倶楽部メモ(365)
平成19年 5月17日〜 5月19日



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月17日(木)13時53分46秒
タイトル 北斗星
連投気味で失礼します。

> 当時、東武伊勢崎線は赤い車両の急行りょうもう号で全席座席指定でした。

同じ東武でも、伊勢崎線系統の急行は有料ロマンスカー、東上線系統は無料通勤型と、
唯でさえ、ぱわつよさんの仰る小田急の急行よろしく、大学が決まり上京した当時は、
大手私鉄の優等列車体系が判り難かった手前、大いに悩みました(^^)

この「りょうもう」元々は朝夕の一部例外を除き北千住〜館林が無停車で、文字通り、
東京〜両毛地区の都市間輸送に特化した印象でしたね。春日部など、東京近郊区間の
主要駅から両毛方面を志向する傾向も、少なくなかったと思われます。通勤型ながら、
太田まで快速運転を行う「準急A」の設定は、その辺りも考慮していたのでしょうね。

2003年から「りょうもう」の東武動物公園停車が始まり、引換えに、上記準急は廃止。
中・長距離の旅客を有料列車に誘導する差別化の一環かと感じますが、それにしても、
日光線特急よろしく春日部ではなく、なぜ東武動物公園なのか、未だ良く判りません。

「りょうもう」の主要運転区間が浅草〜赤城である事から、太田以南も桐生線の管轄
区分とした方が、良い様にも思えますね(その論法に従うなら、東武動物公園以南は
日光線扱いになりそうですね)平日に朝夕一往復のみと、東武随一の幹線名となった
割には「りょうもう」の恩恵が小さい伊勢崎ですが、この辺から東京を志向する場合、
新幹線本庄早稲田駅で「パーク&ライド」が増えている様です。

関越道や上信越道で遠方から来た方も、首都圏の渋滞を避けて同様の傾向が多いとか。
両毛地区は元々、自家用車の普及率が特に大きい様子ですので、思わず納得しますね。

> いつのまにか14系座席車両を使用して「つがるも立派になったものだ」と思って

これまた、当掲示板で言及がありましたが「津軽」が14系化され間も無い頃でしたか、
臨時「あけぼの」でも、14系が使われた事があり、今にして思えば、14系ハザ本来の
設計思想に則った、数少ない特急運用だった様に思います。

> 北斗星・トワイライトみたいに中間に食堂車を配して凸凹する編成

在来線時代の「とき」に用いられた 181系のボンネット型クハに交直流化改造を施し、
鹿児島線の「有明」などに充てた編成では、オリジナル 485系との車高の差異により、
窓周りなどライン並びがズレて、些か見苦しくなった例もありましたね(^^)

画像は、昨日添付した画像と同一地点から先週末に撮影した「北斗星」です。やはり、
客車の統一的な編成美、といった意味では、緑の風景に赤い機関車、青い客車という
かかる組み合わせに、最も安定した雰囲気を感じます。時々「カシオペア」機による
牽引もありますが、あの白いEF81は 相方が E-26系だからこそ絵になる存在ですね。




投稿者 にんにくたあ
投稿日 2007年 5月17日(木)19時22分44秒
タイトル 特ハスハフ43健在
みなさま、こんにちは。
大井川鉄道の元特ハスハフ43がこのGWに運用が復活し
久しぶりに元気な姿を見せていました。
写真は家山でのC10牽引のSL急行です。

投稿者のホームページ



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 5月17日(木)19時51分49秒
タイトル オロ42
>やまざき様
 はじめまして。千葉市在住のクモイ103と申します。
 国鉄民営化後にお生まれになった方が、国鉄時代の客車に興味を持たれるとは、
いいかげんくたびれた客車ファン(^^;として、たいへん心強く思います。
オロ42に注目なさるとは、さすがお目が高いですね(笑)。
実は私も、元は103系を中心とした電車ファンですが、今はこっちの世界(笑)から抜け出られなくなっています。

 さて、オロ42の車体構造と内装のことはよくわかりませんが、
車体外部の塗色については、格下げ後を含めて最後までぶどう色でした。
窓枠も、現在残された写真から察するに、アルミサッシ化などはされなかった模様です。

