倶楽部メモ(368)
平成19年 5月29日〜 6月 2日



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月29日(火)13時16分9秒
タイトル 茂木駅 レポート 01
東北線で「北斗星」などを狙うより、実はずっと身近な真岡鉄道。その身近さゆえに
却って御無沙汰気味なのですが(^^)先週末、久々に茂木でじっくり観察する機会が
ありました。改めて拝見すると、なかなか風情の豊かな代物でしたので、その様子を
シリーズで紹介させて頂きます。

まず最初の画像は「SLもおか」下り便の到着直後の様子。乗客がそのまま、SLの
転線などを見届けるギャラリーと化しています。少々キツいコール・タール臭が漂い、
独特の雰囲気ですね。

ところでこの真岡線、1912年に下館〜真岡が開業した当時は、起終点の駅名を合成し、
なんと「真館線/しんかんせん」と呼ばれていたそうです(^^)




投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月29日(火)14時44分59秒
タイトル 茂木駅 レポート 02
一見、茂木駅に到着寸前との印象を受けますが、実は、到着後の列車を、推進運転で
下館側に少し戻し、側線に転線する処です。元々は、茂木到着後、直ちに切り離した
機関車のみ車止側から転線させていましたが、現行ダイヤでは、約20分後に到着する
普通便の為に、丸ごとホームを明け渡す必要があり、さりとて車止め側の引上線では、
機回しが精々なので、この様な措置となっています。

ホームを延長すれば、一般便との「同居」も可能ではないか、とも感じますけどねぇ。




投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月29日(火)16時03分42秒
タイトル 茂木駅 レポート 03
茂木駅の車止です。以前はこの先、線路こそ敷かれませんでしたが、水戸を目指した
予定線の築堤が、茂木町河井地区まで続き、国道294号線旧道を跨ぐ陸橋や 隧道など
ありました。御覧の様に、車止側の引上線は距離が短い為「SLもおか」編成全体の
転線には使えませんが、それなら、線路を少し延長して、車止付近を横切る道路には、
SL運転日のみ警手を配置する第四種踏切を設置………など 妄想は膨らみます(^^)

近所の烏山駅でも、構内外れの引上線に警報機つき踏切(現在は線路縮小で廃止)が
ありました。内燃車両が戦前から導入された烏山線にあっては、警報機の普及時期を
考えると、駅舎北側の貨物ホームに出入りがある時のみ稼動していたと思われますが、
同駅の貨物営業は1979年に廃止されており、稼動期間も長くはなかったのでしょうね。

この僅かに残った引上線を介し、臨時快速「烏山 山あげ祭り」を牽引した DD51の
転線(昨年7月24日投稿分の添付画像を 御参照下さい)が行われてから、一年近くが
経つのですね。定期便を運休し、そのスジ(中間の大金で交換を行うパターン制)を
充てた為、烏山では、駅舎側ホームに12系客車を停めたまま、入替作業を行いました。




投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月29日(火)16時59分25秒
タイトル 茂木駅 レポート 04
側線に入った蒸機は、転車台の手前で客車を切り離し「乙女の祈り」の旋律に乗せて、
華麗に舞います(^^)初期の着メロ風の無機質な音ではなく、多重的な構成とするか、
無機質音の侭なら、以前申し上げた様に「ハイケンスのセレナーデ」などを用いるか、
一捻り欲しいですね。意表を突いて「どっこい大作」の主題曲でも結構ですが(^^)

この後、迂闊にも他所で用を足している間に機回しを見逃してしまいました。続編の
上り便発車前後の様子は、後日改めて………。




投稿者 キハ58
投稿日 2007年 5月30日(水)17時10分11秒
タイトル (無題)
今年中には、あの豪華寝台特急「トワイライトエクスプレス」に乗ることが決まりました。
きっとB個室ツインだと思います。



