倶楽部メモ(364)
平成19年 5月12日〜 5月17日



投稿者 555
投稿日 2007年 5月12日(土)20時22分51秒
タイトル 国鉄最後・JR初期の頃
 私が、中学・高校の頃、黒石市、青森市から弘前の学校に通っていた関係で様々な電車、客車で通学していました。
やはり客車という趣旨の元、当時の奥羽本線の話題を。
 当時、青森‐弘前間は、ほとんどの列車が客車で運転されており、
私も50系、12系の普通列車、快速列車「快速岩木」で通学していました。
旧客は59年2月の改正で廃止されており、私が通う頃にはありませんでした。
 機関車はED75・700に加え、酒田や長岡のEF81も運用に入っており、
事情を知らない友達は長いピンク機関車という名前で呼ばれ、
当時の地元の新聞には、新型機関車投入と宣伝されていたほどです。
それも出力が大きいので発進が今までより(ED75)荒く感じることをご了承下さい。
という当時の秋田鉄道管理局のコメントまでありました。
地方では知らないと思っていい加減なことがまかり通っていたのです。
 通学には、50系よりもピッチも広く冷房もついている12系に軍配をあげたいと思います。
スハフ12もなく、静かな車内で青森市の山の中の夜の鶴ヶ坂駅で10分停車、
夏から秋にかけては虫の声が響き、冬は雪がしんしんと降り積もる。そんな時代でした。
快適な列車に身をまかす、贅沢な時が流れていました。



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 5月14日(月)09時38分43秒
タイトル 元鉄道小僧日記(栃木編)
晴れて蕎麦屋に就職を免れた昭和61年4月。自分の人生設計では東京にいるはずが、大学生になり栃木におりました。
景色は山々と緑に囲まれた東北と変わりはないのですが、
空気の軽さ(向こうはむせかえるような重たい緑の臭い)を感じていました。
普通、ローカル線というと市町村単位で各市や町で駅が1つずつというのがほとんどでしたが
両毛線のある足利市というのは富田・足利・山前・小俣と単線ローカルなのに市内に4つも駅がありました。
これは東西に長く、市街地が分散していたからだろうと思いますが、他に地方都市で似たようなのってありますかね?
探せばいくらでもありそうな感じですが・・・
この時期には気がつかなかったのですが、JRと東武というのは仲がよく、西武とは仲が悪いんでしょうか?
関東近郊ではJRと各私鉄が網羅されていますが、東武はJRと乗換えがしやすく西武は悪いような気がします。
足利は渡良瀬川を挟んでいる関係でJRと東武は駅が離れていますが、
栃木駅や久喜駅、大宮・柏・船橋・南越谷・北朝霞・川越・北千住など、
JRと東武の乗換駅はたくさんあるように見受けられます。
しかし西武は高田馬場ぐらいしか・・・
池袋も新宿も微妙な距離をおいてますし武蔵野線から所沢に行くのは結構大変です・・・
過去に急行日光を廃止に追い込まれた経緯のある国鉄も、東武とタッグを組み
最近はスペーシアを新宿駅乗り入れにして箱根と対決姿勢をあらわにしている気がします。
485系を東武カラーに塗り替えてまで走らせているところに蜜月関係を感じる元鉄道小僧なのでした。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月14日(月)17時42分2秒
タイトル 高校の通学圏
> 静かな車内で青森市の山の中の夜の鶴ヶ坂駅で10分停車、

大釈迦〜鶴ヶ坂の峠が、名実共に弘前と青森の都市圏の境界と感じていた私としては、
2005年の青森市と浪岡町の合併(刑事沙汰にまで発展するなど、様々な政治的葛藤も
伴いましたね)は意外でした。この結果、行政上の線引きも多々、変更されましたが、
旧浪岡町自体は、津軽平野に位置し、県立高校の通学区は弘前圏に属しつつも「都市
雇用圏」の統計基準によると、青森への帰属性が強いそうですね。

自治体再編に伴う形式と実勢の整合性を意識したか、2005年に青森県立高校の学区が
全廃されました。この結果、弘前の近所にありながら五所川原学区だった板柳町など、
実質的な選択幅が増えたと思いますが、かかる動向が、奥羽線や五能線の通学需要に
どの程度与しているか、学区全廃前後の利用状況の比較が興味深いですね。

私自身、山村育ちの分「街」への憧憬が強かった為、越境受験で県都の高校に何とか
潜り込み、旧客で片道百分かけて通学した手合いなので、かかる通学圏の広域化には、
基本的に賛成の立場です。関東では我が茨城県のほか、東京都と神奈川県で学区制が
既に全廃され、千葉県でも大幅緩和。その結果、新たに発生したであろう通学流動が
どの様な導線なのか、興味津々ですね。