 ちょうど少し前にNゲージでキットを作ったところなので、話題となった記念に(?)拙作を貼らせていただきます。
昭和35年6月改正から翌年10月改正までの間、
オロ42は不定期急行「桜島」の1等自由席車として使用されていました(指定席車はスロ54)。
東京−鹿児島間を走破するこの列車には4組の客車編成が必要で、
全部で5両というオロ42の両数が、予備車1両も確保できて丁度良かったのでしょう。
この編成を目指しているのですが、2等車オハ46がまだ出来ていません…。




投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 2007年 5月17日(木)23時36分36秒
タイトル 半鋼製、全鋼製、全金属製
やまざき様、はじめまして。
オロ42についてのご質問ですが、オロ42は有名な?ジュラルミン車体のオロ40 98〜102を
準軽量構造の鋼体に載せ替えた車両ですよね。
車体外部の塗色等につきましては、すでにクモイ103様からコメントがありましたので車体構造につきまして…
といっても現車は見た事もありませんので文献及び時代考証からですが。
そもそも客車に関しては電車のように半鋼製、全鋼製、全金属製といった概念はなく
(使い分けをしていないという事ですが)
最初の鋼製客車であるオハ31系列のような半鋼製の車両も区別せずに鋼製客車といわれています。
このうち全金属製というのは電車で言えば70系・80系電車の300番台が有名ですが、
これらの車両を設計されたのが軽量客車の生みの親として御高名な星晃氏であり、
星晃氏がヨーロッパ視察から戻られ、軽量構造で設計された車両以降が全金属製といえると考えられるので、
客車で言えば10系軽量客車以降であると思います。
オロ42は星晃氏がヨーロッパ視察の最中に車体更新された車両であり、
全金属製とはいえないのではないかと思います。
半鋼製、全鋼製については電車での区分けも知らないのですが、どこで分けられるのでしょうか?
オハ31系列からスハ32系列のダブルルーフ車までは、車体の骨組みと側面・妻面は鋼製ながら、
車内はもちろん屋根も木製でしたので、あきらかに半鋼製であると思いますが、
それ以降の車両についてはどこまでが半鋼製で、どこからが全鋼製といえるかは難しいのではないかと思われます。
以上のような観点からオロ42については時代的に10系軽量客車とはあきらかに違う構造であると考えられますが、
軽量構造客車への橋渡し的な存在であったので、しいていえば全鋼製といえるのかと思います。
以上あくまでも私の個人的見解ですが、ご参考になれば幸いです。



投稿者 客貨車区長
投稿日 2007年 5月17日(木)23時51分51秒
タイトル 旧客のデッキドアについて
突然失礼いたします
高崎の旧客はデッキドアを忍錠などで施錠できるのでしょうか?
現在の運行に当たってはドア1枚に保安要員1名 1両4名6両24人と
いわれたことがあるのですが、
デッキドアを片側施錠できれば、要員も半分かなと思ったもので、
ご存知の方、ご教示いただけると助かります



投稿者 竹中 寿人
投稿日 2007年 5月18日(金)00時52分59秒
タイトル Re:オロ42
やまざき様、みなさま。
鉄道ピクトリアル750号のオハ35系特集2に
『室内の内張りは硬質繊維板(メラミン樹脂エナメルの焼付塗装をしたもの)を使用』と記述がありますので、
オロ42形は全鋼製・全金製とは言えないかと思います。
また、当初より照明は蛍光灯を使用、屋根が低いのは軽両化のため、とも書かれています。
オロ35形の近代化改造が始まったのが昭和30年、オロ42形が生れたのも昭和30年。
オロ42形は近代化改造後のオロ35形と同レベルの内装だったのでしょうね。
そして、オロ42形が格下げされたのは昭和40年のことです。
わずか10年の命でしたから、更新の間もなかったことでしょう。
私はホビーモデルのオロ42形を組みました。
こちらのリンク先にアップしてありますので、ロングシート化されたオハ41形の写真とともにご笑覧いただければ幸いです。
ノーブルジョーカー>模型のアルバム>オハ53101
ノーブルジョーカー>オハ35の仲間たち>オハ41251
と進んでください。