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 5月31日(木)10時14分8秒
タイトル トワイライト紀行
リニューアル前ですが乗りました。
B個室の切符が取れたのでさあどうしよう。羽田に着いて札幌行きキャンセル待ち。
あちこちカウンターを巡るも北海道に行けない(^^;
やっと飛行機に乗れたのですが札幌まで行くとトワイライトに乗れない時間。
で南千歳で待機。ほどなく待っていると入線。東京から来た女の子集団は列車を見てきゃあきゃあ(^^)
確かに東京ではお目にかかれないですね。そのまま一路大阪まで行きました。
大阪に着いてさあどうしよう。京阪で京都まで行ってみよう。
確か始発は淀屋橋だから地下鉄の路線図みてえーとえーと(^^;
今度は京都で二条だの三条だのどこで降りればいいんだか悩みました(^^;
結局三条で降りてみたら京都駅行きのバスを発見。八つ橋をお供に新幹線の人になりました。
翌日会社にお土産だよと言ったら京都行ってきたんだ〜の答え。とても本当のことは言えませんでしたf(^^;



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月31日(木)13時06分59秒
タイトル 大阪経由
> とても本当のことは言えませんでした f(^^;

大学時代に友人と徒党を組み赴いた北海道旅行で、一人だけ「白鳥」完乗したさに、
まず「ドリーム号」にて大阪を目指した友人がいましたが(運転時間帯を考えると、
帰途、上り便に乗った方が、車窓風景が色々楽しめそうですけどね)こみやさんの
体験は、ある意味、それを上回る内容ですね(^^)

なお、当時の道内では函館〜網走の「おおとり」や、函館〜釧路の「おおぞら」と
長距離特急も見られ(後者は札幌〜千歳空港を重複運転)それらを全区間乗るのも、
旅の大きな「課題」でした。1961〜81年には函館〜稚内で急行「宗谷」も運転され、
先輩が乗り潰した様な事を言ってましたなぁ。

「トワイライト〜」が運転を始めた頃には茨城に戻っていた為、この列車を実際に
見たのは一度だけ。十数年前、こん平師匠の地元「チャーザー村」近所の信越線で
下り便の通過を見送りました(夕刻の為、撮影不可)



投稿者 やまざき
投稿日 2007年 5月31日(木)22時09分5秒
タイトル マシ35
皆様おひさしぶりです山崎です。オロ42の件では大変お世話になりました。
元々「電車屋」なものでついつい車体材質は気になってしまいます。
そこでまた質問なのですが、「国鉄初全鋼製客車」との触れ込みのマシ35、カシ36の屋根は鋼製なのでしょうか?
妻面を見ると、屋根布押さえか雨樋らしきものがどっしりとついていて、屋根の色も黒っぽいです。
同時期の35系客車の鋼製屋根の車は屋根布が無く、妻面には押さえはありません。
電車は、国鉄では桜木町事故以来、鋼製屋根でも屋根布を貼って、
戦前の張り上げ屋根の車も無粋な普通屋根に改造してしまってそれが1980年頃の新製車まで続きました。
電車は絶縁対策の意味があるでしょうが、マシ35には?オハ46や10系にも屋根布はなさそうです。
「国鉄初全鋼製客車」は屋根まで鋼製なのでしょうか?ご教示頂ければ幸いです。



投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 2007年 6月 1日(金)02時16分0秒
タイトル マシ35の屋根
やまざき様
先日のオロ42の話題の際に全鋼製の客車はあったのか?と書いてしまいましたが、
確かにマシ35は全鋼製だったようですね。
マシ35の特徴のひとつにウインドヘッダーが無い点があげられますが、窓上にある段差がミソ?でして、
張り上げ屋根とは逆に、屋根板が窓上まで一体的に取り付けられていたそうです。
という事は当然屋根は鋼製であったということになると思います。
客車の場合は鋼製屋根の上に屋根布を貼ったという事は無いと思うのですが、
詳しい方がいらっしゃいましたらフォローいただけると助かります。



投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 6月 1日(金)18時52分9秒
タイトル 東海道848レ・他
>103列車機関士 様

