米ヨナ、大ミハ、名ナコ、千チハ、新ニイ、仙コリ、秋カタと
9カ所にも及ぶものです。
 手許にあるS53.10.2改定の水戸局の気動車運用表を見ますと、水戸から4711D「いわき1号」でスタートして
翌日水戸に戻る「気5組」気A41〜気A42仕業(キハ58×2)では、
間合運用で、翌朝の越後線の通勤・通学列車125D(吉田→新潟)の10両編成の1,2両目に組み込まれていますので、
旅先で思いもよらない列車に出会うこともあるかと思いますが、上記「第1蔵王」の例は想像を絶するものですね。



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 2日(土)20時45分43秒
タイトル 気動車の寄せ集め
>ホエ7030様

 サンパチ豪雪での国鉄の苦闘は、市販のビデオで見ることが出来ますが、それは壮絶なものだったようですね。
私は物心つかぬ幼児でしたので、ニュースなども全く記憶にありませんが…(^^;
 編成記録非公開の件、了解いたしました。

 403D「第1蔵王」は、これまたものすごいですね。
理由としては、雪害などによる運用の混乱以外に、2つの可能性が考えられると思います。
(1)S39.3.19といいますと、453系電車の増備で上野−仙台間急行が全面電車化された
39−3ダイヤ改正の前日でした。
翌3月20日の改正では、気動車急行「蔵王」の系統にも増発などの変化があったようです。
改正前に各地から転入して、標記が書き換えられていない車両があったかもしれません。
(2)またこの壮絶な寄せ集めぶりは、当時の気動車特有の事情が絡んでいた可能性もあります。
ここをご覧の若い方々はご存知無いかもしれませんが、この頃の気動車は“産めよ増やせよ”の大増備、
ダイヤ改正に合わせて一度に作っていたのでは間に合わず、年間休み無く作り続けて、
出来た分からどんどん臨時列車などに投入していきました。
その典型例が毎年夏に海水浴臨時列車を大増発していた房総地区で、
秋のダイヤ改正用として全国に新製配置される気動車を「お先に拝借」し、
形式も所属もバラバラのなりふり構わぬ凸凹編成で殺到する海水浴客をさばいていました。
くだんの39−3改正で、急行形気動車に一番動きのあったのが、
この「蔵王」をはじめとする上野発着の東北・奥羽・磐越西線系統でしたから、
一時的な車両不足で他の地区の新製投入車を借用した可能性も考えられますね。



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 2日(土)23時37分55秒
タイトル 「越路」の教訓
 国鉄史上空前絶後の106時間21分という大遅延を記録した、昭和38年1月23日新潟発上野行き704レ急行「越路」。
この列車を発車させたことの問題点について、鉄道ピクトリアル第304号(1975-3)で瀬古龍雄氏が次のように指摘しています。

−引用−
 たしかに23日午後は新潟では無風であったが,新津ではすでに10m以上の南東風が吹き,風雪でかなり荒れた状態であった.
新津は気象的にかなり問題のある所で,阿賀野川を吹き抜ける南東の局地風(いわゆるダシの風)の実によく吹く所である.
新津で15〜20m程度のダシの風が吹いても,新潟三条では無風ということは珍しくない.
しかも,冬場にこのダシの風の吹くときは,その後北西の季節風をともなった吹雪の前兆になることが多い.
 新津の風雪ではとても越路を受けとれる状態ではなかったので,新津駅では一旦断ったものの、このくらいの風で
(新潟ではダシのことはわからない),何だ頑張れということで無理に新潟を発車させたことが悲劇の始まりともいわれている.
−引用終わり−

 瀬古氏は「越路」の発車を批判する立場で論じているので、この時の新津と新潟のやりとりが
実際にはどのようなニュアンスだったのかは、一歩引いて読み解く必要があるでしょう。
しかし、輸送を守る現場同士でぎりぎりの判断のせめぎ合いがあったことは容易に察せられます。

 実は瀬古氏はこのあと、青函連絡船洞爺丸の沈没事故を引き合いに出し、その教訓が生かされていなかったと論じています。
洞爺丸の場合も、一旦弱まった台風15号が勢力を盛り返してすぐそこに迫っていることを知らず、
「無理に」出航したために起きた悲劇…という点では一見似ています。
しかし、瀬古氏が触れていない大きな違いは、洞爺丸の場合は「危険の情報」を現場が知る術が無かったことです。
それは当時の気象観測技術の限界でした。洞爺丸の出航は、その時現場が得ていた情報から適切に判断した結果であり、
悲劇はその情報自体が不完全だったことにありました。