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 5月18日(金)03時51分44秒
タイトル 扉警について
客貨車区長様
 岩崎安房守義将と申します。
 在来型一般車(旧客=レトロ客車)は原則として運行中「閉扉」としている事は出来ても「施錠」は出来ません。
 緊急時に旅客の避難脱出に施錠していると支障がある事が理由ですが、
JR北海道の様な半自動方式ならば「手動」では無いのです。
 ちなみにデッキに1名要れば扉警は出来ますが、搭載旅客が多いと監視が厳しい為に
便宜的に「1扉1人」と言っているだけです。
 国土交通省の指導では、「2両に1名」を推奨しているだけで、
扉警に関しては原則JR社員や警備員である必要は無いのですが、防災都合上色々面倒な事を言っているだけです。
 例えば大井川鉄道や以前のパレオエクスプレスでも在来型一般車が使われていましたが、扉警要員は2人だけでした。
 一方で鉄道マニア団体には原則貸し出したく無い方針があります。
 平成3年まで私達が在来型一般車をリーシングしていた時には扉に関する事故は無く、
基本として隣り合わせのデッキに1名の扉警ボランティアを付けてOKでした。
 但し、この扉警ボランティアには6時間の講習と実地研修をした者が全体の75%以上であり、
無線機を3台以上か伝令2名以上で指揮管理を行い、発車前には1つのみ残して閉扉し、
運転車掌に報告するシステムを作って辛うじて承知して頂いたものですが、その後鉄道マニア団体による大幅遅延があり、
「もう貸せないってさ」
 となった経緯があります。
 もっとも貸切団券なんか切った事は無く、110名程度で上野から夜行なんか出していましたので、
大変嫌われたのも事実ですが、沿線警戒チームまでセットして各地の警察にネゴ回し・・・
場合により霞ヶ関や永田町にも通わなければならない大変手間と政治力が掛かる割に収益の見込めない事業です。
 JR社内ですら大変御苦労の多い在来型一般車ですから、なかなかお目に掛れないのも頷けます。
 更に実績が不可欠です。
 旅行会社に手配として出したにせよ、主催者が任意団体の場合は「責任保証」が不明確で、
事故を起こさない気遣いをして頂ける御客様がとうか、これが鍵となります。
 もしも貴殿が在来型一般車を団臨として発注する場合、目的のJR社管内の何処かで在来型一般車以外の
簡単にチャーター出来る和式列車等で「実績」を作る事が肝要です。
 その「とにかく1本」で大変多様な経験も得られますし、「列車の仕立て」の難しさと楽しさを味わえる事と存知ます。
 更にその「同苦」の同志を一人でも多く作る事です。
 小生は昭和61年8月に道内で仕立てた「キハ22・カーペットサロンカー」の経験
(元々はC623機実現に向けた実験として企画)が、今日の地域活性化に関する多様の原点となっています。
 そしてスジも乗員ダイヤも仮設して研究してみて下さい、その上で現場百遍!
 当時の立場の優遇もありましたが、22才の青二才が出来た事です、ただ団臨は全てのタイムスパンが「半年」、
これから提案して筋入れして貰って、輸送番号が出る迄半年、告知や準備を加えると最低9ヶ月は必要ですし、
代金は前払い原則ですから資金的余裕も考えなければいけません。
 平成元年の会津ムーンライトエクスプレスと足尾エクスプレスは企画から4ヶ月で出来たものの、
その後のわたらせエクスプレスは1年8ヶ月を要しました。
(信楽高原鐵道事故があった関係で抑止となり、保安対策を強化+地元のタイアップで実現)
 夢は形にするもの、出来ると執念を持った者だけが「本当」に出来るものです。
 ただその夢で笑顔が得られる人の数を一人より二人、千人より万人とする工夫、それが「執念」です。
 そして天の時・地の利・人の和がピッタリと組み合わさった時、凄まじい感激と「次の夢」への元気が湧いて来ます。
 とは言え・・・小生も今回の在来車企画に手を付けて早くも6年が・・・
投稿者のホームページ