 北海道ファンの私は、通学の際に北海道からのアルバイト車を見つけては乗ったものですが、
何と、東海道線には、113系や153系全盛時代のS40年代前半まで
熱海→東京(下りは品川→熱海)の848レという東シナ受持ちの客車列車が残っていて、
冬季になると、オロ1両以外の殆どが北海道の客車で編成されていたことがありました。
 この列車は、13:10過ぎ頃に東京に到着し、その後一旦神田方に引上げられるのですが、
私は、S40.2.3に神田でスハ3324・25(函ハコ)、スハ5053・54(旭アサ)、
オハフ607(札イワ)、オロ3510(東シナ)を撮りました。
この848レに関して客車趣味界の先輩方が調査された資料を見ますと、
S40.10.21の編成は、スハ32・43、オハ46・60、スハフ32・42等で、
所属は東シナ、大ミハ、門タケ、千ナタで、S41.2の編成ではスロ432016のみが東シナで、
他は札サウ、旭アサ、釧クシ、東イイ、新ニイ、新ナカ、水ミトの
スハ32、スハ50、オハ62、スハフ32、オハフ53で編成されています。
同資料によるS42.1〜2頃の編成では、並ロが特ロのスロ51やスロフ53になり、北海道車は入って無いようですが、
スハ32、スハ33、オハ35等に混じってオロ40がハ代用で2両も入ったり、格下げのオハ51等が入っています。
 他に、バラバラな所属の客車で編成された例を同資料から拾ってみると、
S37.12.2にY.S.様が調査された701レ「佐渡」は、
大ムコ、天リウ、天シク、名ナコ、新ニイ、新ナオ、東オクで編成、
702レ「弥彦」は、大ムコ、名ナコ、新ナオ、東シナ、東オク、東コフで編成されています。
定期の急行がなんでこんなことになっているのか実に不思議です。
このような実例があるのですから、模型の世界なら夢は際限なく膨らみますね。
 戦災復旧車の編成例についても、同会の資料に何点か掲載されていますが、
一般的には編成中にバラバラに組み込まれているようですが、
名ナゴのオハ70の例では、8両編成中両端がスハフ32で中間の6両がすべてオハ70と言うものがありますし、
山陽線の14両編成の普通列車で、東京方3両が大ヒメのオハ71と言うのもありました。
S20年代中頃までのことですから、編成中には木造車も見られます。



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 1日(金)23時01分45秒
タイトル 上越急行とサンパチ豪雪
 ホエ7030様、興味深い編成記録のお話しありがとうございます。
 701レ「佐渡」と702レ「弥彦」についてですが、
これはもしかしたら、雪害によるイレギュラーだったのではないでしょうか?
 S37.12.2といいますと、有名な「サンパチ豪雪」の直前ですね。
それでなくとも、かつての冬の新潟地方は今よりもずっと雪が多く、
交通の途絶など日常生活への影響が大きかったと聞きます。
列車の遅延や運休で客車運用に支障が出て、急遽各区の予備車をかき集めて編成を仕立てる…といった場面も想像されます。
当時の上越急行の客車は、本来全て新ニイの受け持ちでしたが、
ご紹介の受け持ち区を見ますと、そのような状況だった可能性も感じます。
 その編成記録をご紹介戴くことはできませんか?


 さて余談ですが、雪害と言えば外せない「サンパチ豪雪」のお話を少々…
 Y.S.様による編成調査から1ヶ月余り後の昭和38年1月中旬、
新潟地方を中心とした日本海側一帯を、史上まれな豪雪が襲いました。
全国の国鉄組織からかき集められた応援部隊に、自衛隊も加勢しての総力を挙げた除雪作業もむなしく、
一時は北陸から新潟一帯の国鉄各線は麻痺状態に。
ダイヤが正常に戻るまで実に1ヶ月余りの間、白魔との壮絶な闘いが繰り広げられました。
 この中で象徴的な出来事が、急行「越路」の苦闘でした。
1月23日17時過ぎ、約1時間遅れで新潟を発車した704レ「越路」は、発車直後から難行苦行に見舞われました。
本来は当日の22時過ぎに着くはずの上野駅に、満身創痍の「越路」が姿を現したのは、
なんと車中5泊を経た28日朝のことでした。
その2年後に発行された鉄道ファン1965年2月号には、1ヶ月以上にわたる白魔との闘いを取材した記者の手記とともに、
駅員総出の出迎えを受け、上野駅16番線(当時)に到着する、雪だるま状態のEF5836号機の写真が掲載されています。
 この頃は、運休を最大の恥辱とする明治以来の意識が国鉄の現場に根付いていましたが、この「越路」の一件を教訓として、
ダイヤ混乱時には早めに運休や途中打ち切りを決断する今の考え方に転換してきたということです。