 「越路の発車」の場合、「洞爺丸の出航」と違って、危険の情報はしっかり新津駅から新潟駅に伝えられていたようです。
であるならば、情報を受けてからの「判断」に問題があると見るのが自然でしょう。
そこに「運休は最大の恥辱」という意識が働いていたとすれば、そこを反省点としてその後雪害対策を見直した国鉄の対応は、
まことに理にかなった大きな改善であるように思います。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 6月 5日(火)18時20分21秒
タイトル 鉄道連絡船
> 洞爺丸の出航は、その時現場が得ていた情報から適切に判断した結果であり、
> 悲劇はその情報自体が不完全だったことにありました。

記録を改めると、洞爺丸の遭難場所は出発地の函館港から目と鼻の先だったのですね。
出航してから事故発生まで数時間、函館市街の灯火が目視圏にありながら、成す術を
持たなかった乗員・乗客の心境たるや、察するに余りあります。客貨車を満載しつつ、
最後は、概ね裏返しの状態で沈没したそうですが、映画「タイタニック」の印象をも
上回る惨状だったのかも知れませんね。函館港との位置関係に鑑み、七重浜に何とか
辿り着いた後に力尽きた犠牲者も少なくなかった様で、思わず、襟を正す様な話です。

この時、青函連絡船の僚船四隻もまた転覆・沈没し、事の次第では連絡船の運航体制
それ自体の存続が危ぶまれたらしく、関係者の事後処理そして運行再開に至るまでの
御苦労もまた、推して知るべしですね。

1950年代でこの状況ですから、流氷が発生するなど、津軽海峡より更に寒冷な海域で、
戦時体制という極限の要因も介在した稚泊航路に至っては、どの様な様相だったのか、
想像すら出来ません。学生時代「氷雪の門」と聞くと、札幌にある蟹料理店の事しか
連想しなかった自身の無知振りと併せて、これまた襟を正すのでした。



投稿者 103列車機関士
投稿日 2007年 6月 5日(火)23時08分37秒
タイトル ありがとうございます
ホエ7030様
有難う御座います!
編成記録は私、大好きで御座います!興味深い編成記録のお話しありがとうございます。
「越路」のお話も大変興味深いですね!
「越路」といえばEF57を連想してしまいますね・・・・
あの列車ももそのうち再現したいと思います!



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 6月 5日(火)23時48分4秒
タイトル 続。鉄道連絡船
青函連絡船乗りました。程なく船内放送。
津軽海峡は風速25メートルですが本船の航行に支障ありません(^^;
でもすごい揺れで子供は立っていられないくらい。
函館に昼過ぎ無事到着し力無く同行した友達へご飯食べると聞いたらいらない。
私も気を使って聞いたのですがやっぱり(^^;
ちなみに帰りの船はグリーンにしました(^^)/
橋ができて宇高ではトラックの運転手さんがお昼寝。
後日門司から下関までは漁船みたいなので疾走(^^)鉄道連絡船が無くなっても船は健在であります。
トンネルができた後の青函航路には乗っていません。あの時の苦しみを考えると(^^;A|わせだ|



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 6日(水)22時19分46秒
タイトル 「洞爺丸」の慰霊碑(1)
> 記録を改めると、洞爺丸の遭難場所は出発地の函館港から目と鼻の先だったのですね。

 以前に管理人様より、客車のHPではあるけれど鉄道連絡船の話題もOKとお許しを戴いておりますが
(倶楽部メモ-228/平成16年 3月 4日(木)の書き込み)、私自身が連絡船の話になると熱くなってしまいますので、
ちょっとセーブしながらいきますね(^^;。+

 洞爺丸事故の詳しい経過は、数多くの出版物で様々な立場からの記述が世に出ていますので、
今さら私が御託を並べるまでもないでしょう。
 七重浜に建立された慰霊碑は、洞爺丸とともに沈んだ僚船4隻の沈没地点をも遠く望み、佇んでいます。
場所は江差線七重浜駅から約1km、海沿いに走る幹線道路に面しているのですぐわかります。
写真はちょっと古いですが1992年8月の撮影、函館港口を隔てた対岸には函館山がそびえています。




投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 6日(水)22時22分3秒
タイトル 「洞爺丸」の慰霊碑(2)
 なお、犠牲者に対する慰霊碑の他に、沈没した船に対する「殉難船碑」も存在することは、
あまり知られていないのではないでしょうか。
こちらは函館山ロープウェイの山麓駅から登山道を徒歩数分登った右側にあります。
ここには元々、青函連絡船も壊滅的な被害を受けた第二次大戦中の殉職船員に対する慰霊碑がありましたが、
そこに洞爺丸台風における殉職者が合祀されるとともに、
その傍らに、洞爺丸・第十一青函丸・北見丸の3隻を偲ぶ碑が建てられています。
石碑の表面に、北見丸の船底の鉄板がひとかけら貼り込まれていて、関係者の「船」への思いが伝わってきます。
 なお、沈没した残りの2隻、十勝丸と日高丸は、のちに引き揚げられて修理・改良の上再就航しています。