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 5月18日(金)09時33分41秒
タイトル 元鉄道小僧日記(栃木編完〜東京編)
学生時代はまるで時代劇に出てきそうな長屋風アパート(月16000円風呂トイレ共同、電気・ガス・水道使いたい放題)で
思いのほか快適に暮らせていました。
真面目に授業に出ていたかは定かではないが、友人に代返を頼んでまでは出席しようとは思わなかったようです。
そんなある日、テレビをBGMに部屋にいたら昼のニュースだと思いました「今日開通しましたサイキョウセン〜」
はて?サイキョウ?最強?何が凄いんだろう?強いの?何て事はありません「埼京線のことでした」
(新宿まで開通というニュースでした。大宮〜池袋間は運行済み)
ツウならわかる正式名称「東北本線別線」らしい。
京浜東北線の混雑緩和と与野・浦和西部・戸田方面の通勤用として、
東北・上越新幹線の建設と同時に工事されていたみたいですね。
自分には関係ないと思いつつ運命の出会い路線であったことはこの時点で知る由もなく
時は狂乱バブルの時代へと進んでいくのでした。
(東京編に突入)
私が通っていた地方の一流に属さない工業大学でも上場企業からの採用試験依頼があり
「うちのような大学でも本当に採用してくれるのか?」と半信半疑で会社説明会に行きました。
その会社は北区の桜の名所(?)である都電やD51が飾られている公園の真向かいにあり
説明会のはずが「もう他社の説明会には行かないで頂きたい」と内定のような事を言われました。
公園を横切って来たのでわからなかったが会社のすぐそばには都電荒川線が通っており
ホームに近づいてくるのが見えたので迷わず飛び乗りました。
王子駅までの1区間だけでしたが明治通上を車と並走し初めての感動で嬉しかったです。
王子駅で降りてみて気がついたんですが「線路巾広くないかい?」
今まで在来線オンリーで新幹線などの標準軌を間近で見る機会がなかったもので30分位眺めていました。
赤羽駅は宇都宮線・高崎線が地盤面と同じ高さであった為、駅ホーム北側は開かずの踏み切りだったと思われます。
貨物線と共用していた池袋行きの5番線も当時は単線で池袋手前の明治通りでは踏切があったようです。
1989年頃の思い出でした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 5月18日(金)11時36分41秒
タイトル Re:オロ42
 車掌@仙コリ様、竹中様、いろいろとフォローありがとうございます。
 “ジュラ電”は全金属車体の試作車に改造されましたが、“ジュラ客”は“全金”となったわけではないのですね。

 ノーブルジョーカーHPのお写真、改めてしかと拝見しました。
実車の格下げ後の写真、ドア上の等級表示灯が、形を残したまま埋められている様ですね(単に塗りつぶされただけ?)。
並ロで等級表示灯があるのはオロ42だけでした。
室内も蛍光灯付という事で、急行列車でスロ54などの特ロと連結されても、
座席のグレード以外はさほど見劣りしなかったことでしょう。
 模型の方は、やはり16番だと細かなところまで作り込まれており、座席もちゃんと塗り分けられていて実感的ですね。
私の場合、内装色はよくわからないことが多いので、開き直って全形式プラ地肌のクリーム色のまま、
真鍮エッチング製の仕切り壁なども、それに合わせてクリーム色で統一してしまっています(^^;。

 やまざき様、
> 国鉄民営化後にお生まれになった方
…と書いてしまいましたが、民営化の前年でしたね。慌てて失礼しましたm(_ _)m。



投稿者 やまざき
投稿日 2007年 5月18日(金)14時00分55秒
タイトル 情報ありがとうございます!
皆様、さすがです!わずか2日で多くの情報をいただけてありがとうございます!
それにしても、個人的には車体は新しいのに、わりと早く消えたオロ42が不憫です。
定員が少なかったのがあだになったか、単に少数派だったから、早々と退場させられたのでしょうか・・・。



投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 2007年 5月18日(金)19時27分42秒
タイトル Re:オロ42
竹中様
オロ42についてフォローありがとうございました。
よく考えれば直前のクモイ103様の書き込みでもアルミサッシ化はされていないとの事でしたので、
全鋼製とはいえないですよね。
先の書き込みの通り電車における区分けもわからないのですが、当然各扉や窓枠が鋼製であることは必須であると思われ、
内装の壁面まで木質では無い事が条件となると、鋼製客車においては電車で言う全鋼製である形式は皆無なのでしょうか?