 余談の方が長くなってしまいましたm(_ _)m。



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 6月 1日(金)23時49分57秒
タイトル 越路のお話
小学生の頃毎月科学と学習を読んでいました。その中に豪雪と戦ったお話が載っていました。
今でも内容は覚えています(鉄分が多い子供だな)各急行は長岡で運転中止。
越路も越後滝谷まで進むも引き返してくる。長岡の宿は超満員なので各駅停車のお客様がアブレてしまう。どうしよう。
そんな時自衛隊の隊長さんが国鉄に官舎を使ってくださいと申し出。
国鉄は大丈夫ですかと尋ねると隊長さんは我々は訓練を受けているので屋外でも平気です。そして皆無事に上野へ。
感謝の手紙が数えくれないくらいあったそうです。
でも自然災害はしかたないですね。有珠山が噴火して室蘭本線不通。北斗星は函館本線回りに。
得意先との雑談の中でまたどこか行くの?函館本線回りの北斗星に乗ってきます(^^)好きだねえの返事。
後日お土産を持って行ったのは言うまでも無い(^^;



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 6月 2日(土)08時15分57秒
タイトル 「学習」 と 「科学」
> 運休を最大の恥辱とする明治以来の意識

1960年代前半とあれば、地方の広域輸送における国鉄幹線の地位は圧倒的かと思われ、
特に上越線の場合は、群馬・新潟県境前後の並行道路が脆弱(現在でも国道17号線は、
魚野川から清津川にスライドする格好で、苗場を迂回していますね)気味でしたから、
特に積雪期の運行維持は、重要な命題だったのではないかと想像します。

> その中に豪雪と戦ったお話が載っていました。

もしや「白い悪魔を蹴散らせ!」と題した劇画調の漫画ではないでしょうか。国鉄を
引退した老人が、雪を見ながら「三八豪雪」時の混乱を回想するという場面で始まり、
クライマックスでは、凍結したポイントで、トーチを炊いていましたね。

これが掲載されたのは、学研「学習」付録冊子の掲載かと記憶しますが、東海道線は
丹那隧道の開削工事を巡る苦闘振りも小説形式で紹介されており、大規模落盤事故で
奥の工事区画に閉じ込められたチームが、工事用の藁を食べるなどして、救出までの
数日間を過ごしたなど、子供には結構「重い」内容だった様に思います。

一方の「科学」では、かの石ノ森章太郎が自ら執筆した「サイボーグ 009」モドキの
漫画「未来救助隊・アスガード 7」が印象的でした(^^)チーム・リーダーの「島村
ジョー」ならぬ「ケン・マナブ」は「学研」のモジリ………判り易いですなぁ(^^)



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 6月 2日(土)09時33分28秒
タイトル 訃報
割込御無礼をお許し下さい。
 昭和54年に放送された「鉄道公安官」(東映東京・朝日放送)の主役だった俳優・石立鉄男さんが昨日急逝されました。
 丁度進学期で、国鉄マンに憧れていた頃でもあり・・・
エンディングのサーカス「ホームタウン急行」の流れる中の多様な風景が、とても好きでした。
 殊にデコボコ貨物列車の後ろを颯爽と行く東海道新幹線0系に、みかん農家の方が笑顔のシーンは
汽車が日常的で暖かい時代を表していてグッド!
 ドラマも人情味があって・・・国鉄人は人情家たれの小生の頑固はここから始まったのかも知れません。
 後々このドラマの流れになる「さすらい刑事」に関わりますが、やはり「鉄道公安官」のイメージは強くございました。

 御冥福をお祈り致します。
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