> 稚泊航路に至っては、どの様な様相だったのか、

 稚泊航路に関する詳しい話は、専門書でないとなかなかお目にかかれないかもしれません。
もしご興味がおありで、図書館通いが苦にならなければ、そのものずばり「稚泊連絡船史」のご一読をお勧めします。
厳冬の宗谷海峡における氷雪との闘いはもちろんのこと、
ソ連軍が突如侵攻してきた終戦前後の極限状態でもなお、輸送を完遂せんとした関係者の国鉄魂には圧倒されます。




投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 6日(水)23時05分15秒
タイトル 「越路」の模型化
連投失礼しますm(_ _)m

>103列車機関士様
> 「越路」といえばEF57を連想してしまいますね・・・・
> あの列車ももそのうち再現したいと思います!

 高崎・上越線系統は、昭和31年の東海道線全線電化でEF58が召し上げられ、EF53・EF57の天下となっていましたが、
36年頃に一部のゴハチが戻ってきたようです。そのうち41号機と52号機はなんと青大将塗色でした(^^)。
 当時の「越路」の編成、実は私も興味ありありです。
なぜって、上りは食堂車がついていたから!(下りは「佐渡」に連結)
 昭和37年6月から約1年間だけ存在した、オハシ30つき上越客車急行だったのです。
そんなのが私の幼少時、実家の近くを毎日走り抜けていたかと思うと、
やっぱり模型で再現するのが漢ってもんじゃないですか(違)。
今のところ詳しい編成記録にお目にかかっていないので、まだ当分先になると思いますが…



投稿者 バンブー
投稿日 2007年 6月 7日(木)17時19分28秒
タイトル 「越路」の編成
>クモイ103様
急行「越路」704列車の編成についてですが、Googleで「越路 編成 オハシ30」で検索すると出てきますが
キングスホビー様のホームページ http://www1.odn.ne.jp/kingshobby/ で
「製品紹介」→「客車の製品29」と進むと、オハシ30組み込み当時の
701列車 急行「佐渡」
704列車 急行「越路」
の編成表が掲載されています。
さすがに車番までは記載されていませんが、オハシ30を連結した編成、確かに魅力的ですね。



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 7日(木)21時41分53秒
タイトル Re:「越路」の編成
>バンブー様
 ご親切にありがとうございます。
 キングスホビーの客車キット、私はホームグラウンド(笑)の某津田沼Y店の製品と並んで愛用しております。
キングスの客車シリーズは、HPにもキットの説明書にも詳しい実車解説が載っていて、読むだけでも面白いですね。

> さすがに車番までは記載されていませんが、
…まあこれはあくまで「所定編成」ですからね。
イレギュラーが日常茶飯事だった一般型客車列車のこと、実際の「編成記録」とは区別して考えるのがよいかと思います。
 で、べつに所定編成でも構わないのですが、
ここまで話を振ったからには、やっぱり1月23日の特定ナンバーでいきたいぢゃありませんか(爆)。
44年前のこの日、この列車に乗車し大変な目に遭われた方々には申し訳ありませんけど、どこかの本に載ってないかな…?



投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 6月 8日(金)11時06分50秒
タイトル 「越路」の客車
>クモイ103 様
 「今は無き魅力的な客車列車を、模型の世界で再現したい」と言うお気持ち、私も全く同じ思いを抱いている一人ですが、
今のところ、なかなか時間がとれないため、キット(1/80)の山を築いてしまっている状態です。
 話題の上越線701・704レは、我が常磐線の昼行急行「みちのく」を少しコンパクトにしたような編成で、
しかもオハシ30が入っていると言う模型化には持ってこいの列車ですね。
 S38.1.23の704レの編成記録は分かりませんが、先日ご紹介したY.S.氏の調査による701レの記録では、
所属区はバラバラなものの、スロは60と51、ハは10と46(702・703レにはオハ36も使用)、
ハフは45となっていますので、これらの形式で纏められれば良いのではないかと思われます。
 ご承知かも知れませんが、当時の「新ニイ」所属の関係形式の番号を記して見ます。
(資料は「国鉄客車配置表・昭和37年10月1日現在」−鉄道友の会東京支部客貨車気動車グループ発行
--但し、新潟支社については昭和37年11月30日現在)

スロ51--39,51,52,56,57
スロ60--28,29,30
ナハ10--43,44,45,90
オハ36--80,81,82,83,84,85,102,103,104,105,106
オハ46--526,527,528,532,533,534,535,536
オハフ45--1,2,6,7,8
オハシ30--2002,2003
オハニ36--16,17,18,19