> 夏から秋にかけては虫の声が響き、冬は雪がしんしんと降り積もる。

序でに、雑談に興じていた乗客は、急にヒソヒソ声になる………ですね(^^)これが
ケータイ普及後だったら、着信音の交錯で、どの様な状況になっていた事やら(^^)



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月14日(月)18時18分54秒
タイトル 東武鉄道
> 足利市というのは(中略)単線ローカルなのに市内に4つも駅がありました。

仙石線・大糸線・飯田線の様な元私鉄なら、同様の例は当時から見られたでしょうね。
自治体広域化が進んだ現在、かかる事例は珍しくなくなりました。去就が注目される
我が地元の茨城交通や遠州鉄道など、全線がまるまる一自治体内に収まる様な例すら
見られる程ですからね。

> 足利は渡良瀬川を挟んでいる関係でJRと東武は駅が離れていますが、

四路線が集約点を持たないまま錯綜する桐生市の事情も、中々かと感じます(^^)

> 池袋も新宿も微妙な距離をおいてますし武蔵野線から所沢に行くのは結構大変です

飯能市にしても、西武側の拠点はあくまで飯能駅で、八高線と接続する東飯能駅では
ありませんね。スイッチ・バック構造を解消する為、八高線との交差箇所付近にある
西武線の笠縫信号所から、東飯能に直行する連絡線の計画があり、着工されましたが、
貨物便の廃止(あの電機、ブルトレを牽かせたい様な配色でした)や地元の反対から、
工事は凍結されています。

> 東武とタッグを組み、最近はスペーシアを新宿駅乗り入れにして

かつては、東京随一の繁華街とまで謳われた浅草も、高速列車体系の拠点駅としては、
山手線から外れている分、立地条件が脆弱気味なのでしょう。画像は、その 485系を、
東武日光線の下小代〜明神にて撮ったものです。いや〜この無骨なまでの韋駄天振り。
やはり洗練された「スペーシア」とは一味違います(^^)なお、この日の「本命」は、
田町車(183・189系)による、JR日光線の修学旅行用集約臨でした。




投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 5月14日(月)18時20分33秒
タイトル 偉大な新幹線
 管理人様、皆様、大変御無沙汰しております、岩崎安房にございます。
 先日、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構(旧鉄建公団)の資料で
もうB幹(東北新幹線)が青森に伸びるのが間も無い事を知り、ちょっと驚きました。
 昭和57年6月23日〜11月14日の間、まさに上野口は過渡期で、
対仙台特「ひばり」や対新潟特「とき」の一部と、対盛岡特「やまびこ」が全廃された一方で
対青森特「はつかり」「みちのく」は健在、新特急用機材による「新幹線リレー」
(一部は115系ECを使ってこちらは「新幹線ヒデェ」と呼んだりしました(笑))
の設定と若干の中電増便でにわかに忙しく&複雑になりました。
 この頃上野駅学生助勤制度が廃止され、パートと準職員に変更され一部を除き現場から干された恰好になりましたが、
私含めて数人は準職員で残り、この過渡期を過ごしたものです。
 それまで冬は上越・奥羽系列車で遅延100・200・300分なんてザラで、
昼過ぎに「あけぼの」やら「天の川」がそろそろ地平ホームに入って来てなんて光景が珍しく無く、
中には上野で「寝台解体」して夜行から「はつかり」に化けたなんて事も・・・
 それも本格的に新幹線時代となると、遅延した夜行の御客様を新幹線継送すると言う荒技を使い、
回送列車状態で「気楽に遅延」して上って来る様になります。
 さて、この過渡期は同時に国鉄全般遅延や支障が多く、特に東北線上野〜大宮間での抑止は多くて
御客様の苦情に一緒にうなづくなんて無責任な事も度々・・・
「東北新幹線に乗るのに在来線が動かなくて乗り遅れなんて我慢出来ない!」
「いやホント、そう思います」
「あんたもそう思う?」
「思います、毎日こちらは商売ですから・・」
「そうかそうか!そりゃそうだ!ヤツ当たりして悪かったね」
「いえいえ、御客様のお怒りごもっともですから」
「じゃ頑張って!で・・・京浜東北線?」
「はい、1番線で・・・」
 そんな漫才みたいな会話が頻繁でした。
 時代は新幹線、そんな中で異彩を放つ2321列車
(高崎行・そのまま新潟行321列車化け在来型一般車列車)ではこんな事が・・・
 朝一番で改札に居ました小生に「上尾」へ急ぎの御客様があり、05時52分723M(長岡行)が出たばかりだったので
「6時14分、8番線です」
 と申し上げ・・・そしたら真っ赤な顔をしてその御客様が戻られたのです。
「急行じゃ無くて、普通だよ!オレ上尾行くんだぜ」
「はい、8番の普通列車です。」
「え?あれ普通列車なの?」
「はい・・・古いの使ってますが、ちゃんと上尾停車します」
「だって扉も開いて無いぜ」
「あ!あれは扉が自動じゃ無いんです、手で開けて・・・」
「すげぇもんがあるんだな!」
 御存知無い方はそれは驚かれるでしょうね・・・逆に常磐線ではその年の年末、
今度はその「新幹線リレー」に伴い登場した「リレーガール」と
案内所・遺失物取扱所が民間委託となったその会社へ移り、
案内所担当に据えて頂いた小生ももとに初老の御客様、
「昼過ぎに仙台へ乗り換え無しで行く、古いのがあったろう、あれは何番線?」
「客車の普通列車ですね、あれは11月の改正で廃止となりまして・・・」
「え?無くなったの?そりゃ残念だ・・・」
「御客様どちらまで?」
「いや日立の方なんだけれど、あれが楽しみでね・・・
ああマニアと言うのじゃ無いんだけど、なんだか気分転換になってね、あれは良かったのになぁ」
「私も好きでしたよ、常磐線沿線なもので」
「そう、色々寂しくなるね」
 そう言って「ひたち」の時間を聞いて行かれましたが、
スーツに某工業メーカーのバッジが付いておられましたから、出張だったのでしょうね。
 新幹線時代の到来でビジネスマン達には時間革命だったのでしょうが、
敢て新幹線を嫌って夜行や普通に乗られる「粋」な御客様も未だ未だいらした、
旅一つに色々選択肢がある、ある意味「人に優しい」時代だった頃のお話です。
 またまた長文失礼致しました。
投稿者のホームページ