オロ42が短命であった理由ですが、
登場(車体更新)が10系軽量客車より前の形式では最も遅い部類にはいる昭和30年であった事、
転換式クロスシート(いわゆる並ロ)であったため昭和40年前後の並ロの格下げ対象になった事につきます。
元がオロ40であったために車体更新時にオロ41相当の車内設備となったようですが、
車体更新当時に新製されていた二等座席車はすでに特ロであったので、
オロ42が特ロとして更新されていれば運命は変わったものであると思います。



投稿者 客貨車区長
投稿日 2007年 5月18日(金)19時40分21秒
タイトル 扉警について
岩崎安房守義将 ご教示ありがとうございます。
以前、JRの中の人にモリスジでの団臨の可能性を聞いてみたところ
大変困難な状況であることを聴いたことがあるので、
その延長線上の最終目標である「在来型一般車」の運転に向けて
まず、昨今鉄道輸送安全が強化されているなかでの
状況をお伺いしたく、質問させていただきました。
扉警については、仮に首都圏発が可能だった場合、
一扉一人の警乗を要求されそうですね。

必要経費を運行によってまかなえるようになれば
当局側も運行に前向きになるのでしょうね

丁寧なご回答ありがとうございました。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月19日(土)10時57分37秒
タイトル 水郡線の団臨
昨年の九月以来であろう、高崎の12系による団臨が、来月17日に水郡線に入線します。
前後の回送は水戸線経由との事。前回・前々回は上野経由で、かかる回送運用の場合、
ダイヤ設定に融通が効かない単線区間は今後、度外視されるのか、とも感じましたが、
水戸線で再び12系が見られるとは、嬉しい話ですね。

本運用の17日は、幕張の国鉄色183・189系による臨時「あやめ」が鹿島線に入ります。
早朝に水郡線でDL牽引、次いで常磐線で電機牽引を撮り、更に鹿島線……こりゃあ、
忙しくなりそうですね。昨年までなら、更に鹿島鉄道が加わる処でした(^^)



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 5月19日(土)15時36分57秒
タイトル 元鉄道小僧日記(東京編2)
無事建設会社に就職でき、あてがわれた寮は北赤羽徒歩4分で
東北上越新幹線高架橋脇に建っている分譲マンションの11Fでした。
ちょうど赤羽台のトンネルから出てくる新幹線の眺めの良く初期型200系全盛の時に200系改16両編成のツリ目やまびこ
(グランドひかりは2階建て4両でしたが)がやってくるとなんとなくラッキーと思っていました。
最初の配属先は目黒のマンション工事の現場でしたが、当時埼京線は新宿止まりで山手線で目黒まで行って、
そこから目蒲線で西小山まで通っていました。
まだ目蒲線は地上ホームからの発着で初乗りも90円だった気がします。
ゼネコンという職種柄、現場監理をすればいいはずが、仕事を覚えなければいけない時期だったので
土工さん並みに毎日泥まみれになって帰りの電車ではほとんど死んでいました。
最初の頃は「どうしてすぐに電車が来るのにみんな走っているのだろう?」
と駅構内での移動する人たちを不思議に見ていましたが・・・
新宿駅にて各駅停車の大宮方面を乗れず、次の電車は通勤快速。
それで次は赤羽止まりと20分も待たされた経験から自分も段々都会のペースになっていくのでした。
目黒の現場配属になり2ヶ月経過したところで場内で重機と接触事故を起こされ病院に運ばれ
「こんな危険な現場なら辞めます」と見舞いに来た上司に直訴したところ、
後日本社に呼ばれ「今、本社には内勤用の欠員がいないので、現場事務所で開発申請の手伝いをして欲しい」と言われ、
工事部長の車に乗せられ連れて行かれた先は・・・人里離れた山の中。
鉄骨が50mほど組立られた(まだ半分以下)のちにギネスブックに認定される大構造物の現場でした。
「毎日通います!」と啖呵切ったのですが、「新入社員を毎朝駅と現場まで送り迎えさせるつもりか?」
と言われ3ヶ月の約束で泊り込みで配属することを渋々承知した23歳の夏でした。
初日は着替えを取りに行く為に白と濃紺が鮮やかな常磐線各駅停車で上野に戻りました。
雑魚様のお膝元茨城編に続く



 
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