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 6月 8日(金)17時38分12秒
タイトル 宗谷線 & 稚泊航路
> 図書館通いが苦にならなければ、

最寄の図書館まで、車で20分はかかるので(^^)小史的な資料はないかと、ネットで
探したところ「天翔艦隊」なるサイトの「文書資料室」に、当該航路に関する記述が
ありました。文章量としてはボリュームもあり、これを一読しただけでも、運行上の
様々な御苦労が偲ばれますね。

稚泊航路は、1922年に宗谷線が浜頓別経由で稚内(現・南稚内)に到達した事を受け、
その翌年に開設されました。もっとも、稚内港(現・稚内)延伸は1928年、更に稚内
桟橋(稚内ドーム)延伸は1938年ですから、鉄道連絡船と云いつつ、乗換には相応の
手間隙を要したのですね。

一方、1905年のポーツマス条約で北緯50度線以南が日本の主権下に置かれた樺太では、
その翌年、軍政下の物資輸送を第一義とした鉄道が、大泊〜豊原にて開通しています。
しかし 1910年の改軌までは、急拵えの軽便規格ゆえ、表定速度は自転車以下で(^^)
客車は、厳寒期でも無蓋車のテント張りと、かなり脆弱な状況だった様ですね。なお、
稚泊航路の開設以前の樺太往来には、函館〜小樽〜大泊の定期航路が供されたとの事。

後発の音威子府経由が本線となったのは、20km以上もの短絡性と急勾配が少ない事に
拠るそうですが、開通が1926年と、浜頓別経由とは僅か四年しか違わず、宗谷地方の
鉄道敷設が、稚内到達を第一義としたなら、そもそも、宗谷線が当初は浜頓別経由で
計画・敷設された必然性は何だったのか、とも感じます。

それでも、1989年の天北線廃止まで急行「天北」一往復が残ったのは、偏に浜頓別の
要衝性ゆえでしょうか。20年ほど前、札幌から稚内まで急行「天北」を乗り通した際、
音威子府を出て暫く、人家が極端に少ない山の中を暫く走った後(編成の相当部分が
ホームからはみ出した小頓別駅は御愛嬌でした)オホーツク海沿岸の平坦地が広がり、
浜頓別の街が見えた時は、本当に安堵しました(^^)

しかしその後、猿払村から稚内市にかけての丘陵区間では、夕暮れも相まって一段と
寂しく、開放寝台車を含む堂々の14系編成にあって、乗客が私を含め、十数名程度の
車中にあって、既にヤル気が失せたと思しき車販嬢が、ボックス型に改めた客席にて
居眠りこく中「ここはどこ?私は誰?」と うろたえたくなる様な雰囲気でした(^^)

その「天北」や「宗谷」が共通運用を組んだ夜行便「利尻」が、夏季臨時便になって
一年以上経ちました。現在、稚内に発着する定期列車は、特急三往復に普通五往復と、
何とも寂しい陣容です。利用者も一日 200名以下で、同様に稚内市街に位置する隣の
南稚内駅を合わせても 300名程度。

旭川都市圏から外れる名寄より北側の、沿線自治体の人口を見ると、中川郡(美深町・
音威子府村・中川町)8千人、幌延町 3千人、豊富町 5千人、そして稚内市 41千人と
名寄〜稚内の距離が 180km余である事を考えると、また色々と勘ぐってしまいますね。

宗谷線沿線では 名寄まで 5往復、幌延・豊富まで 4往復、稚内まで(含夜行)6往復、
それぞれ札幌直通の長距離バスが設定されています。また旭川〜名寄は12往復に及び、
豊富発着便が経由する留萌では、増毛経由の札幌直通便も 2往復あります。厳寒期の
定時性や信頼性において、鉄道とバスがどの様に比較・評価されるかは存じませんが、
かかる地域におけるローカル鉄道の存在意義とは何か、考えれば考えるほど難しい処。
ちなみに、札幌〜稚内の夜行バスは、冬季の所要時間を30分余計に見込んでいますね。



投稿者 103列車機関士  
投稿日 2007年 6月 9日(土)22時19分55秒
タイトル こしじとふぶき。。
クモイ103殿、
「越路」を「青大将」が・・・・目がギンギンです。
あ、悪魔のささやき・・私も上越線沿線の育ちで「高二」が絡むと
つい・・
それにしても食堂車ってなんてゴロがいいんでしょうね
「お箸」とか「押し、寿司」とか「梨」、「菓子」なんて・・
でも、見「まはし」て見ても「スハシ」だけは「マシ」な
ゴロが見つかりません(お粗末)
ホエ7030様、
配置表、参考になりました!
「漢」である以上「越路」やってみたいと思います!



 
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