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 5月15日(火)00時01分41秒
タイトル 新幹線リレー号
ありましたね(^^)新幹線で来たのでは無かったのに強引に乗りました。
朝、長岡行きに乗り込み出発を待っていると外人さん御夫婦。
空いている私の前の席を指差しオハヨウゴザイマス。イイデスカ。
どうぞ。プリーズ(^^)
シンカンセン。ニイガタ。新潟行きたいのかなと思いそうだ切符を見せてもらおう。プリーズショウミーユアティケット。
切符を見るとやはり新潟までしかし大宮での乗り換え時間がほとんど無い(^^;
車窓は尾久の車庫。新幹線はどんな色しているんだと聞かれアイボリーアンドグリーン
そうこうしているうちにボロが出て近くにいた商社マン風の人が助け舟に。
大宮での乗り換え時間が少ないので急ぐように言ってください。大宮駅で階段を駆け上っていく姿を見ました。
最近の事ですが京成の車内で迷える外人さん。
近くにいたオバさんまったくだめ。で女子大生(?)に話かけるとその子逃げた(^^;
じゃあこみやさんがチャレンジ。きちんと案内して差し上げました(^^)v
高校受験の頃これだけの英語力があれば各駅停車仙台行きで松戸までの悲しい旅はなかったのに。
私は寿司道一直線になるところでしたが県立に合格してなんとかなったのであります(^^)
寿司職人さんいつもおいしいお寿司ありがとうございます(^^)



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月16日(水)10時17分11秒
タイトル 常磐線事情
> 各駅停車仙台行きで松戸までの悲しい旅はなかったのに。

手前の停車駅が日暮里または北千住として、都内から千葉県立を越境受験?………と
突っ込んで見ます(^^)仙台行といえば、私が大学を受験した年は、共通一次試験が
難問だったのか、首都圏の難関大学狙いの同窓の連中が、挙って「とんぺ〜」志望に
切り替えたそうな。しかし当時既に、仙台以遠に直通する常磐線優等列車は少数派で、
中には末端区間が各駅停車という代物もあり、意外に不便な常磐線事情に翻弄された
友人は少なくなかった様で(物見遊山ならともかく)終始、旧客に揺られて辟易した
事例もあったとか(^^)



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 5月16日(水)17時48分58秒
タイトル 最後の旅路
 下総守様、その勇気に脱帽です!
 仕事だとは言え、やはりガイジンさんは緊張します。でも駅で困っているとついつい出しゃばってしまいます。
そのお陰で色々オトクな体験を(ロシアのカニ缶沢山貰ったり、米海軍軍艦のパーティーに招待されたり)しております。
 常磐線は近々まで「対北海道継送幹線」のプライドを残していた様で・・・
いえ或る意味現在もその伝統を生かしていますね・・・
 東北線が駄目で常磐線に迂回した時など、殆ど変わらない時間で走破し、この陰スジはひっそりと生き残っているとか、
その割にはちょっと不便を感じる事もございます。
 雑魚様仰る通り、常磐を在来型一般車で貫通はまさに物好きと言われましたが、
あの時代の常磐線は上野駅同様に高度経済成長・ハイテク化の世間から隔絶して「柔らかい時間」が流れていました。
 先程、その常磐線優等列車として花道を駆けた455と485が大宮に向かって回送されて行きました。
 エンドは美しく仕上げられたクハ481、最後の旅路なのだと見つめているうちにちょっと胸が熱くなりました。
 弊連盟ページでムービーを公開致しました。是非御笑覧下さいませ。




投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月16日(水)18時53分38秒
タイトル 最後の花道
> 先程、その常磐線優等列車として花道を駆けた455と485が大宮に向かって回送

うむむ、これぞ「究極の客車列車」かも知れませんね(^^)かつては地元を疾走する
急行「ときわ」で御馴染みだった、この急行電車色、本当に久し振りという感じです。
条件反射的に、ボックス席で家族と食べた「冷凍みかん」の味が、口中に蘇りました。
これは、仙台地区の乗務員訓練車だった三両の内のひとつですかね。

贅沢を言えば、最後尾のボンネット車では「赤丸標識」を外し、何かHMを掲出して
欲しかった処ですね。




投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 5月16日(水)23時47分1秒
タイトル 告白します(^^;とこだま型
雑魚様
>手前の停車駅が日暮里または北千住として、都内から千葉県立を越境受験?………と
違うんです。上野にある○倉の受験発表の後です。
教師の印は全員◎。同級生は楽勝だよ。でもぐりぐりの本命ながらコケタのです(;.;)
皆に何と言えばいいんだと思いながらでした。あれからもう三十年近くなので告白してもいいかな(^^;
私は東京に近い千葉県民であります。
身の上話する場ではないので大宮は開館が楽しみですね(^^)マイテ39が楽しみであります。
一世を風靡したこだま型末永く栄光を讃えたい。



投稿者 やまざき
投稿日 2007年 5月17日(木)01時11分43秒
タイトル 始めまして
始めまして、熊本在住のやまざきと申します。21年来の鉄道ファンです。
こんな濃い掲示板があるのを知ってとても嬉しいです。
私は、同じ形式でも様々改造された車両が好きで、電車の103系や113・115系を研究して(?)ましたが、
最近は客車に興味を持ち始め、10系列以前の客車を調べています。
とはいっても、私が生まれた翌年に国鉄は無くなり、私が乗った客車は、20系の急行玄海と、24系のあさかぜ、
14系のムーンライト九州だけですが・・・。
ピクトリアル誌の客車特集を見て、日夜勉強しています。
しかし、客車は奥深いですね。JR各社の電車の更新工事の種類の比にはなりませんな。
(特にJR西日本の更新工事は形式と工場毎に違って訳がわかりません。)
ちなみに、個人的には、ノーシル・ノーヘッダーで張り上げ屋根の車両が大好きです。
特に昭和30年代の新車は大好きです。国鉄の旧型客車はそれに比べると鈍重ですが、渋さではかないません。
最近、梅小路のオハ46とオハ33を見ましたが、なんだか生気が抜けてて残念でした。
もっと活用しておくれ、後ろにいたサハ111リニューアル車と共に(せっかく更新されたのに、編成組み換えで保留車)。

さて、いきなり質問で恐縮ですが・・・。
私の大好きな車、オロ42の車体構造は半鋼製ですかそれとも全鋼製、全金属製のどれでしょうか。
軽量構造を試行したと記述されていますが、10系客車に近い構造なのでしょうか?
あと、内装色も知りたいです。
私の聖典、ピクトリアル誌には内装の色遣いも特徴がある旨記されているので(775号53ページ)。
格下げ後の状況も含めて、何でも知りたいです。スマートな車体に、何故か低屋根構造、かっこよすぎです!
青色になったり、アルミサッシになったりしたのでしょうか、是非知りたいです。

以上、初めての投稿で厚かましいこととは存じますが、よろしくお願いします。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月17日(木)10時20分18秒
タイトル やまざき様へ
茨城県水戸近郊在住の雑魚と申します。年数にして、私の半分以下という若年の方が
10系や20系客車の事を御調べとは、襟を正す思いですね。

> 様々改造された車両が好きで、電車の103系や113・115系を研究して

筑肥線の事例を除けば、熊本はおろか九州には無縁の形式ですが、そうした車種をも
御調べなのですか。我が地元の常磐線も交流電化路線ですが、我が家から、最寄りの
東北線までは一時間少々で到達可能ゆえ 115系定期運用の最晩年は、早朝のみ運転の
黒磯発上野行の長大編成など、撮りに行きました。

熊本で改造車というと、80年代に九州を旅行した際、元G車をボックス式に固定した
475系を思い出します。当時 九州では「由布」「火の山」「くまがわ」「えびの」等、
普通車指定席車に元G車、もしくはG車用座席を転用した改造車が充てられていた為、
周遊券利用ながら(当然、宿は「かいもん」「日南」です)かかる急行の場合に限り、
わざわざ指定券を求めたものです。

また、現在三セク化された旧鹿児島線の肥後二見〜上田浦において、線路に並行する
狭い海岸道路を歩きながら「はやぶさ」「有明」を撮影したのも、良い思い出ですね。
この時初めて、蜜柑畑の急傾斜地における「専用軌道」の作風を知り、同行の友人と
大いに盛り上がったものです(^^)その後「ハイパー・サルーン」による「有明」で、
進行方向先頭のG車展望席を、博多から西鹿児島まで乗り通す機会に恵まれましたが、
八代以遠の海岸の眺めは格別でした。八代といえば「八ちゃん」「代ちゃん」なんて
入替機もありましたっけ(^^)

御質問の答えでないのが恐縮ですが、熊本と聞いて懐かしく思い、筆を取りました。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 5月17日(木)10時38分55秒
タイトル シュミレーター
> あれからもう三十年近くなので告白してもいいかな(^^;

その様な事情とは知らず、失礼を申し上げました。旧五百円札の御仁に肖った命名の
高校ですね。この学校、内容が内容ですから、教育施設として運転シュミレーターが
設置されており、土浦〜取手(特急)上尾〜熊谷が「実習対象区間」だとか。最近は、
架空路線を設定する事もあるそうですが、CGの機能が網羅できるなら、現役時代の
日中線など、再現出来ないだろうか、などと妄想するのでした。

今時「機回し」の心得は案外、緊急時を想定した場合、重要ですぞ(^^)



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 5月17日(木)11時09分32秒
タイトル 元鉄道小僧日記(栃木編2)
当時、東武伊勢崎線は赤い車両の急行りょうもう号で全席座席指定でした。(急行券有料)
直通で東京方面に出られる手段はこれしかなく、
いつのまにか自分の中では東京の玄関というのは浅草だったような気がします。
田舎ではテレビでしか見れなかった町並みが現実に目の前にあると
「テレビと一緒だ!」と当たり前の事にいちいち感動していました。
長期休みになって免許取立てという事もあり、静岡の友達の家に遊びに行く時に無謀にも車で行ったのでした。
学生時代ゆえ、高速道路を通行するのももったいなく、国道246号線を静岡方面に走行中、
厚木市内で渋滞最後尾に停車中の車に追突し、全損事故を起こしてしまいました。
幸いけが人も無く、日産のキャリーカーが通りかかり無残にも前半部大破したロー○ルを運んでいってくれました。
足が無くなりなんとか本厚木駅にたどり着き、足利方面に帰ろうとしていて時刻表を見ると
頻繁に「急行新宿行き」が見えていたので駅員さんに「急行券はいくらですか?」と質問したら
「は???いりませんよ」との返答。国鉄末期からJR創成期の頃の話でした。
別件:先般、「急行つがるが12系から14系に切り替わる前に一時期20系車両にて運用」と
書き込みがございまして・・・夏季・春季か不明でしたが、一番帰省に使用したのがつがるでした。
確かにいつのまにか14系座席車両を使用して「つがるも立派になったものだ」と思っていましたが、
一度だけ20系つがるで帰ったことがありました。
始発駅から乗れなかったので当然の事ながら指定券を購入して小山から乗車したようなきがします。
皆様なら当然ご存知の20系車両ですが、B寝台はカイコ棚の3段式でしたので、
座席利用時も3人掛けかと思っていたら長椅子に2人ずつ割り当てていたようでした。
でも一番賢かったのはやはり上野駅から自由席に乗車すれば今で言うあけぼののゴロントシート状態で
下段ベットを独り占めできていたようです。
丸みをおびたデザイン・気品・優雅さは北斗星・トワイライトみたいに中間に食堂車を配して凸凹する編成よりも
自分的には一番好きですね。



 
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